重役クラスの人間は、その教育程度の如何にかかわらず、常人に較べて言語運用能力がすぐれているという興味深い事実が、職業補導関係の調査で明らかにされている。この事実は、雄弁術は実生活への訓練に役立つという、かのキケロの主張を、期せずして裏づけるものである。キケロ以前にも、古代ギリシャのソフィストたちが、雄弁術を通じて人間の知と力を育てる方法を講じていた。しかしソフィストの場合は言葉と知性を分裂させるようなことはしておらず、そこがこの広告と違う点である。人間はその言語能力によって獣と区別されると考え、言語と理性は一体であり、いずれか一方の発展は他方の発展を伴うものであるとされていた。雄弁を身につけるために百科事典的学習教程が必要とされたのもこのためであった。かくして雄弁は知であり力であると同時に、政治における思慮分別ともなったのである。
こうして見事に統一された網羅的教程が1850年頃までは古典主義的教育の基礎となっていたのである。ところがその教授たちが今の時代の専門家尊重の風潮に染まるにいたって、その方向が見失われ、影響も薄れるようになってきた。そして今では雄弁術の見本の宝庫といえは、教室でも古典作品でもなく、広告代理店なのである。古来考えられてきた雄弁、公共の責任と格別に結びつき、さらに一貫した方針のもとに、感情をも理性と美徳の高揚に参画せしめていたのに対して、現代版の雄弁は無暗矢鱈に言葉と感情を乱用して消費者に媚を売り、まさに扇動(デマ)に終始している。-『機械の花嫁』-
上記は、「平易な話し方の技術Art of Plain Talk」という本の広告のキャッチコピー「あいつがまた昇進した-自分になくて奴が持っているものはいったい何だ?」を題材にしたマクルーハンの批評である。古典的教育の柱であった雄弁術Rethoricへの支持、特に一般には「詭弁家」と見なされているソフィストの雄弁を好意的に評価する一方、現代の雄弁家である広告代理店が生産しつづける無責任な「雄弁」については批判的である。マクルーハンは、一般に思われているほど、マスメディア礼賛者ではない。批判の手法が社会学者や評論家と違うだけで、マスメディアが人間精神に及ぼす危険性を誰よりも熟知していた。『花嫁』(1951)は、雑誌や新聞に掲載された広告のレトリックが大衆を一種の催眠状態にしつつ、商品を大量に市場に送り出していくその構造を分析した最初の本であり、未だにその分析は色あせていない。
ちなみにRethoricは、日本では古代ギリシャのソクラテス、プラント、アリストテレスの時代のそれには「弁論術」、帝政ローマ以降、中世を経て近代にいたるまでのそれには「修辞学」の訳語を当てるという。前者は口承時代の、後者は筆記の影響が強まった後の文章技術としてのレトリックということだろう。弁論術と修辞学の原語が同じだと知って、マクルーハンと古代ギリシャがダイレクトにつながった気がした。
こうして見事に統一された網羅的教程が1850年頃までは古典主義的教育の基礎となっていたのである。ところがその教授たちが今の時代の専門家尊重の風潮に染まるにいたって、その方向が見失われ、影響も薄れるようになってきた。そして今では雄弁術の見本の宝庫といえは、教室でも古典作品でもなく、広告代理店なのである。古来考えられてきた雄弁、公共の責任と格別に結びつき、さらに一貫した方針のもとに、感情をも理性と美徳の高揚に参画せしめていたのに対して、現代版の雄弁は無暗矢鱈に言葉と感情を乱用して消費者に媚を売り、まさに扇動(デマ)に終始している。-『機械の花嫁』-
上記は、「平易な話し方の技術Art of Plain Talk」という本の広告のキャッチコピー「あいつがまた昇進した-自分になくて奴が持っているものはいったい何だ?」を題材にしたマクルーハンの批評である。古典的教育の柱であった雄弁術Rethoricへの支持、特に一般には「詭弁家」と見なされているソフィストの雄弁を好意的に評価する一方、現代の雄弁家である広告代理店が生産しつづける無責任な「雄弁」については批判的である。マクルーハンは、一般に思われているほど、マスメディア礼賛者ではない。批判の手法が社会学者や評論家と違うだけで、マスメディアが人間精神に及ぼす危険性を誰よりも熟知していた。『花嫁』(1951)は、雑誌や新聞に掲載された広告のレトリックが大衆を一種の催眠状態にしつつ、商品を大量に市場に送り出していくその構造を分析した最初の本であり、未だにその分析は色あせていない。
ちなみにRethoricは、日本では古代ギリシャのソクラテス、プラント、アリストテレスの時代のそれには「弁論術」、帝政ローマ以降、中世を経て近代にいたるまでのそれには「修辞学」の訳語を当てるという。前者は口承時代の、後者は筆記の影響が強まった後の文章技術としてのレトリックということだろう。弁論術と修辞学の原語が同じだと知って、マクルーハンと古代ギリシャがダイレクトにつながった気がした。