スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

産業対抗野球大会史(4)1958年当時の参加チーム

2020-06-18 08:11:14 | 産業対抗野球史
3回目を迎える産業対抗野球史。
今回は、第8回大会が行われた1958年の各部門の出場登録チームをご紹介します。

22部門ごとに、参加チームの多い部門から掲載しました。
会社自体、現存していないチームも少なくありません。栄枯盛衰という言葉が思い浮かびます。



国鉄は社会インフラであることを活かし、全国各地でチームが活動していたことが分かります。
炭鉱も当時の日本の産業に欠かせない存在だったことが伺えますね。
産業機械部門では、三菱重工名古屋、鷺宮製作所、日本楽器(現・ヤマハ)が現在も活動を続けています。



景気に左右されやすい金融ではありますが、現在も日本生命、四国銀行、明治生命(現・明治安田生命)が活動を継続。
同じく景気に大きな影響を受ける金属鉱工業は、現存するチームはありません。ちなみにトウトクは東京特殊電線のことです。

花形産業として、野球や女子バレーで複数の強豪チームを生み出した化学繊維も今では見る影もありませんね。
鉄道運輸では、日本通運が現在も強豪として社会人野球界に君臨し続けています。



昔は百貨店チームが多かったことがわかります。ただ、こちらも景気による浮き沈みが激しい業界です。
電電は、全国のチームが強豪チームとして社会人球界を盛り上げていました。
NTTに引き継がれた後も社会人球界をにぎわしましたが、現在では東日本・西日本の2チームのみ(1999年~)。

鉄鋼は富士製鉄と八幡製鉄が統合されて新日本製鐵に。さらに住友金属と合併して新日鐵住金となり、「日本製鉄」(2019年~)となりました。
選手が地域の関連会社に分散したり(かずさマジック、東海REX)、
クラブチームとして存続後に企業登録となったチーム(室蘭シャークス、光シーガルズ、大分)もあります。

川崎製鉄と日本鋼管も「JEF」となり、東日本・西日本の2チームとなるなど、業界再編の波の影響を強く受けている業界ですね。



電気機械は東芝、松下電器(現・パナソニック)、日立製作所が現在も名門チームとして活動中です。
日本産業界を支えた造船は、今や業界自体が風前の灯火です。
紙パルプは王子製紙春日井(現・王子)が東海地区の雄として頑張っています。

石油は日本石油(現・JX-ENEOS)、自動車は富士重工(現・スバル)が強豪として全国大会をにぎわせています。
ガス会社3チームはインフラだけあって、現在も安定した成績を残していますね。

社会人野球の歴史を眺めると、戦後日本の産業の動きも見えてきます。
次回は産業対抗野球の第9回(1959年)から12回(1962年)です。

産業対抗野球大会史(3)第5回~8回

2020-06-16 09:05:08 | 産業対抗野球史
今回は産業対抗野球大会史の2回目、第5回(1955年)~8回(1958年)大会です。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第5回は1955年11月19日から28日まで行われました。
晩秋の開催ながら好天に恵まれ、それなりに盛り上がっていたようです。
優勝候補や名門チームが次々に敗れるなど、波乱含みの大会を制したのは
決勝戦で7回裏に4点差をひっくり返す大逆転劇を見せたトキコ
(自動車部品メーカー、東京機器工業)でした。

第6回は1956年11月17日から28日まで開催されました。
今大会より専売部門が官業公社部門に吸収される一方、電信電話部門が独立しています。
日本選手団が大活躍したメルボルン五輪と被ったこと、
またこの時期としてはかなり厳しい冷え込みとなったため、盛況とはいかなかったようです。
第4回までの覇者は翌年になぜかつまづいてしまい、
「2回は優勝できない」とささやかれていた産業対抗ですが、
第3回王者の熊谷組がジンクスを打ち破り、3年ぶりに覇者となりました。

第7回は1957年11月9日から19日まで開催。
化学工業部門とゴム皮革部門が再び統合。また映画演劇レコード部門が消滅し、22部門体制となります。
この時期としては異例の暖かな日が続いたこともあり、「大会始まって以来」の盛況となった今大会。
新鋭同士の決勝となりましたが、倉敷レイヨン(現・クラレ)を下した丸善石油(愛媛県松山市)が初優勝を成し遂げます。
なお、四国のチームが全国規模の大会で優勝するのは、これが初めてとなりました。

第8回は1958年10月28日から11月5日にかけて開催されました。
優勝したのは、安定した投手陣をバックに着実に勝ち上がった日鉄二瀬(日鉄鉱業二瀬鉱業所)です。
決勝では好投手・北川芳男を擁するニッポンビール(現・サッポロビール)を、1対0の僅差で下しました。

次回は1958年当時の参加チームをご紹介します。

産業対抗野球大会史(2)第1回~4回

2020-06-14 09:22:53 | 産業対抗野球史
社会人野球の三大大会の一つとして、多くの企業チームにより覇が競われた日本産業対抗野球大会(通称・サンベツ)。
今回は、第1回から第4回大会についての概要を紹介します。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

電力事情によりナイターが禁止となり、球場難にあえぐ中で第1回の会場となったのは、後楽園と武蔵野グリーンパーク球場。
1951年10月21日から30日までの10日間(試合が行われたのは8日間)、22チームにより熱戦が展開されました。
日没が早い時期での開催だったため、早朝にゲームを行うなど厳しい条件、日程だったようです。

出場チームを見ると、明電舎、西京貨物、馬淵建設、明治座など、
都市対抗とは縁のなかったチームが出場していることに目を引かれます。
この当時、馬淵建設は建設部門で熊谷組のライバルとして立ちはだかっていました。

決勝に勝ち上がったのは、化学ゴム工業代表・鐘淵化学と電力ガス代表の東京ガス。
接戦となったものの、5対4で鐘化が勝利。栄えある初代秋の王者となりました。
優勝の鐘化には都市対抗の「黒獅子旗」に対抗するかのように、「七曜黒鷲旗」が贈られました。
そのデザインは高島屋が手掛けたものだそうです。

続く第2回は1952年11月1日から9日まで、後楽園球場で開催されています。
機械自動車が産業機械と自動車に、化学ゴム工業が化学工業・ゴム皮革に、官業が官業と専売にそれぞれ分割。
一方で、百貨店と商業が統合されました。

今大会も、B・S・タイヤ(ブリヂストン)、石川島重工、明利酒類など、都市対抗では見かけないチームが名を連ねています。
中でも異色なのは「キャバレー春美」ですね。
キャバレーは今でいうキャバクラではなく、大規模な会場で生バンド付きのダンスショーなどを見ながらお酒を楽しむというもので、
スケールの大きなショーパブに近いかもしれません。そのため従業員の数も多く、野球部の編成が容易だったのでしょう。
さて肝心の大会の方はエース・米久保投手の好投もあり、都市対抗でも実績豊富な全藤倉が初優勝を飾りました。

第3回は1953年9月17日から27日まで、後楽園と川崎球場を使用されて開催されました。
台風シーズンの真っただ中のため、3日間も順延するなど雨に悩まされた大会となったようです。
明治座や山陽電軌などの新鋭チームの活躍はあったものの、神宮で開催されていた大人気の「東京六大学」とバッティング。
試合時間が早かったこともあって、盛り上がりに欠けたようです。
決勝は熊谷組が明治座を僅差で下し、初となる黒鷲旗を手に入れています。
ちなみに2回戦で日本電電がニッポンビール戦で、継投によるノーヒットノーランを記録しています。

第4回は1954年11月2日から10日まで、後楽園球場で開催。以降、産業対抗は後楽園オンリーでの開催となります。
金融部門が不参加のため、23チームにより黒鷲旗が争われましたが、
前年の都市対抗・サン大会の覇者である強豪・大昭和がコロムビアを終盤に逆転、突き放して初となる秋の王者に輝いています。

次回は1955年(第5回)~58年(第8回)です。

産業対抗野球大会史(1)前史

2020-06-12 08:50:08 | 産業対抗野球史
本日からは恐ろしくマニアックなシリーズをスタートさせます。
その名も「産業対抗野球大会史」です。

といっても、ピンとこない方の方が圧倒的に多いはず。
1951年から73年まで、社会人野球のビッグイベントとして行われていた大会です。
当時は「サンベツ」の愛称で、野球ファンから親しまれていました。

かつて、社会人野球では真夏の球宴・都市対抗野球大会に加え、
球音の到来を告げる春のサン大会(選抜都市対抗野球・現在のスポニチ大会)、
そしてシーズンの掉尾を飾る秋の産業対抗が「社会人野球三大大会」と呼ばれていました。

産業対抗が開催されることになった理由として、戦後復興に沸き立つ当時の日本産業界の好況がありました。
すでに、全国の鉄道管理局の約30の野球チームによって1921年から鉄道野球大会が行われていましたが、
戦後まもなくからは、日本の産業を支える存在となっていた炭坑チームによる野球大会が
日本石炭協会を中心に、政府や毎日新聞の協力のもとにスタート。

また、日本鉄鋼連盟も鉄鋼会社による全国規模の野球大会を企画していたほか、
電気や自動車業界においても、同業種の企業による全国規模の野球大会の開催熱望の声が上がっていました。

全国民が復興に向けて邁進する中、産業の発展、業界の親睦・融和を図るべく、
1951年10月、日本産業界を挙げた野球の祭典として、「日本産業対抗野球大会」のスタートが決定したのです。

第1回の主催は日本社会人野球協会(現・日本野球連盟)、産業野球連合会の共催。
後援は通産省(現・経済産業省)、文部省(現・文部科学省)、運輸省(現・国土交通省)、大蔵省(現・財務省)の各省。
さらに日本経営者団体連盟、経済団体連合会、そして毎日新聞社と、そうそうたる顔ぶれで華々しく幕を開けます。

第1回に参加した産業は国鉄、炭鉱、鉄鋼、化学肥料、石油、電力・ガス、鉄道運輸、紙・パルプ・新聞・通信、綿紡績、化学繊維、造船、
建設、金融、醸造・食品、金属鉱工業、電気機械、官業公社、化学工業、産業機械、百貨店商業、電信電話、自動車の計22部門。

会場である後楽園球場を目指して、それぞれの部門で予選を実施。
その代表となったチームは業界の親睦・融和を目指すものとして、各部門で敗れたチームから
都市対抗と同様に、選手を「補強」することが可能でした。

次回は第1回大会から4回大会について書きます。

大阪桐蔭出身プロ野球選手一覧【後編】

2020-06-09 08:35:19 | 大阪桐蔭出身プロ野球選手
今回は、大阪桐蔭出身のすべてのプロ野球選手を紹介するシリーズの後編です。

08年に17年ぶりに夏の甲子園を制覇すると、12年には春夏連覇の偉業を達成。
14年には夏の甲子園優勝、15年のセンバツはベスト4、17年のセンバツでは優勝、
18年には史上初となる2度目の春夏連覇…と、この10数年は圧倒的な戦績を誇る大阪桐蔭。

その要因は同校の指導力の高さや、有力な中学球児の獲得などさまざま挙げられるでしょう。
実際に00年から08年まで、同校からは9年連続でプロ野球界に選手を送り込むなど、
往年のPLブランドに匹敵する「野球逸材養成スクール」として君臨しています。



1年生から中心選手として活躍し、3年のセンバツではエースとして甲子園に乗り込んできた中田翔。
日本ハムでは若手時代から時代の主力と期待され、2度の打点王をマークするなどチームの顔へと成長を遂げています。
中田とバッテリーを組んだ岡田雅利は社会人を経てのプロ入り。西部では貴重な控え捕手として、一軍に定着しています。

08年、大阪桐蔭は2度目の全国制覇を成し遂げますが、その時の主砲が浅村栄斗です。
3年目にレギュラーに定着すると、安定感抜群の中距離ヒッターとしてチームに貢献。
18年には3割・30本・100打点を達成するなど、今や球界屈指のバッターとなっています。

10年度卒の江村直也は3年目に一軍デビューを果たすなど正捕手候補として期待されていますが、
今のところは控え捕手に甘んじでいますね。
11年度卒の山足達也も、年齢的にそろそろ一軍定着を果たしたいところです。

12年、大阪桐蔭は史上7校目の春夏連覇を達成しますが、その原動力がエースの藤浪晋太郎です。
プロでも高卒1年目からいきなり10勝をマーク。入団から3年間で35勝をマークするなど
球界屈指の右腕に成長しますが、その後は不調が続いています。素材はいいだけに、奮起が待たれますね。
控え投手としてチームを支えた澤田圭佑は、立大ではエースとして活躍。
プロでもセットアッパーとしてまずまずの成績を残しています。

下級生ながら正捕手に座ったのが森友哉。甲子園では5本塁打と長打力をフルに発揮しました。
プロでも1年目から積極的に一軍で起用され、19年には重労働の捕手を本職としながら
首位打者をマークするなど、抜群の打撃センスでチームの優勝に貢献しています。

14年夏の甲子園で、クリーンナップとして優勝に貢献したのが香月一也。
プロ入り後は持ち前の打力を発揮できていませんが、まだ若いのでこれからの成長が期待されます。

春連覇に加えて、2度目の春夏連覇という前人未到の快挙を達成した18年の大阪桐蔭。
2名が1位指名を受けており、計4名がプロに飛び込んでいます。
しかし、超高校級の素材として即戦力の期待を受けた主砲の根尾昴、藤原恭大はともに苦戦。
1年目はプロの洗礼を浴びることになってしまいました…。

14年度卒以降の選手は一軍に定着していませんが、根尾や藤原も含めてこれからでしょう。

10年度から連続してプロ選手を生み出した同校ですが、17年度卒は高卒プロ入りはゼロ。
しかし、名門大学に進学後に活躍している選手が複数いますので、空白は埋まることになりそうですね。

最後に、大阪桐蔭出身選手でベストメンバーを組んでみました。
森本は器用なので外野に回ってもらいます。
また、今中は3年時に校名が変わったのでここは外し、岩田を投手に選んでいます。

1(遊)西岡剛
2(二)浅村栄斗
3(右)森友哉
4(三)中村剛也
5(一)中田翔
6(中)平田良介
7(左)森本学
8(捕)岡田雅利
9(投)岩田稔

1番から6番まではそうそうたるメンツです。今後も、大阪桐蔭OBが球界を跋扈しそうですね。