「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

西部七十五部隊(佐世保重砲大隊) 1

2006-04-24 23:04:11 | Weblog
その翌日,家の人に送られて2人で佐世保西部七十五部隊に入隊した。そこで着ていた国民服を脱いで支給された作業服に着替えた。着替えた服は忠雄さんが持ち帰ったようだった。佐世保と言えば海軍と決まっているようだが「あーたは何処に召集ですか」「佐世保です」「そんなら海軍ですか」「いいえ、陸軍です」「佐世保に陸軍がありましたかナー」「いや要塞砲の重砲大隊があるのです」「へー」相手は変な顔をしたものだ。勿論陸軍はここだけ。後でここの先輩に聞けばシンガポール攻撃にここの重砲を持って行ったとか言っていた。
小さな兵舎に大勢の招集兵が入ったのだから便所なんか大混雑。朝の集合に間に合わぬという事が起きてきた。ある日、招集兵を集めて「何か言いたいことが有るか」と聞かれた時皆が「便所を増設して欲しい」と希望したが「そうか」と言っただけでどうもして貰えなかった。私は夜中(明け方近く)に起きて大便を済ませる事にしていた。そのうち被服の支給があったが招集兵を1列に並べておいて一人づつ靴、軍帽を取りに来らせるのだが、靴は箱の中から一足になったのをポンポン放り出して拾わせる。招集兵はそれを拾って次の帽子の所に走っていってホイと放り出される軍帽(戦闘帽)を拾って来ることになっていた。靴は足の文数なんかおかまいなし、中には右足だけ、左足だけのものもあった。[どうかして下さい」と言えば「自分達で良いようにやれ」と言って取り上げて呉れなかった。仕方がないのでお互い同士、大きいの小さいの取替えっこをして、後では良くしたもので大体納まってしまった。靴は私には合ったのが当たったように思う。
帽子はホルマリン消毒がしてあったとみえて被ると頭の周りがヒリヒリした。それを言うとこれも「そのうち良くなる」と言って取り合わなかった。しかし後ではヒリつかなくなった。
軍服も身体に合わせるのではなく、「服に合わせろ」ですべてそんな調子であった。
教育は敬礼の仕方とか閲兵分裂の行進とかであったが後で銃が渡され執銃訓練となった。銃は38歩兵銃、騎兵銃やらなにやら取り混ぜて長いのやら短いの、新しい物、古道具屋の店先にありそうなやつを担がされて徒歩行進、捧げ銃、銃の担い方を習った。時には佐世保市郊外のグランドみたいな広場でやった。又ウド越えで相浦までの行軍があった。峠の軍港を見下ろせる方向には板塀がされ、何も見えなくしてあった。又、福崎観音にも連れて行かれた。ここは一寸小高い丘になっていて軍港が見渡せた。