(注880025):「いか」<おぎゃあ><鍵刺激>
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(注880025)
たとえば、話の途中で、突然「うんこくさい」(ウンコ臭い)という声が耳から入って来たら、ギョッとして、つい周りを見回してしまうのではないでしょうか。
「今年は神戸でかいうんこくさい会議がある」
「今年は神戸で海運国際会議がある」
***「女手」<のっぺりした表記法><作者すら想像しなかった驚き> **************
後宮の主人公は女性たちで、そこでは今よりも「女手」<平仮名>が多用されました。
また、当時は濁点や句読点を打つ習慣が無く、
「ばびぶぺぽ」も「ぱぴ、ふべぼ。」も「は、ひぶぺ。ぼ」も全て
「はひふへほ」
と表記されました。
拗音や促音の小さい「ゃ」「ゅ」「ょ」「っ」などの字は、全て普通の大きさ「や」「ゆ」「よ」「つ」で書かれました。
要は、とても平坦な、メリハリの無いのっぺりした表記法が用いられていた、ということです。
しかし、この無味乾燥な表記法こそが、時として、作者すら想像しなかった驚きを読者にもたらします。
それは「読者の側の創造」<読み替え>と言っていいのかもしれませんし、ひょっとして作者が<隠しつつ伝えようとした>「暗号」なのかもしれません。
ちなみに、現在のような濁点や句読点は、明治以降に校訂者が便宜的につけたものです。
それは、解釈を容易にする反面、解釈の可能性を狭めてしまう危険と常に背中合わせです。
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これらを頭に置いた上で、以下のような想像をしてみて下さい。
たとえば、皆さんが、普通に読んでいる文章の中に、突然、「おぎゃあ」という文字列が入っていたら、つい目を進めるのを止めてしまうのではないでしょうか。
「おぎやあけびなどの秋の風物」
「荻やアケビなどの秋の風物」
「おぎゃあけびなどの秋の風物」
このように、言葉(文字列)には、知らず知らずの内に通り過ぎてしまうような「(印象の)弱い」言葉と、つい足を止めてしまう「(印象の)強い」言葉があります。
どんな言葉(文字列)が「強い」印象を持つかは、人それぞれですが、
「うんこくさい」などは、言葉を聞くだけで臭いまで思い出してしまいそうですし、
「おぎゃあ」の字を見たら、つい耳の奥に赤ちゃんの声が聞こえ、我が子の顔が目に浮かんでしまうお母さんも多いことでしょう。
*** 乳が出るはずの無い乳房を赤子の口に含ませる紫上 ****************
うちまもりつつ、懐に入れて、美しげなる御乳をくくめ給ひつつ、戯れ給へる御さま、、、
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紫上は、乳の出ない(子を産んでもいない女性に出るわけのない)自分の乳房を口に含ませて、養女の明石姫君(後の中宮)をあやしていました。
***「八日目の蝉」「乳房」「子宮」「がらんどう」*********
最近、源氏物語の現代語訳を出版された角田光代さんの原作による映画「八日目の蝉」。
主人公の野々宮希和子は不倫相手の子を中絶したことがきっかけで、子宮を損ない、二度と子を宿せない身体になってしまいます。
不倫相手の本妻は、子を宿せなくなった希和子のお腹を指して、
「ここは<がらんどう>だ」
と、勝ち誇ったようになじりました。
希和子はあるとき、その不倫相手の男と本妻との間に出来た赤ちゃんを、衝動的にさらって来てしまいます。
その逃亡途中、ホテルの一室で、泣き止まぬ赤ちゃんをなだめようとして、自分の乳房を含ませます。
しかし、子を産んだばかりでもない女性に、母乳の出るはずはありません。
ましてや、妊娠不能になってしまった希和子に、母乳が出ることは、そもそも永遠にないわけです。
希和子はいつまでも止まない赤ちゃんの泣き声によって、否応なくその事実を突きつけられます。
そして希和子自身も、その赤子以上に大きな声で、泣き出してしまいました。
希和子はその赤子に、源氏物語と同じく「薫」<竹の子><処女懐胎><生まれるはずの無い子>と言う偽名を付けて逃亡の旅を続けます。
(自分につけた偽名の「京子」は<平安京>を暗示しているのでしょうか?)
正式な夫のいない希和子に、子が生まれるはずはありません。
また、子宮が不能になってしまった希和子には、子を宿すことすら出来ません。
「薫」は、社会的にも身体的にも、二重の意味で、<生まれるはずの無い子>だったわけです。
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仮に上記のような女性が偶然文中に「おぎやあ」の文字列を目にしたら、どう反応するでしょうか。目を止めずに読み進められるでしょうか。
赤ちゃんを衝動的にさらってしまうほど、心理的に追い詰められた女性が。
紫上が「いか」という文字列を眼にした時、そこに読み取ったのは「如何」だけだったのでしょうか。
懐妊を心待ちにしながら、衰え始めた若さに焦る、内裏の内外にいた源氏物語の読者たち十人の内、そこに<おぎゃあ>の幻聴を聞いた女性は一人もいなかったのでしょうか。
同じく子の無い花散里が、紫上に「みのり」と詠み掛けたとき、そこに込められていた意味は、「御法」だけだったのでしょうか。
「いかなるよ(如何なる世)」<どのような世の中に>
という言葉から、
「いか」<おぎゃあ><産声>を介して、
「いかなるよ(いか鳴る世)」<赤子の声が鳴り響く男女の仲><出産に湧く夫婦><待ち遠しい懐妊>
「いかなるよ(いか鳴る節)」<産声が鳴る竹の節><かぐや姫><竹の子><隠し子><処女懐胎><ワケアリの子>
などと、当時の女性、特にそのような境遇にあった女性が、つい連想してしまった、なんてことは、十分有りうるように私には思えます。
源氏物語を読むときには、
「いか」<おぎゃあ>という<鍵刺激>に、我々はもっと敏感であるべきなのかもしれません。
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