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(夕霧33).いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢さめてとか言ひしひとこと
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この本は「教科書」「参考書」の類ではありません。
皆さんに「教える」のではなく、どちらかと言うと、皆さんと「一緒に考える」ことを企図して書かれた本です。
また、私の主観も随所に入っていますが、私はこの方面の専門家でもありません。
ですから、
<効率よく知識を仕入れる><勉強のトクになるかも>
などとは、間違っても思わないようにして下さい。
いわゆる「学習」「勉強」には、むしろマイナスに働くでしょう。
上記のことを十分ご了解の上で、それでもいい、という人だけ読んでみて下さい。
ただし、
教科書などに採用されている、標準的な解釈の路線に沿った訳例は、参考として必ず示してあり、
その場合、訳文の文頭には、「@」の記号が付けてあります。
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時々「(注)参照」とありますが、それは末尾の(注)をご参照下さい。
ただし、結構長い(注)もあり、また脱線も多いので、最初は読み飛ばして、本文を読み終えたのちに、振り返って読む方がいいかもしれません。
なお、(注)の配列順序はバラバラなので、(注)を見るときは「検索」で飛んで下さい。
あちこちページを見返さなくてもいいように、ダブる内容でも、その場その場で、出来る限り繰り返しを厭わずに書きました。
その分、通して読むとクドくなっていますので、読んでいて見覚えのある内容だったら、斜め読みで進んで下さい。
電子ファイルだと、余りページ数を気にしなくて済むのがいいですね。
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(夕霧33).いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢さめてとか言ひしひとこと‐6.txt
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要旨:
夕霧から落葉宮への恋歌を、
亡夫柏木の不義が暗示されているという観点から解釈した。
また、「おどろ」<雷鳴の擬音語>というコトバから連想される、<道真公の天罰>を背景とした解釈も、合わせて試みた。
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目次:
(夕霧33).いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢さめてとか言ひしひとこと
メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
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では、始めましょう。
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(夕霧33).いつとかはおどろかすべき明けぬ夜の夢さめてとか言ひしひとこと
(夕霧)「上より落つる」
直前の地の文:
「夜明け方近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに嘆き明かして、、、」
夕霧と北の方(雲井の雁)は、同じ床に入ったまま何も言わず、互いに背を向け合ったまま、ため息をつきつきして夜を明かしました。
この歌はそんな雲井の雁の脇の枕元で詠んだものです。
「おどろかす(驚かす)」<愕かせる><眼を覚まさせる><夢からさます><気を引く><注意を促す><(思いがけないところに)訪問する、便りする>
「おどろく(驚く)」<眼を覚ます><愕く>
(夕霧33)A.
明けない夜の夢が覚めた時に、とかおっしゃっていた一言を、いつのことと思ってあなたに声をかけ起こしたらよいのでしょう。
今は、かくあさましき夢の世を、すこしも思ひさますをりあらばなん、、、
柏木を亡くしたばかりの未亡人落葉宮は、昨晩そう言って夕霧を追い返しました。
「あさまし」<意外だ><驚きあきれる><お話にならない><考えが足りない><あさはかだ><情けない><興ざめだ><みすぼらしい><さもしい><卑劣だ>
「かくあさましき夢」<思いもよらなかった(柏木の早世で)、夢を見ているような気分>
<今は(私が)こうして思いもよらぬ悲しい夢をみておりますような心地ですので、少しでもその夢が覚める折りがありましたら、、、>
歌に戻ると、
「おどろかす(驚かす)」には、<(思いがけないところに)訪問する、便りをする>の意味があります。
「おどろかす」は、<隣で寝ている雲井の雁を起す>ではなく、<落葉宮を訪ねる>のようです。
柏木の葬儀を済ませたばかりなのに、夕霧もせっかちなものです。
@(夕霧33)B.
明けない夜の夢が覚めた時に、とかおっしゃっていた一言を、いつのことと思ってあなたを訪ねたらよいのでしょう。
いとこまやかに書きて、うち置きてうそぶきたまふ。忍びたまへど、漏りて聞きつけらる。
<筆を置いて口ずさんでいらっしゃる。声をひそめていらっしゃるが、漏れ聞えてくる。>
夫を亡くしたばかりの未亡人に、隣に寝ている奥さんの脇で懸想文を書くのみならず、それを口ずさむとは。。。
さすがは源氏の血を引く夕霧だけのことはあります。
もうちょっと考えたれや、と思うのは私だけでしょうか。
「おどろかす」の両義性を利用して、カモフラージュしたつもりかも知れませんが、むろん本音はバレバレです。
雲井の雁は「いと心づきなし」<気にくわない>と思っています。
さきほどの落葉宮の言葉も、
「あさまし」<考えが足りない><あさはかだ><情けない><興ざめだ><みすぼらしい><さもしい><卑劣だ>
<今は(あなたが)こうして(夫を亡くしたばかりの私に言い寄るなど)思いもよらぬさもしい夢をみておりますような感じですので、少しでもその夢が覚める折りがありましたら、、、>
というのが本音でしょう。
大抵の本では、@(夕霧33)Bの路線に沿った訳文しか載せられていませんが、
さすがに夕霧も、奥さんのすぐ脇で口ずさむからには、何らかの言い逃れの道を残しておいたのではないでしょうか。
そのような想定の下で、@(夕霧33)Bの<ホンネ>を覆い隠す、<タテマエ>の訳文を試しに考えてみたのが、(夕霧33)Aです。
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歌の直後に夕霧の口ずさんだ言葉を考えて見ましょう。
「上より落つる。」
「いかでよからむ」
など口すさびたまへり。
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古注による引き歌:
(引き歌1).いかにしていかによからむ 小野山の<上より落つる>音なしの滝 (出典不明)
「いかによからむ(如何に良からむ)」<どのようにしたら良いのだろうか>
@(引き歌1)A.(小野山の滝が上から落ちても音がしないように)満足な返事が無いので、どうして良いか分らない。
(参考:小学館「新編日本古典文学全集 源氏物語4」)
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「小野山」は、<篠(細い竹)の名所>で、「小野の篠原」は歌枕として用いられます。
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(夕霧31).里遠み小野の篠原わけて来てわれもしかこそ声も惜しまね
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「竹」は源氏物語の中で、しばしば<柏木>を暗示します。
「よ(節)」は竹の縁語です。
引き歌に繰り返し出てくる「いか」は、
「いかいか」<おぎゃあおぎゃあ><赤子の泣き声の擬音語><産声>
を連想させます。
それはまた、三宮が待たずに出家した「五十日(いか)の儀」をも想起させます。
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(落葉宮6).朝夕になく音をたつる小野山は絶えぬ涙や音なしの滝
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「いかによからむ(如何に良からむ)」<どのようにしたら良いのだろうか>
「いか」<おぎゃあ>
「よ(節)」<竹の節>
「かる(刈る)」<刈り取る>
これらのイメージを重ねて、地の文を訳してみましょう。
「いかに節刈らむ」
(地の文)B.
「いか」<おぎゃあ>の声が聞こえたが、
どのように「よ(節)」<竹の節>を刈り取ればいいのか?
この地の文は「竹取物語」の「かぐや姫」を連想させます。
これは、「竹取の翁」の呟きのようでもあります。
「よ(節)」<竹の子><ワケアリの子>
ある日突然、どこかから翁が家に連れ帰って来た「かぐや姫」は<隠し子>を連想させます。
<(正妻が家にいるが)、どうやって外から子をこさえようか?>
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「とか」を「とが」とし、
「とが(咎、科)」<咎><欠点><過ち><罪>
としてみましょう。
濁点を打つ習慣のなかった当時、これらはともに「とか」と表記されました。
「おどろ(荊、棘)」<イバラなど、棘のある木><イバラの繁る場所><髪が乱れている様>
「とか言ひしひとこと」を
「咎言ひし人、"子と"」<"子(が出来たなど)と"罪なことを言っていた人(柏木)>
としてみましょう。
「あく(明く)」は「あぐ(上ぐ)」を連想させます。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「あく」と表記されました。
「明く」カ行下二段活用<明ける><夜が明ける><年、月、日が改まる>
「あぐ(上ぐ、挙ぐ、揚ぐ)」ガ行下二段活用<上げる><赤子をとり上げる><子を産ませる><助産する><成し遂げる><し終える><(女子の成人儀式として)垂らしていた髪を結い上げる><(近世語)遊女を呼んで遊興する><没収する><奪い取る> (旺文社「古語辞典」など)
今でも「御子を上げる」という言い方が残っていますよね。
「さめて(覚めて)」を「さめで(覚めで)」としてみましょう。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「さめて」と表記されました。
「ゆめ(夢)」<悪夢>としてみましょう。
「ゆめ」は打消を伴い、<決して~ない><全く~ない>という意味にもなります。
驚かす 明けぬ 夜 覚めて 一言
いつとかはおどろかすべき あけぬ よ の 夢 さめて とか言ひしひと こと
とが 荊 科す あげぬ 節 さめで とが 人 "子と"
咎 上げぬ 世 覚めで 咎
挙げぬ 代
(夕霧33)C.
いつ咎(罪)は、荊(の刑)を科すべきなのか。
明けない夜の悪夢は、決して覚めないので。
"子と"<子が出来たと>罪なことを言った人を。
ちなみに、当時の分娩は「座産」でした。
「座産」(座位または立位)では、しばしば、天井から綱を垂らし、妊婦はそれにつかまっていきんで子を産みます。
この場合、赤子は文字通り<産まれ落ちる>ことになります。
<産まれ落ちる>赤子を<取り上げる>意味から、
「(赤子を)取り上げる」<助産する>という言葉が生じました。
この言葉は今でも残っていますよね。
「上より落つる。」
<(子が)上から(生まれ)落ちてきた。>
落葉宮の夫柏木は落葉宮の妹の三宮に懸想し、夕霧は落葉宮に懸想する。
そんな三角関係のねじれた連鎖が、妻である雲居の雁への夕霧のとりなしの言葉に、暗示されているようにも見えます。
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ちなみに、「小野の篠原」などというように、小野は篠<細い竹の総称>の名所であり、歌枕となっています。
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浅茅生の小野の篠原しのぶれど あまりてなどか人の恋しき (源等)
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「しの(篠)」<竹><笹><群生する細い竹><篠竹>
「しの(篠)」は「しのぶ(忍ぶ、偲ぶ)」との掛詞としても常用されます。
「しのぶ(忍ぶ、偲ぶ)」バ行上二段他動詞<じっとこらえる><堪える><包み隠す><秘密にする><人目を避ける>
「しのぶ(偲ぶ、忍ぶ)」バ行四段他動詞<思い慕う><恋い慕う><懐かしむ><思いを馳せる><賞美する>
柏木の<落胤><不義の子>薫は、しばしば「竹」とともに登場します。
***「竹」<ワケアリの子>***************
(光源氏196).うきふしも忘れずながらくれ竹のこは棄てがたきものにぞありける
(柏木13).笛竹に吹きよる風のことならば末の世長き音に伝へなむ
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「おとなしのたき」の「しのたき」は「しのたけ」<篠竹>をも連想させることは興味を引きます。
「音(おと)」は「音(ね)」を通じて「ね(根)」を連想させます。
「根(ね)」は<祖先><子孫><血筋>の例えとして常用されることも興味を引きます。
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「かる(刈る)」ラ行四段<刈る><刈り取る>
「かる(枯る)」ラ行下二段<枯れる>
「かる(離る)」ラ行下二段<離れる>
「かる(借る)」ラ行四段<借りる>
「かる(着る)」ラ行四段上代東国語<着る>
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(万葉集20-4431).笹が葉のさやぐ霜夜に七重かる(着る) 衣にませる子ろが膚(はだ)はも
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源氏物語は「暗示」に満ちあふれています。
暗示は、明示的に描かれる場面より以前に出てくれば、「伏線」となり、後に出てくれば「既視感」によるリフレイン、あるいは意識下への「刷り込み」(サブリミナル効果)ということになるのでしょう。
それは、源氏と藤壺宮の密通が、柏木と三宮の密通の前奏曲になっている、というような、大きな流れのレベルだけではありません。
それよりはるかに小さい、細々(こまごま)とした場面の、数行のレベルで、随所に「伏線」と「既視感」とが繰り返されます。
言葉に込められた「象徴」を極限まで味わう、という意味で、源氏物語は、「物語」では無く「詩」であると思います。
源氏物語を、論説文や機械の取扱説明書のように、<あらすじ><起承転結><論理>だけ読むことは、この「暗示の文学」の本質とかけ離れた鑑賞姿勢とならざるを得ないと私は感じます。
文学作品をジャンルに分けるとき、「散文と韻文」という分け方があります。また、「小説と詩」という分類もあります。
これらの定義は考える人の数だけあるので、どれが正しいと言うものではありません。
物語や小説は、出来事を描写し、他の人に伝達することにまず主眼が置かれます。
そのため、ひとつの言葉が指し示す内容を出来るだけそぎ落とし、一対一対応の明示的な記号として言葉を用いる傾向にあります。
たとえば、推理小説では、事件現場にナイフと柿が落ちていたとき、それらはそのものズバリを指すのが普通です。
「ナイフ」が<鉄文明>の象徴である、とか「柿」は<純愛>の暗喩だ、などということはまずありません。
****(注774012)参照
物語や小説がそぎ落としている、こうした言葉の象徴機能を、逆に目一杯働かせて、創作や鑑賞の対象とするとき、それが「詩」だ、と定義する立場があります。
この立場から言えば、<文章の長短>や、<韻を踏んでいるかどうか>は、「詩」であるか否かには、全く関係がありません。
逆に言うと、普通は「小説」と見なされている作品を読むに当たっても、ある言葉に対して、その指示する物、象徴する内容を極限まで押し広げ、突き詰めて考えるとき、それは「詩」として読んでいる、ということになります。
たとえ三行の詩でも、言葉の意味は慣習そのままに、出来事の経緯や因果関係だけを読み取るなら、コトの良し悪しは抜きにして、それは「小説」や「物語」や「家電のトリセツ」(取扱説明書)を読んでいるのと同じですし、音の流れの美しさを楽しんでいるだけなら、「詩」ではなく「音楽」を聴いている、歌っている、ということになります。
「引き歌」「本歌どり」という発想も、言葉の象徴する内容を、普通よりも奥行きをもたせるためのものです。
たとえば、「昔の人の袖の香ぞする」という古歌を背景「引き歌」として用いることによって、「橘」という言葉だけで<別れた恋人の思い出>などのニュアンスを表すことができます。<少ない文字数で歌の内容に幅や奥行きを持たせる>このような工夫がパターン化した技巧が「本歌どり」ですが、これは<真意をあからさまに表現しない>という平安貴族の美学に合致するものでもあります。
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***「連想」「イメージ連鎖」の解釈の極端な例 ***************************
(万葉集2-158).山振(やまぶき)の立ちよそひたる山清水 酌みに行かめど道の知らなく (高市皇子)
この歌では、
「山振」の花の黄色の「黄」と
「清水」の「水」
が合体して「黄泉(よみ)の国」<あの世>を表している(小学館「新編日本古典文学全集、万葉集1」など)
というような、アクロバティックともいえるイメージ連結による解釈が一般に認められています。
「黄」という文字も「泉」という文字も、この歌には含まれていないにも拘らず。
また、「山吹」と「清水」とが別々の単語であるにも拘らず。
もう、<何でもあり><俺のピストルが法律だ>の世界ですよね。
ことほど左様に、古人の言語空間は、現代人の想像の及びもつかない、豊かな連想で結ばれた世界であった、ということなのかもしれません。
ちなみに、どんな権威が是認していようと、私自身の感覚では、この解釈は、さすがに飛躍しすぎという気がします。
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「橘」から橘の木に宿るとされる「橘鳥」<ホトトギス>を連想させ、<魂迎え鳥><死出の田長><托卵>などといった、<別れた恋人の思い出>以外のニュアンスを含ませたり、あるいは橘の実には種の無い房(雄性不稔など)があることから、<子なし>を想起させて<托卵>と響かせることも、ひょっとすると可能なのかもしれません。
これがムベなら<種なし>なんて見たこと無いですもんね。あって欲しいけど。
ちなみに西欧ではザクロは<多産>の象徴とされています。
さらに、「いか」を<産声><赤子>、「おどろ」を<落雷><道真公の天罰>、「みそひとし(三十一字)」を<三十一才の死><一条天皇>などとするように、言葉の象徴機能を、小説や物語、あるいは日常生活の文脈から切り離して、ゼロベースで自由に言葉を組み立てることが詩の創作であり、またそれを味わうことが詩の鑑賞だ、とするのも、上で述べたような詩のとらえ方に沿うものです。
****参照:(注735521):「イチジク」<隠蔽>
上記のような意味で、私は、源氏物語は「詩」として読むのが適切な鑑賞姿勢であると考えます。
ここで「適切な」と言ったのは、
<作者が読み手に伝えようと腐心しながら表現したであろう何かを、出来る限りもらさず受け取る>
と言う意味です。
これも個人の好みであり、この態度が正しいと言うことではありません。
みなさんも自分に最も合っていると感じられる鑑賞姿勢で作品に臨むのが一番だと思います。
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<詩>のように、言葉の意味を、日常生活のしがらみ、手垢のついた語感から解き放ち、意味生成の可能性を極限まで押し広げることによって、紫式部は公然とは言えない、声なき叫びを文章の裏に込め、立場の弱い民衆に、「私だけじゃないんだ」と慰めを与え、共感を呼び覚まそうとした、あるいは怨霊を鎮魂しようとしたのだろう、と私は思います。
歌の仄めかす意味を読み手が解釈する助けとして、あるいは、スポンサー(藤原道長)への義理立てとして、そして、作品を書いた真の意図を隠す隠れ蓑として、つまりは単なる<手段>として、紫式部は物語のあらすじを作り上げた過ぎない、と私は思います。
(ちなみに、紙も高価なものであったことを考えると、源氏物語のような長大な作品は、趣味として片手間で書けるものではありません。)
このように、源氏物語は、通常の小説とは全く異なる動機で創作されているため、当然ながら、通常とは全く異なる、いわば「実験小説」の様相を呈しています。
文体や使用語彙が各帖で異なったり、場面ごとに様々な人物が登場したり、というように、各帖の間に種々の「断層」が見られるのもその現われなのでしょう。
それぞれの場面で詠まれる和歌の真意を、出来る限り<隠しながら伝える>という、ともすれば空中分解しそうな、相矛盾する極めてアクロバティックな要求を満たすことを最優先した結果として、「全体観」「一貫性」にいささか、断層、ぎこちなさ、ツギハギ感が生じているのだと私は思います。
源氏物語は、いわば、<空中分解>小説、とでも言えるような作品であると感じますが、それは、躍動する言葉を、暴れる言霊をどうにかこうにか閉じ込めた、一触即発の<詩><言葉の爆弾><意味の爆弾>の集合体であると考えれば、むしろ当然の結果なのかもしれません。
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あらかじめ、あらすじ「地の文」の流れがある上に、後から和歌がぽつんぽつんと置かれるように、源氏物語は創作されたのでしょうか。
紫式部が読み手に伝えたい何かがあり、それを伝える和歌がまず作られ、地の文はその間を埋めるスペーサだったのではないでしょうか。
そのスペーサは、言葉足らずな和歌の真意を補うヒントになるのと同時に、和歌の真意を覆い隠すヴェールになるという両義的な働きをします。
実際のテクスト形成過程における、多少の時間的(通時的)前後はあるにしても、最終的な(共時的)構成としてはそう読む方が各場面の断絶や連続をうまく説明できるのではないでしょうか。
おそらく、源氏物語における、「地の文」と「和歌」も、ダイナミックな相互作用を経た結果として現在のテクストの形に落ち着いたのでしょう。しかし、各場面における作者の主張が結晶した中心は「地の文」ではなくあくまで「和歌」であり、その形成過程を考えれば、各場面の間の断層、ツギハギ感や、異常なまでの登場人物の数の多さは、むしろ当然のことと私は感じます。
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地の文は、DNAを保護する核膜のようです。
あるいは、和歌をエキソンとすれば、地の文は、イントロンなのかもしれません。
****参照:(注337781):<遺伝子><核膜><エキソン><イントロン>
DNA(遺伝子)からRNAの転写・翻訳を経てタンパク質は合成され、生体内で様々な用途に用いられます。
DNAの塩基配列の変化は、生成されるタンパク質に影響しますが、タンパク質の変化はDNAの塩基配列には影響しません。
この<一方向性>は「セントラルドグマ」(中心教義)と呼ばれます。
セントラルドグマは、生命の本質<主体>が細胞ではなく遺伝子であることを意味します。
でなければ、そもそもウイルスのような丸裸の遺伝子が増殖するなんてことはありませんよね。
仮に生命の主体が細胞であるなら、遺伝子を欠く細胞(生命体)が増殖しても不思議はないはずですが、現実にはそんなことは起こりません。
遺伝子こそが、次代に伝えられる生命の本質であることが分かったとき、
(ア)「個体や細胞にとって、遺伝子は何のために存在するのか?」
という問いは
(イ)「遺伝子にとって、個体や細胞は何のために存在するのか?」
へと完全に逆転しました。
次世代に伝わる物質<生命>の本体はDNAであり、細胞質基質や核膜やミトコンドリアではないからです。
ミトコンドリアもリボゾームも、ゴルジ体も核膜も、目も胃も頭髪も、指も膝も、、、、全ては、遺伝子を次代に伝えるために作られたのであって、その逆ではありません。
これは、
(カ)<神(外的存在)によって他の生物が人間のために(目的論的に)創造された>という「創世記」を、
(キ)「進化論」は、<動物からヒトは自律的(内発的)に結果論として(無目的に)進化したに過ぎない>として、覆しました。
上記の(ア)から(イ)への発想の転換は、(カ)から(キ)への転換よりも、はるかに本質的なものでしょう。
ウイルスの類は例外として、ヒトであれ他の動物であれ植物であれ、全ての生物は、<遺伝子>とそれを取り巻く<細胞>から出来ているのですから。
それは、「生物学におけるコペルニクス的転回」とでも言うべきパラダイムシフトだった、と私は思います。
我々は現在もその爆風のただ中にいます。「爆風の中にいる」とは、<それを超克する自然観は未だ出ていない>という意味です。
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源氏物語の遺伝子は、和歌であって、地の文ではありません。
地の文は、和歌の真意を保護しつつ、かつ、同世代の人々や次代に伝えるために存在する外被に過ぎません。
我々は、源氏物語を読み解くに当たって、
「あらすじや地の文にとって、和歌は何のために存在するのか?」
という問いを
「和歌にとって、あらすじや地の文は何のために存在するのか?」
へと逆転しなければなりません。
あるいは、和歌がエキソンで、その間を埋めるイントロンが、地の文である、という例えの方が適切かもしれません。
エキソンもイントロンも、ともに「塩基」=「文字」<記号>から構成されます。
ちなみに、「糖-燐酸-塩基」という核酸分子やその構成要素は、体内で様々な用途に用いられますが、
DNAデオキシリボ核酸という分子そのものは、生体内で情報伝達以外の役割は持っていません。
すなわち、代謝をになう<物質>としてではなく<指示媒体><記号><言葉>、使用価値を有する<モノ(商品)>ではなく<交換媒体><貨幣>として働いています。
遺伝子が初めにあって、それが様々な物質を作り、遺伝子を取り囲む細胞を築き上げていったように、
和歌の真意が初めにあって、それを<保護しつつ伝える>ように周りの地の文が出来上がり、最終的に「源氏物語」が出来上がったのだ、と私は思います。
皆さんの手元にある「国語便覧」を見てみてください。
そこには、中古の文学は「和歌が感動の中心」と書いてあるはずです。
我々は、この言葉の意味を、今一度強く意識すべきかもしれません。
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「源氏物語は悪文だ」「和歌が拙い」と評する研究者もおられます。
確かにその通りです。
しかしそれは、そもそも<流麗な文章を書く><上手な歌を詠む>ことなんかハナっから紫式部の眼中に無かったからです。
源氏物語の創作において、そんな<美学><芸術>などというものは、単なる読者サービス、後宮の女房達への話題提供程度の意味しか無かった、と私は思います。
紙も高価であった当時、この大作を書き続けるためには、そうしたサービスも必要であったことは想像に難くありません。
源氏物語は<色恋>や<美学>を伝えるために書かれた、と想像することは、自らの狭隘な世界観、文学観によって、紫式部の創作意図を矮小化する行為に等しいと私は思います。
*** 坂口安吾「日本文化私論」:「美」と<必要> ******************
、、、そうして、小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から付加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。。。。全ては、ただ、必要ということだ。そのほかのどのような旧来の観念も、この必要のやむべからざる生成をはばむ力とは成り得なかった。そうして、ここに、何物にも似ない三つのものが出来上がったのである。
僕の仕事である文学が、全く、それと同じことだ。美しく見せるための一行があってもならぬ。美は、特に美を意識して成された所からは生まれてこない。どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ。ただ「必要」であり、一も二も百も、終始一貫ただ「必要」のみ。おすして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って、一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。。。。。
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源氏物語の「必要」とは、弱者への<慰め><呼びかけ>や、社会に対する<「理」の実現要求>であったと思います。
ただ、厄介なのは、それを公然と主張できる<合理的な>社会では無かったため、それらを<隠しつつ伝える>というアクロバティックな要求が、さらに加わったことです。
それら全てを満たすために、和歌に真意を封じ込め、さらにそれを核として、その周りに様々な織物を紡いで人目を誘い、かつ鎧で固めて保護したのです。
すなわち、字数制限から生ずる両義性を隠れ蓑として、和歌に真意を隠し、地の文によって、読み手を誘いつつ言葉を補いながら真意を伝え、かつそれを守ったのです。
<隠しつつ伝える>ために、ストレートに表現できず、巨視的な構成も、微視的な文体も、のたうちまわった様な作品が出来てしまったのは致し方ないことだと私は思います。
自身の<美意識>と社会的<使命>の板ばさみになって、それでも後者を選んだ紫式部自身が、もっとも苦々しい思いで「源氏物語」を見つめていたことでしょう。
当時は誰も、想像すらしなかったような発想、かつ奥深い内容をもって、千年前にこの実験小説を纏め上げた紫式部の天才と、恐怖政治下の決死の覚悟に、私は驚きを禁じ得ません。
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(近江の君1).草若みひたちの浦のいかが崎いかであひ見んたごの浦浪
(弘徽殿女御の侍女1).ひたちなるするがの海のすまの浦に浪立ち出でよ箱崎の松
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これらは極端な例ですが、これらの歌の真意を<保護しつつ伝える>ために、
「近江の君」は<落胤><隠し子><貴族社会になじめないまれびと>という人物設定を背負わされて登場し、
「弘徽殿女御」は、<嫡子><正当な血統><後宮の中心><貴族社会を体現する人物>として登場したと、紫式部に創作されたのだと、私は思います。
いわば、登場人物は、和歌の<番人>であり<伝令者>なのです。
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****参照:(注227792):「菅原道真」関連年表2
「おどろく(驚く)」<気がつく><目が覚める><驚く><ハッとする>
「おどろおどろし」<激しい><はなはだしい><恐ろしい>
の語源は、<激しい雷の音>だそうです。(荻野文子「マドンナ古文単語230 パワーアップ版」)
「おどろ」<雷の音の擬音語><ゴロゴロ>
「かみなり(雷)」は「かみなり(神鳴り)」とも書きました。
雷鳴は<神の怒りの声>と考えられていました。
和歌の直後の「上より落つる」という夕霧のセリフは意味深です。
****参照:(注446676):「文芸」<鎮魂>
この場面のやり取りを、<鎮魂>の観点から解釈して見ましょう。
(落葉宮).
今は、かくあさましき「夢の世」を、すこしも思ひ覚ます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき。
覚ます 訪ひ
今は、かくあさましき「夢の世」を、すこしも思ひさます折あらばなむ、絶えぬ御とぶらひも聞こえやるべき。
冷ます 弔ひ
「とぶらふ(訪ふ)」<訪問する><訪ねる><問う><訪ねる><質問する><探す><調べる>
「とぶらふ(弔ふ)」<弔う><死を悼む><お悔やみを言う><弔問する><死者の霊を慰める><鎮魂する><冥福を祈る><追善供養する>
923年に、醍醐天皇の最愛の息子、保明皇太子が21歳で没し、道真の怨霊によるとの風説が流れました。
怨霊を鎮めるため、道真の左遷の詔は破棄され、官位も元の右大臣に戻されました。
そのような<追善供養>にも関わらず、2年後の925年には、保明皇太子の息子、次の皇太子慶頼王までも、わずか5歳で死亡してしまいました。
「あさむ」マ行四段<びっくりする><驚きあきれる>
「あさむ(浅む)」マ行四段<侮る><卑しめる><軽んじる>
「あさむ(諌む)」マ行下二段「いさむ(諌む)」の転じたもの<諌める>
「あさまし」<驚きあきれる><意外だ><浅はかだ><論外だ><嘆かわしい><情けない><みすぼらしい><卑劣だ><軽蔑すべきだ><さもしい><ひどく><はなはだしく><ずいぶん>
「夢」<夢><幻><幻覚><夢のようにはかないさま><ぼんやりしたこと><迷い><煩悩><ささやかなこと>
(落葉宮)B.
今は、このような浅はかな、幻のような世の中を、少しでも亡き道真公の思い<恨み>を冷ます折があれば、絶えず供養し申し上げるべきだ。
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(夕霧33).いつとかはおどろかすべき 明けぬ夜の夢さめて とか 言ひしひとこと
「ゆめ(夢)」<夢><悪夢><道真の祟りで悪夢のような世の中>
「ゆめ」打消を伴い<決して~ない><二度と~ない>
「ゆめさめで(夢覚めで)」<悪夢が覚めないで><悪夢が(決して)覚めないので>
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ちなみに、
「あく(明く)」は「あく(空く)」をも連想させます。
「あく(明く)」(カ行下二段)
「あく(空く)」(カ行四段)
「あく(空く)」<空く><空っぽになる>
「胸空く(むねあく)」<胸がスッキリする><気が晴れる>
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何時 驚かす 夜 夢 覚めて 一言
いつ とか は おどろ かす べき 明けぬ よの ゆめ さめて とか 言ひし ひと こと
とが オドロ 科す 世 冷めて 咎 人 子と
咎 さめで
覚めで
繰り返される「とか」「とが(咎)」<罪><罰>が耳に残ります。
濁点を打つ習慣の無かった当時、これらはともに「とか」と表記されました。
「咎言ひし人」<罪な言葉を言った人><讒言した藤原時平><大宰府左遷の詔(勅令)を出した醍醐天皇>
「こと(言)」を「子と」<子と><子もろとも>
としてみましょう。
醍醐天皇は、最愛の息子、保明皇太子を21歳で亡くしたばかりか、保明の子、次の皇太子慶頼王までも、わずか5歳で死んでしまいました。
藤原時平の子は次男顕忠(あきただ)を覗いてみな夭折しました。
当時これらの災厄は、むろん道真の祟りだと考えられました。
道真の<鎮魂>の観点から、この歌を解釈してみましょう。
何時 咎は おどろ 科す べき / 明けぬ夜の 夢 覚めで / 咎 言ひし 人 子と
ゆめ
(夕霧33)D.<鎮魂>
いつ(藤原時平や醍醐天皇の)咎に、「おどろ」<雷鳴><天罰>を科すべきか。
(この恨みを晴らさなければ)、明けない闇夜の我が悪夢は、永遠に覚めることが無いので、
罪な言葉(讒言)を言った人(時平と醍醐天皇)に、子もろとも(天罰を下してやる)。
この歌の直後の夕霧のセリフ:
「上より落つる」
<上から落ちる(雷で)>
この歌は、AやBの訳例のように、「倒置法」を元の語順に戻した方が、分かりやすいでしょう。
(夕霧33)D(2).<鎮魂>(倒置法)
罪な言葉(讒言)を言った人(時平と醍醐天皇)と、その子と(に対して)、
いつその咎に、「おどろ」<雷鳴><天罰>を科すべきか。
(この恨みを晴らさなければ)、明けない闇夜の我が悪夢は、永遠に覚めることが無いので。
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*****「手に掛くる者に者に死あらば」<暗殺> ***************************
(薫5).手にかくるものにしあらば藤の花 松よりまさる色を見ましや
「手にかく」<手にかける><自らの手で殺す>
手にかくる 者に「死」あらば 藤の花 松よりまさる 色を見ましや
(薫5)C.
<手にかける><殺す>者<菅原道真>に死がある(死ぬ)ならば、「藤の花」<藤原氏>が「松」<天皇家>より栄える夢をただ見るだけですますだろうか。
(いや、天皇家から実権を奪うだろう)
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詳細はこの和歌のファイルをご参照下さい。
屏風絵などに常用される「藤」<藤原氏>「松」<天皇家>のモチーフを背景として、藤原氏の政権掌握の長年の陰謀を詠ったとも読み取れるこの歌も、「地の文」の<外被>を纏っています。
(薫5)の和歌の直前と直後の地の文:
*****「かすめ」「ほのめかす」*******************
世の中恨めしげに「かすめ」つつ語らふ。
わが心にあらぬ世のありさまに「ほのめかす」。
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「かすむ(掠む)」マ行下二段他動詞<掠め取る><盗む><欺く><ごまかす><仄めかす>
「かすむ(霞む)」マ行四段自動詞<霞む><霞がかかる><ぼんやりする><はっきりしない>
*****「かすむ(掠む)」<仄めかす> *****************************
あらはには言ひなさで、「かすめ」愁へ給ふ (源氏物語「東屋」)
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藤原氏の陰謀は、<讒言><左遷>だけには留まらなかったのでしょう。
少なくとも紫式部はそう把えていたように思えます。
源高明の西宮の豪邸が焼けたのも藤原氏側の放火なら、道真の死も徐々に毒を盛られたのでしょうか。
高明邸の焼失が不審火であることは当然として、紫式部は道真の死も、<暗殺>と考えていたのだと思います。
あらわには言えないその思いを、「かすめ」<仄めかし>つつ、紫式部は語ったのでしょう。
**** (夕霧33)の和歌の直前と直後の地の文 **************
「忍びたまへど、漏りて聞きつけらる」
<(時平は)隠れ忍んでなさったことだけれど、漏れて聞かれてしまう>
<(時平は)隠し立てなさったところで、自然と漏れ聞こえてくるものだ>
<(道真公は)内心で耐え忍んでおられたけれど、その恨みは漏れ聞こえてくる>
「上より落つる」
<上から落ちる(雷で)>
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「落つ(おつ)」タ行上二段活用が連体形で、その後に続く名詞が省略されています。
その<省略>により、この歌の真意が巧みに<隠蔽>されています。
「連体形」<体言省略><隠蔽>
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紫式部は世に聞こえる漢学者を父に持ち、幼少期からその薫陶を受けたとも言われています。
漢学の神様であった菅原道真を紫式部が敬愛していたとしても不思議はありません。
ちなみに、紫式部は「白氏文集」を中宮彰子に進講しましたが、それは道真の愛読書でもありました。
何時咎は「おどろ」<落雷><天罰>科すべき。。。
<怨霊><鎮魂>の含意を素通りして、この(夕霧33)の和歌を後世に伝えるべきではない、と私は思います。
死因を明確に特定する科学技術も無ければ、物証に基づいた裁判が行われるわけでもない当時。
ましてや道長の恐怖政治下にあったと考えられる宮中において、紫式部はこの歌の真意<道真公の叫び><藤原氏の謀略>を命がけで伝えようとしたのだと私は思います。
ちなみに、道隆、済時(なりとき)、朝光(あさてる)の三人は、いい飲み友達だったそうですが、わずか二ヶ月の間に三人とも相次いで亡くなったそうです。(村上まり「枕草子が面白いほどわかる本」)
紫式部日記には、清書して製本したばかりの「源氏物語」が、(道長に)持ち逃げされたことが書かれています。
そのくだりの直後の地の文が興味を引きます。
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(地の文).
若宮(敦成親王)は、御「物語」などせさせたまふ。(「紫式部日記」)
うちに、心もとなくおぼしめす、ことわりなりかし。
「物語」<赤子が「意味の無い音声」を発すること>
「うち(内)」<内裏><主上><天皇>
「心もとなし」<心細い><待ち遠しい>
「かし」<念押し>
@(地の文)A.
赤子の若宮は、(「あ」「う」など)意味の無い声をお出しなさる。
主上におかせられては、若宮の後参内の日を待ち遠しくお思いになるが、それももっともなことだ。
「ことわり(理)」<道理><理にかなう裁き><道真公の天罰><落雷>
**** <道真公の天罰><落雷> *******************************
57歳(901年) 太宰権帥に左遷。
59歳(903年) 大宰府で客死
(908年) 道真の左遷を聞いて駆けつけた宇多法皇を内裏に入れなかった藤原菅根が「落雷」で死亡。
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「かし」は「かじ(火事)」「くゎじ(火事)」を連想させます。
「鳴る」<(雷が)鳴る>
ちなみに、「かみなり(雷)」は「神鳴り」から来ています。
理
うちに、心もとなくおぼしめす、ことわり なり かし。
鳴り かじ
火事
(地の文)B.
若い天皇のお言葉などに意味はなく(藤原氏の操り人形だ)。
内裏に、「ことわり(理)」<道理><理にかなう裁き><道真公の天罰><雷>が鳴り響き、「火事」になるのが待ち遠しくお思いになる。
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「物語」<赤子が「意味の無い音声」を発すること>
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「詩」<言葉の意味を日常の文脈から解き放つこと>
我々が通常目にする古典の「散文」も、文字列の指示内容を日常の文脈から解き放ち、言葉の象徴機能を極限まで押し拡げて、先入見にとらわれずゼロベースから言葉を解釈した時点で、それは「散文」を脱して「詩」となります。
その「詩」は、「勝てば官軍」の支配者が事後的に「正史」の陰に葬り去った闇の真相を知る唯一の手掛かりに他ならず、殊に、為政者が知られたくなかった<不都合な史実>に関して、それはむしろ「正史」をも凌駕する史料価値を持つ、と私は思います。
文学作品からの情報を歴史認識に外挿することに対して、我々が慎重の上にも慎重を期さねばならないことはもちろんです。
しかし、「正史」が<隠蔽>である他はない以上、「正史」を絶対視することはかえって危険であるのは明らかであり、さらに、歴史を陰で動かした重要な出来事、為政者にとって都合の悪い事実、に関しては、ますます「文学」が歴史認識に重要な視点をもたらす度合いが強くなる、と私は思います。
ここにも、私は古典「文学」の復権、復興の極めて重要な契機を見る思いがします。
「源氏物語」は、摂関政治が確立する過程で、歴史の表舞台から消えていった藤原氏以外の氏族の<鎮魂>のために、道長が紫式部に書かせたものだ、と井沢さんはおっしゃっています。
ちなみに、道長自身は、源倫子、源明子(あきらけいこ)と、源氏の血筋から嫁をもらっています。
現実の歴史とは正反対に、源氏物語では、光源氏が藤原氏に属するライバルの頭中将との出世競争を制して栄華を極めます。
藤原氏の他氏に当たる源氏のサクセスストーリーが<鎮魂>であることは、誰が見ても明らかで、それは道長の意図であったはずです。
おそらく道長の依頼は、鎮魂のために、他氏に花を持たせた物語を書いて欲しい、というような大まかなものだったのでしょう。
道長は紫式部に、「源氏が繁栄する」という程度の<架空>の「粗筋」を指示したのでしょう。
しかし、紫式部は、話の大きな流れである「粗筋」のそこここにある、一見見落としてしまいそうな小さな物陰に、「正史」から葬り去られた<史実>を巧みに織り込みました。
その、あちこちの小さな物陰の<史実>は、道長が紫式部に書かせようとした、源氏の<架空>のサクセスストーリーとは対極にある、藤原氏や道長にとって不都合な<史実>です。それは道長の目から隠して紫式部が命がけで伝えようとした<歴史の闇に葬られた真相>であり、それを書き残すことこそが、彼女に出来た真の意味での<鎮魂>だったのでしょう。
道長が意図したような、ケガレとは無縁の美しい<架空>の物語をこしらえて、うわべだけ怨霊の<ご機嫌をとる>ことが、真の<鎮魂>となりえないのは、考えてみれば当然のことです。藤原氏にとって都合の悪い事実、讒言や地方受領の不正の黙認、あるいはライバルの暗殺まで含めて藤原氏が政権を掌握するために用いた汚い手口、血にまみれた<史実>を書き残し、その非を告発することこそ、真の<鎮魂>であるはずです。
そして、それを<隠しつつ伝える>というアクロバティックな要求を満たす唯一の手段が、暗号としての「詩」<言葉の意味を日常の文脈から解き放つこと>だったのです。
ドイツの建築家ミース・ファンデル・ローエの言葉「神は細部に宿る」は、文芸評論にもしばしば引用されます。
その単なる文芸評論の常套句よりもはるかに重大な意味において、源氏物語の精髄は、まさに「細部」に宿っています。
源氏物語の真の意味、紫式部が命がけで伝えようとした真意は、この「細部」に埋め込まれた<史実>であって、<架空>の「粗筋」「サクセスストーリー」ではありません。
我々は、細断されて源氏物語のそこここに散らばめられた、後世に伝えるべきそのDNAの<断片>、葬られた<史実>を拾い集め、つなぎ合わせて、正史によって隠蔽された歴史の真相を再構成せねばなりません。
*** 藤原道長が娘彰子のライバル「御匣(みくしげ)殿」の暗殺を企てたことを仄めかす源氏物語の一節 *********
(大宮4).ふた方にいひもてゆけば玉くしげわが身はなれぬかけごなりけり
「よくも玉櫛笥にまつはれたるかな。三十一字の中に、異文字は少なく添へたることのかたきなり」
と、忍びて笑ひたまふ。
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詳細はこの歌の解釈のページを御覧下さい。
同じく鎮魂のために書かれたであろう平家物語にも脚色や隠蔽は当然ありますが、それでも敗れた平家側の登場人物たちの合戦での活躍だけでなく、一族郎党は子供(八歳の童)まで殺した源氏側の所業も書かれています。平清盛がまだ幼かった頼朝や義経を殺さなかったにも関わらず。
あえて子殺しまで書き入れたのは、支配者となった勝者側が、その後の反逆を未然に防ぐための<見せしめ>として「平家物語」を書かせたから、また最終的に頼朝の敵となる義経(九郎判官)を悪役にするためでもあるのはもちろんであるにしても。
***「平家物語」<八歳の童子の首を切る><一族郎党皆殺し> ***********
急ぎ乳母の懐の中より、若君引き出し参らせ、腰の刀にて押し伏せて、つひに首をぞかいたりける。
(「平家物語」巻十一「副将斬られの事」)
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話を戻すと、
ここでの紫式部の和歌には、立場の弱い者たちの声無き叫びが込められていると思います。
(夕霧33)や(薫5)の歌は、道真公の鎮魂のために。
(近江の君1)(弘徽殿女御の侍女1)は農民や防人のために。
(末摘花5)(光源氏175)(空蝉5)(源典侍4)は子を中絶した女性や男性にモノ扱いされる女性のために。
(夕霧33)を書くにあたっては、万一の場合には言い逃れ出来るように、地の文や引き歌で、この和歌を<恋愛>の歌としてカムフラージュしながら、
同時に地の文「上より落つる」「漏りて聞きつけらる」でその説明を補足することによって、その真意<藤原氏の謀略>をなんとか伝えようとしたように、私には思われます。
合理的思考が浸透した現代社会ならば、その決死の覚悟を公にし、世に広めることが出来ます。
古典の教育者には、過去に対する責任と、未来に対する義務があることを忘れ、
真意を汲み取り伝える努力を怠るならば、
それは我々の後世から見た場合、我々が千年前のウソの隠蔽に加担しているのと、何ら変わりません。
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****(注664471)参照
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日本語の多義性を巧みに操って、紫式部は上述のような「暗示」<伏線と既視感>を、作品の中に意図的に配置していたと私は思います。
紫式部は、この引き歌を、その元の意味の通りに、「源氏物語」の中に取り込んだわけではないと私は思います。
この引き歌を外部の作品から引きちぎって、源氏物語の中に叩き込んだとき、紫式部の脳内には、「音(おと)」「音(ね)」「ね(根)」の言葉が瞬時に連想されていたのでしょう。
音(おと) ----<訓の繋がり>---- 音(ね) ----<音の繋がり>---- ね(根) ---- <意味の繋がり>---- 血縁 ---、、、
このような音と訓を縦横無尽に結びつけるイメージの連鎖は、彼女が源氏物語を創作する上で、和歌のみならず地の文においても、極めて中心的な位置を占めるインスピレーションの源であったと思います。
さらにこの連鎖は、「源氏物語」の殻を突き抜け、引き歌のみならず、歌謡、神話、漢籍、など、ありとあらゆる古今の文学作品に浸蝕したことでしょう。
そして、外部の幾千のテクストの首根っこをつかんで、源氏物語の世界に持ち帰り、源氏物語の文脈に当てはめて読み替え、それを源氏物語の中に組み込んでいったのだと思います。
私は、この「いかによからむ」の歌を引き歌とした紫式部に、極めて「戦闘的・挑発的」な読解の姿勢を感じます。
「そこには、古今の文学作品とのダイナミックな相互作用があった」などという形容では生ぬるいのかもしれません。
「源氏物語」は、他のあまたの文学作品を陵辱し、略奪し、噛み砕き、同化して血肉とし、さらに腕力をつけ他を圧倒し呑み込む存在になっていったのだと感じます。
紫式部の貪欲さとそれを形にする知力・腕力には、あらためて脱帽するほかありません。
今度は我々が、源氏物語に積もった、「千年の埃」を吹き飛ばす番ではないでしょうか。
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メモ:
語彙、語法・文法、
連想詞の展開例など
あくまでこれは「タタキ台」として、試みに私の主観を提示したものに過ぎません。
連想に幅を持たせてあるので、自分の感覚に合わない、と感じたら、その連鎖は削って下さい。
逆に、足りないと感じたら、好きな言葉を継ぎ足していって下さい。
そして、自分の「連想詞」のネットワークをどんどん構築していって下さい。
詳細は「連想詞について」をご参照下さい。
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****参照:(注772251):(夕霧33).いつとかはおどろかすべき のメモ:
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ここまで。
以下、(注)
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(注664471)
****「北野天神」「雷」<水神><農耕の神>***************
(参考:「マンガ 日本の歴史9 延喜の治と菅原道真の怨霊」)
雷はもともと<雨を降らせる>水神であり、竜蛇の姿をして<農耕を助ける>神でした。
北野には、道真の時代以前から、農業神としての雷火が祀られていました。
さらに道真以後も、様々な追善供養が行われました。
959年 藤原師輔により北野天神神殿増建
993年 道真に正一位、左大臣追贈、さらに太政大臣とされる。
平安時代は「農耕の神」「怨恨の神」
鎌倉時代中期より「冤罪を救う神」「慈悲救済の神」
現代「学問の神」
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(注774012)
***「柿」は<純愛>? それとも<不倫>? *********
豆や栗の実(可食部)は、種子の子葉に由来しますから<子の一部><子の遺伝形質>であり、受精(受粉)なしでは出来ません。
しかし、柿やブドウの実(可食部)は、母体の子房などに由来するので、<親の一部><親の遺伝形質>であり、果実の成熟に、必ずしも(正常な)受精・発生が必要なわけではありません。「種無し柿」や「種無しブドウ」が出来るのはそのためです。
これは「単為結果」などと呼ばれることもあります。つまり果実だけ見れば<処女懐胎><想像妊娠>です。
ちなみに、米やトウモロコシなどのイネ科穀物の実(可食部)は、被子植物の重複受精で形成される胚乳(3n)に由来しますから、これにもやはり受精(受粉)は必要です。
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