goo blog サービス終了のお知らせ 

よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文335

2011-08-19 07:48:00 | 詩歌・戯曲
『詩ノ黙礼』(和合亮一 新潮社)

 ツイッターに書き続ける詩が注目され出版されている。本書はそれに続く詩集である。
 といっても私はそれを書店に並ぶ詩集のコーナーで知った。最初に注目されたものが緊急に出版され、それに追随する格好で出たのが本書である。中原中也賞を受賞した詩人ながら、私は存在すら知らなかった。詩集というのはあまり流通しないから、意識的に探さなければ出会わないままになることが多い。
 だいたいは『思潮社』とか詩誌を発行する小出版社から出るのだが、注目されて直後に新潮社から出されるのは、大手のあこぎなやり口だなあと思わざるを得ない。
 読んでみて、幾度か目頭が熱くなることがあった。電車で読んでいて泣きそうになったのは困った。しかしそれが詩の力によるものなのか、いまは私には絶対にわかりっこない。震災に関する記事などを見ても嗚咽がこみ上げてくるような現状にあっては……。
 著者にはどこか、寺山修司の詩に似た、孤独な青年のにおいがする。
 いつかあの震災を静かに振り返ることができたら、また読んでみようと思う。また、著者のデビュー作などを手にしたい。こんな言い方も良くないとは思うけれど、震災や原発事故のフィルターがかかる前の、和合亮一という詩人を知りたい。



読書感想文334

2011-08-17 22:38:00 | 評論・評伝
『太平洋戦争秘録 勇壮! 日本陸軍指揮官列伝』(別冊宝島編集部 宝島社)

 豪勢な題名からして胡散臭い。内容が名前負けするのは『別冊宝島』のコンビニに並ぶ本の通例だが、思えば私は陸軍の将校に関して、個別には大した知識もないのだ。52名の列伝を流し読みして、その概要を知るのも悪くないと思った。興味を感じる指揮官を見つけたら、ちゃんとした本を探して調べれば良い。
 というわけで内容には期待せず、目次を見るような心構えでひもといた。夜行バスの徒然に読む本としてはちょうど良かったかもしれない。
 しかし読了してさしたる感慨もなく、あまり印象にも残らなかった。予想通りとはいえ、販促手段みえみえな大言壮語する題名や、所々で挿入されるIfの小説は空々しい。
 いまパラパラとめくってみて、仁将と呼ばれた今村大将や、人参厚かったという安達中将、部下を逃がして自決した水上中将、兵卒からの叩き上げで兵の信頼厚かった金光大佐……日本陸軍のイメージの悪さを覆す指揮官が、少しはいたのだということは興味深い。最悪の戦地で、兵と共に自ら鍬をふるって畑や陣地をつくった指揮官がいる一方、一参謀の分際で勝手な命令を立案し現場を苦しめた者も少なからずいる。日本陸軍から学ぶべきことは少なくないであろう。
 本書から学ぶべきことは多くなかったが、よき統率者とは如何に? と考える際、上に挙げた幾人かの生い立ちや戦記を見てみたい。というきっかけを得たのは良かった。




読書感想文333

2011-08-14 13:58:00 | 戦争文学
『硫黄島・あゝ江田島』(菊村到 新潮文庫)

すり切れるまで読んだ本のひとつである。今回は収録の逆順に読んでみた。違った印象を持つかもしれないと思ったのもあるし、最後に収められている『ある戦いの手記』がひどく好きだからだ。

『ある戦いの手記』
 士官学校出の若い区隊長と予備士官学校学生たる語り手との、粘着した確執。憎しみを糧に生きようとする語り手だが、まったく理解し合えない二人ながら、糧とする核の部分が繋がっていて、不思議な親和性をすら感じてしまう。
 その不思議な親和性は、語り手が予備士官学校からの脱出を計って区隊長に発見された瞬間に凝縮された形でスパークする。見事な短編だと思う。
 他者をこうした形で表現するのは本短編集の特質だ。それは自然な意味では他人を描くスタンスではない。戦後を生きる上で自らの立ち位置を再生する戦中派の、ひとつの営みを、文学で昇華しようという切実なもの。それが私の心を打ち続ける。

『きれいな手』
 カトリック信者の日本兵が戦犯として処刑されるまでの数時間を描く。
 罪、信仰あるいは転向といった大きなテーマとともに、戦争犯罪を“きれいな手”を自称する語り手によって描く。作者の意図はどうあれ、短編では描き切れぬ深く重い問題に触れており、不完全さは否めない。
『ある戦いの手記』ほど迫るものがないのは、作者自身の戦争体験とは多分に異なる世界の出来事だからだろうか。実体験のみを重く見るのは好まないが、こうした文学を読むとき、それは無視できないかもしれない。

『奴隷たち』
 ソ連の捕虜収容所における脱走の顛末。
 実際に脱柵して捕らえられた三人と、脱走を計画しながら体調不良を理由に行動を共にしなかった小隊長の反目、あるいは隔絶を描く。
 実は脱走は成功しないと知っていた小隊長の偽善がソ連兵や捕らえられた三人によって暴かれていく。あらゆる言い逃れを封じるストイックさ。その息苦しいまでのひたむきな描き方は、典型的な戦中派の態度のように思える。私が著者や梅崎春生あるいは小久保均に惹かれるのはその苦しいまでの真面目さゆえだ。

『しかばね衛兵』
 通底する問題意識は共通している。小隊長の無謀な命令で溺死した同僚を話の中心に据えながら、抱きついてきた死者を突き放したことを畏れ、悔いる兵士。台湾人の脱走兵を捜索する任務にいきりたつ台湾人小隊長の孤独。戦争という極限の状況で訪れるひとつの事件を題材に、現れる人間模様は、短切にしかし痛烈に表現される。

『あゝ江田島』
 幾度も読んだが、忘れがたく、あまりにも肌身にしみついてしまった作品である。
 青春の回想という体裁であるが、その青春が私のそれと重なり過ぎるのだ。
 今回読んでみて、いかに私がその青春を清算できずにいるのかを再確認してしまった。また当作品の空気が私の心情に与えた影響の大きさを。
 課題は山積している。比喩的に言うならば、私の中の戦争は終わっていないのだ。少々気障な言い方かもしれないが。

『硫黄島』
 芥川賞受賞の出世作。新聞記者の視点から描くその世界観は客観的ながら、むせぶようなウェットさは健在で、そのバランスが良かった。
 これだけのものを書きながらサスペンス作家に転向した著者に対する疑問を解消できずにいたが、硫黄島で自殺する男の内に秘めた某かを推し量るうち、菊村到の飛躍もわかるような気がした。
 硫黄島に発った男は決して死ぬつもりではなかった。やり直すために、総括するために、いわば新しい生を生きるために発ったはずなのだ。
 重厚で粘着する暗い文学の書き手だった著者が、一転してエンターテイメント色の濃い作品を書くようになっていったのも、こうした一連の戦争文学によって凝視する過程を経た上での帰結だったのだろう。それは著者自身にとっては、経ねばならない過程だった。われわれは著者の軌跡を、責任を果たそうともがき苦しんだ人の生き方として、そのまま受け入れるべきなのだ。エンタメに鞍替えしたことを悔いるのは外野のエゴというべきだろう。

 私も年をとったのだろうか。今回は作品を作品として噛みしめつつ、菊村到の、書かねばならなかった切実さと、こうしたテーマに筆を置いたその経緯に思いを馳せて読んでいた。
 なにごともなかったように戦中のアイデンティティを脱ぎ捨てて衣替えした人々のさなか、本作のような経過を経ねばならなかった著者の生き様を、私は敬いたい。
 いずれ、サスペンスのほうも手にとろう。ひとりの書き手が、いかなる変貌を遂げ得るのか。それを確認したい欲求に駆られている。




読書感想文332

2011-08-01 21:34:00 | 純文学
『蛍・納屋を焼く・その他の短編』(村上春樹 新潮文庫)

 読むのはおそらく、三度目だ。私が初めて手にした村上春樹作品がこの短編集で、高校生のころだった。妙にクリアで、クールで、日本の文学らしからぬ突き放すような印象を持った気がする。高校生にはやや難しい作風であった(この後、私が二冊目の春樹作品『風の歌を聴け』を手にするまでは数年を要した。第一印象をこの短編集にもたらされたので、ちょっと敬遠したらしいのである)。
 二度目は数年前、ふと読み返したくなって書店で手にした(いつでも入手できる本はすべて23歳のときに処分していた)。難しくはなかったが、その時の印象は“豆腐みたいだ”だった。あまり自己主張しない。味付けしだいで、いかようにも様変わりしてしまう。その身軽さに感心しながらも、飽き足らなさを覚えた。
 そして今回、何か春樹作品を読もうとして自分の本棚を眺めて、手が伸びた先にこの短編集はあった。おれは今なら豆腐にどんなトッピングを加えるのか・あるいは豆腐そのものをいかように味わうのか。読後感が、私の“いま”を診断するよすがになりうる気がした。小説にその役目を担わせることが良いことだとは思えなかったが、かといって、人間は自己の力のみに頼って自己を検分できるものだろうか。少なくともいまの私にその自信はなかった。
 以下、短編それぞれの寸感。

『螢』
 三部作や、『ノルウェイの森』の原型を見る気がした。青春の一コマを描くかに見えて、ここには著者がこれからライフワークとしていく何かが暗示されているように思える。
 三十代前半になって回想するという設定だが、回想する視点はすぐさま無視されて、話の埒外に追われる。なにゆえ回想するのか、その理由も書かれない。
 しかしその理由を問う必要はないのだろう。最後に話はこう結ばれている。
『僕は何度もそんな闇の中にそっと手を伸ばしてみた。指は何にも触れなかった。その小さな光は、いつも僕の指のほんの少し先にあった。』
 そう、“いつも”そうだったのだ。たとえ三十男になっていたとしても。思えばここで“螢”と称されているものこそが、対外的にはわかり合えぬ某かであり、対内的には小説という表現形式だったのだろう。
 変な言い方になるが、習作くささを残したまま洗練された短編である。

『納屋を焼く』
 良くも悪くも翻訳を読むような印象。高校生の私が村上春樹は難解だなと早合点したのはこの作品の、比喩に満ちた作風のためだ。
 大麻煙草を吸いながら「納屋を焼くんです」と、不思議な告白をする男。不気味な暗示に終わるかと思いきや、語り手は実地に町内の納屋を調べてジョギングしながらそれらを見てまわる。片や妙にリアルな話なのだ。ここで読者も話の筋が分裂していくことに巻き込まれてしまう。
 不確定性や不条理。しかしそれに直接的には関わらない語り手の視座。ここにも村上春樹のスタンスの雛型が窺われるわけだが、はたして納屋とは何だったのか。失踪した女のことだったのか。

『踊る小人』
 村上春樹特有のファンタジー的作品。場面設定も多国籍的で時代も特定できない。
 何を描きたいのか、作中人物に何を託そうとしているのか。面白く読めたのだけは幸いだったが、ちょっと文学としては感心しない終わり方だった。
 こういう不思議なキャラクターは春樹作品に頻出するので、変な既視感もあって、食傷気味なのかもしれない。

『めくらやなぎと眠る女』
 難聴を患っている中学生の従弟を病院に連れて行く話。従弟を筋の中心に置きながら、語り手の回想が周縁を漂い続ける。
 回想される過去が、『螢』の設定と重なっている。喪失と回復。著者の実体験に無関係ではないのかもしれない。
 某かの深刻な事態を経て、作中の彼らは努めて深刻がらないように振る舞う。個人的な趣味の世界に沈潜して。それは深刻さから逃れたかった七十年代の世相を表現し、またその世相に歓迎されたのだろう。その中で喪失と回復への希求が語られるのは、通底したテーマに思える。

『三つのドイツ幻想』
 ショートショートが三編。旅行記みたいな話だ。
 その洗練された雰囲気を、ただ雰囲気として味わうべき作品なのだろう。旅行記としても小説としても半端な感じがするから、詩でも読むように、車窓の景色を眺めるように読むべきなのだろう。

 さて、話は戻って、私はこの“豆腐”をいかように食べたのだろう。淡い味わいの素材を確かめながら、やや感傷的な気持ちで、しかしドライに読み流した気がするのだが、それで何がわかったというのか。
 結局、自己診断なぞ、そう易々と出来やしないのだ。その味わいの微かな変化をただ見つめるだけだ。