「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

一生を終わりました

2009-07-10 10:12:53 | Weblog
長い間ご愛読くださいまして有難うございました。
今年、平成21年(2009)6月14日、永眠いたしました。
戦争と平和…あらためて考えさせられます。

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8 コメント

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感謝致します (ふみ)
2011-03-25 04:54:23
部屋の掃除をしていましたら7年前に亡くなった父のノートが出てきました。几帳面な父は身の回りの事を1冊のノートにまとめ、闘病中私に託しました。当時は闘病、葬儀、と慌ただしく、ノートの内容をゆっくり見ることもなかったのですが、改めて見ると「兵歴」が記載されており、元々無口だった父は戦地でどのように過ごしていたのか無性に知りたくなり「電信第6連隊」で検索したところ貴殿のブログにヒットしました。
二十歳を過ぎた息子たちは「もっとおじいちゃんの話を聞いておけばよかった」と日頃言っていますので、息子たちと一緒に拝読させて頂きます。
2、3ページ拝読しましたが、貴殿のお父上様が見た物、聞いた事、感じた事を私の父に置き換え、青年期の父を想起してみたいと思います。
貴重な記録を本当にありがとうございます。
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リババレーというのに聞き覚え (ひろ)
2011-06-09 19:03:03
私の父は、インドネシア方面で捕虜になり、その捕虜の間に劇団を作り、脚本や振付など本格的にやっていたというのを聞いています。リババレーというのも聞いています。
もっと早くこれに気づけばよかったと思い、少し後悔しています。恐らく誰もいらっしゃらないんでしょうけど・・・・
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Unknown (管理人)
2011-07-17 12:15:44
ふみ様
読んでいただき有難うございました。
先月、3回忌を田舎でいたしました。
パソコンを習いたいけど、機会が無くワープロで苦心しながら書いたのを弟が装丁をし姉弟に。
私も本を見るまで話は聞いたことがありませんでした。

ご参考になれば、父も喜んでいると思います。
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Unknown (管理人)
2011-07-17 15:03:02
ひろ様
コメント有難うございました。
リババレー、書き写しただけですが何か懐かしく…
劇団を作った人たちはみんなの心に希望の灯をともしてくださったのではないかと。
苦しい中にも少しは楽しい娯楽もあったのですね。親たちの時代は戦争に振り回された大変な時代でしたね。
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管理人さま (山口)
2015-02-22 00:27:48
管理人さま、今になって、自分が書いたコメントに返信があるとは思いませんでした。
私の父は山口岑、若しくは山口峰、峯で掲載されていると思います。
誰かご存じのかたはもういらっしゃらないとは思いますが。
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Unknown (管理人)
2015-03-02 17:35:38
遅くなりました。
熊本県人会名簿に載っているのは旧、金剛村の山口峯喜様の名前があります。

父より若い人たちが多かったので、もしかしたら、まだ居らっしゃるかも知れませんが、その術を知らないので、お役に立たず、申し訳ありません。
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管理人さま (山口)
2015-03-03 07:30:12
ありがとうございました!
まさに父です。父は昔の八代郡鏡町貝洲を本籍にしていて、私が子供の頃は何度か戸籍を取り寄せたことがあります。
父は終戦後、僧侶になり昭和30年に私の姉を連れて鹿児島に来て、8年後私が誕生しております。
父は昭和57年2月19日、午前8時半頃寺で読経をしながら倒れ、帰らぬ人になりました。その時私はちょうど高校の卒業式前日で、その前の夜に戦争で亡くなった人達の番組を観て、大量の涙を流していたのが最後の想い出でした。
リババレーについては、青い表紙の本があったのを覚えています。暇なときは何回もその本を読み返していたのを覚えています。更に家には当時、万年筆や鉛筆で書かれた劇の台本みたいなものがあったのを覚えています。
亡くなって30数年して、この前の年忌で思い出したものですから、このサイトを見つけ管理人さまに報告できたことを父に代わって御礼申し上げます。
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申し訳ありませんでした (管理人)
2015-03-03 16:25:03
大変失礼いたしました。
住所を1行間違えていました。旧、八代郡文政村字貝州になっており、正に、山口様のお父上でした。
大事な所を間違えてしまい申し訳ありません。
今年は父の7回忌で、鏡町に帰って、墓前に報告いたします。有難うございました。
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