スポーツエトセトラ

スポーツ(主に野球・ラグビー)に関するさまざまな資料やデータをご紹介していくブログです。ぜひお楽しみください。

ドラフト外入団選手一覧【ヤクルト編】

2021-02-27 14:16:43 | 球団別ドラフト外入団選手
プロ野球各球団のドラフト外選手一覧と、一軍全成績を紹介するシリーズの第7弾はセ・リーグの「ヤクルト」です。
50年に国鉄が運営する「国鉄スワローズ」として誕生。65年からはサンケイ新聞社が親会社となり「サンケイスワローズ」に。
66年からは「サンケイアトムズ」、サンケイからヤクルトに経営権が移り、69年は「アトムズ」、
70年からはヤクルトアトムズ、74年からは「ヤクルトスワローズ」、06年からは「東京ヤクルトスワローズ」となり現在に至ります。






年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
ドラフト外で入団した選手は総勢62名となります。

もっとも成功した選手は、野口寿浩でしょう。
打力があるほか走力も高く、打って走って守れる万能型の稀有な捕手として
ヤクルト、日本ハム、阪神、横浜と4球団をまたにかけて活躍しました。

ドラフト外入団第1号の井上洋一は規定打席到達こそ果たせませんでしたが、
ユーティリティプレーヤーとして20年もの長きにわたりプレーしています。

中村国昭は社会人でのキャリアを活かし、1年目に開幕スタメンスタートと抜てきを受けます。
その後も主に二塁、三塁で起用され、準レギュラークラスとして活躍しました。

栗山英樹は国立の東京学芸大出身という変わり種です。
1989年には規定打席に到達してGグラブ賞を受賞するなどレギュラー入りも、病気のためリタイア。
その後はキャスターとして活躍し、12年以降は日本ハムの監督に。16年には日本一に輝いています。

羅本新二は主に代走屋として起用され、83年に10盗塁をマーク。
引退後はスカウトに転身しています。

君波隆祥は貴重な強打の捕手として期待されましたが、
正捕手にはあと一歩届きませんでした。

玄岡正充は84年に81試合に出場を果たし、4本塁打を放つなど
レギュラー定着寸前にまで迫っています。

後関昌彦はヤクルト、近鉄で左の代打として活躍。
近鉄のスカウトを経て、現在は楽天のスカウト部長です。

青島健太はアマ球界の花形スター。背番号「4」は期待の表れですが、プロでは定位置奪取はならず。
その後はスポーツキャスターでお茶の間の人気者に。社会人野球の監督も務めています。

河野亮はヤクルトでは芽が出ませんでしたが、ダイエー移籍後に素質が開花。
96、97年と7本塁打をマークするなど強打で知られました。現在はロッテのコーチです。

松元秀一郎は巧打と俊足が武器で、ルックスもよく人気もありました。
オリックス時代の99年には90試合に出場しています。

投手では打者と比べて活躍した人が多くはありません。
ドラフト外出身で一軍登板を果たしたのは81年の立野政治が初となります。

その立野は社会人の日本楽器で主力投手として活躍。背番号「12」を与えられるなど即戦力として期待され、
1年目に39試合に登板して6勝をマーク。2年目には32試合に登板しています。

鈴木正幸は82年に先発に加わると25試合に登板。
また85年には中継ぎに転身しして34試合でマウンドに上がりました。

黒田真二は76年のセンバツ優勝投手。“ヒバゴン”の愛称で親しまれ、日本ハムからドラフト1位指名を受けるも拒否。
社会人を経てプロに進み、83年に32試合に登板。引退後は打撃投手に転身しています。

しかし、活躍度でいえばまず中本茂樹でしょう。大学、社会人と日本代表に選出。26歳にしてのプロ入り。
背番号「20」を与えられ、1年目から一軍のマウンドに立ち、一時先発に転向したものの、
ほぼ10年間、中継ぎメインで起用され地味ながらチームに貢献。引退後は台湾プロ野球でコーチを務めました。

加藤博人も長年にわたり活躍しました。貴重な左腕でもあり、2年目に先発に抜てきされ、91年には7勝をマーク。
その後は左肩の故障で低迷するも、リリーバーに転身。97年には60試合に登板して日本一に貢献しました。
その後は台湾球界、独立リーグの監督、コーチなどを経て、現在は日立のコーチを務めています。

ドラフト外入団選手一覧【オリックス編】

2020-11-05 08:47:10 | 球団別ドラフト外入団選手
プロ野球各球団のドラフト外選手一覧と、一軍全成績を紹介するシリーズの第6弾は「オリックス」です。
88年までは阪急でした。

ドラフト外で入団した選手は総勢50名。70年代半ばまでは少ないように感じますが、
当時の阪急は毎年のように優勝争いに加わるなど戦力的にも球界トップにあり、
ドラフト外選手を育てたり、抜てきする必要性がなかったからかもしれません。




年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
一軍経験者は24名と、ほぼ半数が一軍昇格を果たしています。

まずは野手。投手を含めても、最大の成功者は松永浩美でしょう。
高校中退後、テストを受けてのプロ入り。1年目は練習生扱いのため、
形式上のプロ人生スタート(支配下登録)は79年となります。

スイッチヒッターとして左右にヒットを量産し、打率3割を記録すること実に7度。
盗塁王、最高出塁率のタイトルを獲得したほか、ベストナイン5度と球界を代表する三塁手として君臨。
2000本安打まであと一息でした。

続くのは河村健一郎。正捕手には手が届かず、控え捕手や代打での起用がメインでしたが、
79年、80年には2年連続で二ケタ本塁打をマークするなどパンチ力を活かして存在感を見せました。
打撃コーチとしても優秀で、イチローの育ての親としても知られています。

福原峰夫は84年に120試合に出場。リーグ優勝に貢献するなど二塁のレギュラー目前に迫りました。
その後も内野の守備固めとして、陰ながらチームを支えています。
引退後は韓国プロ野球を含め、7球団でコーチを務めました。

村上信一は代打、代走、守備固め、ときおりスタメンとさまざまな形で起用されました。
激しいレギュラー争いの前に定位置獲得にはもう一歩届かなかったものの、
90年には112試合に出場し、規定不足ながら打率3割をマークしています。

藤本昌治は81年に68試合に出場も、一軍には定着できませんでした。
引退後は小寺姓となり、審判に転向。ダイナミックなアクションで知られました。
高嶋徹は主に控え捕手として、12年間にわたり現役生活を送っています。
94年には自己最高となる58試合に出場しました。

別府修作は現役の大半を二軍で過ごしましたが、引退後はブルペン捕手を経て、
現在もコーチとして若手を指導しています。
葉室太郎、杉本尚文は正捕手どころか一軍定着すら叶わなかったものの、
現在もスタッフとして陰からチームを支えています。

一方の投手でまず名前が挙がるのが児玉好弘。1年目に6勝、2年目に10勝をマーク。
常に優勝を争う強豪チームにあって、リリーバーとして連覇を支えました。
清原雄一は1年目にいきなり一軍昇格を果たし、プロ初勝利をマーク。その後も貴重な左の中継ぎとして起用され、
95年にはキャリアハイとなる43試合に登板。リーグ優勝に貢献しています。

谷良治は1年目から中継ぎに定着し、84年のリーグ優勝に貢献したほか、
86年には7勝をマークする活躍を見せました。現在は関東学園大野球部の監督です。
小嶋正宣は強豪社会人チーム出身とあって即戦力として期待され、
1年目から先発に加わるといきなり6勝をマーク。その後は主にリリーバーを務めています。

原田賢治は1年目から一軍に定着し、87年、88年は2年続けて23試合に登板し、3勝をマーク。
三枝規悦は78年に4勝をマークしてリーグ優勝に貢献。中日移籍後はゼロ勝に終わっています。

ドラフト外入団選手一覧【ソフトバンク編】

2020-10-10 09:00:53 | 球団別ドラフト外入団選手
プロ野球各球団のドラフト外選手一覧と一軍全成績を紹介するシリーズの第5弾は「ソフトバンク」です。

とはいえ、ドラフト外は1990年(91年入団選手)までですので、
実質的には南海・ダイエー時代に入団した選手ということになります。
総勢64名でした。





年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。

一軍経験者は23名でしたが、レギュラークラスにまで成長した選手はそれほど多くはない印象です。
南海時代は親会社が球団にあまりお金をかけず、育成がなおざりにされたことも大きかったようです。
人数合わせのためにただ、獲得しただけで戦略的に新人を取ろうという意識に欠けていたのでしょう。

また70年代中盤までは大捕手・野村克也が君臨し、多くの捕手は松本芳之のように、
分厚いカベの前に苦しんだようです。
同じ捕手の岩木哲はテストを経ての入団で、野村の退団後にチャンスをつかみ、
82年には91試合に出場。正捕手まであと一歩と迫っています。

西清隆は南海では一時練習生となったほか、広島を経て横浜移籍後も打撃投手を務めた苦労人。
97年に中継ぎに定着して58試合に登板、プロ13年目で初勝利をマークしています。
川越透はテスト生上がりで、90年代半ばに一時、控え捕手として一軍に帯同しています。

球団がダイエーに身売りされた89年以降は、育成に金をかけられるようになったためか
スカウティングにも力が入れられるようになり(九州中心ですが)、
ドラフト外入団から一軍にステップする選手も出てくるように。

小早川幸二は広島移籍後、左のリリーフとして96年に46試合に登板しています。
脇坂浩二も打撃や守備固めなどで96年に55試合に出場し、一軍定着寸前まで迫りました。

出色だったのが田之上慶三郎。大型右腕として期待され、7年目に一軍に定着。
30歳となった01年には13勝をマークして最高勝率のタイトルを獲得するなど、
優勝を争う強豪チームの主力投手として貢献しています。

坊西浩嗣は吉永幸一郎や城島健司のサブ捕手としてチームを支えたほか、
勝負強い打撃を活かして代打でも活躍。17年間にわたり現役選手としてプレーしています。

南海時代を含めて、そのほか気になった選手では、
ジュニアオールスターでMVPを獲得するなど期待されながら4年で退団し、韓国プロ野球で活躍した吉村元富、
一軍では活躍できなかったものの、“左右投げ”で話題をまいた近田豊年のような投手もいました。

市原稔や筒井良紀のように、引退後にフロントなどを経てコーチとしてユニホームを着た選手もいます。
巨人に移籍後、打撃投手としてチームを支えた柚木秀夫、
南海、ダイエー、ソフトバンクと一貫して裏方に徹し、現在も寮長として若手の面倒を見ている金岡信男といった人もいます。

一軍で活躍した人材は少ないものの、なかなか多士済々といった感じのホークスドラフト外組でした。

ドラフト外入団選手一覧【日本ハム編】

2020-09-14 09:02:42 | 球団別ドラフト外入団選手
各球団のドラフト外選手一覧と一軍全成績を紹介するシリーズの第4弾は「日本ハム」です。
東映、日拓ホーム、日本ハムを通じて総勢61名でした。





年度別に、背番号(1年目)が若い選手から順番に表記しています。
比較的、一軍でも活躍している選手が多いように思いますね。

最初の成功者は江本孟紀です。とはいえ、東映には1年間在籍しただけ。ただし南海ではエース格となり、阪神でも主力として活躍しました。
「ベンチがアホやから…」発言、引退後はタレントとしても引っ張りだこ。今も解説者として第一線で頑張っておられますね。

73年、東映からチームを引き継いだのが日拓ホーム。同時に廃部となった社会人野球・日拓観光の選手を引き取ります。
その中で結果を残したのが大室勝美。1年目には102試合に出場しています。
引退後はフロントとしてチームに残り、裏側から球団運営を支えました。

74年からは球団経営権が日本ハムに移ります。当初は知名度のなさもあって苦労していたようです。

78年はドラフト指名6選手中4名に入団拒否される有様。そのため、ドラフト外で7名を入団させます。
島田誠は2年目にレギュラーに定着。その後は俊足巧打の外野手として世界の盗塁王・福本豊とタイトル争いを演じたことも。
ベストナインも2度受賞するなど、球界屈指の外野手として活躍しました。

岡部憲章は東海大相模高出身初のプロ野球選手。81年には13勝をマークし、リーグ優勝の原動力の一人となりました。
坂巻明は84年に7勝を挙げ、引退後はロッテで打撃投手などの裏方としてチームに貢献しています。

五十嵐信一はしぶとい打撃を活かした代打や守備固めなど、いわゆる便利屋として長年にわたり一軍に定着。
88年と92年には100試合以上に出場するなど、レギュラーまであと一歩に迫っています。
嶋田信敏は長い下積みを経て、80年代中盤頃から代走屋として一軍に定着。
打撃の勝負強さも光り、90年、91年と2年連続で100試合以上に出場しました。

津末英明は高校、大学で原辰徳とクリーンナップを務めた強打者。
プロでは伸び悩みましたが、86年に規定打席に達し、19本塁打をマークする活躍を見せています。
渡辺浩は長年“一軍半”という感じでしたが、95年にプロ14年目にして二塁のレギュラーに定着。
規定打席に到達し、オールスターの候補にも挙がるなど超遅咲きの選手として話題になりました。

松浦宏明は3年目に中継ぎに定着。東京ドームに本拠地が移転した4年目の88年には背番号「0」を背負うと、
15勝を挙げて最多勝を獲得するなどブレーク。90年にも11勝を記録しています。
島田直也は甲子園のアイドル的存在。同期の芝草宇宙と“SSコンビ”として売り出されました。
日本ハムでは芽が出ませんでしたが、横浜では中継ぎのエース格として94年に50試合に登板、95年には10勝をマークしています。

白井康勝は練習生を経ての入団。92年には9勝10セーブ、93年は先発の一角として10勝、防御率2.66と好成績を残しました。
内山正博は横手の中継ぎ右腕。西武黄金期のこの時代、西武戦で好投を披露して“レオキラー”と言われ脚光を浴びた時期も。
荒井昭吾は高校時代は好打者として知られ、ドラフト会議直後に多くの球団が獲得に向かった逸材でしたが一軍には定着できず。

木村拓也はチャンスに強い打撃、俊足に加えて捕手、内野、外野とすべて守れるユーティリティプレーヤーとして
日本ハム、広島、巨人と3球団で19年間の現役生活をまっとう。コーチとしても期待されましたが、急逝したことが惜しまれます。

次回はソフトバンク(南海、ダイエー)を予定しています。

ドラフト外入団選手一覧【西武編】

2020-08-10 08:46:14 | 球団別ドラフト外入団選手
各球団のドラフト外選手一覧と一軍全成績を紹介するシリーズの第3弾は、「西武」です。
総勢は71名でした。






過去に紹介した近鉄、ロッテと比べても、成功した選手が格段に多いことが分かりますね。
西鉄、太平洋、クラウン時代は厳しい球団経営を強いられたため、
ドラフト外であろうと、一軍で戦力になりそうな選手は積極的に抜てきしたのでしょう。
若い背番号の選手がちらほらみられるのがその証拠です。

逆に、西武時代はチーム力強化、底上げのためスカウト網を駆使して
逸材を意欲的に“拾い上げ”、育成して戦力にしようとしたのだと思われます。
九州時代は地元・福岡や九州地区や隣県の山口県の出身者が多数を占めるのに対し、
西武(所沢移転)以降は入団選手の出身地も多彩になっていきます。

まず野手で目に付くのは、何といっても秋山幸二でしょう。
高校時代から逸材として注目される存在でしたが、大学進学を打ち出したこともありドラフト外でのプロ入り。
抜群の身体能力とセンスを活かし、5年目には早くも40本塁打をマークしてブレイクすると、
その後は西武黄金時代の中心選手として活躍。通算2000本安打、400本塁打、300盗塁を記録したほか、
ソフトバンクでは監督として日本一にも輝きました。

西鉄時代に入団した基満男も成功選手。1年目からレギュラーの座を獲得すると、
中距離ヒッターながら堅実な小技、正確な二塁守備で球界屈指の内野手に。
大洋移籍後も含めて、2度のベストナインを獲得しています。

加藤博一は西鉄、太平洋では芽が出ず、阪神移籍後の80年に打率3割、30盗塁をマークした遅咲きの選手。
大洋では高木豊、屋鋪要と“スーパーカートリオ”として話題に。
明るいキャラクターとしても知られ、引退後はバラエティ番組にも引っ張りだこでした。

小川史は高校時代は1番・ピッチャー。入団後、いきなりレギュラー級の番号を与えられましたが
黄金時代の選手層の厚い西武では出番に恵まれず、南海移籍後に遊撃のレギュラーの座を獲得。
最終的にプロ生活は18年に及びました。

西岡良洋は西武黄金時代にあって左キラーとして知られ、代打やスタメンで積極的に起用されました。
安定した外野守備も持ち味で、ゴールデングラブ賞を受賞したことも。
広橋公寿はいわゆる“ユーティリティプレーヤー”として、
内外野の守備固めや代打など、いろいろな場面で起用されていました。

羽生田忠之はいわゆる“鉄砲肩”として、外野の守りで重宝された選手です。
秋元宏作は西武では出番がなかったものの、大洋、横浜では堅実なリードを武器に正捕手まであと一歩に迫っています。

投手ではまず、加藤初。71年の産業対抗で優勝に貢献し、複数の球団からのアプローチの末、西鉄入り。
黒い霧事件で戦力不足のチームにあって、1年目に17勝をマークして新人王を獲得。
巨人移籍後もローテの一角を占め、通算141勝。マウンド上ではポーカーフェースだったことから“鉄仮面”と異名を取りました。

松沼博久、松沼雅之の松沼兄弟のドラフト外でのW入団は大きな話題となりました。
先に台頭したのは兄・博久で、1年目に16勝をマークして新人王を獲得。38歳まで現役を続けました。
弟・雅之も2年目からは5年連続で二ケタ勝利と、兄弟で西武黄金時代を支えています。

小野和幸は西武では5年目にローテに定着も勝ち星を伸ばせませんでした。
88年に中日に移籍すると18勝をマークして最多勝。優勝に大いに貢献しています。
西本和人は層の厚さからなかなか一軍に定着できませんでしたが、89年、90年に中継ぎとして4勝を上げています。

藤本和宏は西鉄では活躍できなかったものの、広島移籍後の71年にノーヒットノーランを含む10勝を記録し、
最優秀防御率を獲得するなど“一瞬の輝き”を見せました。
佐藤玖光は71年に25試合に登板も勝ち星はゼロ。広島では53歳まで打撃投手を務めました。

次回は日本ハムを予定しています。