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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文629

2018-01-29 17:53:00 | 社会科学
『中国抗日戦争史』(石島紀之 青木書店)

 東アジアの力関係が急激に変わっていく昨今、かつて日中はどう戦ったのかと、関心を持つようになった。
 戦争を回避するため、あるいは勝つため(それは無論、戦わずして勝つことが最善の目標だろう)、史実に学ぶ必要があるはずなのに、とかく現代中国はさまざまな偏見と憶測で語られてばかりに思えてならない。死の商人の喜びそうなストーリーとして。
 本書は1984年の発行。文革に対する否定的評価は左右両陣営において共有済みの時代であろうが、発行を取り巻く時代背景(本多勝一の著書や国際的問題に発展した「教科書問題」)にも影響を受けていると判断されたか、薄暗いガード下、古書店の軒先に並んでいた。(だからこそ、気楽に手に取ることができたわけだが)。しかし私にはちょうど読みたい切り口のものだった。“日中戦争史”でなく“抗日戦争史”とする視座こそ、いま窺い知りたいところなのである。
 その視座から見た歴史は、教科書ではほとんど触れられず、“満州事変”“国共内戦”“日中戦争”といった包括的な名称を年表上で知るのみで社会に出ていく人が大半かもしれない。かくいう私も、太平洋戦争には興味を持って文献にあたってきたが、日中の戦いにはほとんどスポットを当てなかった。何故だろうか。
 と、この問いに腑に落ちる回答をくれそうなのは、先年読んだ『永続敗戦論』くらいだ。もはやこれは為政者のみならず、国民全般が罹患している精神疾患のひとつなのかと冗談でなく勘繰ってしまう。
 本書を読んで深く再認識させられたのは、抗日戦争中における国民党の反動性だ。蒋介石をはじめ、国民党には長期的戦略に長けたスケールの大きな政治家が少なからず存在し、国際世論をも味方につけていったことは否定しない。しかし、日本軍よりも共産党を敵視し、内弁慶を決め込んで場合によっては日本軍とも手を組み、権謀術数の限りを尽くす。
 本書が“中華人民共和国”の側に依って立つ書きっぷりをしており、中国共産党の主張や歴史観をベースに語られていることは括弧にくくって読まねばならない。だが少なくとも、同じ中国人だった彼らが、われわれの想像する以上に深く分断されているのだなということを実感した。先年読んだ『現代中国の歴史』でもつくづく感じたことであり、それを軍事面から復習する良い機会となった。
 また、これも昨年手にして目から鱗だった 小林英夫『日中戦争  殲滅戦から消耗戦へ 』で論点とされていた消耗戦のなんたるかも、本書で違った視点から知ることができた。

 さらに毛沢東は、持久戦が次の三段階を経過すると述べた。第一段階は日本の戦略的進攻、中国側の戦略的防御の時期。第二段階は日本側の戦略的守勢、中国側の反攻準備の時期。第三段階は中国側の戦略的反攻、日本側の戦略的退却の時期。(?抗日戦争の勃発と拡大)

 しかし本書を読んで最も印象的だったのは、“毛沢東思想”に関する論及である。
 文革への批判を経た上でまとめられた“戦争史”であり、その視座は共産党に好意的ではあっても毛沢東への個人崇拝には手厳しい。そのため“毛沢東思想”についての記述はドライで雑音なく、役立つものだった。
 印象的なのは、確立された時期と手順である。
 まず規律の強化、批判・自己批判を通じた思想統制による粛清が“整風運動”として行われ、その中で『マルクス・レーニン主義』の中国的発展たる“毛沢東思想”が語られ始めた。
 中国共産党は1945年4月~6月、第七回全国代表大会を開催、正式に“毛沢東思想”が党の指導思想として確認された。
 さて・・・なんだか最近聞いたような話であり、驚きを禁じ得ないのだ。
 歴史は繰り返すのか。二度目が茶番であれば良いのだが、もし茶番でないなら、中国は分断(台湾との)の解決を、いよいよスケジュールに載せたのかもしれない。
 “毛沢東思想”を明文化した中国はおそらく、抗日戦争後の内戦勝利を見据えて、強い結束を企図していたのだろうから。



読書感想文628

2018-01-22 22:29:00 | ノンフィクション
『極限のトレイルラン アルプス縦走100マイル』(鏑木毅  新潮文庫)

 かつて浅田彰が『逃走論』で人間をスキゾ人間・パラノ人間に分類した(もはや死語か)。私は典型的なパラノ型で、順をおっていきたい、積み上げた背景を地盤にしたい、でなければわからないし、何も言う資格がないとさえ思ってしまう。(たとえば“ポスト・モダン”の思潮を学ぼうと思ったとき、“モダン”をひととおり学習しなければならないという強迫観念にとらわれ、どんどん過去に遡っていったり)
 と、この本の感想文には関係ないような話になったが、避けられない部分なので、あえて述べた。というのも、尊敬してやまない鏑木毅氏の著書なのに、読むのを先延ばしにしていた理由がそれなのだ。
 つまり、
『鏑木さんの著書ならすべて読みたい→しかしUTMB 以前に、私はUTMF に出る資格すら得ていない→その私がミーハーのごとくUTMB に憧れる図は見苦しい→この本はせめてUTMF を完走し、UTMB を見据える地平に立ってからに』
 という思考が働いていたのである。
 しかし、読んでみて、そんなこだわりの無用さを思った。
 私が鏑木氏に惹かれる所以を、この読書が教えてくれたのである。それはときに、涙の込み上げそうな、読書体験となった。
 第2章『箱根の「亡霊」に憑かれて』では、全校生徒が一斉に行う縄跳びのエピソードが語られる。いじめられっこだったという鏑木氏は、
「ヨワシ、なんでまだいるんだよ!」
「早く引っかかれ!」
「ヨワシのくせに生意気だぞ」
 と周りに怒号を浴びせかけられながら、倒れるまで跳び続けた。全校生徒中で最も長く跳んでいたことを知らされたのは、保健室だったという。“鏑木毅”誕生の原体験だろう。

 この出来事で私には自信が生まれました。勉強もダメ、体育も得意でない、そして内気だった私は、この日をきっかけに少しずつですが変わったことをはっきりと覚えています。

 こうして、自分の特性に気づいていったのだろう。中学生からは陸上に打ち込んでいく。
 このエピソードは、私の原体験をも掘り出してくれた。小学2年生時、縄跳びの検定で、私はカウントする担任教師が4本指を立てたことを『ストップ』の合図と勘違いして跳び止めた。そんな勘違いをするほど、私は自信のない、おどおどした子供だったのだ。
 担任の合図は『400回跳んだ』という意味であって、それは2年生としては断トツの回数だった。初めて私は、自分にも人に秀でたものがあるのかもしれないと思った記憶がある。
 また、箱根駅伝への夢叶わず、失意のうちに地元県庁に就職した当時を振り返り、鏑木氏はこう書いている。

 全てのエネルギーをぶつけて、途切れることなく続く大観衆のなかを20kmをも走れる興奮の舞台に比べれば、人生の次のステージに用意された生活は、到底私の心を突き動かすものではありませんでした。頭では、次の人生をしっかりと見据えて頑張らなければということを理解できても、心がどうしても動きません。
 長年考えてわかったことですが、私はたぎるような思いを常に持っていなければ生きていられない人間のようです。このままではいけないと思いながらも、箱根駅伝の「亡霊」はいつまでも私の心に取り憑いていました。

「そうか」と、深く私は独りごちた。この人に惹かれるのは、やはり(こういっては、おこがましいが)似たような背景があったからなのだ。
 私も、“たぎる”ような気持ちを維持していないと、生きていけないのかもしれないと、ここ数年で自覚し始めていたところだった。自転車は止まれば倒れる。だから走り続ける。それを私は毎月何らかの大会に出ることで維持してきた。
 そして、鏑木氏が最近立ち上げた50歳でUTMB を目指すプロジェクト“NEBER”も、ここに引用した心情に由来しているのだろうなと感慨深いものがあった。
 本書は、私にとり、ひとつの指針となるだろう。競技者としてのみならず、人間性においても、鏑木氏は私にとり襟を正したくなる人である。



読書感想文627

2018-01-02 20:59:00 | 評論・評伝
『希望の資本論』(池上彰×佐藤優 朝日新聞出版)

 よくテレビに出てくるし、本を書けばヒットする、あまりにメジャーな二人の対談である。探していたわけではないが、古本屋で目についたので買ってみた。『資本論』が再評価されているとしたら、どのような意味においてなのか、気鋭の識者による解説が読めるなら素通りはできない(『マルクスその可能性の中心』などが読まれた世相と現在はまったく異なる。相違点を比較もしてみたい)。また、いいかげんこの人たちの著書に触れてみたいなというのもあった。まるでタレントのように露出が多いため、これまで手にとる気になれなかったのである。
 書店で目にしたことはあったが、二人はいずれも『資本論』に関する解説本を著している(『高校生からわかる「資本論」』池上彰著 集英社・『いま生きる「資本論」』佐藤優著 新潮社)。もともと問題意識を持っていたところに、ピケティ・ブームが到来、その来日に合わせて池上氏、佐藤氏いずれもが(別々に)ピケティ氏と対談したという。その流れで出来上がったのが本書であるようだ。
 副題は【私たちは資本主義の限界にどう向き合うか】。池上氏はまえがきで資本主義がもたらす格差等の矛盾を理解するために『資本論』を読もうと推奨しながら、こう書いている。

 『資本論』は、かつて「運動の書」、「革命の書」としてもてはやされました。しかし、『資本論』を読めば、すべてが解決するわけでもありません。ここから得られる資本の運動の論理の理解。これが、社会の荒波に出て行く若者にとって救命ボートの役割を果たすものと確信しています。

 池上氏はマルクス経済学を専攻し、佐藤氏は社会党の青年組織・社青同に属していた、これらは本書で初めて知った。二人とも左翼・新左翼のことにも相当詳しく、対談中のこぼれ話には食いついてしまった。また日本の戦前の共産主義運動が、“講座派”と“労農派”に分かれたことは何かで読んだことがあったが、その違いについては今更ながら本書の丁寧な解説で知るところとなった。
 と、さまざま勉強になり、面白くいっき読みしてしまった本書であったが、『資本論』を読んでの具体的な効用の話になると、「論理に強くなる」(佐藤氏)だとか「自分が生きている社会を、相対化する力を与えてくれる」(池上氏)といったように、教養の一環という扱いに留めており、だんだんと歯がゆくなっていった。大手の出版社でベストセラーを出し続け、テレビでも引っ張りダコの二人としては、無難な言い方しか出来なかったのかもしれない。
 第7章の『知性という最大の武器』においては、本音が行間に滲み出してくるような、こんな一節もあって面白くはあったが。

 安倍政権という現象は、反知性主義の蔓延と関係しています。反知性主義者は、知性を憎んでいる。だから、知性の言葉が通らない。それで、自分たちの心情と政策をストレートにつなげてしまう。(佐藤氏)
 敵の内在的論理を学ぶということです。ISの論理を知って初めてIS対策が取れるわけで、同じように『資本論』が役に立つのではないかと思います。(池上氏)
 


読書感想文626

2018-01-02 20:55:00 | 評論・評伝
『習近平の「三戦」を暴く!!』(屋山太郎(監修) 日本戦略研究フォーラム(編) 海竜社)

 いつの時代もこういう週刊誌の表紙に載っていそうな題名の本が店頭に並んでいる。中でもコンビニに並ぶ手のものは、大抵読むだけ無駄な内容のものが多く、気をつけている。
 逆に、眉唾ものの中に有用なものが紛れ込んでいる場合もあることは否定できず、本書を選んだのも、いわゆる中国の“三戦”について得るものがありそうだったからだ。
 副題は「尖閣諸島はこうして盗られる」。しかも武力によって強引に占領するのでなく、“三戦”を駆使した“サラミスライス戦術”によって盗るという。そうしたやりようは歴史的に見ても中国の得意とするところで、私の関心事項であり、参考にはなると考えて購入・通読した。(執筆者の多くは防衛省OBである)。
 たとえばインドに対するサラミスライスの事例がこのように挙げられている。

 中国は、新疆からインド国境のアクサイチンを経てチベットに通じる道路を建設する際、わざと国境線のインド側に道路を建設し、それを地図に掲載したのである。
 中国軍は、中印国境付近で「威力パトロール」と称する統制の効いた挑発を繰り返し行い、インドの出方を探っている。
 インドの例では、じつに1913年から約100年をかけて、中国は自らの支配地域を武力で拡大しようとしつづけている。領有権を主張する根拠としての地
図や根拠の捏造、二国間交渉の提起、武力による実効的支配の拡大という行動の繰り返しである。(第1章 中国が巧妙に仕掛ける戦略の深層にあるもの)
 
 尖閣諸島における戦術の先例として参考になる。また、本書は南シナ海での中国の海洋進出を特に詳しく論じ、フィリピンやベトナムがいかにして実効支配を覆されたかが述べられている。
 わが国の行く末について考えるとき、教訓にすべき部分は少なくなさそうだ。

 中国が、他国の領土・領海への侵入行動を起こすのは、相手国の国内治安が悪化した時や、他国と戦争状態にあった時、つまり中国の浸出に、相手国が適切に対応できない状況にある時だ。南シナ海でも、まさにそうなったのである。(第2章 気付いたときはもう遅い!「サラミスライス戦術」の現場検証)

 結果論かもしれないが、確かに尖閣諸島への攻勢を中国が強めたのは、震災後に政治的基盤を弱体化させた民主党政権時代末期のことである。
 それゆえに、監修者等は安倍政権を過大に評価しているのだろうか。
 と、ここで思い当たるのは、ボナパルティズムという古くさい問題である。国防を謳いながら、その実・・・
 先日読んだ『永続敗戦論』の提起する問題が、もう先延ばしにはできないところまで来ている、ということだろうか。こんな皮肉な感想を抱いてしまった。