『「雨の木」を聴く女たち』(大江健三郎 新潮文庫)
訃報を聞いた数日後、古書店で手にした。
二十歳くらいまでは食わず嫌いで読まなかった大江健三郎を、自らの偏見を解体するように手にし、広島や沖縄についての著書も読んできた。
いつかまた、と思って本棚に入れてあるそれらを再び手にするのでなく、未読の本書を求めたのは、訃報と古書店での出会いに導かれてだ。
表紙裏の解説には“著者会心の連作小説集”とある。短編集なら、多忙の中でも読みやすいと思った。
1ヶ月かけて読了して、私の見通しの誤っていたことに気づいている。これは連作集であって、短編集ではなかった。集中して連読しなければならない類いの小説たちであった。
というのも、単品単品で見ては、意図がいまいちわからないのだ(私の読解力低下も一因とは思うが)。
一見すると私小説風だが、表層を撫でるように読むから、誤読してしまうのだろう。
で、いったい何を描きたかったのだ? という読後感に惑いながら1ヶ月ぶりに表紙裏の解説を見ると、“「雨の木」のイメージは、荒涼たる人間世界への再生の合図である・・・”という。
そのような救いのイメージに、私は気づかぬまま頁を閉じてしまっていた。
アルコールに傾いていったという著者の晩年を、訃報の後の誰かの回想で読み、救いのない老いを老いていったのかと、大江健三郎の死というフィルターを通して読んでしまったせいかもしれない。
訃報を聞いた数日後、古書店で手にした。
二十歳くらいまでは食わず嫌いで読まなかった大江健三郎を、自らの偏見を解体するように手にし、広島や沖縄についての著書も読んできた。
いつかまた、と思って本棚に入れてあるそれらを再び手にするのでなく、未読の本書を求めたのは、訃報と古書店での出会いに導かれてだ。
表紙裏の解説には“著者会心の連作小説集”とある。短編集なら、多忙の中でも読みやすいと思った。
1ヶ月かけて読了して、私の見通しの誤っていたことに気づいている。これは連作集であって、短編集ではなかった。集中して連読しなければならない類いの小説たちであった。
というのも、単品単品で見ては、意図がいまいちわからないのだ(私の読解力低下も一因とは思うが)。
一見すると私小説風だが、表層を撫でるように読むから、誤読してしまうのだろう。
で、いったい何を描きたかったのだ? という読後感に惑いながら1ヶ月ぶりに表紙裏の解説を見ると、“「雨の木」のイメージは、荒涼たる人間世界への再生の合図である・・・”という。
そのような救いのイメージに、私は気づかぬまま頁を閉じてしまっていた。
アルコールに傾いていったという著者の晩年を、訃報の後の誰かの回想で読み、救いのない老いを老いていったのかと、大江健三郎の死というフィルターを通して読んでしまったせいかもしれない。