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「源氏物語」は伝え方が10割

「理系学生が読む古典和歌」
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(注336686):「軍事力」と「保険」との決定的な差異:<抑止><誘発>

2021-05-17 18:35:53 | (注) その他

 


(注336686):「軍事力」と「保険」との決定的な差異:<抑止><誘発>

 


西部劇に登場する拳銃は、「ピースメーカー」<平和を作るもの>と呼ばれたそうです。
西部開拓時代では、身近にいる家族や村人を略奪者から守るために銃が持たれました。
しかし、現代の戦争では、守るべき人たちとは離れた場所で敵との戦いが行われるため、<自衛>という意味が見えにくくなっています。


銃も含めて、「武力」は、とても<逆説的>な存在です。


「軍備」はしばしば「保険」に例えられます。
それは、<念のため掛けて(準備して)おくけれど、使わずに済むのが一番>という意味です。

しかし、「軍備」はある一点で、「保険」とは決定的に異なります。

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「保険」は、事故が起きた時の損害を修復することはできますが、事故そのものの発生を未然に防ぐ「抑止力」にはなりません。
「軍隊(武力)」は戦争(武力行使)の発生そのものを防ぐ「抑止力」となる点で、<保険>などよりはるかに矛盾に満ちた<逆説>的な存在と言えます。
病院を沢山建てれば、それが抑止力となり戦争を防げるか、と考えてみれば、そんな事は無いでしょう?
あくまで「病院」「保険」は、<事後回復>のための手段であって、<抑止力>にはなりません。
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その意味で、最前線の兵隊さんたちは、医師よりも、よほど多くの人命を、結果的に救っているのかもしれません。
その潜在的な数は、兵士自らが殺す人数より、はるかに多くなるのかもしれません。


「武力」の持つ、この原理的な<逆説性>が、米国内で銃の回収を困難にし、また、国際社会では核拡散防止含む軍縮の困難さの本質となっています。


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「人類史で最も重要な逆説」<戦争は悲惨だが、軍隊は必要であること><戦争(武力行使)を回避するためにこそ、軍隊(武力)が存在すること>
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この逆説は、<信じたくはないけれど、信じざるを得ない真実>でもあります。
なぜなら、私を含めて誰だって軍備をなくせれば、それが一番だ、と望んでいるからです。


ギリシャの都市国家は、城壁で囲まれた「要塞」に他ならなかったことを思い出して下さい。
映画「2001年宇宙の旅」の冒頭部分で、人類の「道具の使用」は「武器の使用」とともにありました。

 


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<軍備の増強は、軍需産業の巨大化につながり、その運営(雇用)を維持するために、軍備の消費、すなわち、「戦争」を誘発しがちになる>
としばしば言われます。
その意味で、トータルとして見れば、軍事力は<抑止力>としてのみならず、<推進力>の側面も持っている、と言えるわけです。


上述のように、「保険」は、あくまで<事後的>な対応を目的とするもので、ケガや病気の<抑止力>にはなりません。
しかし、同時に、
保険に入っているからといって、わざわざ事故に遭おうとする人はいません。
保険金詐欺などは、もちろん別として。

ところが、「軍事力」は、「保険」と違って、戦争の<抑止力>になりますが、
上記のように、戦争を<誘発>する要因ともなり得る、というのが、やはり「保険」とは対照的な点です。


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(注336656):大戦当時の世界の石油生産と日本の需要量

2021-05-16 14:19:21 | (注) その他

 

(注336656):大戦当時の世界の石油生産と日本の需要量

 


***「石油」<一日一万トン> **********
「しかし対米戦争ともなれば百年戦争です。海軍に成算はありますか?」
「大丈夫。蘭印の油田を直ちに占領すれば、自給自足の長期体制に持ち込めます」
「だめです。油田をとっても、船舶の輸送力の見込みが立ちません。飛行機もとても足りません」
「そんなことを言ってたら、ますますジリ貧に陥るばかりじゃないか。こうしている間にも、<一日一万トン>の石油が減っていくんだぞ」
(映画「軍閥」)
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1940年当時の世界の石油生産      生産量/30
アメリカ 1億9500万(キロリットル)    650(万キロリットル)
中南米   4200万                       140
ソ連    3200万                       107
中近東   1300万                        43
蘭印(オランダ領インドネシア) 800万       27
ドイツ   740万                         25
カナダ   120万                          4
日本    30万                           1
上記単純合計 2億9890万                  996(万キロリットル)
(参考:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」)
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大戦前当時、日本は石油の八割~九割をアメリカから輸入していたそうです。
また、輸入量の15%は蘭印からでした。
(参考:「面白いほどよくわかる太平洋戦争」)

 

 


(注333326):「古典和歌」と「解釈の多様性」について

2021-05-09 15:09:36 | (注) その他

 


(注333326):「古典和歌」と「解釈の多様性」について

 

英語では、単語と単語の間が、空白(スペース)によって区切られます。
しかし、日本語の場合は、単語の間で文字列が区切られません。

さらに、日本古語では、句読点やカギ括弧を用いる習慣がありませんでした。

また、源氏物語が書かれた平安の当時は、濁点を打つ習慣もありませんでした。

拗音や促音の小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」「っ」などの字は、全て普通の大きさ「や」「ゆ」「よ」「つ」で書かれました。
「ばびゃぶぺぽ」も「ぱぴや、ふべぼ。」も「は、ひゃぶぺ。ぼ」も全て
「はひやふへほ」
と表記されました。


要は、とても平坦な、メリハリの無いのっぺりした表記法が用いられていた、ということです。
しかし、この無味乾燥な表記法こそが、時として、作者すら想像しなかった解釈を読者にもたらします。
それは「読者の側の創造」<読み替え>と言っていいのかもしれませんし、
ひょっとして作者が<隠しつつ伝えようとした>「暗号」なのかもしれません。


また、接続助詞の「て」と、打消の接続助詞「で」=「ず」+「て」が、
ともに「て」と表記されるなど、
<「同一の文字列」が、否定と肯定の正反対の意味に解釈しうる場合がある>
という、
<極端なまでの両義性>
を、日本古語は持っています。


さらに、和歌は、「五七五七七」の計31文字という極端に厳しい字数制限を有する、言わば、<究極の定型詩>であり、
この厳しい字数制限が、記述の省略を余儀なくさせ、それが解釈の多様性に拍車をかけます。

ちなみに、「句割れ」や「句跨ぎ」に見られる、文字列の区切り位置の自由度も、
「五七五七七」という区切り位置の縛りから、「暗号」としての和歌の解釈を、さらに解放します。


また、日本語は膠着語であり、もともと語順に対する感覚が緩く、付属語が抜け落ちた場合でも、語順に自由度があります。

上記のような理由で、日本古典文学は、他の言語に比べて解釈の自由度が大きく、文字列を読み進むごとに、区切り位置や濁点の有無まで含めて、
<立ち止まって、コトバの意味を再考する姿勢>
を読み手に余儀なくします。
そして、それが、解釈の多様性を、爆発的に増やします。


ところで、
「思想」書とは対照的に、「文学」作品では、同一の言葉でも、それが用いられる場所によって、必ずしも意味が同じとは限りません。

紫式部の生きた、道長の恐怖政治のただ中では、コトバに、通常の意味とは異なる意味を背負わせて、真意を伝える他なかった、と仮にするならば、
同一の言葉でも、状況により別の意味を隠しているかもしれない、と考えるのは、むしろ自然な発想でしょう。

上記のような背景の中で、
<コトバの象徴機能の原点に立ち返り>
<コトバの意味を、日常の文脈から解き放ち>
<象徴機能>や<連想作用>によって、言葉が有機的・立体的に連結されたネットワークを探索し、
コトバの指し示す<内実>について、一切の先入見を取り払って、我々は古典和歌の解釈を試みました。


そして、「理系学生が読む古典和歌」では、例えば、
(ア)「橘」という言葉が、
(ア1)そのものズバリの植物を指すのか、
(ア2)「昔の人の袖の香ぞする」という古歌を背景として、<別れた恋人の思い出>といった類の含意を帯びているのか、それとも、
(ア3)「橘鳥」<ホトトギス>という縁語を通じて、<托卵><養子>というニュアンスを暗示するのか、はたまた、
(ア4)「橘氏」という<他氏排斥の犠牲者>へと読者の連想を誘い、それを鎮魂あるいは告発することを意図したものなのか、
、、、
というような、様々な可能性を考えながら、我々は古典和歌の解釈の選択肢を模索しました。

それは、<文章の最も単純な構成要素>である「単語」「文字」の<意味><内実>にこだわる、ということでもありました。


また、それは、
「源氏物語」によって、紫式部が<隠しつつ伝えようとした>「真意」の探索であると同時に、
紫式部の「脳内超絶言語空間」に思いを馳せる、果てしない旅でもありました。

 



和歌にまつわる花鳥風月の自然科学や、源氏物語の背景となった歴史上の出来事を、解釈のために学んだことだけでなく、
<先入見を排して、コトバの意味を探り、それを一つ一つ積み上げて解釈を織り上げていく>作業を、ここで皆さんと一緒に繰り返した経験は、
<文章の最も単純な構成要素である、コトバにこだわる>姿勢の涵養に、わずかながらでも資するものとなり、
それは、古典和歌に限らず、他の場所でも、役に立つ機会が、恐らくあるのだろう、と私は期待しています。


その一例として、
「地に足のついた話の進め方」では、
講談社メチエの「イエスと親鸞」を題材として、
「悟り」「極悪人の自覚」というコトバの意味を、一歩一歩追跡し、
著者の主張の論理破綻を明るみに出しました。


「文学作品」も「思想書」も、
<幸か不幸か>、同じコトバによって編まれています。
そして、人間の意識も、やはりコトバによって構成される部分が、少なくないのでしょう。

それが「幸」なのか「不幸」なのかはさておき、
<コトバにこだわる>姿勢は、
当然ながら、様々なものごとを考える際の、土台となることでしょう。

 

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今までと同様、上記のような古典文学の解釈の探索を、自分の興味の追求のために、今後も引き続き行って行きたいと私は感じますが、
それだけでなく、
特に若い世代、しかも普段あまりなじみのない理系学生や、また、諸外国の人々に、我が国の古典文学のこうした魅力を、広く知ってもらうことも、私の願いの一つです。あるいは、世のお母さんたちにも。


そのためには、
紙媒体や電子媒体における、文字情報としての出版・広報だけでなく、
例えば、和歌の両義性を活かした場面描写を盛り込んだ映像作品や、
また、解釈の多義性によってストーリーラインが分枝する、二次創作的なゲームなど、
言わば、メディア・ミックス的に、「源氏物語」の世界観を人々に提示し、あるいはその世界の中に観衆を巻き込み、引きずり込んで、
より多くの人々と、日本古典文学や、紫式部の「脳内超絶言語空間」への没入感覚を共有し得るような、
総合的な創作活動・教育活動・広報活動などの展開に関わっていきたい、と私は考えています。

 

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(注445517):<二重の側面を持つ、一人の生身の人間>

2021-05-04 03:41:17 | (注) その他

 

 

(注445517):<二重の側面を持つ、一人の生身の人間>

「ニュートンはクリスチャンだった。だから科学と宗教は両立する」
「ヒトラーはクリスチャンだった。だからホロコーストとキリスト教は両立する」
という命題は真か偽か?

 

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「地に足のついた話の進め方」で述べたように、
仮にガリレオやダーウィンが、彼らの生活、あるいは人生において、キリスト教を、あるいはイエスの奇跡を信じる瞬間があったとしても、それは単に、その瞬間は彼らは「科学的」ではない、「科学者」ではない、というだけの話です。

 

ひとりの人間に様々な側面があることは、皆さんも自分自身のこととして実感するでしょう。
それは、ことさら「多重人格者」でなくても、ごく普通に経験することです。
普段はとても穏やかな人が、それこそ「人が変わったように」感情的になる時がある、なんてことも珍しい話ではありません。
それと同様に、
いわゆる「科学者」「研究者」という<職業><肩書き>を冠している人でも、日常生活、あるいは人生において、「非科学的」「宗教的」になる瞬間は山ほどあります。

従って、
「ニュートン、いやガリレオすら神を信じていた」
「ダーウィンは敬虔なクリスチャンだった」
<だから科学と宗教は両立する>
という詭弁(論点のすりかえ)に、皆さんもひっかかってはいけません。


****参照:「地に足のついた話の進め方」


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そもそも、
(A)「ニュートンはクリスチャンだった。だから科学と宗教は両立する」
と言う単純な論法が成立するなら、

(B)「ヒトラーはクリスチャンだった。だからホロコーストとキリスト教は両立する」
という命題も「真」になるでしょう。

まあ、実際、大航海時代に、南米の未開部族の人々を一掃したのも、オーストラリア大陸の数多くの動物を絶滅させたのも、
他ならぬ「キリスト教徒」だったわけですから、(B)の命題は、必ずしも「偽」とは言い切れないのかもしれませんが。。。。


太宰治が「駆け込み訴え」で、<ユダの報われぬ愛と苦悩>を描いたのは1940年、大戦(1941年12月開戦)の直前です。
その同じ年、ドイツでナチスの宣伝を担っていたゲッペルスは、全く反対に、「さまよえるユダヤ人」という<反ユダヤ>のプロパガンダ映画を作りました。

***「ホロコースト」の「正当化」****************
ナチスの宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスは「さまよえるユダヤ人」(1940年)という反ユダヤ主義のプロパガンダ映画を製作した。
ドキュメンタリー形式によって、さすらう文化的寄生虫であることが、ユダヤ人の永遠の人種的特質である、と強調している。
「イエスを売り渡したユダ」と「さまよえるユダヤ人」の二人が、「神殺しのユダヤ民族」と一体となって、ホロコーストの「正当化」が完成したのである。
(竹内節子「ユダ 烙印された負の符号の心性史」p.112)
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仮に、太宰治の「駆け込み訴え」が、ヨーロッパですぐさま翻訳・出版・広告されていれば、あのような悲劇は、多少なりとも緩和されていたことでしょう。
そして、新約聖書の平板的、というより、強烈な意図的バイアスを経て築かれたユダ解釈がなければ、
やはりあれ程の悲劇は、そもそも起こらなかったでしょう。

何はともあれ、ネット時代に生きる我々は、情報統制が支配的だった時代と比べて、ラッキーであることは間違いないのでしょう。
ちなみに、コトの良し悪しはあくまで抜きにして、
いわゆる「外典」に当たる、「ユダの福音書」が日の目を見たのは、1970年代になってようやくのことでした。


****(注4437)参照

 

ちなみに、大航海時代には、現地での収奪を正当化するために、
「教化」「キリスト教」は、むしろ前面に押し出されて、未開の地が蹂躙され続けたという史実を、知っておいて損は無いでしょう。

興味のある方は、「ミッション」という映画を見てみて下さい。

 

***「政治家に利用される<全能>の神」?? *****************
このような史実に対して、
「政治が宗教を利用しただけだ」
「教会が神を利用しただけだ」
というような反論がしばしば聞かれます。
しかし、
「政治家に利用される神」って、そもそも<全能>と言えるのでしょうか?
もし全能であれば、「オレ様の名を勝手にかたるな」と、時の政府に対して、直ちに厳罰を与えたのではないでしょうか。
なぜ、ユダヤ人が六百万人(?)も殺される前に、神はヒトラーを罰しなかったのでしょうか。
「自然科学との両立」云々はこの際抜きにして、
その神を<全能>と形容することに、皆さんは違和感を感じませんか?
そんな神を<全能>と形容して崇める人たちが、米国中南部の保守的な州やイスラム諸国で、「進化論」よりも「創造神話」が正しいと、子供たちに教えているのです。親がそうした傾向を持つ場合、子供が<自力で>それに抵抗するのは実際問題として非常に困難である、という事実を肝に銘じておくことは、とても大切です。
ちなみに、「反ユダヤ」という点で、キリスト教原理主義とイスラム教原理主義が通底することは、覚えておいて損は無いでしょう。
それにしても、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がともに「旧約聖書」を聖典としている、というのは皮肉な話です。
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ベトナムに立てたアメリカの傀儡政権のゴ・ジン・ジェム大統領は、敬虔なクリスチャンで通っていました。
彼は汚職にまみれ、アメリカからの援助物資を大量に横領し、また仏教徒を弾圧しました。

(C)「ゴ・ジン・ジェムは敬虔なクリスチャンだった。だから汚職とキリスト教は両立する」


そもそも、十字軍のような異教徒殺戮や魔女裁判などの異端迫害は、むしろキリスト教会の十八番です。

(D)「キリスト教と異教徒殺戮は両立する」


「よきサマリア人のたとえ」からすると、異端迫害はむしろイエスの本意とは逆であるようにも思えます。

(E)「イエスの教えとキリスト教とは両立しない」
、、、、

例を挙げ始めるとキリが無いので、とりあえずここで一旦おきましょう。

 

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さて、「神」という言葉を、通常の一神教でみられるような、<自然の摂理に反する奇跡すら起こせる全能者>という意味で用いるとして、

ガリレオは無神論者なのでしょうか。それとも有神論者なのでしょうか。
答えは、
「意図的に変えた実験条件以外の条件の影響は無視できるものとみなして自然科学の研究や実験科学の教育を行う時は無神論者、
奇跡を望んでつい神頼みしてしまうような瞬間においては有神論者、
という二重の側面をもつ、一人の生身の人間である」
です。


ふりかえって、
あなたは無神論者なのでしょうか。それとも有神論者なのでしょうか。
答えは、
「意図的に変えた実験条件以外の条件の影響は無視できるものとみなして自然科学の研究や実験科学の教育を行う時は無神論者、
奇跡を望んでつい神頼みしてしまうような瞬間においては有神論者、
という二重の側面をもつ、一人の生身の人間である」
です。


「利己的な遺伝子」の著者、リチャード・ドーキンスは、その過激なまでの徹底的な宗教批判で知られています。
では、
ドーキンスは無神論者なのでしょうか。それとも有神論者なのでしょうか。
答えは、
「意図的に変えた実験条件以外の条件の影響は無視できるものとみなして自然科学の研究や実験科学の教育を行う時は無神論者、
奇跡を望んでつい神頼みしてしまうような瞬間においては有神論者、
という二重の側面をもつ、一人の生身の人間である」
です。


では、アインシュタインは、、、以下ry

 


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***注(868)参照


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****(注17)参照


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ところで、
「科学と全能の神の存在は両立するか」ということを考えるに当って、
上記の例では、「科学」と言うと、やや抽象的でイメージしづらいので、「実験」という、より具体的な別の言葉を援用して、議論の筋道を出来るだけ分かりやすくすることを試みました。
このように、問いの立て方を少し変えると、急に問題の本質がクリアーに見えてくることがあります。

詳細は「地に足のついた話の進め方」のファイルをご参照下さい。


****参照:「地に足のついた話の進め方」

 

 

 


(注448876):「A nice girl...」「(政治は)女のまねぶべきことにしあらねば」

2021-05-01 20:00:43 | (注) その他

 

(注448876):「A nice girl...」「(政治は)女のまねぶべきことにしあらねば」


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この式部丞といふ人の、童にて文読みはべりし時、聞きならひつつ、かの人は遅う読みとり、忘るる所をも、あやしきまでぞ敏く侍りしかば、文に心入れたる親は、「口惜しう、男子にて持たぬこそ幸なかりけれ」
とぞ、常に歎かれ侍りし。
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紫式部は、京(みやこ)に聞こえる漢詩の名手であった父為時に幼少期から教えを受けていました。
兄弟をはるかに凌ぐその才覚は、父親を喜ばせる、を通り越して、逆に嘆かせた程です。
<男に生まれていてくれたら>と。

その原体験は、後宮に伺候するはるか以前の幼少期から、彼女のsex/genderに対する意識を醸成したことでしょう。

ちなみに、紫式部は道長のお手つき召人(愛人)であったと考える人もいます。(参考:大塚ひかり「面白いほどよく分かる源氏物語」)
また、夫の宣孝は、紫式部より二十も年上で、既に複数の妻子がおり、自分と同じくらいの年齢の子もいました。
宣孝との結婚も、当然正妻として迎えられたわけではありません。

圧倒的な学才に秀でながら、そのような半生の中で、彼女のsex/genderに対する意識は、ますます先鋭化されていったとしても不思議はありません。
もちろんそれを公言することはできませんが。

<なぜ私は女に生まれたのだろう>
<女性の立場が男性とこれほど違うのはなぜだろう>
<私も男に生まれたかった>
、、、

ちなみに、紫式部は、親友の小少将の君と同性愛の関係にあった、と想像する人もいます。(大塚ひかり「面白いほどよく分かる源氏物語」)


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「源氏物語」では、光源氏の実の息子の夕霧は、源氏の意向により、六位に落とされたことで、勉学に発奮して政局に左右されない実力をつけ、大臣の地位まで上り詰めました。

この時代、貴族(殿上人)の子弟は五位などの高位からキャリアを始められる優遇制度がありました。
これを「蔭位(おんい)の制」と言います。

父親の官位が子の将来に大いに影響してしまう時代だったわけですが、
その父親の官位にしてからが、さらにその親(祖父)の官位や家格によって、やはり大方決まってしまいます。
つまり、上級貴族の出でなければ、自らの立身出世に関して、相当に割を食う社会であったわけです。

平安貴族社会は、上記のような男女差別だけでなく、そのような差別が常態化していました。
本人の実力よりも出身(家柄)が幅を利かす時代ですから、
内裏には、家柄だけはよくても能力に乏しい人々が、少なからず闊歩していたことでしょう。
ちなみに、「蜻蛉日記」の作者(藤原道綱母)は、紫式部より数十年先輩に当たり、道長の父親、最上級貴族の兼家の第二夫人でした。
しかし、彼女の息子の道綱は、当時の朝廷のご意見番だった実資の個人的日記である「小右記」の中で、<無駄飯食いとはあれのこと>などと評されています。
また、顕光は右大臣でありながら、<至愚のまた至愚>と言われるほど無能で、酒癖の悪さも有名でした。


内裏とは、平安京の中で、朝廷(政府)本部のある区画であり、今で言えば永田町(国会:立法府)や霞ヶ関(官庁街:行政府)に当たります。
幸運にも合理主義・民主主義の浸透した現代日本では、官僚になるには、門地性別に関わりなく、誰もが厳しい試験に合格せねばなりませんから、納税者wwとしては、まあ納得が行きますね。
ちなみにこうした試験制度は、もともと日本独自のものではなく、<難関>の代名詞ともなっている、中国の「科挙」を真似て日本が導入したものです。


さて、上記のように、
平等社会・実力主義の現代とは異なり、紫式部の生きた平安貴族社会は、実力よりも身分や家柄がモノを言う時代でした。
紫式部は、そうした社会に疑問や違和感を感じていたからこそ、源氏の息子に対する教育方針を、
<五位からキャリアを始められたはずの夕霧を、あえて六位に落として、大学寮(官僚養成機関)でみっちり学識を鍛えてから社会に出す>
という厳しい<実力主義>に設定したのでしょう。

その辺りにも、紫式部の「理」を求める姿が垣間見えるように、私には思えます。


詳細は下記和歌のファイルをご参照下さい。


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(夕霧37).ほととぎす君につてなんふるさとの花橘は今ぞさかりと
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「(政治は)女のまねぶべきことにしあらねば」<政治のことは女が語るべきことではないので>

と語り部女房に言わせた紫式部、「女手」<ひらがな>の書き手であった紫式部自身が、他ならぬその「女手」の特殊性を逆手にとって、男よりはるかに過激に平安貴族社会を、しかも道長の直近、宮中の最奥部から攻撃していた、と私は思います。
「内部崩壊」「自壊」につながりかねないその<内側から>の攻撃ほど、本質的で、相手にとって始末に負えない厄介な敵はありません。「がん細胞」を殺すのが困難なのは、それが外部由来の病原体ではなく、他ならぬ<自己>だからです。
紫式部日記には、書き上げたばかりの源氏物語が、何者か(道長というのが定説です)によって持ち去られたことが記されています。

日本古典文学の精髄ともいえる「ひらがな」。
源氏物語は、「文学」<女手>から「社会」<男性社会><男手>への宣戦布告だったのかもしれません。
仮に私がベトナムやフィリピンやインドや中国の人間であったなら、自国の古典文学に<現代文学を凌ぎ得るほどの>原理的価値を感じなかったでしょう(失礼)し、それゆえ教育から大幅に削減することを望んだでしょう。国力(経済的な余裕)がないならなおさらです。

わが国には経済力もあり、かつこのような価値ある歴史遺産があるにも関わらず、「古文嫌い」にさせてしまうことは、とにかく本当に本当にもったいないと感じるので、せめてこれを改善するような施策を、私は公教育に強く望んでいます。
姑息な手かもしれませんが、必修科目ではなく、選択科目の枠内なら、思い切った改革が出来るようにも思えます。
今回の一連の「読み替え」の試みが、ごく僅かでもその雰囲気醸成に資するものとなることを、私は願っています。

 

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***「A nice girl...」***********************

A nice girl doesn't force her opinions on people.
A nice girl smiles and waves and says "thank you."
I became a person everyone wanted me to be...

I had to deconstruct an entire belief system.
Toss it out and reject it !
...

Taylor Swift broke her silence on politics.
She's using her voice in a whole new way...

(Taylor Swift 「Miss Americana」)
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