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拾い読み★2014-269≪コラム記事≫

2014年09月27日 22時06分09秒 | マリーンズ2011~15
引退のロッテ里崎が語る「試合後に歌った理由」

千葉ロッテの里崎智也捕手(38)が、明日、28日、QVC千葉マリンで行われるオリックス戦で16年間のプロ野球人生にピリオドを打つ。チケット完売が球団サイドから発表され「1番・DH」でのスタメン出場が濃厚の様子。これは2番から9番までの打順で本塁打を記録してきた里崎が1番でだけ本塁打記録がないための指揮官の配慮だ。里崎の独占インタビューの第2弾では、2度の日本一の背景などを聞いた。

――バッティングで残した通算記録(打率.256、108本塁打、454打点)をどう自己評価されていますか?
「多くのプロ野球の先輩からすれば、たいしたことのない数字ですが、歴代のロッテのキャッチャーの中で1位に名を残せたことは嬉しいですね」

――バッティングでは何を追及していましたか?
「トータルの数字は、少なくていいので、ここぞで打てるバッターを追及しました。チームの勝利にかかわる、重要な場面でしっかりと打てるバッターです。すべては、そこ(勝負どこ)で打つための駆け引きでした。当たるも八卦、当たらぬも八卦のヤマ張りバッティング。だからムラがあったのかもしれません」

――4年連続で満塁ホームランを記録するなど、確かにチャンスでの勝負強さが里崎さんの代名詞でした。勝負強くあるための秘訣は?
「もう引退をするので、マル秘情報をばらします(笑)。人はピンチに陥ると得意なことしかしません。だから、それを待っていればいいんです。何もこれは野球選手だけに限りません。一般的に人が窮地に陥れば行動は決まってきます。例えば困ったときには一番信頼する人に電話するでしょうし、失敗したときの言い訳もだいたい一緒でしょうし(笑)火事になって持ち出すものも一番大事なものになるでしょう。そういう状況に追い込まれる人間には習性が出るんです。だから、それを待っていればいいんです」

――つまり相手の得意ボールを?
「クライマックスや日本シリーズなどの短期決戦になれば、なおさら、その傾向が強くなります。後悔したくないから駆け引きなく得意なボールで勝負!となるんです。それを仕留めることができるかどうかは、僕の能力次第。待っていたボールを打つことできなかったこともたくさんありましたが」

――相手が一番得意なボールとの力対力の勝負ということですか? 
「それが違うんです。相手は、てんぱっているわけですよ。必ずミスが出るんです。そういうピンチでいつもの力は出ません。もし出せれば相手の勝ちです。そこはガチンコです」

――1998年のドラフト2位で入団されました。鳴門工で甲子園出場はなく帝京大に進み活躍されましたが、アマ時代は、ほぼ無名。エリート街道を歩いたわけではありませんでした。
「ずっと裏街道を攻めてきました(笑)。プロに行けるなんで思っていませんでした。帝京大進学も特待生ではなかったですからね。大学2年の春に、たまたま4試合連続ホームランを打ったんです。大学野球では、井口忠仁さん(青学)、広沢克己さん(明大)、森山正義さん(明学大)、古川慎一さん(亜大)だけしか打っていない記録で、急に取材がきたり、スカウトが見にきたりし始めました。実は大学では卒業したら高校野球監督になりたくて教職(単位)を取っていました。でも監督に『真剣にプロを目指してみるか。練習時間に支障が生まれるから、教職の単位を取るのは辞めたほうがいいな』と言われ、『そうなの? いけちゃうのかな?』みたいな感じで、少しプロ意識をするようになったんです。けれど、レギュラーになるために頑張って、レギュラーになったら優勝するために一生懸命やって、気がついたら逆指名でプロに行くことになったという感じです」

――特に希望球団はなかったのですか?
「野球をやるのは大好きですが、見ることにはまったく興味がなくて(笑)。テレビと言えばバラエティかアニメ。プロ野球は、ほとんど見ていないから憧れも何もなかったんです。四国の田舎で巨人戦だけは見ていましたが選手も知りませんしね。大学4年のときにチケットをもらって日米野球を見に行きましたが、試合途中に寝ちゃったくらいですし(笑)。プロなら、どの球団でも、お世話になる考えでした。近鉄からも話があったそうですが、大学の監督が、『条件が一番いいし、ロッテなら試合に出れるぞ!』と言うので、『では、お願いします』となりました。実は、今でも必要なとき以外に野球を見ることは、ほとんどなくて(笑)……でも、それがWBCのときにはプラスに働きました」

――というと?
「僕はメジャーにも、まったく興味がなかったのでアメリカやメキシコの選手を誰も知らなかったんです。知っているのは、ジーターにA・ロッド、ロジャー・クレメンス程度です。メキシコ戦では、先発のエステバン・ロアイザというピッチャーを見て、『こんなピッチャー楽勝やん』と実際に4回にホームランを打ったんですが、後からチームのメジャーに詳しい人たちに『おまえ凄いな。あの投手はメジャーで通算100勝しているんだぞ』と聞かされて、『えーー』という感じでした。キャッチャーとしても同じ感覚です。先発は松坂でしたし、クリーンナップに対しての情報を特に持っていなかったので、感性で『バット振れてないやん。インコース、がんがん行ったれ!』とリードしたんですが、後から聞くと、カスティーニャなんかは、メジャー通算300本以上を打っているバッターでした(笑)。まさに怖いもの知らずで、確か1本のヒットもクリーンナップに打たれませんでした」

――逆指名の入団契約金は、1億円プラス出来高5000万円と報道されています。
「出来高の5000万円は、残念ながらもらえていないんです。契約金も親の口座に振り込みなんで見たことがないんですが、ドラフトが終わると地元の銀行の人がたくさん家に来たそうです。母親が、朝、仕事に行くために車を出そうとしていたら、背広を着た知らない銀行マンが、いきなり『オーライ!オーライ!』とやっていたとか(笑)。そのお金を使ったのは、車を買うときにちょっと下ろしただけで、今はどうなっているか知りません(笑)。大学でも、親にお金を出してもらったし、契約金などあてにせず『プロとして自分の力がここから稼いでいくんだ』という気持ちでした」

――漫画「グラゼニ」のように、グラウンドにお金が落ちているんだ!という感覚で?
「いえ僕の16年間は、野球イコール仕事ではなく、野球イコール野球でした。表現が悪いかもしれませんが、遊んでいる感じでした。『仕事なんだ』と思い出したのは、つい、ここ2、3年ですね。怪我をして、うまくいかないことがあって、しんどいリハビリが続いたときに『仕事だと割り切ってやらなきゃいけない。仕事なんだから、このしんどさを乗り越えろ!』と自分に言い聞かせました。それまでは仕事と思ったことは、これっぽちもなかったですね(笑)。しかし、野球が仕事だと思い出したことが、僕にとってみれば苦痛でした。それが引退につながったのかもしれません」

――なるほど。
「でも、遊んでいる感覚になれたのは、ロッテというチームのおかげです。ボビー・バレンタイン監督が、そういうチーム環境を作ってくれて、チームがそういう環境にしてくれました。試合が終わった後に歌を歌うなんて、ジャイアンツではあり得ないでしょう(笑)。そういうことを許してくれたロッテだからこそプロとして16年もやれたのかもしれません」

――その遊ぶ感覚が結果にもつながりましたか?
「2005年にチームが日本一となった最大の要因は、チームの馬鹿さ加減です(笑)。たぶん、日本シリーズで絶対に勝たねばならないと思ってプレーしていた人は僕を含めて一人もいなかったんじゃないですか?(笑)。ほとんどの選手が、福岡のプレーオフでソフトバンクに勝った時点で満足してしまっていました。『おい、おい! 日本シリーズだよ! せっかくだから、やっちゃおうか?』と。そんなノリでした」

――燃え尽き症候群でモチベーションを保てず負けるパターンもよく聞きますが?
「僕らは馬鹿だから(笑)。目立つぞ、目立つぞとなると手がつけられなくなるんです。ソフトバンクから2010年にロッテに来た的場(直樹)が、『ロッテに来て、なぜ2005年のプレーオフで負けたかがよくわかった。こんな雰囲気のチームに勝てるわけがない』と言っていました。『逆に当時、ソフトバンクは絶対に負けられないというムードでガチガチになっていた』と。ノビノビと、ガチガチが試合をしたら、そうなりますよ。シーズンの3位からCSを勝ち抜き、日本一になった2010年は、“史上最大の下克上”というニックネームがつきましたが、本当に僕らは何も失うものはなかったんです。だから勝ち進む反動は、えげつなかった。中日は勝ちたいと思っていたんでしょう。僕らは『これで日本一なったらギャグじゃねえ?』っていう感じでしたから(笑)。そういうテンションですから負けないです」

――試合後の歌は、営業からのオファーでしょう?
「いえいえ。違います。自分からですよ。ずっと思っていたんです。当時は街を歩いていても誰からも声もかけられない。ジャイアンツや阪神なら野球だけをやっていれば有名になれるが、ロッテでは野球だけをしていてもニュースにならないことに気づいたんです(笑)。『認知度を上げていくには野球だけではあかん。なんか変わったことをせなあかん。じゃあ歌やな(笑)』と。自己プロデュースです。おかげさまでメディアにどんどん取り上げてもらいました。協力していただいたメディアの方々にも感謝したいですね」

――昔から、そういう性格でしたか?
「大学で徳島から東京に出てきたことで考え方は変わりました。黙っていて誰かが拾いあげてくれるほど東京は甘くないんです。当事の部員もそうでしたが人が多い。自分から前へ前へ出て、そこで目立った仕事をして結果を出さないと人は見つけてくれません。ハッキリと自己主張をしていかないと、イエスマンでは通用しないんです。そこで結果が出ると自信にもなるんです。いい意味で東京、千葉の土地が僕を変えてくれました」

――今後については、どう考えていますか? 引退会見では、あらゆる可能性を探していきたいと仰っていました。
「やりたいことは、たくさんありますが、言いません(笑)。出る杭は打たれるんです(笑)。世間は、一人の力でどうにか、できるほど甘くありません。野球は力で押しのけていける世界ですが、これから先は、誰の協力もなく生きていけるほど甘くないんです。選択肢は、野球界もあるし、野球界以外もあります。いろんなパターンを考えながら、それが5年かかるか10年かかるか、わかりませんが、チャレンジを続けていきたいと思っています」

(文責・本郷陽一/論スポ、アスリートジャーナル)

(THE PAGE)






≪今江敏晃≫ 敬天愛人~里崎選手の思い出~

根拠ある判断 論理的に説明
 
 ロッテの正捕手としてチームを長く支えてくれた里崎智也さんが引退します。2005年、10年の日本シリーズ、さらに06年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)でともに優勝を経験した仲間。寂しいですね。

 実は野手と捕手というのは、投手ほどやりとりは多くないのです。だから里崎さんとの思い出は、野球ではなくゴルフなんですよ。先日、引退が決まってあいさつに来られたときも、僕に向けた第一声が「ゴルフはいつでもできるからな。また誘ってや」でしたから。
 ロッテは沖縄県の石垣島で春季キャンプを張るのですが、休日は必ず誘い合わせてプレーしました。休みは普通、みんなあまり動きたがらないものですが、2人とも本当に好きなんですよ。どちらもスコアは90前後。実力が同じくらいなので、余計に勝負にこだわり、競い合いました。
 石垣島から小浜島というところまで船で行き、そこで現地のコースを2人で回る。休日前はお酒を飲んでリラックスする選手もいますが、里崎さんはもともと酒量が多くないということもあり、早寝して翌日のラウンドに備えていました。
 ゴルフでも里崎さんの性格がよく出ていました。ティーショットは普通、ドライバーで打つ。まずは思い切り飛ばしてからグリーンに乗せることを考えないと仲間内で「小さい男やな」なんて言われがちです。
 しかし里崎さんはそんな声を一切気にせず、「刻む」ゴルフに徹します。最初に5番ウッドやアイアンを手にすることに何の抵抗もない。「3オン、1パットでええんや」と言っていました。コースを見て、結果を導くまでの道筋を考え、迷わず行動に移すのです。そのやり方は僕も似ていて、納得したものです。

 捕手は試合の流れをコントロールし、敗因を厳しく問われるポジションです。常に最悪の事態を避け、結果を出すことを考えないといけない。野球においても、なぜ自分がそうしたか、きちんと説明することができるのが里崎さんのすごいところでした。
 根拠のある判断があるからこそ、失敗しても、混乱することがない。逆に糧にしながら、「次はこうしたらいい」と新たな引き出しを作ることもできる。

 グラウンド内だけでなく選手会の場でも、自分の意見をしっかり述べ、その理由を論理的に説明する姿が印象的でした。異論のある人も納得させられるのは、正論だと思えるだけの材料を示しながら話をしているから。捕手向きの性格だったのかもしれませんね。
 
 あの人のことだから、今後の人生設計もきちっと考えていることでしょう。引退後も、絶対うまくいくと信じています。
(構成・有田憲一)

(朝日 千葉版)
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