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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文752

2020-09-27 21:36:00 | エッセイ
『歴史と視点』(司馬遼太郎 新潮文庫)

 何かで、この作品の一節が引用されていて、気になっていた。
 学徒出陣で戦車部隊に配属された司馬氏は、終戦間際、本土決戦に備える北関東の部隊にいた。上陸してくる米軍を邀撃する作戦の説明に『大本営から人がきたことがあった』。説明後、司馬氏は質問した。

『戦車が南下する、大八車が北上してくる、そういう場合の交通整理はどうなっているのだろうか』
『その人は相当な戦術家であったろう。(中略)このため、この戦術という高級なものを離れた素人くさい質問については考えもしていなかったらしく、しばらく私を睨みすえていたが、やがて昂然と、「轢っ殺してゆけ」と、いった。』

 この部分の真偽が話題に上っていた。このような威勢の良い勝手なセリフを吐くのは、若い参謀だろう。部隊にわざわざ出向き、下級将校の質問にも応じるくらいだから、少佐か大尉くらいの参謀であろう。もしかしたら、その随員の中尉クラスだったかもしれない。
 嘘か本当かという議論が私には違和感があった。実際に「轢っ殺してゆけ」と言い放った者がいたであろうと思う。問題はそれが、大本営の公式見解と捉えるほどに大物の参謀だったかどうかであり、私はこの点では疑わしいと感じた。『大本営から人がきた』という書きっぷりから、その人を庇う一方で、その人の肩書等をぼかす意図をも感じたからである。
 と、本題から大いにずれてしまったが、学徒兵の司馬遼太郎が元戦車乗りとして語るとき、これほど饒舌になろうとは意外だった。ここでは歴史小説を書くにあたってのさまざまな制約から解放された、この書き手の本心が見えて、大変興味深かった。これほどまでに反軍的な思想の持ち主だったとは意外である。それもこれも、戦車という棺桶に、日本陸軍の宿痾が集約または象徴されていたからだということ。これが辛辣な三作品(『戦車・この憂鬱な乗物』、『戦車の壁の中で』、『石鳥居の垢』)から滲み出ている。いや、もはやこれは噴出しているといってよいくらいだ。
 他は近世や幕末の話題であるが、大河ドラマ的な小説ではないので、枕頭において気楽に楽しめた。楽しむとはこういうことを指すのだと思った。歴史に思いを馳せる。連関に気づく。活かすべきことを学ぶ。気概に心を震わせる。そして日々の我がなりふりを顧みる。
 酒をやめて良いことは多々あるが、寝る前に心静かに書見ができるのも、大きな余得の一つである。


読書感想文751

2020-09-21 20:59:00 | エッセイ
『川を下って都会の中へ』(野田知佑 新潮文庫)

 野田氏の作品を読むのは早くも三冊目。なんでもっと早く手に取らなかったかと自分のアンテナの小ささを情けなく思う。モンベルの会員になっていなければ、出会い損ねていたかもしれない。
 しかし、私にはベターなタイミングだった。この人の、いわば知的な居直りとでも言うべき自由さ、頑なさ。それが、この夏私に降りかかった望まぬ異動に伴う不安を、幾分か和らげてくれた気がしている。
 野田氏の奔放さに比して、なんと自分の小役人じみた卑称さよと嘆かわしいが、思えば共通点は少なくない。
 川が好きである。魚を見たり捕まえるのが好きだ。ついでに、十代の一時期、私もカヌーで冒険したことがあった。こんな官僚みたいな堅苦しい立場の私にも、破天荒な時代があったのだ。
 新たなことを吸収するのは40代になると難しいことだなあと実感している。しかし、思い出すのは早い。私は異動の絶望感を紛らすように、新任地の地図を眺め、『この川で釣りをしよう』『ここで泳いでみよう』と夢想を楽しみ、単身赴任してすぐに実行した。
 そのときの静かな感動は、私の大切な思い出になるかもしれない。上から見たのではほとんど知る由もないが、潜ってみると、たくさんのオイカワ、ハヤが目の前を泳ぎ回っていた。テトラポッドのある淵からは大きな鯰がこっちに泳いできた。まさか人間がいるとも知らず。
 野田氏の新しい作品も読んでみたい。本書は86~87年のもので、時代特有のバブル感は否めない。取材となれば、じゃんじゃん経費が下りていたのだろう。いま読むと、少し違和感がある。
 不況や、度重なる戦争、大災害を経て、年老いた野田氏がどう語っているのか知りたい。
 少なくとも、かつての冒険家を、がっかりさせることはないだろう。



読書感想文750

2020-09-13 21:46:00 | 純文学
『クジャ幻視行』(崎山多美 花書院)

 新聞の書評を見て、この書き手を知ったはずなのだが、どんな書評だったか忘れてしまった。積ん読してしまうと、いつもこうである。
 Amazonから届いて、頁を開き、最初の短編『孤島夢ドゥチュイムニ』を読んだ。
 純文学らしからぬ軽い調子の口語体が地の文なのだが、そこに沖縄の原語らしき片仮名が入り交じる。そのアンバランスに違和感を覚え、ちょっと食欲を削がれてしまった。
 本書は七つの短編からなる。すべて『すばる』に収録されている。掲載誌で作品を評価すべきではないだろうが、少なくとも純文学の四大商業誌に載っている。私は積ん読しながらも、自分の違和感を疑うべきなんだろうなとは思っていた。
 すべて通読してみて、文体のアンバランスさは意図されたものだろうと類推した。あくまでも現在の立ち位置から撃とうとする試み、そのように私は解釈する。
 島の言葉で幻惑されそうになるが、これは怨念を表現するだけでなく、それとは全く異なる意図が含まれているようにも思える。
 あの現代ロシア文学の異色作『青い脂』が、中国語混じりの未来ロシアスラングを駆使して読む者を惑わすときも、今回に似たような何かを感じた。
 気づきの一種、とでも言えばいいのか。それが愉快な気づきではないとしても、著者は書かねばならなかったのだと思う。
 もっと誠実に、読むべきだったと、いま省みている。