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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文369

2012-03-31 13:04:00 | 社会科学
『みんなの9条』(『マガジン9条』編集部編 集英社新書)

 いままであまり意識しなかったし、新書といえば岩波と思っていたが、集英社新書もなかなか良書を手がけていて感心する。新潮、文春、PHPあたりが昨今の右傾化する世相に媚び、あるいは後押しするようなラインナップだから、その間隙に商機を求めた、これも一種のスキマ産業なのだろうか。
 そんな台所事情はどうあれ、私を最近立ち止まらせる新書の棚は、岩波以外では集英社である(講談社も悪くないが、けばけばしいデザインが気後れさせる)。
 本書は『マガジン9条』というウェブマガジンが、その活動の一環として22人の識者にインタビューしたものという体裁であり、平易な会話体で、各人各様の思いが語られ、読んでいて面白かった。気づきもあった。そういう切り口があったかと、新鮮な考え方を教えられもした。
 政治や憲法を知らない人でも読めるように、いやそういう若い人にこそ読んでもらいたい、といった編集のスタンスである。幾人かが指摘するように、9条を捨てて国軍を持つということは、いま選挙権さえ持たない人やこれから生まれいずる者らに何かを押しつけることでもある。われわれはその未来への責任にも思いを馳せねばならないし、若い人は自分が戦場で死ぬ・殺す場面を自らに問わねばならないだろう。
 22人の意見を要約して、編集部が題名がわりにこう抜き書きしている。

『必要なのは軍隊ではなく交渉能力』橋本治(作家)
『「ニッポン大好き」を問い直そう』香山リカ(精神科医)
『戦争が終わったときから始まる「戦争」がある』黒田征太郎(画家)
『ムードで高まるナショナリズムや改憲気運は、危険』広井王子(ゲーム・クリエーター)
『9条は壊れやすいものだから、みんなでまもっていかなくては』いとうせいこう(作家)
『戦争は「自衛」をキーワードに始まる』毛利子来(小児科医)
『9条は世界へ向けた日本の国際公約』辛淑玉(人材育成コンサルタント)
『大阪流「お笑い」外交を教えたる!』木村政雄(プロデューサー)
『戦争が終わっていないのに、なぜ次の戦争の用意をするのか』太田昌秀(参議院議員)
『霊長類ヒト科の絶滅を回避するためにも、9条はあったほうがいい』きむらゆういち(童話作家)
『心の中に平和の種を育てよう』早苗NENE(歌手)
『日本国憲法は国民の「努力目標」として与えられたものだ』姜尚中(国際政治学者)
『自分に自信が持てなくて、国に誇りを求めてた』雨宮処凛(作家)
『戦争はいちばん弱い者に、ダメージを与える』愛川欽也(俳優)
『おかしいと思うことに、黙っていてはいけない』上原公子(前国立市長)
『改憲を考えるのなら、もっと歴史を見る必要がある』ジャン・ユンカーマン(映画監督)
『私たちは、もっと想像して疑ってみなければならない』石坂啓(マンガ家)
『今、日本は〈通り過ぎなあかん道〉に来たんや』中川敬(ミュージシャン)
『平和憲法を持つ国、コスタリカのやり方』伊藤千尋(新聞記者)
『生をうけられず、言葉を持てなかった人に代わり、平和を語り続ける』渡辺えり子(劇作家)
『護憲派の立場から、改憲論を現実的な視点で見直す』松本侑子(作家)
『9条の本領が発揮されるのはこれからです』辻信一(文化人類学者)
 
 それぞれが様々な立場から示唆に富む意見をみせてくれる。そういえばそうだなあと思わせるのは精神科医・香山氏の指摘。
『ここ数年で、若い人たちが、社会で起きているいろいろな現象に対して、ずいぶん断定的なものの言い方をするようになった』
『物事の複雑な事情や経緯などを想像することができなくなってきたということではないか』
『〈ぷちナショナリズム〉は、まさにこのような短絡的な思考からきているのではないでしょうか』

 これにヒントを示すのは、いとう氏である。
『インターネットは、ストレートに人の感情を表すタイプのメディアです』
『感情の言論が世論を形成するようになってしまったのです』
 なるほどなと思う。ネット右翼という人たちの言動が、しだいに市民権を得てきた。きっと彼らはリアルな世界では“ふつうの”日本人なのだろう。しかしその『当事者性がまったく欠落』(辛淑玉)した言説やムードが何をもたらすかは歴史が教えている。『迷惑やねん。あの自慰史観の連中』『「歴史」を見ない国は「歴史」にほろぼされるよ』(中川敬)。まさに、である。
 最後に、辻信一氏の言葉を引いておきたい。名言だと思う。
『僕らがやらなければならないのは、単に「9条をまもる」とか、そんなケチなことじゃない。9条はソリューション(解決)でも結論でもなくて、あくまでインスピレーションであり、ヒントであり、始まりなんです。』
 始まる前に終わってはいけない。しかし年金問題や政権交代、さらに震災や増税で、議論じたいが棚上げになったまま、武器輸出三原則がいつのまにか緩和されている。うやむや、場の空気、バスに乗り遅れるな、そんな雰囲気を見過ごさぬようにしたい。
 本書はすでに¥100コーナーに並んでいたが、『マガジン9条』はネット上でまだ続いている(9条ネットとかいう政治団体は参院選後に消えてしまったが)。たまに目を通したい。




読書感想文368

2012-03-28 15:59:00 | 純文学
『ノルウェイの森(上)』(村上春樹 講談社文庫)

 十年ぶりくらいに読む。二回目である。一昨年だかに映画化され話題になったようだが、興味を感じなかった。ただでさえ一般論と個人の趣味にしなだれて、痛み苦みをオブラートするような作風の春樹作品が、映画化でさらに一般化されたらどうなるか。見たくない気がした。商業主義に乗って紅白に出る尾崎豊がもしもいたら見たくない、そんな感じである。
 しかし、原作を再読しようと思い立つ契機にはなった。どんな話だったかあんまり覚えていないのが気になった。名作のように言われているのに、記憶が欠落しているのが腑に落ちなかった。読んでいく過程で思い出したとして、感じ方にはどんな相違があるだろうか。そういう興味もあった。
 最初のほうは最近読んだ既視感があった。『蛍』とかいう短編とほぼ同じものが導入部に用いられている。それに気づくまでは気持ちが悪かった。十年ぶりに読むのに、読んだばかりの感じがしたからだ(『蛍』は昨年読み返した短編集に入っていた)。
 昔は同一年代の視点から、つまり20代前半の視座で作中人物を見ていた。読めているつもりでも、いま思えば振り回されていたように思う。当時の私には『直子』は不可解な、不思議な女の子だった。私は『僕』以上にその不可解さに惑わされていた。
それだけ私の感受の守備範囲が狭かったのだろう。間に受け易かったと言い換えてもいい。
即物的なものを一方は確認し受け入れていくが、一方は即物的なものに裏切られていく。乖離していく。この作品においてそれは〈セックス〉を媒介にして描かれるが、当てはめるイメージはなんでもいいだろう(現実生活であれ、革命であれ、宗教であれ)。この汎用性が村上春樹作品の上手さであり人気の秘訣であるように思う。
 導入部はビートルズの曲である。若き『僕』と『直子』がターンテーブルに乗せて聴くのはビル・エヴァンスである。居酒屋で流れている有線放送みたいなチョイス。ここで『僕』が妙に凝ってモンクなどを聴いていたら話の汎用性はだいぶ低下していただろう。
 ノンポリ学生としての立ち位置も絶妙だ。時代に拘束されないのである。そしてちょっと変わり者以上、異端者未満。ヴィレッジバンガードに陳列されていそうな作風ではないか!
いろんな側面から読むようになって私にクローズアップされてくるのは、この作風に対する反感である。簡単に言えば、それは器用さや巧みさへの反感である。
 象徴的なことに、本作では大学に入ったばかりの『僕』が、まわりはみんな三島由紀夫や高橋和巳を読んでいたが自分はフィッツジェラルドが好きでそういうのは読まなかった、というようなことを言っている。
 この皮肉やポーズを、若い読者は理解し得るのだろうか。間に受けはしないだろうか。
 あまり気乗りはしないが(下)も読む。すらすら読めてしまう。良くも悪くも。



読書感想文367

2012-03-26 11:38:00 | 評論・評伝
『感傷と反省』(谷川徹三 岩波書店)

『山』以下六編の評論が収められている。
 著者の名はこの本を手にするまで知らなかった(調べて初めて谷川俊太郎のお父上と知った)。デパートの古本市でやけに色褪せた箱入りの本書を見つけたとき、題名に惹かれて手にとった。
 奥付にメモ書きで『13.1.15 於・東京』とある。当然、平成ではなかろう。文中にもたくさんのアンダーライン。普通は購買意欲を削ぐこれらの要素が、逆に私の興味を引いた。
 日本が破滅へ向かいつつある時代、どんな人が、どのようにこれを紐解き、辿って、読んで、何を感じたのだろうかと。
 初版は大正十四年だが、本書は十刷を重ねた昭和十二年の発行。メモした人は、インクのにおいも真新しい新刊を手にしていたことになる。
 さて、それぞれの寸感を。

『山』
 理屈っぽくて衒学的な雰囲気は否定できないが、洋の東西にある山岳を美的感覚によって比較分析する筆致は、みずみずしさに支えられて読むのを苦痛には感じなかった。
 富士山(文中『不二』)を美しく感ずる日本人とその文化の特質を、主として絵画における美意識を拠り所にして語る。私が衒学的、されどみずみずしいと感ずるのは、これを書いた著者の沸き立つような感性が行間に滲むからだ。大正末期、ようやく日本は列強の末席を占め、急進的な欧化から脱したころだろうか。そういった時代背景にあって、俄かに登山も流行しだしたときに、著者はそれこそ前人未到の『山』における比較文化を試みたのであったろう。
 いま新たな発見をもたらす内容とも見えないが、こうした斜め読みの中に感銘を得た。また本書が刷を重ねて、きな臭い時代にも読まれたのにも、至る所に伏線をみつけ得た。例えば以下のごとき表現。
〈日本の民族的気質の特色として人々の挙げる単純、温雅、淡泊、潔癖、勇気、等々は不二の形のうちに、その天を突く凛乎たる頂と、端正なる輪郭と、四時の白雪と、悠揚たる裾野の傾斜とのうちにあきらかに看取される。〉
 著者がいわゆる日本浪漫派に汲みする思想の持ち主とは思えないが、1930年代末においてはそういう読まれ方をされてしまったと考えても間違いではあるまい。

『憂鬱の浄化』
 冒頭で箴言のような一文、《反省は生命の自然の流れの中断と遡上である。》
 そして反省は憂鬱を孕み、憂鬱は反省を孕むといい、当初、憂鬱の効用(?)を述べる。学問をする、哲学をするとは、まさに“憂鬱する”ことであろう。病的に自らを蝕むような深度に陥らない限りにおいて、私も憂鬱が嫌いではない。
 しかし翻って著者は憂鬱は退廃にも通ずるとして、題名にいう“憂鬱の浄化”を論じる。学術的というより、清々しいような倫理観がこう述べられている。
《私は憂鬱の渋面を恥じねばならぬ。私が憂鬱の渋面を恥じぬ限り私は真によく生きようとする願いをもたぬものといわねばならぬ。》
《憂鬱の沈黙が時に呪いであるにひきかえて孤独の沈黙は祈りであり、憂鬱の言葉がしばしば人を傷つける皮肉と嘲弄となるに反して孤独の言葉は常につつましやかな魂との対語である。》
《憂鬱は孤独に於て浄化される。》
 ここにいう孤独とは著者流の解釈に従えば退廃の対義語であって“魂の中心を常に自己のうちに把持すること”という。実存主義的な香りもしていて、なんだか懐かしい。
 ちなみに文中、或人がかつて語ったという言葉が引用されている。
《他人によって傷つけられるのは自分のエゴイズムのみであり、自分の本質は自分自身によってより傷つけられない。》
 名言である。自分の本質とは何か? という突っ込みどころはあるが、まさしく反省の契機として私はこの言葉は忘れないようにしようと思った。

『雨の霊魂』
 若き日の日記を、いくつか引用し、それに応える形で現在の思惟が語られる。若い人を対象に書かれたのかどうかわからないが、その真摯な自己対話は、平易でアカデミズム臭に侵されず、自嘲や皮肉も交えず、清新でさえある。
 雨や自然に関する詩篇。雨が霊魂となって降り注ぐ夢と、それに対する友人等の感想。会話形式で展開するAとBの対話(心と生活の二つの傾向を幼稚にそのまま対話にしたもの、と著者は評している)。
 後半は若き日の自己対話を受けての思索が展開される。二つの傾向がここで咀嚼されていく。
《世界の大きさに全く眼を閉じて自分の住む一隅に豚の様に安住するのは現実主義の汚辱である。自己と世界に対して鋭い眼を有しながら、またそれ故に、事象の分析と解剖とのみを事として前方へ一歩をも踏み出さないのは現実主義の危険である。それに対して、「あるべき」もののために「ある」ところのものを忘れ、大空の為に大地を忘れるのは理想主義の不聡明であり、風車を妖怪となして突進し羊群を悪魔となして切り込むのは理想主義の滑稽である。》
 長くなったが後半部分の冒頭を引用した。潔い断言と、格調ある文体が魅力的だ。また、こういったストレートな論調があり得たというのは、日本が未だ揺籃の時代にあったためなのか、著者特有の素直さ故なのかわからないが、読んで爽やかである。

『孤独』
 孤独の種類を、隠者の、知識人の、反逆者のと三様に分け、軽く解説した後に自らに関係する第二の孤独を追究する(なお著者は“知識人の孤独”とは書いていない。私の勝手な翻案である)。
 この場合の孤独は、天才(著者はベートーベンやニーチェを挙げる)にとっては『価値の創造』であり『魂の本然のゾルレン』であるという。おお、これを自らにも適用するのか、さすが“学歴貴族”と思ったら、著者はつつましく身を顧みることを忘れない。
《しかし我々は自己の価値をその様に高く値づけ得ないから、自分が自分に忠実であることに対してもある反省と謙遜をもたねばならないであろう》
 確かに、孤独を誇ることは衒学的な自己顕示欲に似ているかもしれない。特段、難しいことや真新しい説を紹介されるわけでもないが、はたと胸に手を当てることの多い本である。
 なおこの章にはカントのいう道徳律が底流しているように見えた。溌剌たる哲学青年の宣言をみるようで楽しい。

『夜』
 昼と夜についての形而上学的思惟が延々と続いて退屈しているところに、いきなり目の覚めるような話の飛躍……
〈感傷はしばしば甘くおろかである、しかしその甘くおろかなることはしばしば辛く怜悧なることより深い。〉
〈感傷の棲家が常に胸にあるところに、その真実に於いて、感傷の愚かさはかえってかの手軽な現実主義と頭の怜悧よりより深いものを有する。〉
 ようはこうした喩え話に夜と昼を比較してこねくりまわしていたわけである。著者は続いてこう書いている。
〈静は動より深い。それは一般に現実に対する可能、顕在に対する潜在でもある。──この意味に於いて人格は可能であり潜在であり「静」であり根源の力である。〉
 面白い。形而上学的なものが人間中心主義の理屈として遠景に追いやられて、現在こうした主張を見るには過去のものを紐解くしかないが、といってこれらがわれわれにとって乗り越えられ解決されたものとは言い難いのだ。
 しかしながら、著者は暗に社会主義を非難し、こんな書き方をする。〈野心と権力欲とに充満せる社会主義者〉……労働運動が次第に盛んになり、無産政党が勃興し、アカデミズム周辺にも同調者が増え、著者はその“流行”めいた雰囲気に嫌気がしていたのだろうか。
 その後のパージを思えば、あたかも三島由紀夫が孤高の憂国右翼を気取っていたのを見るみたいに滑稽ではあるのだが、本書が版を重ね得たひとつの要因でもあるだろう。

『古典的と浪漫的』
 高校生や大学生が、覚えたての横文字や学術用語を使いたがるみたいに、この評論は外国作家と用語の羅列に終始する。西洋文化史や比較文化などに予備知識があれば読むに耐えるのかもしれないが、私にはいささか衒学的なハイティーンの作文みたいに見えてしまった。
 それは著者のせいでなく、大正の日本が、まさに青年のような時期に在ったからだろうと思う。
 しかし、昭和13年にこの本を手にしていた人も、どうやら退屈したらしい。めっきりアンダーラインや書き込みが減り、後半はゼロだった。

 こんな想像をしても詮無きことではあるが、アンダーライン等を見る限り、70数年前の持ち主は、悩み、不安がりながら、その悩みを、或いは感傷を力に変えていこうとしていたように思える。おそらく高等学校や師範学校の学生だろう。
 この本は、亡くなって数年して遺品を処分し、古本屋にまぎれていたものだったろうか。






読書感想文366

2012-03-14 23:23:00 | 純文学
『富嶽百景 走れメロス 他八編』(太宰治 岩波文庫)

 十代の頃、型通り太宰治にかぶれた私は、二十歳くらいまでに習作を除く全作品を読破して、それからは思い出したように再読の手を伸ばしてきた。かつての麻疹を恥じるように一度は遠ざかっていたが、作品として見るとき、やはりそれは未だに読むに耐える、いや読むべき作品群なのだった。
 本書は『魚服記』を筆頭に十編、昭和八年から十六年の短編を井伏鱒二が編んだものである。中期の名短編を選んだ、という体裁だ。
 この頃の太宰はよく言われるように、井伏の媒酌で再婚してから家庭の人、市井人としての安定を祈願し、それが作品にも現れて、きな臭い世相とは裏腹に、良質の作品を発表し続けてていた。作品を編み、解説を書いているのが井伏鱒二というのも興味深い。
 今回の再読で、特に印象的だったものを取り上げたい。
『魚服記』
 津軽の山奥(ぼんじゅ山というから浪岡か五所川原あたりだろう)を舞台にした不可思議な、童話みたいな話。それは表向きで、よくよく読むと、童話どころではない伏線がほの見えてくる。
 炭焼の娘に芽生える自我と性の衝動。夢の中の出来事みたいに描かれる終盤は、捉えようのなさにぼかされて、読者の想像しだいで解釈も変わりそうだが、近親相姦をも匂わせている。飢饉で子を食う陰惨な時代を経てきた津軽や南部の地方における寓話。そういう物語を聞いて育ったであろう太宰治ゆえの『魚服記』なのかもしれない。
 
『富嶽百景』
 太宰治の美意識というか価値観を知ることができる佳作だろうと思う。甲府での見合いや結婚の経緯が、富士山を背景に自然に語られていく。
 その傍らでは宿にこもっての仕事や、地元青年らとの歓談、井伏鱒二との付き合いも散りばめられている。
 しかし読んで不思議なのは、読者に視点の位置をいささかも強制しないことだ。これは焦点がつかめないのとは訳が違う。ここに思い至ったとき、私は「あっ」と思った。
 ありきたりな、万人受けする、いかにもな、出来過ぎた、そういうものを恥じたり嫌がったりする心情を作中、幾度もこぼすわけだが、逆に最後に、カメラに収めながら『富士山、さようなら、お世話になりました』と感謝する。
 この作中で扱われた富士、それは当時の太宰が、恐れ、恥じ、あるいは見下し、いまさらそんなと煙たがり、しかし実は希求もしていた、家庭の幸福(いいかえれば市井一般の価値観)を比喩的に表現したものだったような気がする。
 その周縁を語るのがこの作品のスタンスであって、定点観測すべき場所など最初から用意していなかったのだろう。

『女生徒』
 太宰の描く独白、中でも女性のそれには定評がある。これ以外だと、本書にも収録されている『きりぎりす』、代表格としては『斜陽』等。
 見事だと思う。しかし私は個人的に感情移入はできない。あまりに女性的な文体に、惑わされ、妙な乖離の感覚にとらわれる。女性特有の感情の起伏や、とりとめのない言動が、実際の女性より女性らしく描かれていて、しかしふと我に返れば書き手は男性であると気づいて妙な気分になる。
 歌舞伎とか大衆芸能に〈萌え〉るのは、その意外性ゆえなのかもしれないし、その美的感覚は日本人特有のものなのだろうが、私は微妙な感想を持ってしまう。
『きりぎりす』の健気な、精一杯のプロテストには今でも胸うたれる。内容しだいでこういう例外もあるのだが(『きりぎりす』は若いときから好きな短編だった)。

『駆け込み訴え』
 やはり名作。筆が冴えるとはこういう文章を見て思い出す言葉だ(奥さんに口達筆記させたという逸話があり、筆でなく言葉が冴えたわけだが)。
 無駄がない。音楽のように流れていく文体。二回しか改行していないのに、それに気づく間も与えない。
 ユダの愛憎に揺れる矛盾した言動、慌てふためく様子、太宰治の才気が遺憾なく発揮された名短編だと断言していいと思う。
 ただ今回、違う観点からも読んだ。ここで非難の的になりながら、それでも愛され、労られているキリスト。そのキリストの描かれ方を見ていると、太宰治の死に至った筋道がわかりそうな気がした。“文学的自殺”と称されるその死は、太宰治の中に在るキリストとユダが演じた自裁だったのかもしれない。

『走れメロス』
 教科書で最初に目にする人が多いかもしれない。しかしこの作品を読んで太宰の第一印象としてしまうのは、どうかと思う。出口を入り口と誤解するようなものである。
 自殺未遂、心中、麻薬中毒……最底辺から再出発し、世帯を持ち、“息子の文学”が“父親の文学”へと熟成されていく過渡期である(良くも悪くも最後まで彼の文学は前者であったわけだが)。家庭人として家を守ろうと決心したであろう太宰治の、理想への賛歌、人間を信じたいという切実な希求がこの作品には滲んでいる。
 太宰はメロスではなく、ディオニソスにこそ愛着を持っていただろう。叶わぬ正義かもしれぬが、それを古典に託して吐露する。その意気に私は感銘を受けた。
 かつては教科書にうってつけな倫理的・道徳的小説だなと思っていたが、それは短絡的な印象でしかなかった。今回私は予期せぬことに、刑場の場面で目頭を熱くした。太宰治の半生と、それまでの作品群を知った上で、かつ読む側の私が、三十代となっているいま、この作品の持つ意味はだいぶ違ってくるようだ。