9年前私は実家の仙台におり東日本大震災に遭遇しました。
その週に4人のオペラ歌手と私のピアノで私がモーツァルトの三大オペラの抜粋を私がアナリーゼをしながらコンサートをする予定で、その時は「魔笛」を勉強をしており、ピアノを弾いていたら突然すごい揺れが来ました。
すぐに外に出ました。本当に長い揺れで、一回終わりそうになって、また大きくなって・・と三回大きな波がありました。家の瓦が落ちるのを見ながら、大人の私自身が立つことが出来ませんでした。
電信柱がまさにぐにゃぐにゃになっておりましたが、それをただただみているほかありませんでした。
それが折れて私に当たったら死ぬだろうと思いました。
目の前の地面は少し割れて水が吹き出し、そしてその後突然短い間でしたが雪が降りました。
全く情報が途絶え何が起こったかわかりませんでした。
携帯電話から警報も出てなく、またあれだけ大きな地震にもかかわらず、携帯電話からの情報を見ても、何一つ地震の情報は出ていないので、まるで今のは現実だったのかと思いました。
電話が鳴りました。私のことを心配して九州の方から電話をいただき、その時に津波で沢山の方が被害に遭われたことを知りました。
家の中は電気もガスも水道も止まり、立て続けにくる震度5位の余震もあり危険を感じたので、夜になってから本当に灯り一つない真っ暗な中、避難所である中学校の体育館へ向かいました。
歩道から車道を横切ろうとしたら、少し高い歩道と車道の段差が分からず、アイスバーンになっていた車道で転びました。すふと車が私に向かって来ました。そのままひかれていたら死んでいたでしょう。
避難所についたら沢山の方が避難してらっしゃって、ほとんど空いている場所はなかったのですが、1畳分くらいの広さの、段ボールが敷いてあるところがありました。
そこにとりあえずコートを着込んだまま寝ました。
枕になるものがなかったので、その数日後にある演奏会で使うモーツァルトの三大オペラのスコアを重ねて枕にして寝ていたと思います。おそらくそれは不謹慎なのかもしれませんがそれしかありませんでした。
そしてはたと気がつくと体育館にはピアノがありました。
「そこにいる方々のためにピアノを弾こう」と思いました。
しかしながら、すぐその考えはなくなりました。
ほとんどの方が電話で親戚知り合いの安否を確認するために電話をしたり、ラジオ、持ち込みのテレビで刻々と入ってくる情報を耳をそばだてて聴き、食い入るように見ておりました。
そのような状況ではピアノは弾く気持ちにはなりませんでした。
音を出すことによってその連絡、音声を邪魔しかねない状況だったと思います。
情報が錯綜し不安が交差し、震度5級の余震が続いた殺伐した状態でした。
その時に自分の演奏家としての意味、音楽の意味、さまざまな事を考えました。
その避難所ではアルファ米の支給がありました。
お湯で戻すと食べることができるお米が中学校には沢山備蓄していたのです。
支給の時は何言っていないのに、最初はお年寄り、女性、子供を優先させ、あとに男性が並んでいたのが印象的でした。私は本当に最後に並びました。
まったく言い争いはなくとても全ての方が落ち着いて譲り合って行動していたことが印象的でした。
その日は一晩中それでも数日後演奏するだろうと信じていたので、モーツァルトの三大オペラの様々な部分を勉強するためにイヤホンで聴きながら、立て続けに起こる強い余震とともに一夜を過ごしました。
勉強のために聴いておりましたが、そういう時は感情が止まり、もしかしたら何も音楽に感動もしていなかったかもしれません。
あまりにも悲惨なことが目の前に連続して出てくるとそうなるのでしょうか。
次の日に朝からバスが動いており、仙台のNHKまで行くとそこのモニターを見たらちょうどその時に福島の原発が爆発する瞬間が映し出されておりました。その時もとても大変なことが近くの土地で起きているのにもかかわらず、茫然とその事態を見ていたように記憶しております。
その数日後山形、新潟経由で東京に戻り、さまざまな地震で被害に遭われた沿岸部のホールに連絡をとり、何か音楽で力になることはないかと聴きましたが、どこも混乱状態で音楽を聴く状態ではないということでした。
私が避難所にいた事を思えば当然です。
以上のことはなかなか言葉で説明することが難しく、その場にいないとなかなかわからないことなのかもしれません。
音楽の存在する意味、自分の音楽家としての意味を毎日考えました。
その1ヶ月後に仙台フィルのコンサートマスターの神谷未穂さんが、復興コンサートを仙台のヤマハの前の人々が行き交うストリートで行うということを知りました。
それを知るや否や神谷さんに、ピアノは必要ないだろうかと伺うと、ピアノが有ればとても助かるというお返事でした。
返事を受け、3人で演奏できそうな楽譜をカバンに詰め込んで、すぐに家を出て新宿から仙台行きの深夜バスに乗りました。
そして着いた日の午前には仙台のヤマハの前で神谷さんと、午後は旦那様のエマニュエル・ジラールさんと三人で名取市文化会館のロビーで演奏しました。
以下の写真はそのときの写真です。
一つは東日本大震災後四月に初めて仙台のヤマハの一階を解放して商店街の通りに向けて仙台フィルのコンサートマスターの神谷未穂さんと演奏したもの。もう一つはその日の午後沢山の被害があった閖上の近くの名取市文化会館のロビーに沢山の方が家をなくして避難したおり、神谷さんと旦那様のエマニュエルさんと三人で演奏したときの写真です。
演奏の直前に車で沿岸部の被害があったところを見て参りました。それは想像を絶する光景でした。
この演奏時に私が避難した皆様にむけて話し出そうとして言葉が詰まりました。
先ほどの光景を思い出し、どんな言葉も慰めにならないように思えました。
「いま我々ができることは皆さんと祈ることしか出来ないかもしれません。皆さんと今から音楽で一緒に祈りたいと思います。」
そう言ったあとに、私が三人で演奏するために編曲したアメイジンググレイスを演奏したと思います。
この時から私も音楽について、また音楽家としてのあり方を新たに考えることになりました。
それからさまざまな避難所に私が連絡をとり、だんだん演奏できる状況になり、4〜6月ぐらいで60回以上演奏をしたと思います。
その時は、被災された皆さんが大変であり、なかなか感情をお互い出すことが出来ないけれども、音楽、音を聴くことでやっと人前で感情を出すことができ、涙を流す方も沢山いた事を思い出しました。
避難所を中心とした演奏したときは、ここには書ききれない沢山の経験をしました。
自分の中で確実だと思えたことは、このような困難な状況でも然るべき時に、しかる場所で、もし許されるならば、音楽を演奏することによって意味のあることがあるということでした。
本日で2011年に起こった東日本大震災から9年が経ちました。
この地震が起こった直後、復興には10年はかかるのではないかと思われました。
9年が経った現在、毎年石巻など甚大な被害を受けたところに行きますが、まだまだ完全な復興には時間がかかると思われました。
それでも一つ一つ復興へ進んで行くことができるために私も微力ながらできることはしていきたいと思います。
東日本大震災で被害に遭われてお亡くなりになった全ての方々のご冥福をお祈りいたします。
これからもこの時の事を心に留めて音楽のある意味を考え、音楽家として何が意味あることであるかを考えて演奏していきたいと思います。