『羊をめぐる冒険(上・下)』(村上春樹 講談社文庫)
このブログに取り上げるのは二度目。いままで二度目のものはコメント欄に書いていたが、自分で読み返すのに不便なので、新たにアップすることにした。
「君たちが六0年代の後半に行った、あるいは行おうとした意識の拡大化は、それが個に根ざしていたが故に完全な失敗に終った。つまり個の質量が変わらないのに、意識だけを拡大していけばその究極にあるのは絶望でしかない。」
「人間には欲望とプライドの中間点のようなものが必ずある。」
「世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな。」
やはり前回と私の感じ方は変わっている。上に引用した文章に、以前はそれほどひっかからなかったのだが。……共通するのは、語り手が“一般論の国の王様”だという印象だけだ。
同時進行で読んでいる『モラトリアム人間の心理構造』(小此木啓吾著)は、70年代後半の若者を評して以下のようにいっている。
《誰かがつくったこのような世界に、そのままのみこまれてしまうことにはためらいと内的な抵抗があるが、かといって、自分たち世代が、それに代る新しい世界を創造してゆく意欲はない。そこで、やむなく、既存の世界の中に、あるいは現実の国家・社会の中に、客観的にはとりこまれながら、主観的には積極的な同一化はせず、できる限り自己中心志向の領域を侵害されない範囲で、表面は円満に、順調にやってゆこうとしている。》
私が前から感じていた村上春樹に関する微かな不安のようなものは、読者のモラトリアムな在り方を、作中人物が代弁し援護してしまうかのような錯覚に由来しているようだ。
著者のスタンスと、気楽に活字を追うだけの読者には、“宿命的”な乖離が生じているはずなのに。

このブログに取り上げるのは二度目。いままで二度目のものはコメント欄に書いていたが、自分で読み返すのに不便なので、新たにアップすることにした。
「君たちが六0年代の後半に行った、あるいは行おうとした意識の拡大化は、それが個に根ざしていたが故に完全な失敗に終った。つまり個の質量が変わらないのに、意識だけを拡大していけばその究極にあるのは絶望でしかない。」
「人間には欲望とプライドの中間点のようなものが必ずある。」
「世界に対して文句があるんなら子供なんて作るな。」
やはり前回と私の感じ方は変わっている。上に引用した文章に、以前はそれほどひっかからなかったのだが。……共通するのは、語り手が“一般論の国の王様”だという印象だけだ。
同時進行で読んでいる『モラトリアム人間の心理構造』(小此木啓吾著)は、70年代後半の若者を評して以下のようにいっている。
《誰かがつくったこのような世界に、そのままのみこまれてしまうことにはためらいと内的な抵抗があるが、かといって、自分たち世代が、それに代る新しい世界を創造してゆく意欲はない。そこで、やむなく、既存の世界の中に、あるいは現実の国家・社会の中に、客観的にはとりこまれながら、主観的には積極的な同一化はせず、できる限り自己中心志向の領域を侵害されない範囲で、表面は円満に、順調にやってゆこうとしている。》
私が前から感じていた村上春樹に関する微かな不安のようなものは、読者のモラトリアムな在り方を、作中人物が代弁し援護してしまうかのような錯覚に由来しているようだ。
著者のスタンスと、気楽に活字を追うだけの読者には、“宿命的”な乖離が生じているはずなのに。
