ジャンヌ・ダルクのお話は、くり返して語られて、手垢がつきすぎているのは、分かっているのです。
それでも、このロレーヌにいると、思いをはせてしまうのが、フランスの英雄とされる、ロレーヌの少女、ジャンヌ・ダルク。彼女は、フランスの歴史の中で、もっとも名の知られた女性の一人ではないのでしょうか。
彼女の駆け抜けた歴史の中の足跡は、強烈な印象を持っています。そしてその歴史に包まれたなぞ、ロレーヌの田舎を車で走りぬけるたびに、小さな村で見かける17歳くらいの女の子を見るたびに、彼女は、こんな顔じゃぁなかったのかしら、とつい思いにふけってしまいます。
なぜなら、このロレーヌの聖少女が生まれたのが、ロレーヌ地方、(シャンパーニュ地方との国境)の小さな村、ドンレミの村だったから。現在は、ドンレミ・ラ・ピュセル(Domremy-la-Poucelle)と呼ばれる、麦の畑がひろびろと広がる、ロレーヌ南西部の小さな村。
<写真>現在のロレーヌ地方の田舎の風景。なだらかな丘がうねるように続きます。
ジャンヌ・ダルクの歴史は、しつこいくらい繰り返されているのですが、ここで、ほんのすこしおさらいのために、紹介しておきます。
ジャンヌ・ダルクが生まれた時代は、中世、英仏百年戦争の真っただ中でした。百年戦争と呼ばれたこの戦争は、1337年にはじまり、1453年に終わるまで、休戦を含み、百年以上もつづいた、長い戦争でした。しかも、長引く戦争の中、フランスは負けつづけで、イギリスに攻め込まれていて、あともうすぐで、イギリスの手に落ちるところだったのです。
■ フランス王国領 ■ イギリス領 ■ ブルゴーニュ公領 ■ プロバンス公領
地図を見ていただければ、よく分かると思うのですが、その頃、フランスは、いまの形を、全く成していなかったのです。フランス北部は、パリさえも、イギリスに支配されており、南西部のボルドーを囲む周囲の地域も、イギリスの統治下にありました。
こんななか、王位継承者であった王子、後のシャルル7世は、多くの国民と同じように、戦意を失い、享楽を続ける有様。オルレアンが落ちれば、フランスは一気に、イギリスの手中におちる、そんな状況の中、登場したのが、ロレーヌのジャンヌ・ダルクだったのです。
ジャンヌ・ダルクは、ロレーヌ地方の農民の家に生まれ、13歳のときに、大天使ミカエル、聖カタリナ、聖マルガレータらの、「声」を聞くようになったといわれています。そして、その声は、いつか、フランスをイングランドの支配から救うよう命じるようになります。
文字も読めない、一介のの田舎娘に過ぎないのに、信念に突き動かされた、17歳のジャンヌは、ついに、王太子に謁見。そして、魔女裁判の結果、やっと願いを聞き入れられ、オルレアン解放のための軍隊を任されることになります。こうして、ジャンヌは、白い甲冑に身を包み、自らの旗を翻し、オルレアンに入ったのです。
1429年、ジャンヌは、イングランド軍を退却させ、王太子をランスで戴冠させてシャルル7世とします。そして、その後、コンピエーニュを開放するために出発しますが、ブルゴーニュのジャン・ド・リュクサンブールに捕らえられました。ジャンヌを救うかと思われた、シャルル7世は、文字通りジャンヌを裏切り、ジャンヌは、イングランド軍に引き渡されました。
1431年、ジャンヌは、異端及び魔術を用いた疑いで裁判にかけられます。そして、イングランド人からなる法廷で有罪を宣言され、ついに、火あぶりの刑に処せられる、とう壮絶な最後を、二十歳の誕生日を迎えることもなく、遂げてしまうのです。
これだけのことが、分かっていながら、それでも、ジャンヌ・ダルクの人生は、やはり、まだなぞに包まれているのです。
それは、彼女の人生が、政治的なシンボルに祭り上げられ、大きくゆがめられてしまったことが、原因でもあるのです。
長く歴史の中に葬られていた、ジャンヌ・ダルクの生涯は、19世紀末、再び、歴史の舞台に担ぎ出されることになります。1871年、普仏戦争の敗北後の、ナショナリズムが高まりのなかで、共和主義がそれをまとめる有効なシンボルとして、ジャンヌは、格好の材料だったのです。
そして、ついには、1920年に、教皇ベネディクティス15世により、ジャンヌは、「聖女」に列することになりました。
<写真> ナンシーの近郊の町、サン・ニコラ・ド・ポールのカテドラルにある、ジャンヌの姿。
今日、わたしたちの知っている、ジャンヌ・ダルクは,国民国家意識の高揚した19世紀のフランス人がこうみたいと願ったジャンヌ像で、王党派的観点に貫かれています。
イギリスの侵寇を受けたフランス王国の危難を救った、神のおとめというイメージは、すでに15世紀後半,ヴァロワ王家の正史ともいうべき『シャルル7世・ルイ11世伝』を書いたトマ=バザンによって定式化されたものでは、ありました。
19世紀のフランスの歴史学は,このイメージのジャンヌをそのまま書き直しただけで、ジャンヌの実像を適切に調べたとは言えないのです。
ジャンヌ関係の、元になった史料は、ルーアンで行われたジャンヌの宗教裁判の記録を、基にしているそうですが、19世紀中ごろに出版された、その記録の活字本には多く不備のブ部があったようです。そして、やっと、1960年代に入って、新しい校訂本の作製がはじまりました。ジャンヌに関する研究は、実際のところ、ようやく始まったところでしかないのです。
ジャンヌ・ダルクの生前に、唯一描かれた、彼女の肖像画。異端裁判の書記が執務日記の欄外に描き残したもの。(参考文献・レジーヌ・ペルヌー著、高山一彦訳、1995年、白水社・文庫クセジュより)
現在、ドンレミの小さな村には、村の規模に似つかない、大きな博物館で、ジャンヌの生涯、彼女の行きぬいた時代背景、そして、ドンレミの当時の家の様子をうかがうことができます。
わたしがそのドンレミに行ったのは、真夏の太陽が照りつけるバカンスの真っ最中でしたが、人影はまばらでした。おかげでゆっくり、博物館を見学することができました。
近年、フランスの映画監督、リュック・ペッソンの描くジャンヌ・ダルクが、一気にジャンヌのイメージを塗り替えてしまったようにも思います。
リュック・ペッソンノ描くジャンヌは、ドンレミの村で、幼い頃、戦火の中、姉を目の前で殺され、ジャンヌは予言の「救い主」(ロレーヌの乙女)を演じることによって、彼女自身のトラウマを乗り越えようとした、とも映ります。彼女にとって、自分が救い主となることは、「なぜ姉が死に、自分が生き残ったか?」という問い=負い目に答える唯一の方法だったのです。
リュック・ベッソンの描くジャンヌは、精神的な問題に目を向け、その解析を求めようとする、多くの現代人にとって、象徴的な姿なのかもしれません。リュック・ベッソンの描く、ジャンヌの姿も、一つの解釈でしかないのですよね。
<写真>リュック・ベッソンノ描く「ジャンヌ・ダルク」(1999年)のポスター。彼の作品に流れる、強くもろい女性のイメージがとうとうと流れています。それにしても、ジャンヌ、とても美しくて、どう見ても、ただのロレーヌの田舎娘とは思えませんでした。映画には、当時の戦争の様子を、かなり生々しく再現しており、見るに耐えない残酷なシーンも・・・。
<写真・下>ナンシー、スタニスラス広場の近くにある、ジャンヌ・ダルク広場に建つジャンヌの像。雨の日も風の日も、堂々とたっているジャンヌは、在りし日に、本当にこんな姿だったのかもしれません。ジャンヌの像は、フランスの各地にあるようです。
フランスのナショナリズムはもともと女性のイメージと密接に結びつき、女性をフランスの顔として使いたがる傾向があるようです。ジャンヌもまた、国が危機を迎えるたびに登場し、フランスの救世主の象徴とされてきました。フランスの歴史を知るほどに、ジャンヌのイメージがいかに利用されてきたか見えてきて、疑問に思ったりもすることがあります。
いつか、この英雄として担ぎ上げられてしまった聖少女ジャンヌ、いつか再び、一介のロレーヌの娘として、歴史の中で、ゆっくり眠れる日がくることもあるのでしょうか・・・?
それでも、このロレーヌにいると、思いをはせてしまうのが、フランスの英雄とされる、ロレーヌの少女、ジャンヌ・ダルク。彼女は、フランスの歴史の中で、もっとも名の知られた女性の一人ではないのでしょうか。
彼女の駆け抜けた歴史の中の足跡は、強烈な印象を持っています。そしてその歴史に包まれたなぞ、ロレーヌの田舎を車で走りぬけるたびに、小さな村で見かける17歳くらいの女の子を見るたびに、彼女は、こんな顔じゃぁなかったのかしら、とつい思いにふけってしまいます。
なぜなら、このロレーヌの聖少女が生まれたのが、ロレーヌ地方、(シャンパーニュ地方との国境)の小さな村、ドンレミの村だったから。現在は、ドンレミ・ラ・ピュセル(Domremy-la-Poucelle)と呼ばれる、麦の畑がひろびろと広がる、ロレーヌ南西部の小さな村。
<写真>現在のロレーヌ地方の田舎の風景。なだらかな丘がうねるように続きます。
ジャンヌ・ダルクの歴史は、しつこいくらい繰り返されているのですが、ここで、ほんのすこしおさらいのために、紹介しておきます。
ジャンヌ・ダルクが生まれた時代は、中世、英仏百年戦争の真っただ中でした。百年戦争と呼ばれたこの戦争は、1337年にはじまり、1453年に終わるまで、休戦を含み、百年以上もつづいた、長い戦争でした。しかも、長引く戦争の中、フランスは負けつづけで、イギリスに攻め込まれていて、あともうすぐで、イギリスの手に落ちるところだったのです。
■ フランス王国領 ■ イギリス領 ■ ブルゴーニュ公領 ■ プロバンス公領
地図を見ていただければ、よく分かると思うのですが、その頃、フランスは、いまの形を、全く成していなかったのです。フランス北部は、パリさえも、イギリスに支配されており、南西部のボルドーを囲む周囲の地域も、イギリスの統治下にありました。
こんななか、王位継承者であった王子、後のシャルル7世は、多くの国民と同じように、戦意を失い、享楽を続ける有様。オルレアンが落ちれば、フランスは一気に、イギリスの手中におちる、そんな状況の中、登場したのが、ロレーヌのジャンヌ・ダルクだったのです。
ジャンヌ・ダルクは、ロレーヌ地方の農民の家に生まれ、13歳のときに、大天使ミカエル、聖カタリナ、聖マルガレータらの、「声」を聞くようになったといわれています。そして、その声は、いつか、フランスをイングランドの支配から救うよう命じるようになります。
文字も読めない、一介のの田舎娘に過ぎないのに、信念に突き動かされた、17歳のジャンヌは、ついに、王太子に謁見。そして、魔女裁判の結果、やっと願いを聞き入れられ、オルレアン解放のための軍隊を任されることになります。こうして、ジャンヌは、白い甲冑に身を包み、自らの旗を翻し、オルレアンに入ったのです。
1429年、ジャンヌは、イングランド軍を退却させ、王太子をランスで戴冠させてシャルル7世とします。そして、その後、コンピエーニュを開放するために出発しますが、ブルゴーニュのジャン・ド・リュクサンブールに捕らえられました。ジャンヌを救うかと思われた、シャルル7世は、文字通りジャンヌを裏切り、ジャンヌは、イングランド軍に引き渡されました。
1431年、ジャンヌは、異端及び魔術を用いた疑いで裁判にかけられます。そして、イングランド人からなる法廷で有罪を宣言され、ついに、火あぶりの刑に処せられる、とう壮絶な最後を、二十歳の誕生日を迎えることもなく、遂げてしまうのです。
これだけのことが、分かっていながら、それでも、ジャンヌ・ダルクの人生は、やはり、まだなぞに包まれているのです。
それは、彼女の人生が、政治的なシンボルに祭り上げられ、大きくゆがめられてしまったことが、原因でもあるのです。
長く歴史の中に葬られていた、ジャンヌ・ダルクの生涯は、19世紀末、再び、歴史の舞台に担ぎ出されることになります。1871年、普仏戦争の敗北後の、ナショナリズムが高まりのなかで、共和主義がそれをまとめる有効なシンボルとして、ジャンヌは、格好の材料だったのです。
そして、ついには、1920年に、教皇ベネディクティス15世により、ジャンヌは、「聖女」に列することになりました。
<写真> ナンシーの近郊の町、サン・ニコラ・ド・ポールのカテドラルにある、ジャンヌの姿。
今日、わたしたちの知っている、ジャンヌ・ダルクは,国民国家意識の高揚した19世紀のフランス人がこうみたいと願ったジャンヌ像で、王党派的観点に貫かれています。
イギリスの侵寇を受けたフランス王国の危難を救った、神のおとめというイメージは、すでに15世紀後半,ヴァロワ王家の正史ともいうべき『シャルル7世・ルイ11世伝』を書いたトマ=バザンによって定式化されたものでは、ありました。
19世紀のフランスの歴史学は,このイメージのジャンヌをそのまま書き直しただけで、ジャンヌの実像を適切に調べたとは言えないのです。
ジャンヌ関係の、元になった史料は、ルーアンで行われたジャンヌの宗教裁判の記録を、基にしているそうですが、19世紀中ごろに出版された、その記録の活字本には多く不備のブ部があったようです。そして、やっと、1960年代に入って、新しい校訂本の作製がはじまりました。ジャンヌに関する研究は、実際のところ、ようやく始まったところでしかないのです。
ジャンヌ・ダルクの生前に、唯一描かれた、彼女の肖像画。異端裁判の書記が執務日記の欄外に描き残したもの。(参考文献・レジーヌ・ペルヌー著、高山一彦訳、1995年、白水社・文庫クセジュより)
現在、ドンレミの小さな村には、村の規模に似つかない、大きな博物館で、ジャンヌの生涯、彼女の行きぬいた時代背景、そして、ドンレミの当時の家の様子をうかがうことができます。
わたしがそのドンレミに行ったのは、真夏の太陽が照りつけるバカンスの真っ最中でしたが、人影はまばらでした。おかげでゆっくり、博物館を見学することができました。
近年、フランスの映画監督、リュック・ペッソンの描くジャンヌ・ダルクが、一気にジャンヌのイメージを塗り替えてしまったようにも思います。
リュック・ペッソンノ描くジャンヌは、ドンレミの村で、幼い頃、戦火の中、姉を目の前で殺され、ジャンヌは予言の「救い主」(ロレーヌの乙女)を演じることによって、彼女自身のトラウマを乗り越えようとした、とも映ります。彼女にとって、自分が救い主となることは、「なぜ姉が死に、自分が生き残ったか?」という問い=負い目に答える唯一の方法だったのです。
リュック・ベッソンの描くジャンヌは、精神的な問題に目を向け、その解析を求めようとする、多くの現代人にとって、象徴的な姿なのかもしれません。リュック・ベッソンの描く、ジャンヌの姿も、一つの解釈でしかないのですよね。
<写真>リュック・ベッソンノ描く「ジャンヌ・ダルク」(1999年)のポスター。彼の作品に流れる、強くもろい女性のイメージがとうとうと流れています。それにしても、ジャンヌ、とても美しくて、どう見ても、ただのロレーヌの田舎娘とは思えませんでした。映画には、当時の戦争の様子を、かなり生々しく再現しており、見るに耐えない残酷なシーンも・・・。
<写真・下>ナンシー、スタニスラス広場の近くにある、ジャンヌ・ダルク広場に建つジャンヌの像。雨の日も風の日も、堂々とたっているジャンヌは、在りし日に、本当にこんな姿だったのかもしれません。ジャンヌの像は、フランスの各地にあるようです。
フランスのナショナリズムはもともと女性のイメージと密接に結びつき、女性をフランスの顔として使いたがる傾向があるようです。ジャンヌもまた、国が危機を迎えるたびに登場し、フランスの救世主の象徴とされてきました。フランスの歴史を知るほどに、ジャンヌのイメージがいかに利用されてきたか見えてきて、疑問に思ったりもすることがあります。
いつか、この英雄として担ぎ上げられてしまった聖少女ジャンヌ、いつか再び、一介のロレーヌの娘として、歴史の中で、ゆっくり眠れる日がくることもあるのでしょうか・・・?