『沖縄決戦 高級参謀の手記』(八原博通 中公文庫)
沖縄の戦いについては『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』を読んで以来、問題意識を持ち続けていた。
その後、戦績を巡る機会を持ち、稲垣武著『沖縄 非偶の作戦 異端の参謀八原博通』をガイド本として読んだ。
こうした経緯があって、八原大佐については一定以上のリスペクトを抱いていた。本書の存在は知っていたが、絶版となって久しく、沖縄を訪れた頃は入手できなかった。その後数年して復刊していたのを知らなかったのは不覚であるが、この度、戦史を復習する必要に駆られて手にした。
本人の感想を交えつつ、『失敗の本質』で論及された日本陸軍の組織的弊害を追体験できた。合理性の欠如。感情と人情の優先。仲間意識からくる付和雷同。それらのアウトプットは全体最適を考慮しない浪花節の部分最適だ。著者はいう。
わが陸軍将校、なかんずく高級将校や参謀らは、陸軍大学で気分本位の上滑りの作戦や、本質を離れた形式戦術を勉強し、しかも卒業後はほとんど用兵作戦の勉強をしない。(第二章 決勝作戦)
また、精鋭9師団を台湾に抜き取られるにあたって、32軍は司令官意見書を提出して反対した。しかし、方面軍や大本営から、これに対する明確な回答はなく、代わりに本土から一個師団を補填するとした約束は反故にされた。信じられない無計画、思いつきの連続だ。
方針が上下において一致していないのみならず、上層部の左右においても目的の一致をみなかったものと思われる。大本営は「決戦は本土でやる。沖縄は本土の前進部隊である」と言い、一方で鈴木首相は「沖縄の日本軍が、敵を一度海中に突き落としてくれたら、これを契機として、具体的平和政策を開始しようと考えていたが、期待に反して・・・」と戦後の回顧談で述べた。そういう取り巻きの希望的観測を信じたのだろう、昭和天皇もまた「一撃を加えてから講和を」と考えていたらしい。その狭間で戦力を抜かれ、自助努力で持久作戦を立案せざるを得なかった32軍を、防勢に引きこもった腰抜けのように批判したという大本営とは、いったいなんだったのか。現地での視察や指導もしないばかりか、彼らが32軍に方針(航空決戦)を示したのは、なんと3月に至ってからだというから呆れるばかりだ。
その怒りが、著者の手記となり、本書へと結実した。動機は、真相を明らかにしようという一参謀の義侠心に由来するが、結果としてそれは「彼の憤りを通して日本軍が抱えていた宿痾の一面をもはっきりと描き出したのである」(戸部良一氏の解説より)。
恥も知らず、公職に復帰して高級幹部に返り咲く者の少なくない中、八原氏は地元で行商をしたり狭い畑で農業を行って貧窮に耐えながらの戦後を送った。その潔さが、また後世のわれわれに感銘を与える。

沖縄の戦いについては『失敗の本質 日本軍の組織論的研究』を読んで以来、問題意識を持ち続けていた。
その後、戦績を巡る機会を持ち、稲垣武著『沖縄 非偶の作戦 異端の参謀八原博通』をガイド本として読んだ。
こうした経緯があって、八原大佐については一定以上のリスペクトを抱いていた。本書の存在は知っていたが、絶版となって久しく、沖縄を訪れた頃は入手できなかった。その後数年して復刊していたのを知らなかったのは不覚であるが、この度、戦史を復習する必要に駆られて手にした。
本人の感想を交えつつ、『失敗の本質』で論及された日本陸軍の組織的弊害を追体験できた。合理性の欠如。感情と人情の優先。仲間意識からくる付和雷同。それらのアウトプットは全体最適を考慮しない浪花節の部分最適だ。著者はいう。
わが陸軍将校、なかんずく高級将校や参謀らは、陸軍大学で気分本位の上滑りの作戦や、本質を離れた形式戦術を勉強し、しかも卒業後はほとんど用兵作戦の勉強をしない。(第二章 決勝作戦)
また、精鋭9師団を台湾に抜き取られるにあたって、32軍は司令官意見書を提出して反対した。しかし、方面軍や大本営から、これに対する明確な回答はなく、代わりに本土から一個師団を補填するとした約束は反故にされた。信じられない無計画、思いつきの連続だ。
方針が上下において一致していないのみならず、上層部の左右においても目的の一致をみなかったものと思われる。大本営は「決戦は本土でやる。沖縄は本土の前進部隊である」と言い、一方で鈴木首相は「沖縄の日本軍が、敵を一度海中に突き落としてくれたら、これを契機として、具体的平和政策を開始しようと考えていたが、期待に反して・・・」と戦後の回顧談で述べた。そういう取り巻きの希望的観測を信じたのだろう、昭和天皇もまた「一撃を加えてから講和を」と考えていたらしい。その狭間で戦力を抜かれ、自助努力で持久作戦を立案せざるを得なかった32軍を、防勢に引きこもった腰抜けのように批判したという大本営とは、いったいなんだったのか。現地での視察や指導もしないばかりか、彼らが32軍に方針(航空決戦)を示したのは、なんと3月に至ってからだというから呆れるばかりだ。
その怒りが、著者の手記となり、本書へと結実した。動機は、真相を明らかにしようという一参謀の義侠心に由来するが、結果としてそれは「彼の憤りを通して日本軍が抱えていた宿痾の一面をもはっきりと描き出したのである」(戸部良一氏の解説より)。
恥も知らず、公職に復帰して高級幹部に返り咲く者の少なくない中、八原氏は地元で行商をしたり狭い畑で農業を行って貧窮に耐えながらの戦後を送った。その潔さが、また後世のわれわれに感銘を与える。
