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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文287

2010-09-27 10:14:00 | 評論・評伝
『九条新党宣言』(天木直人 筆坂秀世 展望社)

 天木直人氏については気になっていながら、著書を手にする機会はなかった。一過性の注目を利用する出版業界のやり方を敬遠してしまうからだ。もしかしたらそれで見逃してしまう良書も少なくないのかもしれない。
 数年前、参院選に“九条ネット”という団体の一員で立候補したのを覚えている(得票数が足りず一人も当選しなかったが)。本書は“九条ネット”設立に向けた〈宣言〉だったのだろう。いまさらの感はあるが、元共産党幹部との対談という体裁も面白そうだったので手にしてみた。
 二人の言論を初めて目にするゆえ、興味は維持できた。彼らの主著(『さらば外務省』『日本共産党』)を読んだ後なら、途中で飽きてしまったかもしれない。何故かといえば、コンセプトがいまいちわからない。まるで『共産党宣言』みたいな題名にしておきながら、実際にどういう党を作るとか作りたいとかいう案や宣言はほとんどない。ほぼ一貫して二人の問題意識を表明し合う内容だった。
 たまに連鎖的に話が発展したり、批判的に対案を示すことはあるが、概ねはそれぞれの表明であり持論の展開に終始する。対談という形式が、読みやすさ取っつきやすさを生んでいるのかもしれないが、ときに愚痴めいてくる場合もあって、「誰と話しているんだ?」という疑問が生じた。対談というより独り言みたいなものが少なくなかったのである。
 とはいえ、二人のスタンス、考えには賛同せざるを得ない。職を賭してイラク戦争に反対したのを思えば、襟を正したい気持ちにもなってくる。“我ら言葉のほかに失うものなし”という彼らにこそ、ぜひとも国政に出てもらいたいものである。民主党の誘いを蹴るくらい潔癖な天木氏が、今後どのような政治活動を行っていくのか、注目していきたい(おこがましいが、欲をいえばもう少しコミュニズムについて学習してもらいたい、という感想も持った)。





読書感想文286

2010-09-20 17:55:00 | ノンフィクション
『滅尽争のなかの戦士たち』(舩坂弘 講談社文庫)

 古書店を物色中にみつけた。厚顔蒙昧で感傷的な“戦記”に警戒する私であるが、三島由紀夫の序文から興味を誘われた。
 フィリピンやニューギニア、あるいはノモンハン、インパール、サイパン、グァム、硫黄島、そして沖縄。これらは戦記が豊富で資料もこと欠かないが、本書はパラオのアンガウル島という小島を舞台にする。その珍しさも手伝って手にとった。
 三島由紀夫の序文にいうように、『いはゆる戦争文学は、兵士不適格者によって書かれたものが多いのである』から、著者のように体躯隆々、模範兵だった者が、その猛者の視点で描く戦記も珍しい。という意味では新鮮だった。意外にも文章力もあって(出版社が推敲したのだろうが)、資料に裏打ちされた本書は、よくある詠嘆調の戦記に堕すことなく、過不足ない“戦争文学”に仕上がっていると思う。
 ただし、戦死した戦友らが報われぬという憤懣みなぎるあまり、あの戦争や日本軍を批判する者を憎悪する文脈には、近年はやりのゴーマニ○ムなんとかに代表される風潮を連想させ、やや疑問な点ではあった。
 また自らの武勇伝。鼻息荒く語られるそれは、ひとりで米兵を200人は殺したと言いながら、なにも畏れていないふうである。あまりに残虐な環境で戦友を殺され自らも死にかけたせいだろうか、そこを当然視してしまうのである。誰もそれを責めることなんて出来ないのだろうが。
 島で闘った米兵と友情が芽生え、再会したり、遺骨の収集のために奮起している日々も描かれ、総体的には良かった。
 余談ながら、著者が本書の序文のお礼にあげた日本刀が、あの市ヶ谷における事件で使用されたという。




読書感想文285

2010-09-18 11:51:00 | 歴史・時代小説
『吉村昭の平家物語』(吉村昭 講談社文庫)

 原文を通読してその和漢折衷の美文調を味わいたいところなのだが、その時間もスキルもないので、とりあえず現代語訳で全体像を知ろうと思っていた。古書チェーンで全品半額の日を狙って買い出しに行ったときに見つけた。半額ゆえ、なんとなく読みたい、そんな本にも手が伸びたのである。
もともとは『少年少女古典文学館』というシリーズものの一つとして書かれたとある。確かに子供でも読めそうなくらい平易でまっすぐな文体である。だが、解説で〈少年少女向けの現代語訳として書かれた〉というのを目にするまで、そこに気がつかなかったのだからすごい。分かり易い文章=子供向け、というわけではないのだなと改めて感心した次第だ。
 とは言っても文庫本の500ページに圧縮されているのだから、なんとなくもの足りない。粗筋をザーッと追っていくような感じ。また、もの足りなさは原文特有の漢詩調がいっさい省かれ、それこそまっすぐな現代口語に訳されているから、でもあるだろう(原文鑑賞の時間もスキルもないと言っておきながら贅沢な言い分だが)。
 それにしても当然のこととはいえ、これほど多くの人の死んでいく話も珍しい。いとも簡単に作中人物たちは殺し殺され、あるいは入水自殺していく。それこそ羽のように軽い命。日本人がそういうのを美しいと感じるのはなぜだろう。
 特攻とか玉砕とかが美化される風土は、大日本帝国がにわかに植え付けたものだけではなさそうである。



読書感想文284

2010-09-11 18:45:00 | 社会科学
『東北の争乱と奥州合戦』(関幸彦 吉川弘文館)

 昔はよく趣味的に歴史の本を読んでいた気がする。近頃、古代や中世のものを読まなくなったのは、近代であっぷあっぷしてしまったせいだろうか。長いスパンの歴史を眺めようとするには、巨視的な視座を持つ心的余裕が必要なのだろう。
 図書館で借りた。興味がないわけではないけれど、自ら買い求めるほどでもない、そういう位置にある書籍をこうして手にすることができるのは、やはり図書館の恩恵である。
 本書は《前九年の役》、《後三年の役》、《奥州合戦》を取り上げながら“征夷”とはなんだったのかを考える。副題に『「日本国」の成立』とあるように、政権を支える共同幻想としての物語を解明しようとするのも、本書の射程とするところだ。その意味では朝廷が神話を要請したようにして、源氏が征夷の物語を必要としていたわけだ。
 そうして19世紀に至るまで“征夷大将軍”が実質的な元首として君臨してきたわけだが、本書を読んで私が興味を抱くのは、“征夷”された側でのことである。征伐する側の論理は歴史の表側に見えやすい。された側の論理は如何に? という興味と疑問が湧いた。
 たとえば安倍氏の末裔といわれる安東氏は、自らを俘囚の長と称していたという。反逆性のような風土があったのだろうか? また逆に青森の“ねぶた”は坂上田村麻呂等による征夷に由来していながら、そういった征伐「された」側の青森という認識は皆無である。忘却というよりは、征伐した側の論理にしか立脚していないのだろうか。
 と、こうした疑問が湧くのは、本書の提起し総括するあれこれの中に征夷された側の視点がなかったからでもあるし、そもそも私が東北人だからでもある。蝦夷とは? アイヌとは? また新たな課題が見つかった。
 中国の律令制度をリスペクトする中で、北の異民族を脅威とし、政権の武力を正当化するという部分も取り入れた、という指摘は面白かった。作られた敵、それが平安時代における奥州だったのである。
 まるでイラクや北朝鮮のようではないか。



読書感想文283

2010-09-07 00:16:00 | 戦争文学
『焔の中』(吉行淳之介 旺文社文庫)

 小島信夫に続いて、読んでみた。無論、“第三の新人”つながりである。
 彼らがどういった時代性の中で、いかなる問題に直面していたのか。就中、その世代を取り巻いた政治性に興味があった。学徒出陣のジェネレーションが、戦後において自由な文筆をものするとき、何を語るのか。やや残酷な興味、いいかえれば過剰な期待が私にあった。
 そういった私の規定性が、作品の読み方を狭くしたきらいがあるようだ。表紙の解説から、短絡的に学徒兵による闘いの物語を想定していた。ところが語り手(著者本人らしい)は入営4日目にして喘息の診断で帰郷となる。これは本作におけるエピソードのひとつに過ぎないのだが、思い込みが外れて肩透かしを食らってしまったようで、不覚にも集中力を失ってしまった。
 著者は若き日、『トニオ・クレーゲル』を愛読したという。本書は戦後十年経って、“そろそろあの時期を掘りかえしてみたい”と書かれたものだ。とりたてて戦争を描こうというのではない。青春が、その時期に重なってしまっただけなのである。その意味で、これは吉行淳之介なりの『トニオ・クレーゲル』だったのだろう。
 喘息による帰郷、相次ぐ空襲、命からがらの日々に仕返しするように、女の身体を求める。ことさら時代性を突くわけではなく、二十代前半の青年に共通する問題を描くところ、実は著者のこだわりなのだろうと思う。その視点は、べたべたしていながらも聡明で、力みがなく爽やかでさえある。
 戦争が終わって、最後に主人公はこう考える。
『死ぬことについてばかり考えさせられてきた僕は、今度は生きることを考えなくてはならぬ時間の中に投げ出されてしまったのだ。』
 それを文学青年的に悲壮ぶるでもなく、したたかにこう結ぶ。
『素朴な自尊心なぞ抱いていては、到底これからの時間の中で生き延びて行くことは不可能のように思える。僕は歪んでゆく内部に頼らなくてはならぬのだ。』
 漱石の『それから』を彷彿とさせるラストは、戦後への船出を思わせる。どこかへ向かうために、あるいはどこかから出るために、著者にとっては書かねばならぬ作品だったのだろうと思う。