≪2018/12/≫
いつか「AREA66」の後継者を。
岡田幸文が故郷で目指す次なる夢
今シーズン限りで現役を引退した千葉ロッテマリーンズの岡田幸文(よしふみ)の進路が決まった。
現所属先であるロッテから、プロ野球独立リーグ「ルートインBCリーグ」の栃木ゴールデンブレーブスにコーチとして来季から派遣されることになった。
岡田にとって栃木は生まれ故郷であるとともに、作新学院そして全足利クラブとアマチュア時代を過ごした場所である。そんな彼の原点といえる地で、かつての自分と同じような若い選手達を指導していくことになる。そこからどんな選手が育っていくのかとても楽しみだ。
引退セレモニーでチームメイトから胴上げされる岡田幸文
現役時代は高い捕球能力と守備範囲の広さで、ファンから「AREA66」と称された。
ロッテの首脳陣だけでなく、味方投手からの信頼も厚く、岡田が守るだけで相手チームはヒットの1、2本は損していたと思えるほど、彼の好守は光っていた。
2011、12年には2年連続でゴールデングラブ賞を受賞。同じ外野を守る仲間から助言を求められることも少なくなかったという。
そんな球界を代表する名手が持つ数多くの技術のなかでも、チームメイトから一目置かれていたのが、捕球から返球までの早さだ。
諸積兼司二軍外野守備走塁コーチのストップウォッチによると、岡田の外野定位置での捕球からホームまでの到達タイムは、最速で2.8秒。三塁走者が本塁まで駆けるスピードが仮に4秒以内と考えても、悠々アウトとなる。
だが、岡田には”強肩”というイメージがない。岡田と同時期にプレーしたロッテの選手で強肩と言ったら、サブローだった。
ではなぜ、岡田はそれほど早くホームへ返球できていたのか。その秘密を聞くと、岡田は次のように語った。
「まず、ボールを捕るときは(グラブの)ポケットで捕ります。でも、投げるときは土手で握り替える。(グラブのなかで)ポンポンって感じで持ち替えるイメージですね。たぶんそれで球出しが早くなったのかなって思います。もちろん打球を捕らないと投げられないわけですから、その前の足の使い方とか、ほかにも色々ありますよ」
肩の強さよりも、球出しの早さで勝負する。高い意識で、日々の練習を続けてきた岡田らしい話だと思った。
ほかにも、美技に隠されたこだわりはいくつもある。
まずは構え方。岡田はピッチャーが投球動作に入ると、内野手と同じように低く構える。そしてピッチャーの球種、コース、バッターの構え、タイミングの取り方、スイング軌道などを見ながら、半歩動き出す。
フライの対処も、打球が上空にある約5~6秒を有効に使い、まずは落下地点を判断。強風の影響を受けないためにも、走り出しはギリギリまで我慢して、スピードをできるだけ落とさないで落下地点まで走るという。
ほかにも、ここでは書きつくせないほど、守備に対するこだわりはあるのだが、今後は選手の能力に合わせて伝えていくつもりだ。もちろん、感覚で伝えるのではなく、しっかり相手に伝わるように、ひとつひとつ噛み砕いて話すという。そのために話し方についてもいろいろと研究中だ。
「感覚で教えてもわからないし、伝わらないですからね。足の使い方ひとつをとっても、どうやって言えば相手に伝わるか。それを常日頃から考えてないといけない。今までは自分の感覚でやってきたわけですが、それを言葉にして、しっかり伝える。頭をすごく使うと思います」
ときには、サッカーやバドミントンなど、野球以外のスポーツも取り入れて、体の使い方なども覚えさせたいと言う。そう語る岡田の目はとても輝いているし、まるで天職を得たといった様子だ。
現役最後の1~2年は、何打席連続でヒットが出ていないとか、2000打席以上立って一度もホームランを打っていないとか、不名誉なバッティングの記録を記事にされることが少なくなかった。
ヒットを打つ夢を見るほど悩んだ時期もあったが、このことが引退の引き金になったのかと言えば、決してそうではない。岡田が引退を決意した本当の理由は、プロ入り後から「これだけは絶対に譲れない」と言い続けてきた守備力。その守備力でチームの期待に応えられなくなったと感じたのが一番の理由だった。
今年3月18日の巨人とのオープン戦。代走から途中出場した岡田は、9回表二死満塁の場面で、巨人・岡本和真の左中間寄りの打球を追いかけた。最後はダイビングキャッチを試みて打球に迫った岡田だったが、惜しくもグラブをかすめ、逆転の三塁打となった。
結局、これが決勝点となりチームは敗れた。試合後、ひとりのコーチから「あの打球、お前だったら捕れただろう」という厳しい声を投げかけられた。
「あぁ、そうなんだ。以前はあれを捕れていたんだ。捕らなきゃいけない打球だったんだ……やばいな」
球界一の名手と呼ばれてきた男が、初めて衰えを感じた瞬間だった。それ以降の試合でも、練習でも、以前と何かが変わっているのを岡田は肌で感じていた。
「打撃練習で守っていても、何かちょっと違うんです。昔だったら捕れていたなという打球が追いつけなくなっているし……その感覚は自分にしかわからないんですけど、そこが(引退の理由として)一番大きかったですね」
9月上旬、球団幹部から呼び出された岡田は、その場で現役引退を勧められた。同時に何らかのかたちでチームに残らないかと打診されたが、即答はできなかった。自宅に帰り、アマチュア時代から連れ添ってきた妻に相談した。すると、妻はこう語った。
「どうせ野球を続けたって、あと1~2年でしょ。野球が終わってからの方が長いんだから、それが早いか、遅いかだけだからね」
ショックを受けるというよりも、妻のあっけらかんとした態度に、岡田も妙に納得した。
思えば、岡田はプロ入りする2年前の2006年に結婚。育成選手としてプロ入りを果たしたあの頃から、すでに覚悟はできていたのかもしれない。ならば、次のステージに向けて、1日でも早くスタートが切れるよう、決断は早い方がいい。だから、不思議と後悔はなかった。
「周りのみんなは『まだできるだろう』って言ってくれたんですけどね。その言葉だけでも本当にありがたかったです」
多くのファンや関係者に愛されてきた笑顔で、岡田はそう言った。
10月8日、ZOZOマリンスタジムで行なわれた引退試合で、岡田は3本のヒットを放ち、これまでの呪縛が嘘だったかのような活躍を見せた。10年の現役生活で本塁打は0本のままだったが、それもどこか岡田らしかった。
「たかが10年ですけど、されど10年。まあ、いろいろありました。キャプテン、選手会長もやらせてもらって、そのなかでちょっとだけ野球の視野が広がったというか、野球以外のことも勉強になりました。選手が野球を一生懸命やるのは当たり前のことですけど、その裏では必ず誰かがサポートに回ってくれている。ロッテでは、球団スタッフの方とも集客のことでいろんな話もできましたし、そのなかで選手はもっと野球を楽しまなきゃ、お客さんに失礼だなと思えたんです」
そう話す岡田の表情は、大きな重圧から解き放たれたように晴れ晴れとしていた。いつの日か”岡田二世”と呼ばれるような名手が、彼のもとから育ってくれることを願って、第2の人生で奮闘する岡田を、これからも見続けていこうと思う。
永田遼太郎●文
(Sportiva)
いつか「AREA66」の後継者を。
岡田幸文が故郷で目指す次なる夢
今シーズン限りで現役を引退した千葉ロッテマリーンズの岡田幸文(よしふみ)の進路が決まった。
現所属先であるロッテから、プロ野球独立リーグ「ルートインBCリーグ」の栃木ゴールデンブレーブスにコーチとして来季から派遣されることになった。
岡田にとって栃木は生まれ故郷であるとともに、作新学院そして全足利クラブとアマチュア時代を過ごした場所である。そんな彼の原点といえる地で、かつての自分と同じような若い選手達を指導していくことになる。そこからどんな選手が育っていくのかとても楽しみだ。
引退セレモニーでチームメイトから胴上げされる岡田幸文
現役時代は高い捕球能力と守備範囲の広さで、ファンから「AREA66」と称された。
ロッテの首脳陣だけでなく、味方投手からの信頼も厚く、岡田が守るだけで相手チームはヒットの1、2本は損していたと思えるほど、彼の好守は光っていた。
2011、12年には2年連続でゴールデングラブ賞を受賞。同じ外野を守る仲間から助言を求められることも少なくなかったという。
そんな球界を代表する名手が持つ数多くの技術のなかでも、チームメイトから一目置かれていたのが、捕球から返球までの早さだ。
諸積兼司二軍外野守備走塁コーチのストップウォッチによると、岡田の外野定位置での捕球からホームまでの到達タイムは、最速で2.8秒。三塁走者が本塁まで駆けるスピードが仮に4秒以内と考えても、悠々アウトとなる。
だが、岡田には”強肩”というイメージがない。岡田と同時期にプレーしたロッテの選手で強肩と言ったら、サブローだった。
ではなぜ、岡田はそれほど早くホームへ返球できていたのか。その秘密を聞くと、岡田は次のように語った。
「まず、ボールを捕るときは(グラブの)ポケットで捕ります。でも、投げるときは土手で握り替える。(グラブのなかで)ポンポンって感じで持ち替えるイメージですね。たぶんそれで球出しが早くなったのかなって思います。もちろん打球を捕らないと投げられないわけですから、その前の足の使い方とか、ほかにも色々ありますよ」
肩の強さよりも、球出しの早さで勝負する。高い意識で、日々の練習を続けてきた岡田らしい話だと思った。
ほかにも、美技に隠されたこだわりはいくつもある。
まずは構え方。岡田はピッチャーが投球動作に入ると、内野手と同じように低く構える。そしてピッチャーの球種、コース、バッターの構え、タイミングの取り方、スイング軌道などを見ながら、半歩動き出す。
フライの対処も、打球が上空にある約5~6秒を有効に使い、まずは落下地点を判断。強風の影響を受けないためにも、走り出しはギリギリまで我慢して、スピードをできるだけ落とさないで落下地点まで走るという。
ほかにも、ここでは書きつくせないほど、守備に対するこだわりはあるのだが、今後は選手の能力に合わせて伝えていくつもりだ。もちろん、感覚で伝えるのではなく、しっかり相手に伝わるように、ひとつひとつ噛み砕いて話すという。そのために話し方についてもいろいろと研究中だ。
「感覚で教えてもわからないし、伝わらないですからね。足の使い方ひとつをとっても、どうやって言えば相手に伝わるか。それを常日頃から考えてないといけない。今までは自分の感覚でやってきたわけですが、それを言葉にして、しっかり伝える。頭をすごく使うと思います」
ときには、サッカーやバドミントンなど、野球以外のスポーツも取り入れて、体の使い方なども覚えさせたいと言う。そう語る岡田の目はとても輝いているし、まるで天職を得たといった様子だ。
現役最後の1~2年は、何打席連続でヒットが出ていないとか、2000打席以上立って一度もホームランを打っていないとか、不名誉なバッティングの記録を記事にされることが少なくなかった。
ヒットを打つ夢を見るほど悩んだ時期もあったが、このことが引退の引き金になったのかと言えば、決してそうではない。岡田が引退を決意した本当の理由は、プロ入り後から「これだけは絶対に譲れない」と言い続けてきた守備力。その守備力でチームの期待に応えられなくなったと感じたのが一番の理由だった。
今年3月18日の巨人とのオープン戦。代走から途中出場した岡田は、9回表二死満塁の場面で、巨人・岡本和真の左中間寄りの打球を追いかけた。最後はダイビングキャッチを試みて打球に迫った岡田だったが、惜しくもグラブをかすめ、逆転の三塁打となった。
結局、これが決勝点となりチームは敗れた。試合後、ひとりのコーチから「あの打球、お前だったら捕れただろう」という厳しい声を投げかけられた。
「あぁ、そうなんだ。以前はあれを捕れていたんだ。捕らなきゃいけない打球だったんだ……やばいな」
球界一の名手と呼ばれてきた男が、初めて衰えを感じた瞬間だった。それ以降の試合でも、練習でも、以前と何かが変わっているのを岡田は肌で感じていた。
「打撃練習で守っていても、何かちょっと違うんです。昔だったら捕れていたなという打球が追いつけなくなっているし……その感覚は自分にしかわからないんですけど、そこが(引退の理由として)一番大きかったですね」
9月上旬、球団幹部から呼び出された岡田は、その場で現役引退を勧められた。同時に何らかのかたちでチームに残らないかと打診されたが、即答はできなかった。自宅に帰り、アマチュア時代から連れ添ってきた妻に相談した。すると、妻はこう語った。
「どうせ野球を続けたって、あと1~2年でしょ。野球が終わってからの方が長いんだから、それが早いか、遅いかだけだからね」
ショックを受けるというよりも、妻のあっけらかんとした態度に、岡田も妙に納得した。
思えば、岡田はプロ入りする2年前の2006年に結婚。育成選手としてプロ入りを果たしたあの頃から、すでに覚悟はできていたのかもしれない。ならば、次のステージに向けて、1日でも早くスタートが切れるよう、決断は早い方がいい。だから、不思議と後悔はなかった。
「周りのみんなは『まだできるだろう』って言ってくれたんですけどね。その言葉だけでも本当にありがたかったです」
多くのファンや関係者に愛されてきた笑顔で、岡田はそう言った。
10月8日、ZOZOマリンスタジムで行なわれた引退試合で、岡田は3本のヒットを放ち、これまでの呪縛が嘘だったかのような活躍を見せた。10年の現役生活で本塁打は0本のままだったが、それもどこか岡田らしかった。
「たかが10年ですけど、されど10年。まあ、いろいろありました。キャプテン、選手会長もやらせてもらって、そのなかでちょっとだけ野球の視野が広がったというか、野球以外のことも勉強になりました。選手が野球を一生懸命やるのは当たり前のことですけど、その裏では必ず誰かがサポートに回ってくれている。ロッテでは、球団スタッフの方とも集客のことでいろんな話もできましたし、そのなかで選手はもっと野球を楽しまなきゃ、お客さんに失礼だなと思えたんです」
そう話す岡田の表情は、大きな重圧から解き放たれたように晴れ晴れとしていた。いつの日か”岡田二世”と呼ばれるような名手が、彼のもとから育ってくれることを願って、第2の人生で奮闘する岡田を、これからも見続けていこうと思う。
永田遼太郎●文
(Sportiva)
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