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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文168

2008-04-30 13:49:00 | 外国文学
『田園交響楽』(アンドレ・ジイド 川口篤訳 岩波文庫)

 本作を読んで、二つの大きな気づきがあった。
 実はフランスの近代文学は、ほとんど手付かずである。というのも、いきなりサルトルやカミュから手をつけて傾倒した時期があって、しかし先輩に「いまさらカミュか」みたいなことを言われ、それ以前のものに食指が伸びなかったのだ。それはちょうど、私の日本近代文学に対する誤った読書傾向に似ている。中学・高校で、漱石や芥川龍之介に心酔した私は、その前のもの(樋口一葉や尾崎紅葉など)は試食程度にしか手を出さなかったのだ。これはもったいないことである。政治や哲学に関する書籍なら、淘汰された過去のものを割愛するというのも、場合によっては可能だろう(これらのジャンルでは弁証法的に古いものが活かされうるから)。しかし文学は違う。私の読書傾向を正さねばならない。これが第一の気づきである。
 次に、描写に関して、本書はまさに目から鱗の気づきを与えてくれたことを告白せねばならない。
 作中、語り手となる牧師が、盲人の少女に教育を施していく前半部分。少女は、聾唖者のおばあさんに、ただ食事だけ与えられて育ち、獣同然の分別しか持たなかった。文字を持たぬということは、概念を持たぬことであり思考を持たぬことである。そんな少女に、牧師は懇切丁寧に、ひとつひとつ赤子に教えるようにして、事物の概念を教えていく。少女は目が見えないから、色の説明には音や光や心理的なイメージが付与される。
 受け取る側の純粋な質問にハッとさせられながら、牧師は一生懸命に説明するのだが……。
 思えば文学における読者とは、この少女の立場に似てはいないか。読者は、活字のみに頼って、風景を、色彩を、香りさえを想像し、頭の中で画像に変換する。実際、私は牧師の説明から、鮮やかなスイスの山々が目に見えるようだった。この気づきは、私にとって衝撃的だった。文章を書く際は、盲人に教えるようにして描写せねばならない。書くことを続けてきた私が、いまさら気付いた基本的な立場。これが第二の気づきである。
 と、重大な発見をもたらした本書だが、内容としては、あまりにも悲しい話だ。けれど美しく悲しい悲恋ではない。喜劇といったほうがふさわしいような、おぞましく行き場のない悲しみに突き落とされるラスト。だが、これがリアルなのだと思いもする。お涙ちょうだいの悲劇より、もっと割りきれないどろどろした悲劇が、実際の人生にはたびたび登場するのではないか。このやり場のなさは何だろうと思ってジイドの半生を調べたら、納得、せざるを得なかった。
 ケータイ小説や映画を小説化したようなものばかりが持て囃される現在、私は再び過去へ遡る必要を感じている。ダ・カーポ。はじめにかえれ、である。




読書感想文167

2008-04-27 21:07:00 | 純文学
『蜜月』(立松和平 集英社文庫)

 古書店の三冊百円セールで買った。実はこういうセールで買ったものを、枕頭の書として愛用する場合も無くはない。いままで進んで読もうとしなかった作品が、三冊という頭数を揃えるために選ばれ、意外と良かった、という例があったのである。失敗しても三冊百円、失うものは読むのに費やした数時間だけである(失敗することも多いのだが)。
 立松和平といえば、最近読んだ『光の雨』が記憶に新しい。情景の描写が妙に古くさい私小説風な一方、考える余裕を与えない筋運びが独特で、それらは本書にも共通していた。
 自伝的小説らしい。解説で中上健次と並び称されているが、確かに言われてみれば似ている。泥臭い生活感、小綺麗なタッチとは正反対の、雪崩れる展開。
 しかし、読んでいて輪郭が掴めないのである。人物は描かれているようで描かれない。表層をすべるように、話は進んでいく。作中人物をも巻き込んで…。
 過剰なもの。と思ってみて、やはり中上健次を思い出した。作中人物たちですら自分がわからない。と、いうことか。




読書感想文166

2008-04-16 20:48:00 | 純文学
『東京奇譚集』(村上春樹 新潮文庫)

 空間のディテール。
 言葉のディテール。
 あるいはもっと表象的な、即物的なディテール。
 村上春樹の上手さは、私小説には無い緊張感を保って、こういったありふれたマテリアルから物語を派生させていくことだと思う。
 それはいわば、物語の日常化であり、読者視線の文学(に感じさせると留保するが)であろう。
 感想文から若干逸れるが、私には、読書にあたって以下のルールがある。
①学術的なものと小説を同時進行で読む、あるいは交互に読む。
②疲れているときは、読みやすいものをチョイスする。
③精神的にグロッキーなときは、大衆小説・娯楽小説の類を読む。
 ちなみに村上春樹は、私にとって②に分類される。本書は五つの作品からなる短編集だが、特に②に値する傾向が顕著だ。ストレスなく読める。良くも悪くも。
 というわけで感想が終わってしまいそうな文脈になったが、村上春樹は、その〈良くも悪くも〉がミソだ、と思う。
 日常的なマテリアルによって、平易に、身近に、春樹節は続く。ときに現実から飛躍するが、それに至る下ごしらえが上手いから、違和感はない。
 問題はその平易さに、読者がしなだれかかってしまいそうだ、ということだ。先に記した、ディテールを作品化する技術は、読者に、自らの日常生活を捉え直す機会を与えるかもしれない。しれないけれど、私にも経験があるが、ここで思い違いが起こりうる。
 ……と、分析する批評眼を持たないと、太宰治のような麻薬性にやられてしまいそうだ。
 毒にも薬にもならない小説は、③のときだけで良い。そういう意味で、村上春樹は、煙草のように、リラックスと毒を与えてくれる稀有な小説家である。


読書感想文165

2008-04-15 15:57:00 | 純文学
『太陽の季節』(石原慎太郎 新潮文庫)

 石原慎太郎のデビュー作と他四編を収録する短編集である。
 時代が要請し、時代が非難し、時代が持て囃した、そんな芥川賞受賞作だと思う。
 時は昭和30年。明日の希望を胸に、国民はせっせと働いた。貧しい時代である。きっとそういう大人たちに、反感を持った、欲求不満の青年たちは少なからずいただろう。彼ら一部の破天荒なボンボンは、後に『太陽族』と呼ばれるようになる。
 時代背景や、著者のその後を見れば、親の世代、つまり戦中派に、実は憧れていたのだろうと感じられる。
 ちょっと、微笑ましい気がしたと、軽いアイロニーをこめて、いまだ冒険に励む著者にエールを送ろう。
 いいかげんヨットから降りて、また小説でも書いたらいかがですか? などと。