「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

産婦人科病院作業 2

2006-09-19 22:45:51 | Weblog
 ここのオランダ人の婦長さんは独身で、日本の兵隊と仲が良いといううわさがあった。なんでも作業に行った兵隊とキスをしたということも聞いた。私達と一緒に行っていた兵長を彼氏に指定して専属にしたそうだ。指定された兵長は毎日通っていたが、昼食は向こうで用意するし、ご馳走を作っては土産に持たせるので、同じ幕舎の者は大喜びだったそうだ。
 指定されるのはいろいろの仕事もせねばならぬので、精力をつけさせる為にご馳走するのだと言う者もいたが、その兵長さんはおとなしい物静かな人で私よりチョッと年のいったような気がした。
 それからは、後産の始末、ゴミの取り集め、庭の清掃などやらされたが、後産なんか、暑い気温なのですぐ腐って容器に蓋はしてあったが、いやな臭いがしたし、時には嬰児の死体が放り込んであったりしたそうだ。これらは病院の一定の場所に集められ、作業隊員の乗ったゴミ運搬車で焼却場に運ばれたいた。
 これが暫く続いたが、ある日、赤旗を巻いて病院からすごすごと出て行く現地人の姿を見たが、その翌日、ストライキの指導幹部級の者と話したが、
 「日本の兵隊がいるから、ストライキをしても負ける。我々は非常に困る」と言う。そこで
 「我々日本の兵隊がここにいる間は、君たちが何回ストライキをしても勝つことは出来ない。いつも負けだ。」
 「それではどうすれば良いのか」
 「我々を一刻も早く日本に返す運動をしなければ駄目だ。我々がここに来て仕事をしているのは英軍の命令だから仕方がないのだ。」 と説明したが、分かったような分からないような顔をして、その痩せぎすの男は帰って行った。それでこのストライキは現地人従業員の負けに終わり、元通り作業することになったので、私達の病院作業も終わった。

産婦人科病院作業 1

2006-09-18 18:16:03 | Weblog
 ある時、産婦人科病院に作業に行った。ここは元日本の海軍の病院だったという。聞けば従業員の現地人が共産党の指導で、ストライキをやったので、その埋め合わせに我々が狩り出されたのだ。
 ここの看護婦長さんはオランダ人とかで、肉体美の大柄の人だったが、我々を整列させて魅力たっぷりなゼスチャーで何か言って、唇を兵隊の顔の10cm位まで近づけてくるのだった。
 私がその日割り当てられたのは、便所の掃除。水洗便所は新聞紙や汚物でつまり、汚水が廊下まで溢れていて、足の踏み場も無いほどであった。ここの病室は現地人や黒人で満員のようで雑然としていた。
 詰まった物を取り除いて、別の容器に移して通水するとようやく使用できることになった。これで午前中は終わり。
 午後は床掃除で終わりであったが、行った場所によっては昼飯をご馳走になった者もいたという。よく働くからということで、この班はまた次の日も割り当てられ、その後も続いた。
 私は次の日は手術室の掃除。近く手術があるらしく磨いて消毒するのだという。30坪位の床を1人で磨かされた。膝をついて雑巾がけを2回、支那人の若い看護婦が指図したが、終わり前にコップに牛乳を入れたのを持ってきて「はやく飲め」と手振りをした。飲み干すとコップを持ってどこかに行ったが、すぐ帰ってきて掃除の検査をして 「OK」と言った。
 その日だったか、看護婦の宿舎の横を通ったが、支那人の看護婦が5,6人いて私たちに笑顔で話しかけたが、よく意味が通じなく、又こんな所でウロウロしているのを監督に見つかると大変だからと急いで立ち去った。
 ここらの女の出産は、陣痛が始まると分娩室に運ばれるのだが、痛みがくる度に大声で泣き叫ぶのが通例だ。
 「ソーラ始まったぞ」と聞いているとだんだん激しくなる。そしてピタッと止む。「生まれたな」と分かる。生まれた子供はどれも赤い顔をしていた。そして猿によく似ていた。
 「モンキー、サマサマ(猿のようだ)」と思わずある兵隊が言ってしまったのでずいぶん怒られたそうだ。
 白人は個室に入っていた。掃除に行ったら女が「ナース」と言ったので看護婦を呼びに行ったこともある。後でその部屋の前を通ったら、ドアが開いていて夫と思われる人がいて、何か話をしていた。

裸の美人

2006-09-17 10:44:33 | Weblog
 どこかの作業に行く途中、私達がシンガポールに上陸してから、最初に宿泊した英軍の兵舎があった。ある時、そこの芝生に14,5人の白人の若い女性が乳バンドにパンティだけの姿で椅子にかけて日光浴をしていた。そこは道路から40m位離れていたが、裸だから将校か兵隊か階級は分からなかった。
 「スゲエー」と私達は目をパチクリさせた。
 「見るな、見るな。見ると又、何かと文句をつけられるぞ」と引率者は言ったが、しかし、この状態は余りにも刺激が強すぎた。みんな顔は正面を向け、目は横目を使って通り過ぎたこともあった。
 いつかジープに英軍の将校が金髪の白人女性を乗せて、私達の前を走って行った。長い金髪が波うって、淡桃色の肌と似合って美しかった。
 「綺麗だなあ」としみじみ誰かが言った。

食糧補給

2006-09-16 18:36:17 | Weblog
 食糧倉庫の缶詰類は食用期限が過ぎると廃棄処分されたが、これはまだ食えようが食えまいが焼却してしまうのだ。この作業に行った者がこの内の良いのを拾ってきた。これが一時ブームになったことがあったが、ついに中毒騒ぎが起きた。食った者が死んだとか重体とかいう噂が流れた。そこで本部から
 「今後缶詰拾いは禁止する」という指令が出たが、そんなに捨てるのがあれば、選別して我々に廻してくれたら良さそうなものにと誰もが言った。
 缶詰を見たら何でもかんでも食うものだから、もっとも、そんなにまで食糧が不足していた証拠にもなるかもしれない。焼却作業所内では「食べても良いが持ち帰りは厳禁」とのことになった。私も1回行ったが、ピカ、ピカの立派な物が沢山あったが、中には膨張して1目見て悪い物が混じっていた。良い物を拾って食ってみたが、菓子みたいなものだった。
 作業の帰りにさつま芋の葉を摘み、汁の実にしたり、ハコベを見つけて雑嚢一杯持ち帰り、塩漬けにして食った。そんな時私が毒見役で
 「斉藤、食って大丈夫か?」と聞かれた。私が
 「大丈夫だ」と答えるとみんなが食った。実はハコベは現地人が
 「これはオバツ(薬)だ」といったのを覚えていたので自信があった。
 資材倉庫の周囲の金網には大きなカタツムリが沢山いた。これは食えるか食えないかと議論もあったが、試食の結果食っても大丈夫だということが分かり、誰でも食うようになった。作業に10人位1班で行くと、その中の1人は昼食のおかず作りを受け持って、カタツムリを取って来て料理する。中には器用なのがいて、串に上手に刺して焼き上げていた。私も食わせて貰ったが、タニシを焼いたような味がした。
 二十九作業場の川にがいるのが見つかった。現地人も支那人も食わないらしい。中西君が缶詰の空き缶に入れて持ち帰り食ったらしいが、鰻を見て英人は変な顔をしていたという。
 英兵の炊事場の所に玉葱の腐りかけたのが捨ててあった。支那人の女がそれを拾っているのを見て、私達も拾って帰った。腐った所を除くと立派な物で結構食えた。
 ある時、さつま芋を雑嚢1杯入れて持ち帰って来た者がいた。どうしたんだと聞くと、支那人の畑から盗んで来たと言う。4,5人が2組に分かれて、1組が畑に入って芋を盗む真似をする。支那人が「泥棒」とばかりに棒を持って追いかける。それを適当な間隔で逃げて行く。支那人は「この野郎」と夢中になって、つい遠くまで追いかける。その間に別の組がゆっくり、ごっそり戴くという戦法でやったのだそうだ。

駅での作業

2006-09-15 18:34:06 | Weblog
食糧倉庫の駅の作業に行ったことがある。貨車からトラックに積み替える仕事だったが、現地人や支那人の女や子供が、麻袋を移すとき手かぎの穴からこぼれる米を拾いに来ていた。英兵に見つかると追い払われてしまう。私達は
 「後でやるから、あっちに行っていろ」と言っておいて、英兵がチョット居なくなるのを見計らって、手招きするとあちこちの物陰から、木綿袋や麻袋、鍋や空き缶などを持ったのが駆け寄ってくる。私達は麻袋の破れ口をワザと大きくして、両手でホイ、ホイと掬ってやった。まんこ(お椀)を持って来たのにもそれに1杯入れてやった。
 「見つからぬうちに早く行け」と言って帰したし、また後で拾いやすいようにこぼして置いたりした。

英軍のレザー

2006-09-14 17:41:52 | Weblog
 作業に出始めて2ヶ月位してから食糧倉庫作業に廻されたが、私達を整列させた英軍の軍曹がなにやら怒鳴って、兵隊のそばに寄って来て顎鬚を指で引き抜く格好をして見せた。みんなの顔には髭が2㎝程伸びていた。引率者の通訳によれば、
 「どうして髭を剃らないのだ。今後剃って来なければ、ライターで火をつけて燃やしてやる」と言っているのだそうだ。作業隊の1人が
 「ノー、レザー」剃刀がないという意味だ。
 「オー、ノーレザー」と深くうなずいてその件は終った。
 しかし、よくしたもので1週間位したら、作業隊全員に安全剃刀の台と替え刃が支給された。それで、髭モジャは居なくなった。その時配給された安全剃刀の台を私はまだ使っている。

雨期の哀れ

2006-09-13 09:25:29 | Weblog
 シンガポールは11月頃から雨期に入るので、毎日毎日雨が降り続いた。内地の梅雨と同じだったが、天幕にも黒かびが生えた。作業には雨外被を着ていくが、脱いで作業をするので頭からビショ濡れ、ズボンも靴も同じだ。
 作業から帰るとみんな洗濯して幕舎内に干すので、幕舎内は洗濯物で一杯になってしまうが、翌朝は生乾きのやつを着て行く。が、後では上着は着ずに裸の上に外被をかけ、下は褌だけの者もいた。
 作業所に着いたら、ドンゴロス(麻袋)を探してそれを羽織る。下もドンゴロスを腰に巻きつけて縄で縛る。ドンゴロスを直接着ると肌をチクチクと刺すが後では何ともなくなってくる。即ち乞食より哀れな姿であった。
 「こんな姿を内地の妻子に見せたら、さぞ嘆くことだろうなあー」と互いに顔を見合わせて寂しく笑ったものだ。
 作業用の上着もだんだん破れてきたので、補修にまた補修して着たが、誰でも内地に帰るときの用意に、上下1着は手つかずのものを持っていた。 ズボンの配給があったが、これがとてつもなく大きく、「相撲取り用みたいだ」と笑ってみたが、これを安全剃刀の刃でミシン糸を丁寧に解いて、別に半ズボンを分解した型紙でそのとおりに裁断して手縫いで2枚作るということもした。
 こんな頃になると被服倉庫の作業に行き、女のパンティがあるとそれを褌の下に2枚も3枚もはいて来る者もいた。上着、半ズボン、なんでも手当たり次第、着てくるのが流行した。上から下まで英軍調になった者もいたが、次第に厳しくなってそれも出来なくなった。

英軍のレーション

2006-09-12 10:55:19 | Weblog
 この頃だったか、英軍のレーションなるものが各自1個づつ配給された。13,5cm×14,3cm、厚さ4,3cm青緑色のアルミ製で密封されて上面には銀色の英字の印刷があった。
 「何だ。オイこれは何て書いてあるんだ?」と読めるものに聞くと
 「これは英軍の携帯食糧だ。朝、昼、晩の3種類があるそうだ」と分かった。
 付けてあった缶きりで空けて見ると、ビスケット、チーズ、チョコレート、肉の缶詰が2種類、タバコ、安全かみそりの刃、菓子などがぎっしり詰まっていた
 「ヘエー、これが1食分かい、大したもんだなあ、我々日本軍の乾麺炮と比べると贅沢なもんだ」
 輸送船の南瓜汁とは雲泥の差だ。こんなのを食っておれば体力の消耗は無かろう、戦闘も充分出来ようと話し合った。
 レーションの種類によっては、釣り糸の入ったのや、黒人用とか言って18cm×12cm、厚さ5,7cmの大型のもの、これは少し、質は落ちたが3食分入っていたと思う。
 レーションの配給は5,6回あったが、ジュロンに移ってからの分は内地に帰ってからの食糧にするんだと言って、誰も開けずにしまって置いた。

国際赤十字視察団

2006-09-11 12:06:34 | Weblog
 そのうち「明日、国際赤十字社から作業隊の状況を視察に来るから、幕舎の内外を整理整頓するように」との指示が出た。それでここ2,3日、食べ物が良くなっていた訳が分かった。
 その日、私は留守番で残っていたが、十人位外人がやって来て、作業隊内をサッサと見て廻り、写真を撮ったりしていたようだったが、格別何と言うことも無かった。
 しかし、効果はあった。それからの食糧はマアマアの程度が続いた

クリスマス

2006-09-11 11:47:19 | Weblog
 12月25日はクリスマスで作業は休み、イブの夜は遅くまで自動車のライトの交索するのが見られた。
 「クレーンのやつがね、今夜はダンスパーティに行くんだ。お前達にも何かあるか?と聞きやがったが、俺たちに何があろうってことか」と、誰かが言ったが、何かキャンデーみたいなのが1個か2個、配られたようだった