絵日記を、かきたい気持ち

毎日、たくさんの思いが浮かんでは消えます。そんな思い、フランスのこと、ヨーロッパのこと、気ままに綴っています。

●フランスのバイオリンの産地、ミルクール

2006年05月01日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
ヴィオラを始めて、ヴィオラの音がなかなかすきです。

そうすると、ヴァイオリンの出番が今は少なくなってしまって、何度も書いたように、箱にしまわれっぱなしのバイオリンは、湿度で膠がはがれて、真っ二つになってしまいました。



こうなると、「ヴィオラを専門にして、ヴァイオリンは売ったら? そのお金で、いいヴィオラを買ったらいいじゃない?」なんていう、不届きなことを言う人がいるんだけれど、これは、どうしてもできない。



なぜか、このヴァイオリンには、とっても愛着がある上に、不思議な縁がある気がします。



 


<わたしのバイオリン>





バイオリンとの出会いは、わたしがトゥールーズに住んでいたとき。、とあるルチエさんのところで買ったのです。


いろんな、(といってもトゥールーズには、パリほどルチエはいない)ルチエの所を回って、いいバイオリンとの出会いを探していたのですが、

いかんせん、その当時はフランス語もままならなかった上に、トゥールーズの町の音楽事情も分からず、なにがいいのやら、信用していいのやら、ちっともわからず、途方にくれるばかりでした。


そんな中で出会ったのが、トゥールーズ旧市街にとてもこざっぱりと、手入れの行き届いた店を持っていた、カルボナラさんというルチエさんでした。



いくつも出してくれたものが、どうしても気に入らず、何度目かに行ったときに、


「古いバイオリンを探しているのなら、これならどうだろう? 

これは、国立トゥールーズ楽団(フランスには5つ、国立のオーケストラがあるそうだ。トゥールーズのレベルも非常に高い)の、第一バイオリン奏者が弾いていたんだけれど、

売りに出したいらしくて、今僕が預かっているんだ。

コミッションは取らないから、とてもお買い得だし、状態もすごくいい。個人的にも強く薦めるよ」


と、出してきてくれたのが、わたしの今のヴァイオリンだったのです。



ヴァイオリンは、とても渋い色あいで、ひと目で古いものだと分かりました。

でも、そのときまで、古いバイオリンなんて、触ったこともなかったので、いいのか悪いのか、ちっとも分からない。長い間、迷って、うちに持って帰って、試さしてもらった上で、やっと決めたのでした。





このバイオリンは、フランス北部、ロレーヌ地方にある、Mirecourt(ミルクール)でつくられたもの。

フランスバイオリンは、音は輝かしく重厚。赤みの強い色の濃いニスが特徴。

ニコラ・ルポ-やヴィヨ-ムなど飛びぬけて高価な製作者は少なく、中級の楽器が多のだそう。それでも、19世紀後半から20世紀にかけてミルクールやパリで作られた中級のモダン・バイオリンは高く評価されています。


わたしのヴァイオリンは、ミルクールの、Moitessier(モワトゥシエ)というルチエの作品です。

彼の活動期は、1780年 から 1824年。ミルクールのバイオリンの基礎を作ったといってもいいルチエかもしれません。

わたしのバイオリンは、おそらく1810年代のものだろう、ということです。





<かつてのミルクール>




ロレーヌ地方といえば、わたしがトゥールーズ(フランス南西の町)の次に住んだ町。


今から考えると、全く意図せずに、バイオリンの故郷に惹かれるようにして、フランスを横断しました。

ミルクールは、ロレーヌの中でも、田舎町で大して見るものもありません。

ミルクールには、バイオリン博物館があるのですが、二階建ての一軒家を改造したような博物館は、それほど大きくはありません。






<ロレーヌの田舎>




それでも、この田舎町の近くに友人が住んでいたこともあって、わたしは、なんどかミルクールの町を通り、博物館をたずねました。

ロレーヌの田舎には、北海道のような大平原の畑が広がっており、不思議に「外国にいる」というときめきを感じないところです。

この退屈さがイヤだったのだけれど、いま考えると、なんだか、不思議な縁があったのかもしれません。


もし生まれ変わり、というのがあるのなら、もしからしたら、わたしはこのヴァイオリンの作成か何かに携わっていて、なにか愛着があって、ふたたびめぐり合ったのじゃあないかなぁ~なんて、おかしな考えが、ふっと浮かんでいます。



そんなことを考えるのも、じつは明日やっと、パリに出かける友人に託していたバイオリンが、手元に帰ってくるのです。


数週間、会っていなかった恋人に会うような、

「変わっていたら、どうしよう?」なんて、どきどきしていまう気持ち、そんな感じです。

●ロレーヌの七色のクリスタル、ドーム

2005年04月01日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
ドームの歴史は、一言でいって、ロレーヌの、19世紀からの、ドーム一家の人々の歴史を語ることなのです。


七色のクリスタルを作り出す、ドーム工房の歴史は、ジャン・ドームから、始まります。( Jean DAUM (1825-1885)。彼は、ナンシーの東北部にある、ビッシュ( Bitche )という小さな町で、公証人をしていましたが、1871年に、ナンシーに居を構え、1878年、ナンシーにガラス工房を作り、工房の経営者になります。

ジャンには、二人の息子がいました。一人は、法律家になるべく、パリ大学法学部で、勉強をし、公証人として働いていた、弟、アントノン(Antonin、1864-1930)。もう一人は、後に、ガラスの職人・技術者として、ナンシー、リュネヴィルで勉強をし、資格をとった、兄、オーギュスト(Auguste、1853-1909)。

弟アントノンは、父ジャンが、ガラス工房を設立した翌年、公証人としての仕事をやめ、工房の経営に、乗りだします。兄オーギュストは、1887年にガラスの勉強を終え、この家族経営のガラス工房に、ガラス作家として、また技術者として、加わるのです。


実は、調べた限りでは、(今のところ)、なぜ、父親のジャンが、50歳にもなって、公証人としての仕事やめ、畑の違うガラス工房の経営などに乗り出したのか、分かりませんでした。

兄オーギュストの情熱が、父にも乗り移ったのか、父ジャンが、以前から、ガラスに惹かれていたのか?

わたしは、後者じゃないのかなぁ、となんとなく、想像しています。父親ジャンの出身地、ビッシュは、ロレーヌの中でも、一番古くから、クリスタルをしてきました。ビッシュは、ガラス生産のための原料の砂、火を作る森の木々、そして水に恵まれ、ガラス、クリスタルを生産するには、とても恵まれた土地でした。

父のジャンも、幼いオーギュストやアントノンも、こうした土地の伝統工芸であるガラスや、クリスタル細工の生産や、製品を、小さな頃から、まぢかでみて慣れ親しんでいたのでしょう。



ガラスに関する勉強を志したオーギュストは、才能豊かなガラスデザイナーでもありました。もともと、この家族には、実務的な面と、芸術を愛する心が、矛盾することなく、一家の血の中に、流れていたのでしょう。そうでなければ、父のジャンが、このように、人生のキャリアの最終章で、鮮やかに転身するなど、考えにくいのです。




ともかく、弟のアントノンが、経営の才に恵まれていた一方で、兄のオーギュストは、製品自体のデザイン、ガラス自体を作り出す想像力に満ちた触れていたようです。


この兄弟の経営するドーム工房は、エミール・ガレが先頭を切って、生み出した、ナンシー派、アールヌーボーという、時代の流れにのっていくのです。(アールヌーボーについては、以前の日記、●アールヌーボーの町、ナンシーで、ほんの少しふれました。)


ドーム工房の、ガラス(クリスタル)作家(兼、共同経営者)として、ジャック・グルベール(Jacques Gruber、パリのメトロの入り口など、有名な作品が多い) を、味方にしたのも、大きな成功の要因でした。




<オーギュストの作品>





しかし、エミール・ガレが、1904年に、亡くなった後、アールーヌーボーの芸術形式は、徐々に陰りを見せ始めます。

そして、アール・ヌーボーの優美な曲線や繊細な装飾性とは対照的に、直線的でダイナミックで、シンプルなデザインによるきわめて現代的な感覚を志向した、アール・デコ、という新しい様式が、1920年を頂点に、一世を風靡していくのです。

そんななか、保守的な、ガレ様式のガラスしか作らなかった、ガレ工房は、どんどん衰退し、ついに年には、1931年に、工房を閉めることになりました。




一方、ドーム兄弟は、1909年に兄のオーギュストが没して、ドーム兄弟時代の幕を降ろすことになるのですが、その次の世代のドームを担ったのは、オーギュストの息子、ジャン(Jean)、そしてその弟のポール(Paul)でした。

二人の兄弟は、叔父アナトナンを助け、ドームのガラスは、新時代へ向けての、さらに、芸術性を高めていったのです。




<今日のドーム、バラの花瓶。これなら、赤いバラを活けてもいいかも?>




ここが、ドームのすばらしいところ、また、強いところ、だと思うのですが、天才肌のガレが、一代で終わってしまったのにくらべ、家族経営のドーム工房は、この新たにやってきた時代を、新たなやわらかい、柔軟性を持って、迎えるのです。

家族経営といっても、家族長が、権威を持って、すべての決定権を握るというより、ドームの場合は、役割が分担され、その経営が、民主的のような印象を受けます。

そのため、新しい時代に向けても、いろいろなアイディアが、客観的に議論され、さらに躍進することになったのではないでしょうか?


ドームは、アール・デコの時代の動向を確実にとらえ、人々の趣味の志向に柔軟に順応し、時代の思潮的趨勢や大衆の欲求を先取りするような斬新な作品の独創に情熱を傾けていきます。

そして、斬新な、ガラス作家を次々に工房に向かえ、逆に、アール・デコのガラスの象徴的な存在として、世界に迎えられることになったのです。


ドームの歴史は、現代まで、まだまだ続くのだけれど、それは、また機会があれば・・・。(ガラス工芸には、まったく疎いので、疲れた!)


こうしてドームの歴史を振り返ると、天才的な芸術家たちというより、ドームは、芸術を愛する、堅実な一家の物語、という風に、わたしには思えてなりません。

ドームは、アール・デコの時代が終わっても、再び、戦後、新しい時代の流れを取り入れながら、今日に至っています。


ドームの特色のいくつかをあげると、デザインの単純化、ガラス素材の見直しと素材自体の美的追究、色彩のフォルムの簡素化、鉄枠素材の併用、幾何学的な構成、重量感などだそうなのです。

それでも、美しい色使いや、軽やかなフットワーク、植物、動物をモチーフにした伝統は、今でも、守られているような気がします。



<ナンシー、巣タニスラス広場にある、ドームのお店。
手前の猫は、525ユーロ、向こうのランプは、1200ユーロと、表示があります>



わたしは、最初は、ドームのどこがいいのか、ちっともわかりませんでした。ナンシーに来る前までは、ドームすら知りませんでしたから!

でも、じっと見ていると、不思議に、ドームは、飽きが来ないのです。植物や、動物の表情も豊かで、なんといっても、その色合いがとても豊か、とても深い。確かにバカラのような鋭い美しさでは、ないのですが、なんというか暖かく、人間味にあふれている、生きているクリスタル、そんな印象を受けるのです。




<宝石いれ。日常使いの宝石を、夜寝るとき、はずし、この中において、ドレッサーや、ナイトテーブルに置いておいたり・・・>

優しい色合いの、クリスタルは、いいものですね。




昨日、ナンシーから送った、ドームのちいさな包みが届いたと、母から連絡がありました。

今日は、だから、ロレーヌが、バカラとともに誇るクリスタルのブランド、ドームについて知ってもらうために、ほんの少し、その歴史を書いてみました。







●ロレーヌの居間を飾る、リュネヴィル焼きの陶器

2005年03月29日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
バカラの次は、ロレーヌの庶民たちにも愛されてきた、ロレーヌ地方の陶器、リュネヴィル(Lunéville)焼きのお話です。おいしいキッシュ・ロレーヌをテーブルに載せるには、やっぱり、この地方のお皿を使いたいですからね!

リュネヴィル焼きは、二世紀半の歴史を持つ、ロレーヌ地方の伝統的な陶器です。(陶器の焼き物は、フランスのいくつかの地方で伝統があります。リモージュは、磁器です。)カラフルなデザインが、とても素朴で、かわいいと思いませんか?


リュネヴィル、というのは、町の名前です。ナンシーから、東に車で約30分の、ロレーヌの中くらいの町。例の美食家、元ポーランド王、そしてロレーヌの公爵であった、スタニスラスが「小ベルサイユ」とよばれる城を建て、好んでこの地に滞在しました。




<写真・花をモチーフにしたデザインのリュネビル焼きは、一番よく見られる>


1748年、ジャック・シャンブレット(Jacques Chambrette )という人が、このリュネヴィルに、陶器工房を作ったことから、この陶器がリュネヴィル焼きとよばれるようになりました。

このロレーヌには、シャンブレットが工房を作る前にも、豊かな陶器の歴史があり、地盤はすでにあったようです。

同時に、この時代、豊かな人たちは、金属の食器類を使っていたのですが、徐々に、陶器、磁器を使うようになってきたことも、リュネヴィルの陶器をさらに、発展させる要因となりました。また、中国陶器の輸入も、大きな流行の追い風だったのですね。スタニスラスも、この陶器を愛したのか、シャンブレットの工房は、「ポーランド王の御用立つ工房 “Royal Factory of the King of Poland”) 」と指定されます。


リュネヴィル焼きの特徴は、そのロレーヌの自然、人間をモチーフにした、豊かなデザインにあると、わたしは思っています。

職人達は、工房から見る、ロレーヌの花や植物、動物、人々を陶器の中に取り込み、リュネヴィルの陶器は、優しい和やかな色合いに満ちています。それまで、金属のお皿を使っていた貴人達には、たいへんに、新鮮に写ったことでしょうね! スタニスラス公も、そんな気持ちで、このお皿にマドレーヌを持って、食べたのでしょうか?




リュネヴィルは、また、ルイ14世王妃、マリーアントワネットお気に入りの建築家、ミック(Richard Mique)にも見出され、1500もの作品が、マリーアントワネットの、小トリアノンの庭を飾るのにも使われたそうです。



リュネヴィルは、その後、一時衰退しましたが、20世紀に入って、ドイツ出身のクルール(Keller)一家と、ゲロン(Guérin)によって、再び、その命を吹き返します。クルール一家は、リュネヴィルの陶器の工業化に成功、これによって、リュネヴィルの陶器は、庶民(といっても、豊かな中産階級以上ですが)の生活の中にも、浸透していくのです。


<写真・ナンシー派、アール・ヌーボーの先駆者、エミール・ガレの、リュネヴィル焼きの作品>


その後、二つの大きな戦争によって、このリュネヴィルも、また衰退してしまうのでうが、戦後、再び、ロレーヌの中小企業によって、この地方の伝統は、根強く残っています。

現在でも、伝統を重んじるロレーヌの家庭では、リュネヴィルの食器を、居間や、食堂の壁に飾っています。そして、お客様がきたときや、日曜日のディナーは、このリュネヴィル焼きで、お料理も、お皿も楽しみながら食べるのが、ロレーヌの人たちです。(若い人は、IKEAのほうが好み・・・。)



<写真・フランスの象徴、雄鶏をモチーフにしたリュネヴィル焼き。さまざまな鶏の表情が楽しい>



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

このリュネヴィルの陶器を飾るのに、欠かせないのが、この地方特産の、(一般的には、オーク材で作られた)どっしりした家具です。

画像のような食器棚(bressoir)は、ロレーヌの、奥まった田舎でさえ、見つけることができます。特に、リュネヴィルが盛んだった18世紀に、こうした食器棚も、同時に広まっていったそうです。

こうして、ロレーヌの人たちは、家にある一番美しい、花や植物の舞う陶器を飾って、長い冬を、春を夢見ながらすごしたのかもしれません。






みなさんも、ロレーヌにいらっしゃったら、(バカラもいいですが)、日本に知られていないリュネヴィル焼きを、お土産にしてみてはどうでしょうか? リュネヴィル焼きは、現地で買った方が、とてもお得ですし、楽しいデザインのリュネヴィル焼きは、毎日のお食事や、お茶の時間を、ほっこり和やかな気持ちにさせてくれますよ!






リュネヴィルのHP(フランス語)
http://www.manufacture-luneville.com/

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<補足・陶器(faïence)と磁器( porcelaine)の違い>

磁器 (porcelaine)

素地(きじ)のガラス質が磁化して半透明となり、吸水性のない硬質の焼き物。陶器より高火度で焼かれ、たたくと金属的な音がする。中国で創製され、日本では江戸初期の有田焼に始まる。

陶器 (faïence )

陶磁器のうち、素地(きじ)の焼き締まりが中程度で吸水性があり、釉(うわぐすり)を施した非透光性のもの。土器よりもかたいが、磁器にくらべてやわらかい。








●フランス中で親しまれている、ロレーヌの地方料理、キッシュ・ロレーヌ

2005年03月28日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
今日は、ロレーヌの一番有名な、そして簡単な、地方料理を紹介します。キッシュ・ロレーヌは、簡単な上に、家にある材料で手軽に作れ、そのためか、フランス中の家庭でなじまれているお料理です。


<キッシュ・ロレーヌ>の作り方

材料
・パイ皮
・卵・・・・四つ
・燻製角切りベーコン・・・・200グラム (なければ、普通のベーコンでもOK)
・生クリーム・・・・40cl
・牛乳・・・・大匙2杯
・塩、こしょう、ナツメグ、バター・・・・好みで

作り方
1. パイ皿にバターを塗り、パイ皮を型に入れる。フォークで、ところどころ突き刺しておく。
2.ベーコンを一口大に切る。大きな油の固まりは、取り除いておく。
3.ベーコンを、フライパンで軽くいためる。いためたベーコンを、1のパイ型に、均等に入れる。オーブンを暖めておく。
4.生クリーム、牛乳、卵をボールに入れ、しっかり混ぜる。ナツメグを、くわえる。
5.かき混ぜた4.を、ベーコンをしいたパイ皮に流し込む。
6.180度のオーブンで、25分ほど焼く。


これだけで、丸いキッシュを、放射線状に切り、サラダとともにテーブルに出せば、立派なアントレが、できあがります。サラダは、簡単にレタスを、大まかにちぎったものを、フレンチドレッシングであえたものが、一番あうようです。

実は、今夜、知り合いのお宅に呼ばれていて、このロレーヌのお料理、キッシュ・ロレーヌを持参しよう、というもくろみです。我が家では、いま、オーブンのなかで、キッシュが焼けている時間を利用して、このレシピを書いています。


キッシュ(quiche )、という言葉は、アルザス語で、Küchen 、その語源は、ドイツ語のKuchen (フランス語で言うと、gâteau, お菓子、という意味です)から由来したものです。この言葉は、すでに、15世紀には、人の口に上っていたようです。このキッシュ・ロレーヌの記述が、正式に印刷されて、世にでたのは、1805年、「ナンシーの歴史、(L' Histoire de Nancy" Lionnois著)」という本の中でした。

その後、1904年、プロスペル・モンタニュなど、当時、名料理長として名をはせていた料理人たちが、『料理法』という、フランスの司厨士協会の機関誌に紹介したことがきっかけとなって、フランス全土に広がっていったようです。


最初の頃は、このキッシュ、パン生地を使って作られていたそうですが、現在では、パイ生地を使って作られます。パイ生地を、自宅で作る人は、フランスにはとても少なくて、スーパーで、すでに作られているものを買うほうが、手っ取り早い方法として、浸透しています。


でも、遠い昔、現在のように、まだオーブンなどなかった時代、このキッシュは、大きな村のパン窯で焼かれていたようなのですね。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


フランスでは、ロレーヌに限らず、各地方で、独自の郷土料理が発展して、それを食するもの、旅人の大きな楽しみ。

こうした郷土料理は、かつて、まだ、各家庭に、オーブンや、水道がなかった頃、村という一つの共同体で使っていた、
・井戸
・洗濯場
・村のパン焼き窯、(多くの村では、週に一度火を入れ、使われていた。窯は、共同体の大きさにもよるが、ひとたび火を入れると、温度を上げるのに数時間も費やすほど、労力と時間が、必要とされていた)

以上の要素の中で育てられてきました。こうした地域によって違う物理的な条件は、地方料理が発展していく上で、大きな要素でした。村共同で使っていたのは、各家庭での、労力をなるべく削減し、その他の仕事(農作業)の効率をあげるためだったのですね。

現在の研究では、この当時の大きな窯に火を入れると、窯を暖め、調理可能にするまでに、約二日、そして、窯を冷まし、聴視したものを取り出すのに、なんと三日もかかることが、分かっているそうです。このような時間をかかる窯は、とても各家庭では、維持していけなかったのですね。


こんな、村共同の窯を使いながら、特に、地元の農家で、収穫できるもの、簡単に手に入れられるものを使って、各地方の料理は、発達していきました。その中でも、特に、以下の生産物は、フランスの地方料理の材料として、よく目に付くものです。

・野菜・・・・・ジャガイモと、たまねぎ(もっとも一般的な野菜)
・豚肉・・・・・(中世フランスでは、一番美味とされた肉。各地方では、独自の方法で、燻製したり、塩漬けにして、保存食とした。)
・乳製品・・・・生クリームや、保存のため、発酵をへてチーズにされたもの
・卵・・・・・農家で、簡単に飼える鶏から供給

こんなそれぞれの与えられた条件から、地方ならではの料理が、いろんな方向に、花開いていったのですね。


ロレーヌ地方では、豚肉は、ソーセージやベーコンにされ、それを使った料理が、発展していきました。

地方料理の土台を作っていった、長い歴史、とくにわたしは、中世のヨーロッパに強く惹かれます。


・・・・・・・・・・・・・・・・


さて、キッシュのお話に戻ります。

本物の、キッシュ・ロレーヌは、上記のレシピのように、厚切り燻製ベーコンと、卵、生クリームがおもな原料の、とてもシンプルなもの。これに、チーズや、たまねぎなどを加えると、もうそれは、キッシュ・「ロレーヌ」とは、よばれないのです!



でも、フランス全土に広がっていった、ロレーヌの「キッシュ」たちは、地方の新しい素材を取り込んで、今でも、発達中です。チーズや、いろんな種類の野菜を混ぜたり、さまざまに工夫されたキッシュは、今日、フランス人の食卓をにぎわしています。

皆さんも、ロレーヌの歴史に思いをはせながら、ご自宅で、「キッシュ・ジャポネーズ」(日本風キッシュ)を作って見てはどうでしょう??? キッシュの基本は、パイ皮に、生クリーム、卵です。

おいしいレシピができたら、教えてくださいね!





・・・・・・・・・・・・・・・
<追記> 先日、作ったキッシュは、ちょっと生クリームの量が(目分量で測ったので! 横着なわたしです)、少ないかな、と心配していましたが、とてもおいしく仕上がりました。

「キッシュ・ロレーヌを持っていきます」といった割には、やはり、最後には、野菜が欲しくなって、たまねぎを混ぜてしまいました。たまねぎは、ベーコンを軽くいためるときに、一緒にいためるのです。

お呼ばれしたお宅のオーブンで、すこし暖めてもらって、とてもおいしくいただきました。人と、食べ物のを分かち合う、というと大げさですが、やはり、おいしいものですね!






●お菓子大好きのロレーヌ公爵が愛した、マドレーヌとベルガモット

2005年03月27日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
わたしは、甘いものがあまり好きではないのですが、お菓子にまつわるお話、作り方の説明などを聞くのが、大好きです。今日は、ロレーヌの代表的なお菓子のうち、二つ、マドレーヌとベルガモット・キャンディーを紹介しますね。たくさんのお菓子の話のように、この二つのお菓子も、18世紀に、ロレーヌを統治した、スタニスラス公の説明抜きには、語れないのです。

(スタニスラス公のことは、後日あらためてかきたいのですが、ちょっとだけ、その背景に触れておきますね。)



ナンシー観光のスポットでもある、市庁舎の前の瀟洒な広場。この広場は、スタニスラス広場と呼ばれ、ナンシーの市民をはじめ、ロレーヌの人々に馴染み深い場所でもあります。

この広場は、18世紀にロレーヌを統治した、スタニスラス・レクチンスキー(Stanislas Leszczynski、フランス語読みでは、レジンスキーだけれど、日本では、レクチンスキーと通っているので、ここでもそれに習います。)という公爵の名をとって、つけられました。スタニスラス公は、もとポーランド王でしたが、政変のため、フランスに亡命。フランス王から、ロレーヌの統治権を与えられたのです。

スタニスラスは、娘、マリー・レクチンスキーを、ルイ15世に嫁がせました。そして、地盤を固めたところで、またポーランド王の座を狙うなど、波乱と移動に飛んだ人生を送りました。このあたりは、ポーランド継承戦争とかかわって、歴史のおもしろいとことろですが、今日は、お菓子の話に集中するために、またの機会に・・・。


このポーランドの元王様、ロレーヌ公であったストラスニスは、無類の美食家でした。そのため、彼は、政界だけではなく、フランス菓子界にも、大きく名を残すことになったのです。


<在りし日の、スタニスラス公の肖像。いかにも、美食家、という感じが・・・>




まずは、世界で知られている、有名なお菓子、マドレーヌです。このお菓子には、大変有名なエピソードがあります。

1755年、宴会好きだったスタニスラス公、宴会の準備の最中に、料理長とけんかをし、料理長は、出て行ってしまいます。(王様とけんかをする、このあたりが、フランスらしいと、いうか・・・)。スタニスラス公は、「おいしいものを作れ」というし、どうしたものかと皆が悩んでいた時に、女中であった(料理人とも言われる)、コメルシィー出身の少女、マドレーヌが即興で、皿型をつかってお菓子を作ったのです。

このバターをたっぷり使ったお菓子は、とてもおいしく、スタニスラス公はたいへんに喜び、このお菓子に「マドレーヌ・ド・コメルシィー」という名をつけた、というのです。(その他にも、いろんな説があって、なぞは多いのですが、一番代表的なものを紹介しておきます。)

このお菓子は、浮気好きだったルイ15世に嫁いだ、スタニスラス公の娘、マリーに伝えられ、ルイ15世を、マリーのそばに、引き止めるためにも使われ、パリにも、広まっていったといいます。


マドレーヌは、簡単に言えば、卵と砂糖、少量の塩をよく混ぜ合わせた中に小麦粉、たっぷりの溶かしバター、おろしたレモンの皮を加えて、焼くそうなのですが、長い間、その製法は、秘密とされていました。そして、ある時、コメルシィーの菓子職人が、たいへんな高値で、レシピを買い取ったとか、コメルシーの職人がずっと秘密にしていたとか、いろんな説があります。


現在の、一般的なマドレーヌは、帆立貝(Coquille St Jacques)の殻の形をしており、レモンまたはオレンジ風味の、かなりシンプルな焼き菓子なのですが、この地方の、味にうるさい人にいわせると、ロレーヌで作られた、「マドレーヌ・ド・コメルシィ」の印が入った、マドレーヌでなければ、本物のマドレーヌではない」、などといったりします。


<ロレーヌの人も認める、世界で二番目においしい、マドレーヌ。一番は、もちろんママンの作ったマドレーヌ>


そんなマドレーヌを生んだ、小さな町コメルシィは、小さいながら、中世から発達していった古い町です。現在、人口は、一万人足らず。観光スポットも、取り立ててないのですが、町を車で過ぎると、マドレーヌのイメージが思い出されて、バターの香りが漂ってくるような、嬉しい気持ちになります。




そして、もう一つの、ロレーヌの名物は、ベルガモット・ド・ナンシーとよばれる、薄くて黄金色の、四角いガラスのような飴です。

ベルガモットをつくる飴に加える、ベルガモットオレンジは、現在、エッセンシャルオイルとしても、よく使われたり、紅茶のアールグレイの香りづけにも使われたりして、意外に、みなさんも、なじみがあるのではないでしょうか。(ハーブのベルガモットと混同されがちですが、ベルガモットオレンジは、木であり、その実を使うのですね)

このベルガモットオレンジ、オレンジとナシを掛け合わせたような、かんきつ類で、イタリアのカラブリア地方や、フランスのコルシカ島で栽培されてるそうです。それまでは、香水として使われることが多かったそうですが、1857年、ドイツからやってきた菓子職人の、リリーチという人が、ベルガモットを食べ物に加えようと思いついたと、伝えられています。


遠い、地中海の沿岸で作られるベルガモットが、なぜロレーヌ、ナンシーの名物になったのか。これが、少しの間、わたしの疑問でした。謎解きは、意外に簡単。なぜかというと、この珍しいベルガモットを、スタニスラス公が大変に好んだから、なのだそうです。

フランスでは、さまざまな特産品に厳格な規格が設けられており、その名前を名乗るには、その規格を厳守する必要があるのですが、今では「ベルガモット・ド・ナンシー」と名のれるのは、ナンシーで3軒だけなのだそうです。





この中の一軒、デザインの有名なブリキの入れ物。デザインは、何十年も、変わらない。「アメリー・プラン」の中にもでてくる。



ベルガモットはともかく、マドレーヌは、日本でもおなじみのお菓子。次にマドレーヌを食べるときは、アールグレイの紅茶とともに、かわいいお女中のマドレーヌと、でっぷり太ったスタニスラスを思い出しながら、いただいてみてくださいね。














●光と影を描いた、17世紀のなぞの画家、ロレーヌのラ・トゥール

2005年03月26日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
今日は、美術館にお誘いします。ラ・トゥール(De La Tour) という名の画家を知らなくても、ひとたびその絵を見れば、「あ、この作風の絵、どこかで見たことがある」、そう思われる方も、多いのではないでしょうか。

闇に浮かび上がる情景、その精神性に満ちた、ロウソクに照らされた光と影の表現。一度でも、その作品を見れば、見るものに忘れがたい印象をもたらす画家ジョルジュ・ド・ラ・トゥール(Georges de La Tour 1593~1652)。この画家は、ロレーヌ、ヴィック・スュル・セイユ(Vic-sur-Seille)で生まれました。


わたしは、このことを長い間、知りませんでした。ロレーヌでの、彼の作品との出会いは、まったくの偶然。別の目的で、ナンシーのロレーヌ歴史博物館に行ったとき、一つの部屋に彼の作品が、いくつもかかっておりました。「この絵、見たことがあるなぁ」、そう思って、名前を見て、びっくりしたものです。


彼の作品、「再発見」も、じつに、偶然に満ちています。

17世紀、生前は有名、王のお抱え画家であったものの、彼の作品は、没後、急速に、実に、二世紀半もの間、忘れ去れていました。

20世紀になり、1915年、ドイツの美術史家が、「夜の絵に優れていて、ルイ13世に気に入られた」として、この地方に残された資料に登場する画家、ラ・トゥールと、作者不詳の作品とを結びつけたのが、はじまりでした。 その後、1934年、パリのオランジュリー美術館で、ラ・トゥールの作品が展覧されて以来、次々と彼の作品が明らかになってきたのです。

しかし、彼の作品、生涯の全貌は、まだ、すべて解明されていません。しかも、残存する、彼の手による作品数が、40点もない、という、驚くべき少なさもあいまって(戦乱の中で画家の住んだ町が壊滅したりして、作品が消滅)、ヴェールに包まれた17世紀の神秘の画家として脚光を浴びているのです。このあたり、オランダのフェルメールを思い起こさせますね。



"Saint Jerome lisant"


なぞに満ちた、彼の一生は、どこまで分かっているのでしょうか?

ラ・トゥールは1593年、フランス北東部、当時は、フランスとは別の歴史を歩んでいた、独仏国境の小国ロレーヌ公国の町、ヴィック・スュル・セイユVic-sur-Seilleに、パン屋の息子として生まれました。地元の画家に教育を受けた後、24歳で富裕な一家の娘と結婚、1620年まで、妻の実家の町、リュネヴィル(Luneville)で画家として一人立ちし、最初の弟子を雇い入れています。

1639年にはパリに進出し、ルイ13世から、「王の常勤画家」に任命され、ル=ブルのギャラリーに住み込みになった、との記録もあるそうです。1652年に、二人の娘と画家であった一人息子を残して没しました。当時としては、まさに順風満帆の出世画家だったようです。



以後この画家に対する研究が進められ、現在ではこの画家の美術史における位置は揺るぎ無いものとなっています。

ラ・トゥールの作品を有名にしたものは、その風俗的主題、対象をきわめて、精密に、写実的に、描写する手法、そして、光と闇の劇的な対照です。彼は、パリで、オランダやイタリアの画家と交流を深め(彼が、ローマで学んだという記憶を立証するものは、まだない)、カラヴァッジョ (le Caravage 、1571-1610), の作品から大きな影響を受けています。

その後、ラ・トゥールは、次第に、ロウソクなどの光を、効果的に用い、静謐で精神性の高い宗教画を描いていきます。

ラ・トゥールの作品は、「昼の絵」と「夜の絵」に二分されますが、圧倒的に有名なのは、やはり、このロウソクの光を効果的に使った、「夜の絵」でしょう。

たった一つの光源、ロウソクのの光だけに照らされた人物は、くっきりと輪郭を描いて眼前に現れ、その集中した光の中に深い内省が表現された精神の高貴さは比類ない、強烈な印象を与えるのです。


ラ・トゥールには、いくつかの逸話があります。それは、生前の彼が、たいへんなごうつくで、俗物だったということ。これも、真実の程が、どれだけのものか、更なる研究を待つばかりです。



彼の作品は、ナンシーのロレーヌ歴史博物館でも見ることができます。

残念なとこに、私がいったときは、いくつかの絵は「貸し出し中」。彼の弟子達が書いたものと思われる絵が、代わりに掛かっていました。

美術館員に、どこに絵が行ったのか聞いてみると、なんと、貸出先は「日本」とのこと。彼が言うには、日本人は、フランス人にもあまり知られていない、ラ・トゥールをはじめ、多くの画家に興味を持っている、とてもおもしろい国民なのだそうです。

「でも、どうして、遠いところからきて、あんなに急いで、美術館をぐるっと廻って、帰っていくのだろう」
そういって、首を傾げていました。わたしが、日本人だというと、とても嬉しそうに、いろんな説明をしてくれました。

平日で、バカンス時でもない博物館は、とても閑散としており、どなたも、親切に説明をしてくださり、とても快適に鑑賞できたのが、記憶に暖かく残っています。

ラ・トゥールの美術館は、彼が生まれた町にもあります。ロレーヌの、小さな町で生まれたラ・トゥールが、洗礼を受けたサン・マリアン教会。その前に建つ、18世紀の邸宅を一新したのが、それです。この美術館の名を“ラ・トゥール”たらしめているのが、美術館が所蔵する、彼の作品「荒野の洗礼者聖ヨハネ」なのです。





《荒野の洗礼者聖ヨハネ》
県立ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館蔵


この作品もまた、ドラマチックに「再発見」をされたものなのです。1993年、パリのドルウォー競売所のオークションで出品されていた、一つの作者不詳の作品がありました。この作品が、現代の科学的な裏付けを経てラ・トゥールのものと判明したのです。(彼の作品のあい続く発見は、「美術研究史の勝利」ともいわれます。)

この作品は、国とモゼール県(ロレーヌの三権の一つ、ヴィック=シュル=セイユの位置する県)による作品の購入されました。それをきっかけに、この作品のために県立ジョルジュ・ド・ラ・トゥール美術館が開設されたのでした。

これから、また、ラ・トゥールは、どんなドラマチックな「再発見」を経て、わたし達を驚かせてくれるのでしょうね?




・・・・・・・・・・・・・・・・・
<補足>カラバッジョ・イタリア、バロックの画家

本名は、ミケランジェロ・メリージ(Michelangelo Merisi)ですが、後年、カラバッジョ村(イタリア北部)に生まれたことから、カラバッジョを通称としました。

光と影を使い、ドラマチックな絵を描きました。イタリア・バロックを代表する、有名な画家です。彼の絵は、ローマのボルケーゼ美術館で、多く見ることができます。

カラバッジョの絵画の特徴は、画面の細部に至るまで、徹底的に追及した、リアリズムです。このリアリズムは、同時代の風俗を取り扱った場面設定とうまく融合して、画面の登場人物たちが、生き生きとした存在感をもっているのです。

彼の、光と影を劇的に使ったユニークな明暗法(キアロスクーロ)は、想像力を通して鑑賞者の内面に訴えかける画期的な手法として、伝統や慣習にとらわれない新しい絵画の創出へとつながったのです。

彼の画法は、ルーベンスやベラスケス、レンブラントら、(そして、ラ・トゥールも忘れてはいけません)、17世紀の画家たちに受け継がれ、バロック絵画として、大きく花開いていくのです。
(カラバッジョの作品は、ネットで検索をかけるとたくさん見ることができます。)



<追記>偶然というか、いま、上野で、ラ・トゥール展がはじまったばかりなのですね!(2005年3月8日(火)~5月29日(日)、国立西洋美術館(東京・上野公園)にて)
ビックリしました。
ロレーヌの彼の絵は、いま、日本に行っているということでしたが、上野の特別展だったとは!わたしも、ラ・トゥールとともに、日本に帰りたい!
興味のある方、ぜひ鑑賞後のご感想をお聞かせくださいね!

●フランスの水を供給する町、ロレーヌのコントレックセヴィル(コントレックスの町)

2005年03月26日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
ロレーヌ地方南部の一角に、日本でも知られたミネラルウオーター、「コントレックス」の水源地、コントレックセヴィル(Contrexeville)があります。ある夏の日、近くに行く用事があったので、ついでに、このコントレックセヴィルを訪れることにしました。

ロレーヌ南部のこのあたりは、ミネラルウォーターの産地で、すぐ近くには、「ヴィテル」でしられる、ヴィテル市(Vittel)があります。



<写真>スーパーに仲良く並んでいる、コントレックスと、ヴィテル。フランスでは、ポピュラーなミネラルウォーターです。


ロレーヌ地方では、ナンシーのような町でも、水道水は飲めるのですが、多くの人は、ミネラルウオーターを、スーパーで買ってきます。わたしも、ミネラルウォーターは、いつも買っているのですが、ナンシーに住んでいたときは、エレベーターのないアパートに住んでいたので、階段を上って、持ってあがるのが、大変だったこと!


さて、コントレックセヴィルから湧き出る水は、18世紀の中ごろ、ポーランド王、そして、のちにロレーヌ公爵となった、レクチンスキー公爵のの侍医、バギャールによって、利尿作用の効果を見出された、といわれています。

その後、ベル・エポックの時代のフランスで、時のフランス国王、ルイ15世の侍医が、水源近くに、水療法センターを建設(1774年)し、ペルシアのツァーや、セルビアの国王など、近隣諸国の貴族や外交官たちがこぞってこの地を訪れました。以後、ここで過ごすことがヨーロッパ中のセレブリティのステイタスとされ、コントレックセヴィルは、リゾート地として発展していった、そんな歴史を持っています。




コントレックセヴィルから湧き出る、「コントレックス」は、1861年、初めて、フランス厚生省が認めた、“公益の水”だったそうです。フランスでも、ナチュラルミネラルウォーターとして、さきがけだったのですね。

コントレックスは、フランス国内ではごく普通に売られていて、多くのミネラルウォーターの中でも、「エビアン」に次ぐ、売り上げを誇っているのだそうです。


コントレックスがなぜ人気が高いのかといえば、ご存知のように、ダイエットに効果があると信じられているからなのですよね?聞くところによると、コントレックスは硬度1500以上という、たいへんな硬水なのだそうです。飛び抜けて、多くのカルシウム、マグネシウムが含まれており、このミネラル成分が、体の新陳代謝を高め、ダイエットに役立つ、と考えられているのだそうです。

コントレックスは、日本にも輸出されているそう。その仕事にかかわっている人に、お話を伺うと、日本向けの輸出は、特に気を使うそうです。なぜなら、例えば、水の量に、少しでも過不足があったら、アウト。日本には、輸出されません。コントレックスをはじめ、水の運搬は、多くは丈夫なビニールを、いくつも重ねたペットボトルに巻きつけて、行うのですが、日本への輸出向けのみは、ダンボールで行われるそうです。



<写真>水療法センター。この建物は、1912年に、この地に住んでいた建築家、Mewes(メウェ)によって設計されたそう。この中に、例の白鳥がほどこされた給水口から、水が流れ出ます。



<写真>白鳥をかたちどった、蛇口。ここから、こんこんと、コントレックスの水がなれだします。ドームの中のお水は、自由に汲んでもよいので、近くに住む、住人達が、この蛇口から湧き出る水を、大きなペットボトルに移しかえていました。

中には、年季の入ったペットボトルなのか、透明なはずの素材が、緑色になっているペットボトルに、コントレックスを入れているおじいさんもいて、ビックリしました。

水を汲みに来ている方の中には、年配の、かなりどっしりしたご婦人もいて、コントレックスの、スリムウォーターとしての効果にも、かなり疑問を持ってしまいました。(実践していらっしゃる方がいたら、ごめんなさい)


夏の暑い日に、この町を、気まぐれに訪れました。太陽がてり付けていたので、歩いた後、白鳥の給水口から飲む、お水のおいしかったこと!残念ながら、一本しか、小さなペットボトルを持っていなかったが、とても残念でした。



さて、このコントレックセヴルは、ちいさな町ですが、とても丁寧に隅まで、手の入った、うつくしい花の街なのです。町は、徹底して、自然観光を、保護する努力をしています。

道路は、事故などでガソリンが土壌にしみこむことのないよう、特殊な舗装がなされているそうです。または、ゴミの回収などにも気を配り、徹底して、自然を保護しようとするところに、コントレックセヴィルのフランスの水の供給場としての、誇りが感じられます。







・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

<補足>コントレックスとヴィテルの関係。ほんとうに、近いでしょう? 3キロ、あるかないかの距離です。



●火と砂の作り出す魔法、クリスタル -ロレーヌの小さな町、バカラより

2005年03月25日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
クリスタルと、ガラスの違いをご存知でしょうか?

ふつうのガラスの原料 には、「珪砂」、「ソーダ灰」、「炭酸カルシウム」が、この3つの原料が主に使われます。

クリスタルガラスと称するガラスは、この3つのガラスの原料に、 鉛(酸化鉛)を、ある一定量以上、混ぜます。酸化鉛がはいったガラスは、輝きや、透明度、光沢が増し、屈折率も大きくなり、ガラスの輝きが増します。そして、もちろん、ガラスをチンと叩いたときの、涼やかな音色も、変わってくるのです。

「バカラ」や「ウォーターフォードクリスタル(イギリス)」、「スワロフスキー」のような、ガラス工芸ブランドのクリスタルガラスは、 30%以上の酸化鉛を含んでいるそう。「ドーム(フランス)」では、24%を基準とし、それ以上のものを"フルレッドクリスタル" 以下のものを”セミクリスタル”と 呼んでいます。


この、クリスタルガラス、ルネサンス時代、ヴェネツィアで、一役有名になってから、ヨーロッパ各地で、高級なガラス食器や工芸品に、使われるようになりました。

フランスのクリスタルガラス、といえば、「バカラ」と、「ドーム」。この二つのブランドとも、フランス東北部のロレーヌ地方から、発信されているのです。


この「バカラ」が作られる小さな町は、ロレーヌ地方にあります。その名も、「バカラ、(Baccarat)」と、いう名の、ひろびろとしたロレーヌの平原に、ぽつんとある小さな町なのです。


<写真>バカラの市庁舎。夏には、観光客がたくさんやってくる。



バカラの歴史を、ちょっと振り返ってみましょうね。

この町に、最初のガラス工房、サント・アンヌ(Sainte-Anne)ができたのは、1704年のことでした。このガラス工房は、メッスの司教とフランス王の認可を受けて、作られたのです。最初の職人達は、きこり達でした。

フランス革命時には、この工房は、一度閉鎖されましたが、その後、1817年に、ダルティグ(M. d'Artigues)氏によって、クリスタル工房として、新たに再開されます。1828年に、シャルル10世が、この地方を訪れて以来、バカラ市の工房は、世界の王家、大統領等に、クリスタルを提供するようになります。

19世紀、はじめ、バカラは、一大旋風を、巻き起こしました。そして、一時、火は弱まったものの、新たに1950年代から、再びその勢いを盛り返し、現在も世界のクリスタル界の中では、群を抜いた完ぺき主義の美しさと、それに伴う知名度を誇っているのです。

現在では、1100人が、バカラで、クリスタル職人として働き、その中でも、上位20人ほどの職人が、「フランスで最高級の職人」と名乗る資格を受けているそうです。



バカラ市には、こんな工房の歴史や、クリスタルのデザインの歴史を紹介する、ちいさな博物館があります。


<写真>バカラのクリスタル博物館の入り口。大きなシャトー(館)を改造して、作られています。

バカラのクリスタル博物館では、工場での、ガラス職人が働いている様子や、クリスタルの作られる過程が、ビデオで見られます。

工場見学は、禁止なのですって。なにしろ、クリスタルを作るのは、たいへんな集中力がいるそうなのです。一瞬、気が散ることによって、クリスタルの形は、大きくゆがんでしまいます。

しかも、バカラの、名声は、その完成度の高さにあり、ほんの少しのゆがみ、キズも、ゆるされません。作品の過程の最後には、厳しい商品検査があり、そこで見つかった、「キズもの」は、その場で、容赦なく叩き壊されるそう。(「それ、キズものでいいので、下さい!」って、言ってしまいそう。)

バカラは、生産の70%が、1998年の段階で、アメリカ、日本、イタリアなど、世界90カ国に、輸出されるそうです。バカラの博物館では、世界各国の皇族が特注した、皇族の紋様の入ったテーブルセットも、見ることができます。日本の皇族の、菊の文様のついたグラスも、ありました。デザインで、各国の国民性が分かったりして、比べるのも、おもしろい。サウディ・アラビアの王国などは、これでもか、というくらい、たくさんの飾りがついていました。

バカラの進出は、世界各国の皇族のテーブルだけではなく、ゲラン、ディオール、コティなどの、一流ブランドの香水をも、美しく演出してきました。





・・・・・・・・・・・・・・・・

博物館見学がおわって、町に下りると、さて、待ちに待った、(ウィンドゥ?)ショッピングです。バカラのメイン・ストリートをはさんで、クリスタルを売るお店が立ち並んでいます。

でも、気をつけてくださいね。バカラのブランドの入った、本物のバカラのクリスタルは、ちゃんと作品のどこかに印が、入っています。そうじゃないものは、クリスタルでも、バカラのブランドではありません。

一番、目に付くのは、博物館のすぐ下にある、大きなバカラの看板のある、バカラの商品だけを取り扱う、お店です(最初の写真)。地味な町なのに、ここのお店の空間だけが、もう、キラキラとまばゆいばかり。ちょうど翳りつつある太陽の光を浴びて、クリスタルが虹色に輝いていました。

バカラ市で買ったら、生産直売で(?)、すこしでも安いのかと思いきや、それは、大きな間違いでした!

バカラの値段は、世界共通、一級品しかないので、値段も、統一されているのです。安く買いたいと思ったら、空港の免税店で買うしかないとのこと、ちょっとがっかりです。




一通り、店内を廻って、お値段を見て、やっぱり、「高い~」。

グラスなどは、50ユーロ出せば、あるのですが、2客やそこら買っても、しかたないですよね。せめて、家に2カップルを招待したときに使えるように、6客くらいないと・・・。しかも、ワイングラスだけじゃ、格好つかない。その他の、お水用のグラスや、ブランディーグラス、いろいろ、そろっていないと、不釣合いだし・・・。

そう考えると、バカラでテーブルセットを買うっていうのは、大変な金額が必要です。やっぱり、お金持ちじゃないと、買えません!



バカラは、アクセサリーもたくさん、作っています。すべやかな表面が、なんとも美しい。


この日は、母の誕生日の後で、バカラ市で、なにか記念にバカラのものを、母にプレゼントしたい、と思っていたのですが、結局、色の入った、ちいさな花の形の、ドームの宝石入れにしました(せっかく、バカラ市にいたのだけど・・・)。


この地方では、定年退職をする方に、バカラの置物をプレゼントする習慣が、あるそうです。プレゼント、されたいものですね!






・・・・・・・・・・・・
<補足・クリスタルいろいろ> 水晶(クリスタル)のような、透き通ったガラスのことをクリスタルといいますが、ルネサンス時代、ヴェネツィアでつくられた無色透明のソーダ・ガラスは、ヴェネツィア・クリスタル・ガラスと呼ばれます。

また、17世紀初め、ボヘミアでつくられた、より透明度の高いカリ・ガラスは、ボヘミア・クリスタル・ガラスと呼ばれました。

また、酸化鉛を使った、クリスタル・ガラスは、17世紀後半にイギリスで生産されたとのことです。

●ロレーヌの聖少女、ジャンヌ・ダルク

2005年03月25日 | フランス、ロレーヌ地方のこと
ジャンヌ・ダルクのお話は、くり返して語られて、手垢がつきすぎているのは、分かっているのです。

それでも、このロレーヌにいると、思いをはせてしまうのが、フランスの英雄とされる、ロレーヌの少女、ジャンヌ・ダルク。彼女は、フランスの歴史の中で、もっとも名の知られた女性の一人ではないのでしょうか。

彼女の駆け抜けた歴史の中の足跡は、強烈な印象を持っています。そしてその歴史に包まれたなぞ、ロレーヌの田舎を車で走りぬけるたびに、小さな村で見かける17歳くらいの女の子を見るたびに、彼女は、こんな顔じゃぁなかったのかしら、とつい思いにふけってしまいます。


なぜなら、このロレーヌの聖少女が生まれたのが、ロレーヌ地方、(シャンパーニュ地方との国境)の小さな村、ドンレミの村だったから。現在は、ドンレミ・ラ・ピュセル(Domremy-la-Poucelle)と呼ばれる、麦の畑がひろびろと広がる、ロレーヌ南西部の小さな村。



<写真>現在のロレーヌ地方の田舎の風景。なだらかな丘がうねるように続きます。


ジャンヌ・ダルクの歴史は、しつこいくらい繰り返されているのですが、ここで、ほんのすこしおさらいのために、紹介しておきます。

ジャンヌ・ダルクが生まれた時代は、中世、英仏百年戦争の真っただ中でした。百年戦争と呼ばれたこの戦争は、1337年にはじまり、1453年に終わるまで、休戦を含み、百年以上もつづいた、長い戦争でした。しかも、長引く戦争の中、フランスは負けつづけで、イギリスに攻め込まれていて、あともうすぐで、イギリスの手に落ちるところだったのです。


フランス王国領  イギリス領  ブルゴーニュ公領  プロバンス公領

地図を見ていただければ、よく分かると思うのですが、その頃、フランスは、いまの形を、全く成していなかったのです。フランス北部は、パリさえも、イギリスに支配されており、南西部のボルドーを囲む周囲の地域も、イギリスの統治下にありました。

こんななか、王位継承者であった王子、後のシャルル7世は、多くの国民と同じように、戦意を失い、享楽を続ける有様。オルレアンが落ちれば、フランスは一気に、イギリスの手中におちる、そんな状況の中、登場したのが、ロレーヌのジャンヌ・ダルクだったのです。


ジャンヌ・ダルクは、ロレーヌ地方の農民の家に生まれ、13歳のときに、大天使ミカエル、聖カタリナ、聖マルガレータらの、「声」を聞くようになったといわれています。そして、その声は、いつか、フランスをイングランドの支配から救うよう命じるようになります。

文字も読めない、一介のの田舎娘に過ぎないのに、信念に突き動かされた、17歳のジャンヌは、ついに、王太子に謁見。そして、魔女裁判の結果、やっと願いを聞き入れられ、オルレアン解放のための軍隊を任されることになります。こうして、ジャンヌは、白い甲冑に身を包み、自らの旗を翻し、オルレアンに入ったのです。

1429年、ジャンヌは、イングランド軍を退却させ、王太子をランスで戴冠させてシャルル7世とします。そして、その後、コンピエーニュを開放するために出発しますが、ブルゴーニュのジャン・ド・リュクサンブールに捕らえられました。ジャンヌを救うかと思われた、シャルル7世は、文字通りジャンヌを裏切り、ジャンヌは、イングランド軍に引き渡されました。

1431年、ジャンヌは、異端及び魔術を用いた疑いで裁判にかけられます。そして、イングランド人からなる法廷で有罪を宣言され、ついに、火あぶりの刑に処せられる、とう壮絶な最後を、二十歳の誕生日を迎えることもなく、遂げてしまうのです。




これだけのことが、分かっていながら、それでも、ジャンヌ・ダルクの人生は、やはり、まだなぞに包まれているのです。

それは、彼女の人生が、政治的なシンボルに祭り上げられ、大きくゆがめられてしまったことが、原因でもあるのです。

長く歴史の中に葬られていた、ジャンヌ・ダルクの生涯は、19世紀末、再び、歴史の舞台に担ぎ出されることになります。1871年、普仏戦争の敗北後の、ナショナリズムが高まりのなかで、共和主義がそれをまとめる有効なシンボルとして、ジャンヌは、格好の材料だったのです。

そして、ついには、1920年に、教皇ベネディクティス15世により、ジャンヌは、「聖女」に列することになりました。


<写真> ナンシーの近郊の町、サン・ニコラ・ド・ポールのカテドラルにある、ジャンヌの姿。


今日、わたしたちの知っている、ジャンヌ・ダルクは,国民国家意識の高揚した19世紀のフランス人がこうみたいと願ったジャンヌ像で、王党派的観点に貫かれています。

イギリスの侵寇を受けたフランス王国の危難を救った、神のおとめというイメージは、すでに15世紀後半,ヴァロワ王家の正史ともいうべき『シャルル7世・ルイ11世伝』を書いたトマ=バザンによって定式化されたものでは、ありました。

19世紀のフランスの歴史学は,このイメージのジャンヌをそのまま書き直しただけで、ジャンヌの実像を適切に調べたとは言えないのです。

ジャンヌ関係の、元になった史料は、ルーアンで行われたジャンヌの宗教裁判の記録を、基にしているそうですが、19世紀中ごろに出版された、その記録の活字本には多く不備のブ部があったようです。そして、やっと、1960年代に入って、新しい校訂本の作製がはじまりました。ジャンヌに関する研究は、実際のところ、ようやく始まったところでしかないのです。




ジャンヌ・ダルクの生前に、唯一描かれた、彼女の肖像画。異端裁判の書記が執務日記の欄外に描き残したもの。(参考文献・レジーヌ・ペルヌー著、高山一彦訳、1995年、白水社・文庫クセジュより)


現在、ドンレミの小さな村には、村の規模に似つかない、大きな博物館で、ジャンヌの生涯、彼女の行きぬいた時代背景、そして、ドンレミの当時の家の様子をうかがうことができます。

わたしがそのドンレミに行ったのは、真夏の太陽が照りつけるバカンスの真っ最中でしたが、人影はまばらでした。おかげでゆっくり、博物館を見学することができました。





近年、フランスの映画監督、リュック・ペッソンの描くジャンヌ・ダルクが、一気にジャンヌのイメージを塗り替えてしまったようにも思います。

リュック・ペッソンノ描くジャンヌは、ドンレミの村で、幼い頃、戦火の中、姉を目の前で殺され、ジャンヌは予言の「救い主」(ロレーヌの乙女)を演じることによって、彼女自身のトラウマを乗り越えようとした、とも映ります。彼女にとって、自分が救い主となることは、「なぜ姉が死に、自分が生き残ったか?」という問い=負い目に答える唯一の方法だったのです。

リュック・ベッソンの描くジャンヌは、精神的な問題に目を向け、その解析を求めようとする、多くの現代人にとって、象徴的な姿なのかもしれません。リュック・ベッソンの描く、ジャンヌの姿も、一つの解釈でしかないのですよね。



<写真>リュック・ベッソンノ描く「ジャンヌ・ダルク」(1999年)のポスター。彼の作品に流れる、強くもろい女性のイメージがとうとうと流れています。それにしても、ジャンヌ、とても美しくて、どう見ても、ただのロレーヌの田舎娘とは思えませんでした。映画には、当時の戦争の様子を、かなり生々しく再現しており、見るに耐えない残酷なシーンも・・・。



<写真・下>ナンシー、スタニスラス広場の近くにある、ジャンヌ・ダルク広場に建つジャンヌの像。雨の日も風の日も、堂々とたっているジャンヌは、在りし日に、本当にこんな姿だったのかもしれません。ジャンヌの像は、フランスの各地にあるようです。




フランスのナショナリズムはもともと女性のイメージと密接に結びつき、女性をフランスの顔として使いたがる傾向があるようです。ジャンヌもまた、国が危機を迎えるたびに登場し、フランスの救世主の象徴とされてきました。フランスの歴史を知るほどに、ジャンヌのイメージがいかに利用されてきたか見えてきて、疑問に思ったりもすることがあります。

いつか、この英雄として担ぎ上げられてしまった聖少女ジャンヌ、いつか再び、一介のロレーヌの娘として、歴史の中で、ゆっくり眠れる日がくることもあるのでしょうか・・・?