小学校の前を通り、印鑰(いんにゃく)神社の横を曲がった。
「お陰様で無事に生きて帰ることが出来ました」とお礼を言わなければ ならないなと思ったが、
敗残の身がなんとなく恥ずかしく、又今日は荷物運びの人も連れているのだから、
次の日にしようと決めて頭だけ下げて通り過ぎた。
心の中では、なるべく人に逢わないようにと考えながら歩いていたが、
幸いに昼過ぎだったから人通りはなく、花岡で宮崎末彦さん1人に会っただけで家に帰り着くことが出来た。
チズエ(妹)の手紙どおり、前庭の松の木はなかった。そこら辺りにコスモスの花が10株ばかり美しく咲いていた。
「ただいま」と言って、4年ぶりに我が家の土間に立った。荷物運びの人は表の上がりかまちにリュックを下ろして腰を掛けた。
私は上着の物入れ(ポケット)からお金を出して「ご苦労さん」と言って渡した。その人(関本さん)は黙って受け取ると帰って行った。
炊事場の方からアヤ子が出てきた。私の顔を見て黙って立っていた。しばらくしてから
「父ちゃんが帰ってきたよ」 と、居間の方に向かって叫んだ。和子が出てきた。和子は私の顔に見覚えがあったらしく、
懐かしそうに近寄ってきた。続いて2人の子供が出てきたが、何か腑に落ちないような表情をして、
板戸の影から覗くような仕草をした。
最近、この時のことを泰子に聞いたら、
「何処のおじさんだろうか?今度のおじさんはなかなか戻らっさん」と思ったと言う。何しろ初対面のお父さんだから無理もない。
双子と言えばスマトラのタケゴンに居た時のこと、ここでは加給品としてバナナが上がってくることがあった。
どうしたものか、その中に2本がくっついた双子のものが混じっていたが、
何故か誰もそれを取りたがらなかった。私が
「これも1本に計算するのか?」と聞くと
「そうだ」と言うので私が貰ったことが2,3度あった。
そのうち家から手紙が届いた。その中に家族の写真が同封されていたが、双子の女の子供が写っていた。これを見て、中西達が
「やはり、双子のバナナを食えば双子が生まれるんですかね」と言ったので
「馬鹿な、しかし、そうかなあ」と皆で大笑いしたことがあった。
チズエも出てきて、アヤ子と2人で
「復員船が入ったことは新聞で読んだが、今度の船だと今日頃、帰って来るのではないか」とも思っていたと言った。
上がりかまちに腰を下ろして、巻き脚絆を取り、軍靴を脱いで上がり、座敷の仏壇の父に
「只今帰りました」と手を合わせた。 そして昼飯。 それが済んでから、居間でリュックを解いて、レーションを開けて缶詰やら菓子、ビスケットやらを取り出して子供にやった。
和子はすぐ懐いたが、2人はなかなかそばに寄ってきてくれなかった。
そのうち私が帰ったという話で近所の人達が次々と訪ねて来て、苦労を労らってくれ、私は「留守中一家の者が大変お世話になりました」と、お礼を言って持って来た煙草を全部分けてやった。
明くる日、庭に干してある洗濯物を見たら、みんな妙に黒ずんでいた。
「何か黒いみたいだなあ」と言ったら、
「何しろ石鹸の配給が少ないからこうなるんで、これでもよその家より白い方だから」と教えてくれた。
「そうか」私はリュックの底を探して、作業隊での配給の洗濯石鹸やら、作業場で拾った化粧石鹸やらを取り出して渡した。それから洗濯物は目に見えて白くなっていった。こんなに石鹸に不自由しているのだったら、もっと手に入れてくれば良かったと思ったものだ。
次は県の援護局に行き、軍歴表の提出。日本銀行でシンガポールで英軍の作業をしたときの賃金の支払いを受けた。
この金も小額ではあったが、当座は非常に為になった。
完
これで「私の従軍記」は写し終えました。長い間、有難うございました。
「お陰様で無事に生きて帰ることが出来ました」とお礼を言わなければ ならないなと思ったが、
敗残の身がなんとなく恥ずかしく、又今日は荷物運びの人も連れているのだから、
次の日にしようと決めて頭だけ下げて通り過ぎた。
心の中では、なるべく人に逢わないようにと考えながら歩いていたが、
幸いに昼過ぎだったから人通りはなく、花岡で宮崎末彦さん1人に会っただけで家に帰り着くことが出来た。
チズエ(妹)の手紙どおり、前庭の松の木はなかった。そこら辺りにコスモスの花が10株ばかり美しく咲いていた。
「ただいま」と言って、4年ぶりに我が家の土間に立った。荷物運びの人は表の上がりかまちにリュックを下ろして腰を掛けた。
私は上着の物入れ(ポケット)からお金を出して「ご苦労さん」と言って渡した。その人(関本さん)は黙って受け取ると帰って行った。
炊事場の方からアヤ子が出てきた。私の顔を見て黙って立っていた。しばらくしてから
「父ちゃんが帰ってきたよ」 と、居間の方に向かって叫んだ。和子が出てきた。和子は私の顔に見覚えがあったらしく、
懐かしそうに近寄ってきた。続いて2人の子供が出てきたが、何か腑に落ちないような表情をして、
板戸の影から覗くような仕草をした。
最近、この時のことを泰子に聞いたら、
「何処のおじさんだろうか?今度のおじさんはなかなか戻らっさん」と思ったと言う。何しろ初対面のお父さんだから無理もない。
双子と言えばスマトラのタケゴンに居た時のこと、ここでは加給品としてバナナが上がってくることがあった。
どうしたものか、その中に2本がくっついた双子のものが混じっていたが、
何故か誰もそれを取りたがらなかった。私が
「これも1本に計算するのか?」と聞くと
「そうだ」と言うので私が貰ったことが2,3度あった。
そのうち家から手紙が届いた。その中に家族の写真が同封されていたが、双子の女の子供が写っていた。これを見て、中西達が
「やはり、双子のバナナを食えば双子が生まれるんですかね」と言ったので
「馬鹿な、しかし、そうかなあ」と皆で大笑いしたことがあった。
チズエも出てきて、アヤ子と2人で
「復員船が入ったことは新聞で読んだが、今度の船だと今日頃、帰って来るのではないか」とも思っていたと言った。
上がりかまちに腰を下ろして、巻き脚絆を取り、軍靴を脱いで上がり、座敷の仏壇の父に
「只今帰りました」と手を合わせた。 そして昼飯。 それが済んでから、居間でリュックを解いて、レーションを開けて缶詰やら菓子、ビスケットやらを取り出して子供にやった。
和子はすぐ懐いたが、2人はなかなかそばに寄ってきてくれなかった。
そのうち私が帰ったという話で近所の人達が次々と訪ねて来て、苦労を労らってくれ、私は「留守中一家の者が大変お世話になりました」と、お礼を言って持って来た煙草を全部分けてやった。
明くる日、庭に干してある洗濯物を見たら、みんな妙に黒ずんでいた。
「何か黒いみたいだなあ」と言ったら、
「何しろ石鹸の配給が少ないからこうなるんで、これでもよその家より白い方だから」と教えてくれた。
「そうか」私はリュックの底を探して、作業隊での配給の洗濯石鹸やら、作業場で拾った化粧石鹸やらを取り出して渡した。それから洗濯物は目に見えて白くなっていった。こんなに石鹸に不自由しているのだったら、もっと手に入れてくれば良かったと思ったものだ。
次は県の援護局に行き、軍歴表の提出。日本銀行でシンガポールで英軍の作業をしたときの賃金の支払いを受けた。
この金も小額ではあったが、当座は非常に為になった。
完
これで「私の従軍記」は写し終えました。長い間、有難うございました。
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