「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

満州へ

2006-04-26 10:47:07 | Weblog
10月23日、午前1時頃、私達は軍装を整え隊伍を組んで営門を出て佐世保駅に向かった。途中は灯火管制で真っ暗闇、ところどころ歩哨の懐中電灯らしきものが見えた。見送る人は誰もいなかった。私達は黙々と行進して行った。突然、「〇〇は居らんか、〇〇は居らんか。」と年老いた男の声が大きく響いた。4.5度叫んで列に近づいて来たが、返事をする者はいなかった。きっと父親が息子に一目会いたいと思って来たのだろうが、何か提灯のようなものを持っていたようだ。すぐ憲兵に押し止められて闇の中に消えて行った。
 24日、博多着。博多港から軍用船に乗せられた。その日の玄界灘は荒れていた。白い布に包まれた銃は船室をあちらにゴロリ、こっちにゴロリ、お互いにぶつかり合って、銃の木質部に傷をつけてしまった。同日、釜山港着。上陸。軍用列車に乗車、北に向かって走る。列車の窓は覆いを下ろして外の景色は全く見えず、時たま赤い光が一寸の隙間から漏れた。きっと興南の窒素工場の辺りだろうと推察した。便所に行ったついでに一寸デッキに出て見たら、スチームの連結管が氷結していた。えらい寒い所に来たぞと思った。
 27日、朝満国境(図門)通過、列車は走ったり、止まったり、窓を開けろと命令が出たかと思えば閉めろと命令が出る。こんな事が暫く続く。ソ連との関係でこんなことをやっているのだと言う。
 29日、牡丹江駅着。夜中だった。降りろと言うがホームは無い。客室のデッキから線路脇に飛び降りる。辺り一面は凍りついていた。線路をいくつも跨いで集合地へ集まる。それから引率の兵に続いて歩く。道は凍りついていて歩くのは大変だ。あっちこっち転ぶ者がいた。私も転びそうになって危うく立ち直った。引率の者は平気でサッサと歩く。後で分かったのだが彼らは防寒靴を履いていて、靴裏にゴムが貼ってあるので滑らないのだ。私達のは鉄の鋲が打ってあるので、スケートよろしく滑る訳だった。 駅から兵舎までの距離は一寸遠かったように思う。