私に召集令が来たのは、10月22、3日頃か、日曜日でもあったのか小屋の入り口を一寸入ったところに藁むしろを敷いて手で小縄を練っているときだった。
役場の小使いさんが「来ましたよ」といって赤というよりも朱に近い令状を渡して帰っていった。「とうとう来たか。」と私は受け取ったが緊張感にあふれた。
当時私は鏡町産業組合に会計係として勤めていたので、事務引継ぎ、申し送り等で忙しかったがそれが済んで、朝日旅館の一室で送別会が催された。町長であり産業組合の組合長でもあった濱田敬吾さん、事務員の販売係の永田末芳さん、購買係の満田秋男さん、貯金係の上島清子さん、役員では理事の上鏡の早川末松さんあたりが来て居られたようだった。それから稲を刈ってしまわねばならんと農作業計画を立てて10月27日前には終るようにしたと思う。旧道の上の稲をアヤ子と2人で刈ったことは今でも懐かしく思い出される。
10月31日出立ちの時は座敷から表までお客が一杯だった。家を出る時親父に「行ってきます」と言ったと思うが、親父がなんと言ったか記憶がない。しかし、これが今世の永遠の別れになるとは思ってはいなかった。
役場の小使いさんが「来ましたよ」といって赤というよりも朱に近い令状を渡して帰っていった。「とうとう来たか。」と私は受け取ったが緊張感にあふれた。
当時私は鏡町産業組合に会計係として勤めていたので、事務引継ぎ、申し送り等で忙しかったがそれが済んで、朝日旅館の一室で送別会が催された。町長であり産業組合の組合長でもあった濱田敬吾さん、事務員の販売係の永田末芳さん、購買係の満田秋男さん、貯金係の上島清子さん、役員では理事の上鏡の早川末松さんあたりが来て居られたようだった。それから稲を刈ってしまわねばならんと農作業計画を立てて10月27日前には終るようにしたと思う。旧道の上の稲をアヤ子と2人で刈ったことは今でも懐かしく思い出される。
10月31日出立ちの時は座敷から表までお客が一杯だった。家を出る時親父に「行ってきます」と言ったと思うが、親父がなんと言ったか記憶がない。しかし、これが今世の永遠の別れになるとは思ってはいなかった。
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