「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

電信第六連隊  8

2006-05-08 19:17:44 | Weblog
 小夜食には甘い菓子見たいなのが配給された。やはり、北満の地は寒かった。零下35度ぐらいが毎日続いた。3月の始め頃まで雪は降らなかった。
外で執銃訓練があって室内に銃を持ち込むとペーチカの温かみで銃身にビッシリ露が出てくる。急いで拭き取り内部の手入れをする。すると、30分も経たない間に、又、露が湧き出る。又、拭き取り手入れをする。こんなことを4回くらいはやらないと赤錆になってビンタものだった。
これは帯剣も同じであった。又、銃はいつか空砲での演習があったが、後の手入れが大変だった。銃腔の掃除が毎日毎日続けて1週間くらいかかった。火薬の化学作用で腐食されるということだった。私は2発撃ったがこれが軍隊生活中で鉄砲を撃った全部の数である。
正月には連隊でカルタ取り大会があったが、ここのは電信隊らしくモールス信号で読み札を読み、各中隊から選抜された兵隊が札を取るのだが、「斉藤、お前出ろ!」ということで上等兵と一緒に本部の大広間に行ったが、さっぱり要領を得ぬ間に終った。札は取ったやら取らぬやら、記憶にないが帰りに「なあに、これでいいんだ」と上等兵殿がおっしゃったが、それでも2中隊は成績が良かったとのことだった。
 正月前、本部の不寝番にかり出されたことがあった。5、6名、上等兵に引率されて行ったが、私達が整列している前に軍曹殿が現れて、「御苦労、不寝番の規則はヒトツ…、」と言って次の言葉がなかなか出てこなかった。苦心惨たん思い出そうとしていたが「つまり、貴様達が中隊でやっている様に一生懸命やれ。終わり!」で終った。本部の軍曹殿でもあの程度かとおかしかった。 班内では夜、軍人勅諭の暗唱が行われて、「わが国の軍隊は天皇の統率し賜うところにぞある」という具合に毎晩やらされたが一向に効果があがらなかった。「それなら、貴様達は軍人勅諭の5か条でも覚えろ」と「ヒトツ、軍人は忠節をつくすを本文とすべし」とやらされたが、これも一向に覚えないので、終いには「貴様達はダメだ」とさじを投げて2週間くらいで止めになった。 石川という兵長がいた。「俺は北九州出身だ、貴様達も九州男子だろう。九州男子がそのザマは何だ!、気合を入れろ!気合を入れろ!」と怒鳴っていたが初年兵の中には知っているものもいたが、大したことにはならなかった。「貴様達は物覚えが悪いのう」と教育係は嘆息した。
 私達召集兵は家庭持ちばかりで、理屈も何も通らぬ絶対服従の世界では、どう気合を入れて良いか分からなかった。いうならば、要領の悪いのが揃っていたということか。 しかし、流石に若い者は元気がよく、又、頭脳も柔らかであった。1ヶ月ほど遅れて入ってきた若い新兵達は、4月頃には私達と同程度の通信が出来るようになっていた。

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