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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文304

2011-01-26 21:48:00 | 詩歌・戯曲
『二十歳のエチュード』(原口統三 角川文庫)

 徒然に入った旅先の古書店で、その背表紙が目に飛び込んできた。
 二十歳の頃、自殺した小説家らの特集本を読み、この作品の存在を知った。すぐに探して買ったのだけれど、当時はあまり印象に残らぬまま、引越の繰り返しで紛失してしまったのだ。
 溢れ出る箴言。それは“エチュード”と称す詩篇に結晶していく。その中、次のくだりは、著者が死へ誘われた理由を謎のままにしようという宣言に思える。

〈真の詩人は詩論を書かぬものであり、真の信者は信仰を説明しないものである〉

 詩人であることすら捨てて、彼は何を守ろうとしたのか。ひとつ言えることは、その純潔さは自虐的なほどに、自らへ厳格な態度をとらせたということだろうか。以下はその一端を窺わせる一節である。

〈理解されようという願い、これも一つの弱気にすぎない〉
〈僕が許容を憎むのは、許容は許容を生むからである〉
〈僕の精神世界を照す燈台では、いつも潔癖なる自意識が見張りしていた〉

 許容は許容を生む、かもしれない。とすれば許容を自らに禁止したとき、不許容は不許容を呼び、自裁への道へ突き進んでしまうのではないか。
 読んでいて行間に滲むのは母親への思慕であり、親友の妹への淡い恋慕である。そういった幼い若い部分を遮断し硬化させたのは、彼の知性だけの仕業ではなかろう。
 満州に生まれ育った原口統三にとって、敗戦は父母との生き別れであり、故郷の喪失であった。しかし戦争に由来する悲劇は文中からいっさい匂わない。意識的な封印。……
 焼け野原にあって、孤独な彼は持ち物を売り家庭教師をしながら、高校の図書室に寝泊まりするなどの辛酸をなめる。しかし“エチュード”に書かれるのは、ランボーとの語らいであり、ニーチェ、ジイドらとの対話であり、散文詩のごとき珠玉の言葉たちであった。
 そもそもこの詩人に、敗戦の激動と、それに伴う醜い世相の変転は、耐えられるものではなかったろう。

〈お喋りな日本人の顔ほど、滑稽、醜悪なものはない。僕には現代人が、落語家や漫才師の類にしか映らないのだ〉

 といって、宗教に傾斜することを“許容”もしなかった。

〈宗教は来世を説く。現世の「自我」をやさしく否定しながら〉

 作品じたいに直接は関係ないが、この文庫本の表紙は素敵だ。“ETUDE”の字を窓に見立て、晩秋の広葉樹が七色に染って眺められる。第一高等学校の窓から原口統三が見ていたであろう景色を、私も見る気がするのだ。





読書感想文303

2011-01-22 10:32:00 | 純文学
『摩周湖』(八木義徳 ぷやら新書)

 学生のころ訃報を新聞で目にし、初めてその名を知った。昭和19年に芥川賞を受け、その生き様を“最後の文士”とか“清貧”と称されていた、という記事が印象に残っていた。
 しかし手にする機会がなかった。〈私小説〉や〈純文学〉を地でいく書き手ゆえだろう、“清貧”とは“製品”化を意図しないスタンスがもたらした尊称であり、結果、“製品”ばかり陳列する書店には並ばないのだ。商業主義に潰され忘れられていく中に、激しく琴線に触れる作品が埋もれているだろうことを思えば、私は未知の恋人を探すように古書店にこもることもあるのだ。そうして見つけた一冊が本書である。
 表題作『摩周湖』は、いかにも私小説風の作り方で、そのオーソドックスさに、何故だか安心さえした。とはいえ、過不足ない描写が続いていくだけに、摩周湖に直面したときの心理描写は唐突過ぎて作品のバランスを崩しているように感じた。良くも悪くも文学青年的あるいは同人雑誌的で、事実に寄りかかり過ぎて作品化に成功できていないように思えた。いわば摩周湖との邂逅によって、あれこれがカタルシスされ、すっきりして東京に帰るという流れに、予定調和的な安易さを見てしまうのである。解説で摩周湖を初めて見たときの驚きを書いているが、著者が作品外でそんな説明を加えるべきではないだろうと思った。まるで書き足りずに補うみたいではないか。
『漁夫画家』も木田金次郎という画家との出会いを描く話。著者が文学開眼の書と呼ぶ有島武郎『生れ出づる悩み』に登場する画家である。
 淡々とした文体に好感を持ちこそすれ、これも“事実”に寄りかかった、なんだかエッセイみたいな印象を受けてしまった。作品を形成する大前提に、〈私は○○を見た。○○に会った。すごい感動でしょう?〉というフィルターがかかっているようなのだ。
 私小説を否定はしない。ただ今回読んだ『摩周湖』などは、私小説化せねばならぬ心の疼きが感じられなかった。少なくとも、それを読み取ってもらいたいという作品作りの姿勢は見えなかった。そもそもに、核となるべきモチーフが、片手間に捉えてみたような軽さしか備えてなかったのではないか。
 細部の描写を味わうことに集中すべき作品だったのかもしれないが。





読書感想文302

2011-01-15 10:42:00 | 自己啓発
『救世の法』(大川隆法 幸福の科学出版)

 昨年、友人が亡くなった。『帰天式』という儀式に参列した。故人が信仰していた《幸福の科学》による儀式だった。本書はその式の後、ご遺族が参列者に配っていたものだ。故人にはお世話になりっぱなしで、恩返しもできなかったばかりか、病床にあるときの苦しみに思い至ることも少なく、なにもできないままに訃報を受けた。大川隆法やその宗教に興味があるわけではないけれど、私は、せめて故人が信仰したものを真摯に読みとりたいと思った。
 最後に会ったとき、『仏陀再誕』という大川隆法の著書をもらったのだが、自分が仏陀の再誕であるというのが滑稽で、あまり真面目に読めなかった。やや失礼な感想をすら抱いてしまったのである。
 今回、本書を読んで、冒頭の以下の一節に、心が痛んだ。

《 他の人が親切に勧めてくれたことを、少なくとも聴かなかったか、否定したか、あざ笑ったか、何かしてきたのでしょう。
 本当に心から、あなたの幸福を願い、勇気を持って、善意を持って、慈悲の心で、あなたを導こうとしていた人たちを、傷つけもし、否定もし、苦しめもしたでしょう。
 彼らは天使や天使の卵たちだったのです。そういう人たちが、一生懸命に努力している姿を見て、何も感じなかったならば、あるいは、マイナスに感じ、否定的に感じたのならば、そのように感じたあなた自身の人生観に、光とは正反対のもの、光を弾くものがあったわけです。》

 そうかもしれない。私は光に反するものを身にまとっていたように、いまは思う。そして故人はそれに気づき、様々な忠告を与えてくれていたのだろう。
 信仰とは、敬虔さ真摯さ、そして感謝、それらと同義であるとするならば、私も信仰を持つべきなのかもしれない、と思うことだってあるのだ。
 明晰だった故人が、自らこういった宗教に身を寄せたとは考えにくい。病気が良くなるとか、そういう御利益に、藁にもすがるようにして、ご家族が入会したのかもしれない。とすれば、優しいあの人は、家族を傷つけまいとして、そして感謝して、言われた通りに信仰の世界に入ったはずだ。少なくとも故人にとって、信仰とは感謝のことであった。生前の言動から、私はそう受け取ることができた。
 本書については、つっこみたくなる部分は満載だが、自己啓発の著者として大川隆法という人は確かな才能を持っていると感じた。
 自分が仏でありキリストやムハンマドの上位にあるエル・カンターレである。と言い切るのは、ある意味で背水の陣を敷く度胸と覚悟と自信の表れでもあろう。
 しかし国政に出ようとしたり、学校まで経営したりと、創価学会みたいになりたいのだとしたら、あまり感心しない。こうした書籍による布教、啓蒙の活動は文化的で良いとは思うけれど。
 



読書感想文301

2011-01-13 10:36:00 | 純文学
『ヴィヨンの妻』(太宰治 新潮文庫)

 十年ぶりくらいで読んだ。先日、これも再読の『斜陽』に芳しくない感想を持ったが、太宰は短編が上手い。その技巧に触れたくて、ひもといた。以下、それぞれの感想を。

『親友交歓』
 かつて読んだときは、だいぶ深読みしたらしく、“親友”を接待する“私”に、簒奪されるに足る、某かの後ろめたさがあって、最後の「威張るな!」という“親友”の捨て台詞にも、その発言を促す必然性があったのかも、なんていう後味悪い読後感を持ったものである。
 しかし違うだろう。もっとわかりやすい話だ。与えられた民主主義と農地改革に浮き足立ち、その精神的遍歴に自省もしない民衆。あるいは疎開者を食いものにしてきた地元民。反発を通り越して、怒りは呆れに化学変化し損ねて、ふつふつとくすぶっていたのかもしれぬ。東京へ戻る直前に書かれたのが、太宰の微かな反撃のようで健気ではないか。
 個人的に、私は作中の“私”に感情移入した。私も津軽の地に住んで八年、こんなやつがいるのか! という経験は何度かあったのである。と、個人的怨恨が、『親友交歓』への感想を歪めてしまったかもしれないのだが……。

『トカトントン』
 たたみかけるリズムと絶妙な間の取り方。久しぶりに太宰の名調子を味わった。
〈新憲法を一条一条熟読しようとすると、トカトントン、局の人事に就いて伯父から相談を掛けられ、名案がふっと胸に浮かんでも、トカトントン、あなたの小説を読もうとしても、トカトントン、こないだこの部落に火事があって起きて火事場に駆けつけようとして、トカトントン、伯父のお相手で、晩ごはんの時お酒を飲んで、も少し飲んでみようかと思って、トカトントン、もう気が狂ってしまっているのではなかろうかと思って、これもトカトントン、自殺を考え、トカトントン。
「人生というのは、一口に言ったら、なんですか」〉
 ところでこの作品は、太宰と太宰による二人称小説である。“トカトントン”に悩む青年の訴えは、情熱と虚無の表裏一体を体感してきた太宰本人の言葉でもあろうし、それに対して〈気取った苦悩ですね。〉と答える某作家は、当然、それを客観的に俯瞰している太宰自身の立ち位置を示している。
 晩年、やたらと聖書を読んでいたふうの太宰であるが、思えばその経緯を、よくは知らない。文学が、科学や理論でなく宗教に近い場所にあるのはわかるが……。

『父』
 太宰晩年の作風に家庭的なことへの憎悪というのがある。本作にその傾向は顕著なのだが、憎悪といっても文字通りではないから一筋縄にいかない。
 おそらく、上辺だけは天皇万歳、民主主義万歳と変転する世相も、憂鬱なる保守の温床は“家庭”であろうということ、これは一面的な真実だ。確か『如是我聞』で志賀直哉を批判する文中に、“自分の家庭がかわいいのだろう”そういう言及がされていた。
 しかし義のために遊ぶとは、どういうことだろう。本作では家庭を、就中、子供を顧みぬ自らに苦悩し拘泥しつつ、絶望的に遊ぶ様子が寸描される。聖書なんか引用してキザというか言い訳たらしいなとは思ったが、最後に著者はまた問う。
〈義。
 義とは?
 その解明は出来ないけれども、しかし、アブラハムは、ひとりごを殺さんとし、宗吾郎は子わかれの場を演じ、私は意地になって地獄にはまりこまなければならぬ、その義とは、義とは、ああやりきれない男性の、哀しい弱点に似ている。〉
 ここを読み終え、しばし私も太宰のいう義について考え、やや漠然とながら、それは読者に対する義でもあったはずだ、と思い至った。
 もはや完全な個人でいられなくなった作家は、自殺すら“文学的自殺”と言われ、プライベートをも作品とする(される)場合がある。もしそれを自覚的に履行していたなら、太宰のいう義も大いにわかるのだけれど……。だけれど、ますますわからなくなった。

『母』
 その切なさ美しさが哀しいラストは印象的なのだけれど、出来過ぎていて、職人的戯作・虚構だなと思った。上手過ぎるのだ。
 本作を読んで思ったが、やはり太宰作品はリアリズムと虚構を的確に使い分け、あるいはブレンドし、成立している。たとえば作中、舞台が津軽であることは説明書きでわかるが、会話は標準語で描かれる。だけど不自然さがない。バランス感覚に長けた作家だったんだなと感じる。
 最後の短い会話は絶妙だ。こういうのを、喩えるなら画竜の点睛とでもいうのだろう。

『ヴィヨンの妻』
 晩年の佳作と呼ばれている短編。さきに書いた職人的戯作に、切実な悲しさを拭いきれず纏っている。技巧的に狙った効果以外の、罪悪感と著者特有の傷が見え隠れして、なんとも苦しかった。ちらりと巻末の解説を見て、細部の描写が巧みであるなどと書いてあるが、そういう部分を味わう心的余裕を失いそうになった。
 確かにこの短さの中に、劇的な導入部とそれに対応する安定した後日談、そして哀しいラストを描ききるのは、並の書き手では不可能だ。技術、詩的感性、ともにこれほど完璧に近い作家はそうそういない。
 それゆえに、拭いきれぬあれこれが、やりきれなかった。“妻”の最後の言葉に不覚にも涙が出そうになったのである。
 がっかりするのは目に見えているので、映画化されたやつは観ないつもり。

『おさん』
 その自殺を、予定調和であったかのように感じさせるほど、リアルに予言的な作品である。しかも妻の視点から、冷静沈着、客観化して描く。発作的な自殺ではなかったということがこれでわかる。
 女性の語り口を描くのに定評ある太宰が、こうして合わせ鏡で自らを写し出すような視座。飄々と一見は易しい文章で描くから見落としそうだが、そのアクロバティックな視座転換は驚異的である。

『家庭の幸福』
 太宰のアフォリズムを理解するために必読の短編といえる。もやもやしていた家庭への憎悪というアンチテーゼは、家庭のエゴイズムを太宰特有のキリスト教解釈で批判的に捉え直す過程で生じている。
 何かで太宰は、“汝自身を愛するが如く汝の隣人を愛せよ”というのを本気で追究しようとすれば、自殺するしかなくなると書いていた。この思想こそが、ここでいう『曰く、家庭の幸福は諸悪の本。』という『おそろしい結論』を導く動因になったのだろうと思う。

『桜桃』
 若いころは、妙に素っ気ない雰囲気に、太宰らしからぬ違和感を覚えて戸惑った記憶がある。数年前にこの作品を手にする機会があり、そのときは『子供より親が大事』というスタンスに反感を覚えた。
 だが、これほどまでに繰り返し、地獄に堕ちるがごとき心情を描き、念を押すように『子供より親が大事』と書く行間に、逆説的なものを汲むこともできそうである。
 太宰治らしい読者へのサービス、という基本姿勢を削いだ、ある意味で貴重な短編である。





読書感想文300

2011-01-08 21:59:00 | 純文学
『邪宗門〈下〉』(高橋和巳 朝日文庫)

 大河ドラマを一年分、いっきに読むような、あるいはそれより濃い読書であった。
 描かれるのは宗教だけではない。革命を目指した若き将校たち。雪崩れるように席巻した超国家主義。炭坑に生きる人々。ハンセン病患者の隔離島。植民地における日本人の戦中・戦後。あるいは同じく弾圧ののち解放された共産主義者。進駐軍。
 ひとりの人間が、ここまでを描き切るというのが驚愕だった。著者はその執筆活動によって命を縮めたのではないか。そう思うほどの圧倒的内容だった。
 人間を描くために、そのファクターとして宗教は避け得ないなと感じた。世直しを希求し続けた宗教、というのを仮想して“ひのもと救霊会”は作中に構想された。やや飛躍するようなラストの武装蜂起も、パリコミューンやロシア革命という前例を想えば、あながち荒唐無稽ではない。そもそも敗戦直後、こうした闘争が日本国内で頻発しなかったのが、その情勢を鑑みれば、かえって不自然なくらいなのだ。
 ただ、作品として、“ひのもと救霊会”が武装蜂起し、自ら邪宗へと変貌していく過程は、やや忙しない印象を受けた。終わりを急ぐような雰囲気だった。主人公の千葉潔についても、途中からその人物像が読めなくなった。終局へ向けて、緊張感とスピード感を損ねないように、わざとそういうふうに書いたのかもしれないが。
 日本文学にも、こんなスケールの大きい叙事詩があったのか。感慨ひとしおである。匹敵するとすれば、三島由紀夫『豊饒の海』、大西巨人『神聖喜劇』、五味川純平『人間の条件』くらいしか思いつかない。これらもその内容において『邪宗門』には及ばないかもしれない。