『田園交響楽』(アンドレ・ジイド 川口篤訳 岩波文庫)
本作を読んで、二つの大きな気づきがあった。
実はフランスの近代文学は、ほとんど手付かずである。というのも、いきなりサルトルやカミュから手をつけて傾倒した時期があって、しかし先輩に「いまさらカミュか」みたいなことを言われ、それ以前のものに食指が伸びなかったのだ。それはちょうど、私の日本近代文学に対する誤った読書傾向に似ている。中学・高校で、漱石や芥川龍之介に心酔した私は、その前のもの(樋口一葉や尾崎紅葉など)は試食程度にしか手を出さなかったのだ。これはもったいないことである。政治や哲学に関する書籍なら、淘汰された過去のものを割愛するというのも、場合によっては可能だろう(これらのジャンルでは弁証法的に古いものが活かされうるから)。しかし文学は違う。私の読書傾向を正さねばならない。これが第一の気づきである。
次に、描写に関して、本書はまさに目から鱗の気づきを与えてくれたことを告白せねばならない。
作中、語り手となる牧師が、盲人の少女に教育を施していく前半部分。少女は、聾唖者のおばあさんに、ただ食事だけ与えられて育ち、獣同然の分別しか持たなかった。文字を持たぬということは、概念を持たぬことであり思考を持たぬことである。そんな少女に、牧師は懇切丁寧に、ひとつひとつ赤子に教えるようにして、事物の概念を教えていく。少女は目が見えないから、色の説明には音や光や心理的なイメージが付与される。
受け取る側の純粋な質問にハッとさせられながら、牧師は一生懸命に説明するのだが……。
思えば文学における読者とは、この少女の立場に似てはいないか。読者は、活字のみに頼って、風景を、色彩を、香りさえを想像し、頭の中で画像に変換する。実際、私は牧師の説明から、鮮やかなスイスの山々が目に見えるようだった。この気づきは、私にとって衝撃的だった。文章を書く際は、盲人に教えるようにして描写せねばならない。書くことを続けてきた私が、いまさら気付いた基本的な立場。これが第二の気づきである。
と、重大な発見をもたらした本書だが、内容としては、あまりにも悲しい話だ。けれど美しく悲しい悲恋ではない。喜劇といったほうがふさわしいような、おぞましく行き場のない悲しみに突き落とされるラスト。だが、これがリアルなのだと思いもする。お涙ちょうだいの悲劇より、もっと割りきれないどろどろした悲劇が、実際の人生にはたびたび登場するのではないか。このやり場のなさは何だろうと思ってジイドの半生を調べたら、納得、せざるを得なかった。
ケータイ小説や映画を小説化したようなものばかりが持て囃される現在、私は再び過去へ遡る必要を感じている。ダ・カーポ。はじめにかえれ、である。

本作を読んで、二つの大きな気づきがあった。
実はフランスの近代文学は、ほとんど手付かずである。というのも、いきなりサルトルやカミュから手をつけて傾倒した時期があって、しかし先輩に「いまさらカミュか」みたいなことを言われ、それ以前のものに食指が伸びなかったのだ。それはちょうど、私の日本近代文学に対する誤った読書傾向に似ている。中学・高校で、漱石や芥川龍之介に心酔した私は、その前のもの(樋口一葉や尾崎紅葉など)は試食程度にしか手を出さなかったのだ。これはもったいないことである。政治や哲学に関する書籍なら、淘汰された過去のものを割愛するというのも、場合によっては可能だろう(これらのジャンルでは弁証法的に古いものが活かされうるから)。しかし文学は違う。私の読書傾向を正さねばならない。これが第一の気づきである。
次に、描写に関して、本書はまさに目から鱗の気づきを与えてくれたことを告白せねばならない。
作中、語り手となる牧師が、盲人の少女に教育を施していく前半部分。少女は、聾唖者のおばあさんに、ただ食事だけ与えられて育ち、獣同然の分別しか持たなかった。文字を持たぬということは、概念を持たぬことであり思考を持たぬことである。そんな少女に、牧師は懇切丁寧に、ひとつひとつ赤子に教えるようにして、事物の概念を教えていく。少女は目が見えないから、色の説明には音や光や心理的なイメージが付与される。
受け取る側の純粋な質問にハッとさせられながら、牧師は一生懸命に説明するのだが……。
思えば文学における読者とは、この少女の立場に似てはいないか。読者は、活字のみに頼って、風景を、色彩を、香りさえを想像し、頭の中で画像に変換する。実際、私は牧師の説明から、鮮やかなスイスの山々が目に見えるようだった。この気づきは、私にとって衝撃的だった。文章を書く際は、盲人に教えるようにして描写せねばならない。書くことを続けてきた私が、いまさら気付いた基本的な立場。これが第二の気づきである。
と、重大な発見をもたらした本書だが、内容としては、あまりにも悲しい話だ。けれど美しく悲しい悲恋ではない。喜劇といったほうがふさわしいような、おぞましく行き場のない悲しみに突き落とされるラスト。だが、これがリアルなのだと思いもする。お涙ちょうだいの悲劇より、もっと割りきれないどろどろした悲劇が、実際の人生にはたびたび登場するのではないか。このやり場のなさは何だろうと思ってジイドの半生を調べたら、納得、せざるを得なかった。
ケータイ小説や映画を小説化したようなものばかりが持て囃される現在、私は再び過去へ遡る必要を感じている。ダ・カーポ。はじめにかえれ、である。
