My Feeling Diary

気まぐれ主婦が気侭に綴る、日常的「五感」日記。。時には「第六感」も・・・!?

続き・・・

2006-02-28 14:19:17 | ★Nature,Sprit
昨日の「究極の錬金術―古代の奥義書・ウパニシャッドを語る」よりに続きがありました。


今まではこれは心理学者にとっては既成の事実だ。
言葉とは何かを語るためではなく
何かを隠すためにある。
我々が喋り続けるのは、何かを隠したいからだ。
もしあなたが何かを隠したければ、静かではいられない。
というのも、あなたの顔が表現してしまうかもしれない。
あなたの静けさが暗示してしまうかもしれない。
話している相手が「あなたが何か隠している」と疑いを抱くかもしれない。
だから何かを隠さなければならない人は、ずっと喋り続けている。
言葉で人をだますことはできても、沈黙ではだませない。


ウパニシャッドには、真に伝えるべき何かがある。
それらは種の形で、経文の中に、警句の中に、表現されている。
このウパニシャッドはたった十七の経文しかない。
それらは半ページに書くことができる。
一枚の葉書に、このウパニシャッド全てを書くことができる―
しかも片面に!
でも、実に潜在力のあるメッセージだ。
だから、私達は一つ一つの言葉を取り上げながら、その言葉の核心に
迫り、それに生きた呼応をもって挑みたいと思う。
それによって、何かがあなたの中に響き始めるかもしれない。
それが響き始めるのは、これらの言葉が大変な潜在力があり、
多くのことが含まれているからだ。
もしそれらの言葉の原子が破壊されなければ、大変なエネルギーが解き放たれる。
だからオープンで、受容的で、深い信頼の中に在ること。
そして、ウパニシャッドがなすがままにさせることだ。


・・・ウパニシャッドってナニモノ??って感じなんですが(^^;)、、なかなか解放力のある文章ですな。。

インドのシンクロ

2006-02-28 02:17:40 | ★Nature,Sprit
最近、インド帰りの友人を通してのシンクロ(シンクロニシティー:共時性)がある。

今後も彼らは、インドと長いお付き合いをしていくのかなぁ・・・という気がするのだが、先日彼らが帰ってから、夫がテレビでBSニュースを見ていた・・・すると丁度、インド情勢についての特集をやっていた。。インドでは今、ITに関わる様々な問題が浮上しているそうだ・・・友人の話がテレビの映像を通して、真に迫ってきたようだ。。

昨日はその友人が、インド&Spiritual関連の情報収集の為に私の元へ来ていたのだが、友人が帰った後に何気にポストを開けるとOSHOサクシン瞑想センターよりDMが届いていた・・・丁度、インド本拠地のコミューンに関する情報を採取しようと思っていたところだったので開封してみると、彼の談話録が載っていて、自分も共鳴する内容だったので以下に紹介したい。。


「究極の錬金術―古代奥義書・ウパニシャッドを語る」より

人間とは唯一、自分自身をだまし、欺瞞の中に生きられる動物だ。
もしあなたがヒンドゥー教徒なら、ウパニシャッドについて考える。
またイスラム教徒なら、コーランについて考える。
もしクリスチャンなら、新約聖書について考える。
だがそうであれば、あなたは自分の考えが決して真実でない、
ということに気がつかないだろう。
あなたがキリスト教徒である、ということが
真実を知るための障害になっている。
あなたは真実ではあり得ない!
人は決して属してはならない。
そうして初めて、真実の呼応が可能だ。

属するということでマインドはかき乱され、歪められ、逸らされ、存在しないものを投影し、実存するものを否定してしまう。
だが私にとっては、そのことは問題にならない。
そしてあなた方に一言言うなら、あなたがコーランを読み、またウパニシャッドを、聖書を開くなら、ヒンドゥー教徒やクリスチャンや、イスラム教徒であってはいけないということだ
― ただ「在る」だけで充分だ。
そうすれば、もっと深くそれらの本質を貫くことができるだろう。
そこに概念や教義があれば
決してオープンでいることはできない。
閉ざされたマインドは「理解した」と言う偽りは作り出せても、
理解することは決してできない。

私は、何ものにも属していない。
もし私がウパニシャッドに呼応しているとすれば、それは単純に、
私がこのウパニシャッドと恋に落ちた、ということだ。
この、もっとも短いウパニシャッドの一つ、
「アートマ・プージャ(自己礼拝)」は稀なる現象だ。
なぜ私が、この稀なるウパニシャッドについての何かを話そうと選んだか?
第一に最も短い。
それはちょうど種のようだ―潜在力があり、包含するものがあり、その中に沢山のものが詰まっている。全ての言葉が無限なる可能性をはらんでいる一粒の種だ。
あなたはそれをこだまさせることができる。
無限に反響し戻すことができる。
それらの言葉を深く思い巡らせば思い巡らすほど、言葉は意識の中に深く入っていき、より新しい意味深さが明らかになる。
そうした種のような言葉は、すなわち深い静寂の中で見出された、ということだ。

実際、この本は不思議な本だ。だが、それは事実だ。
語ることが少なければ少ないほど
あなたは多くを語ることになる。
もしあなたが本当に何か言いたいことがあるなら、ほんの二、三節、
または二言、三言で言うことができる―たった一言でさえも、充分かもしれない。
言うべきことが少なければ少ないほど、言葉数を多く使わなければならないだろうし、
言うべきことが多ければ多いほど、言葉数が少なくて済む。

(続・・・)