スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

産業対抗野球大会史(9)第21回~23回

2020-06-28 08:57:00 | 産業対抗野球史
社会人野球の秋の王者を決する「産業対抗野球」の歴史を探るシリーズの第8回は、
第21回(1971年)からラストとなった23回(1973年)大会までを振り返ります。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第21回大会は1971年10月26日に開幕しました。
化学肥料部門では唯一のチームだった電気化学が8月に解散。
炭鉱部門もオール常磐をはじめ複数のチームが次々と活動を停止し、両部門とも消滅して18部門となっています。
さらに今大会は日程の調整などの理由により、紙パルプと化学繊維、石油と電力ガス、官業公社と醸造食品の各部門代表がそれぞれ戦い、
代表を決する形を採ったため、結局15チームでの開催となりました。
少数精鋭となったためか、当時の社会人野球を代表する名門チームが多数出場する華やかな大会となりましたが、
頂点に上ったのは全3試合で本塁打を放った主砲・小田義人が活躍を見せた大昭和製紙です。7年ぶり3度目の優勝でした。

第22回大会は18チームの参加により、1972年11月1日に開幕。
化学繊維、紙パルプ、電力ガス、石油、官業公社が再び単独で代表チームを送り出せるようになった一方、
醸造食品部門は唯一残った小西酒造が百貨店商業部門に移り、「消滅」。
金属鉱工業部門も「鉱業炭礦」部門に名を変えています。
そんな今大会を制したのは、7年ぶり2度目となる日本石油です。
2回戦の日生戦で大会史上2人目のノーヒットノーランをマークし、
準決勝では延長14回を完封するなど、快刀乱麻のピッチングを見せた五月女豊の活躍が光りました。

最後の大会となった第23回大会は、1973年11月4日から11日まで開催されています。
高度経済成長により日本の産業構造に変化が見られ、部門の編成が難しくなってきたこと。
また都市対抗のように近隣の地区からではなく、地方から補強選手を招聘しなければならないこと。
以上のようなさまざまな問題が数年前から横たわり、「単独チームによる大会を」という声が日増しに強くなっていたようです。
特に1974年は「存続か」「中止か」の協議が繰り返され、最終的には
当初の目的が達せられたことによる「発展的解消」として、ラストの開催となりました。

決勝戦は快晴の日曜日。競馬の菊花賞も重なり後楽園周辺は大変な人出となったようです。
最後の黒鷲旗を手にしたのは、エアロマスターでした。
親会社の日本熱学からチームを引き継ぎ、前年にプロ球団を持つために解散した日拓観光からも選手を集め、
準々決勝の日生戦以外はいずれも快勝するなど、安定した戦いぶりを見せました。

エアロマスターはこの後12月にハワイに遠征し、0勝3敗に終わっています。
翌年の5月にチームは解散しており、唯一の見せ場が産業対抗での優勝となりました。

次回は最後の大会となった、1973年の予選に参加したチームを紹介します。

産業対抗野球大会史(8)歴代三賞

2020-06-26 09:16:18 | 産業対抗野球史
産業対抗野球の歴史を探るシリーズの第6回は、少々趣向を変えて
第1回から23回までの各大会のタイトル受賞者(最高殊勲選手、敢闘賞、首位打者)を紹介します。



その大会でチームを優勝に導く活躍を見せた最高殊勲選手の受賞者を見ると、
北川桂太郎(セネタース、東急など)、久保吾一(国鉄)、大原博志(大阪=現・阪神)らのように
戦後にプロのチームに在籍しながら、その後社会人球界に転身してきた選手たちが目立ちます。
北川は、のちにプロに復帰(高橋)しています。

池田英俊はその後に広島入り。エース格としてチームを支えたほか、コーチとして多くの投手を育てています。
藤原真は69年にドラフト1位でサンケイ(ヤクルト)入り。のちに日本ハムなどでマウンドに立ちました。
小田義人はヤクルトを経て、日本ハムでは主力打者として打棒をふるいました。
五月女豊は阪神、西武、大洋などでリリーバーとして活躍しています。

続いて敢闘賞。
最初の受賞者である本田有隆は、のちに取手二、常総学院のコーチとして木内幸雄監督を支え、全国制覇に貢献した人です。
木村由夫は戦前、巨人で1年間だけプレーしています。

2度にわたり敢闘賞を受賞した北川芳男は、プロ入りすると国鉄、巨人で二ケタ勝利をマークするなど活躍しました。
大工勝は高校卒業後に毎日に入団も活躍できず。社会人に転身後は、長く主力選手としてプレーしています。
武上四郎はのちにヤクルトに入団すると中心選手としてチームを引っ張り、のちに監督にも就任しました。

望月彦男は72年に29歳でプロ入り(西鉄)を果たすも、2年で引退。
2度受賞している田中章は69年に巨人入り。西鉄に移籍後の73年、74年には2年連続で二ケタ勝利を挙げました。

石山建一は後に早大、プリンスの監督としてチームを日本一に導いています。
会田照夫はヤクルトで中継ぎとして活躍しました。
井本隆は近鉄のエースとして79、80年の連覇に貢献。
久保田美郎は、のちに熊谷組の監督を務めています。

次回は第21回(1971年)から、最後となった23回(1973年)までの大会を振り返ります。

産業対抗野球大会史(7)第17回~20回

2020-06-24 08:32:37 | 産業対抗野球史
産業対抗野球大会の歴史を探るシリーズ第6回は、
第17回大会(1967年)から第20回(1970年)大会までを見ていきます。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第17回は1967年11月1日にスタート。優勝したのは自動車部門の日産自動車でした。
エース・斎藤征夫が準々決勝、準決勝と連投となりながら連続で完封し、27イニング無失点の活躍を見せています。
さらに決勝ではこの年の都市対抗で、本田技研の初出場の原動力となった補強の河本昭人が日通を1失点に抑える好投。
投手力にモノをいわせて、初の黒鷲旗を手中にしています。

第18回は1968年10月29日に開幕。全鐘紡が2度目の優勝を果たしました。
立役者となったのは5試合中4試合で完投したエース・藤原真投手。
準々決勝では2回戦で大会史上初のノーヒットノーランをマークした日本石油・三浦健二に投げ勝つと、
決勝では田中章、金田留弘とのちにプロ入りする2投手を擁した日本通運浦和に3対1で勝利しています。
日通は2年連続で準優勝となり、エース・田中も連続での敢闘賞受賞となりました。
なお、全鐘紡は翌年1月に解散。都市対抗を4度制覇した名門チームの最後の晴れ舞台となっています。

第19回は1969年11月2日に開幕。
部門で唯一残っていた全鐘紡の解散により、綿紡績部門が消滅。21チームによって優勝が争われました。
黒鷲旗を勝ち取ったのは北海道拓殖銀行で、全国規模の大会で北海道のチームが優勝したのはこれが初めて。
この5年後には大昭和製紙北海道が都市対抗を制覇しています。
最高殊勲選手賞を獲得した小弓場保(65年の都市対抗で橋戸賞受賞)や加島和彦ら、
日本生命からの補強組の活躍が拓銀Vをサポートしました。

節目の第20回大会は1970年11月6日にスタート。八幡製鉄と富士製鉄が合併し、新日本製鐵が誕生して初参加しました。
また王子製紙が大昭和の強大な壁を打ち破ったほか、相模原市役所が嬉しい初出場を果たしています。
この時期としては珍しく暖かい日が続く中、優勝に輝いたのは13年ぶり2度目となる丸善石油でした。
準決勝で新日鉄を下すと、三協精機との決勝では日本石油から補強の秋元国武がサヨナラ2ランを放つ、劇的な幕切れとなっています。

次回は歴代の三賞受賞者(最高殊勲選手、敢闘賞、首位打者賞)をご紹介します。

産業対抗野球大会史(6)第13回~16回

2020-06-22 08:36:09 | 産業対抗野球史
伝説となった社会人野球三大大会の一つである、産業対抗野球大会の歴史を探るシリーズ第5回は、
第13回(1963年)から第16回(1966年)大会についてです。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第13回は1963年11月6日に開幕。高度経済成長時代へと向かう中で経済も好調だったのか、
5年ぶりに全22チームが揃っての大会となりました。
新三菱神戸、岩崎電気、新三菱京都、積水化学、トウトク、小西酒造など初出場組も増えています。
大会を制したのは熊谷組で、2年ぶり4回目。決勝で夏の都市対抗覇者・積水化学を下してのVでした。
藤津靖雄投手が全4試合に登板、4勝3完投の快投を見せて最高殊勲選手賞に輝いています。

第14回は1964年10月31日に開幕。
陸上自衛隊のほか、部門大会で熊谷組を破った日本熱学が初出場を果たしています。
延長戦が7試合、サヨナラ決着も7試合、うち3試合が本塁打によるもので、
開幕戦と決勝戦はサヨナラアーチでの決着と、劇的な展開のゲームが目立った今大会。
実に17本ものホームランが飛び出すなど、打撃の大会でもありました。
優勝は大昭和製紙で10年ぶり2度目。決勝でサヨナラ弾を放った尾関達三が最高殊勲選手賞に輝いています。

第15回は1965年11月7日開幕。
化学繊維部門が不参加のため21チームで行われました。金指造船、日本カーバイドなどが初出場を果たしています。
大会ではエース・三浦健二が全5試合に登板、4試合で完投する活躍を見せた日本石油(現・JX-ENEOS)が、初の黒鷲旗を手にしました。
ちなみに三浦は決勝(15日)の2日後に行われた第1回のドラフトで、西鉄からの3位指名を拒否。
翌66年には巨人(第2次ドラフト4位)、68年には東京(8位)をいずれも拒否し、プロには進みませんでした。

第16回は1966年11月8日にスタート。
三菱重工長崎、大阪ダイハツ、大倉工業、デュプロなどが初出場を果たしています。
優勝は意外にもこれが初の黒鷲旗となる、綿紡績代表の全鐘紡。
かつては都市対抗で一時代を築いた名門であり、綿紡績部門唯一のチームとして推薦での出場でした
(第1回大会も、綿紡績からは東洋紡富田が予選なしで出場しています)。
決勝では伏兵の電気化学に粘られるも2対1で下し、秋の王者に輝いています。

次回は第17回(1967年)から20回(1970年)です。

産業対抗野球大会史(5)第9回~12回

2020-06-20 08:39:28 | 産業対抗野球史
遥か昔に行なわれていた社会人野球のビッグイベント・伝説の「産業対抗野球大会」の歴史を探るシリーズの第4回は、
第9回(1959年)から12回大会(1962年)までを振り返ります。



金色が優勝、銀色が準優勝、銅色がベスト4です。青は不参加を意味します。

第9回大会は1959年11月8日から8日間にかけて開催。全鐘紡などが初出場しています。
石油がエネルギー資源として活用されるようになったため、当時の炭鉱業界は不況に陥っていました。
そのためここから3年間、炭鉱部門は「棄権」して代表を出せなくなることに。
そんな暗いニュースを吹き飛ばすような熱戦続きの大会を制したのは、倉敷レイヨン(現・クラレ)でした。
クラレを主体とした全日本チームはこの後台湾に遠征しますが、産業対抗の優勝チームによる海外遠征は恒例となっていきます。

第10回は1960年11月1日から11日まで開催。東芝、拓銀、愛知マツダなどが初出場。
記念すべき節目の10回大会を制したのは、
池田英俊(のち広島)、富士鉄から補強の稲川誠(のち大洋)らの好投が光った鉄鋼代表・日本鋼管です。
打線も好調で、決勝では強豪・日本石油(現・JX-ENEOS)を4対0で下すなど、堂々と黒鷲旗を手中にしています。

第11回は1961年11月3日から8日まで行われました。
今大会は炭坑に続き化学繊維部門も不参加で、20チームによる開催。
一方で日産、立正佼成会、三協精機、協和発酵、電気化学などが初出場を果たしています。
制したのは都市対抗でも橋戸賞(MVP)受賞経験のあるエース・島津四郎を擁する日本石油。
丸善石油との決勝は引き分け、翌日の再試合も延長戦と熱戦となりました。
島津は2大会で最高殊勲選手賞獲得の快挙を達成したことになります。

第12回は1962年11月3日から11日まで行われました。
炭鉱部門が4年ぶりに登場したものの、国鉄部門が不参加となり21チームで行われました。
西濃運輸、山陽特殊鋼、日軽金などが初出場。
大会を制したのは、打力が売り物の日本生命でした。
決勝では川崎重工に4対0から4対3まで迫られるも、振り切っています。

次回は第13回(1963年)から16(1966年)回までです。