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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文125

2007-04-28 22:43:00 | 評論・評伝
『日本軍事史〈上巻〉戦前篇』(藤原彰 社会批評社)

 歴史は昔から好きで、よく読んできたものだが、軍事史を、政治・経済・技術の分野から、総合的に系統立てて分析したものは初めてで、読み応えがあった。
 年表上でしか知らなかったこと。
 概略や通説の知識に甘んじていたこと。
 それらに詳細な歴史的背景が与えられ、疑問のままに途切れていた回路がつながっていくようだった。
 また、特に単なる年表上の出来事として流されがちな開国前後の軍事的事件に関しては、その後の日本軍を知るための伏線が隠されており、意外であった。
 著者は前書きでこう記している。
『この軍国主義と戦争の歴史は、日本国民にとって決して誇るべきものとはいえない。しかし、軍国主義の犠牲、戦争の被害が大きかったからこそ、その実態を明らかにし、その原因をつきとめることが必要である。軍事史は、戦争を再発させないためにこそ究明されるべきであろう。』
 とすれば、昨今の、歴史解釈をめぐる実態をかけ離れたキャンペーンについて、われわれはもっと警戒すべきだろう。
 そして敗戦の一因として、
『いっさいの権力が名目的には天皇に集中するという形式が固定化した。そのことは、政治家も軍部の指導者もすべて官僚化し、いっさいの責任をのがれるという、「膨大な無責任の体系」が育っていたことでもあった。』と指摘する。
 これは非常に恐ろしいことだ。事態は変わっていないように、私には感じられる。名目上の主権者が天皇から国民に変わったというだけだ。政府の政策、その最終的な責任の所在は、現政権を選んでいる国民に帰着する。匿名で投票し、あるいは棄権し、自らはその結果に関与していないと高をくくったわれわれひとりひとりの無責任性が、政府の無責任を助長していくだろう。
 下巻は戦後篇。いよいよ、現在進行形の歴史に迫るわけだ。これはじっくり読みたいものである。



読書感想文124

2007-04-28 12:33:00 | 評論・評伝
『文芸講話』(毛沢東 竹内好 岩波文庫)

 日本でいうところの“プロレタリア文学”や、その類の演劇等を論じた講演集である。
 小林多喜二の政治的な文芸論も読んだことがあるが、通常の文芸批評として読んでしまえば、これほど無味乾燥なものはないし、したがって、私たちが現在これらを読む意味があるとすれば、“かっこ”つきで読むことによって、その書かれた背景を研究する一助とすることだろう。
 文芸一般を“プロレタリア”と“ブルジョア”の二元論で解くやり方はあんまりだが、毛沢東のいうように、対象はあくまで労働者や兵士といった、非知識人である。わかりやすさが優先されたのだろう。またラジオやテレビのない時代、政治を一般に反映させるには、文芸(新聞や論文を含む)が最大のメディアであったことを考慮すれば、その背景的な必然性は理解できる。
 文芸を政治の道具にすること、また文芸の目的を上から規定してしまうこと。これらには反感をしか感じないが、多かれ少なかれ、現在の日本やアメリカでもメディアは政府の規制を受け、また資本主義においては広告主の意向が重視される。あからさまにやるか、巧妙にやるかの違いがあるだけで、その世論操作の構造は、それほど相違ないのかもしれない。
 巧妙で誰も気づかないぶん、後者のほうが末恐ろしい気も、しないではない。
 そうやって毛沢東の言葉を“かっこ”に入れて読めば、歯に衣きせぬあからさまな言辞には、批判の余地を、弱点を残しているぶん、爽やかさすら感じてしまった。
 ときに抗日戦争真っ只中の1942年。士気の高揚と団結が、緊急の課題とされた時代、文芸すら手段とせねばならなかったのは頷ける。同じとき、日本の多くの作家も、国家の意向に沿って、戦争を礼賛するようなものばかり書いていたのだ。
 そういった歴史的経験を、私たちは無駄にしてはならない。平時においても、なおこの傾向は細分化されて存続しているのだから。



読書感想文123

2007-04-21 23:31:00 | 社会科学
『五つの共産主義(下)』(G.マルチネ 熊田亨訳 岩波文庫)

 下巻では、中国、チェコスロバキア、キューバが取り上げられている。いずれもが、ソ連型のスターリン主義を拒み、独自の社会主義を目指した国々であるのだが、共通するのは、結果的に軍隊という暴力装置を起動力としなければ、体制を維持できなかったということだ。
 また、そもそも共産主義が目標とするのは、国家の消滅であり機構の社会化であるのに、これら過渡期の各共産党は、国家の強化に奔走せざるを得なかった。
 こんな大雑把な帰納法で批評するのは細部を見えなくする恐れがあるが、それぞれの革命は、マルクスのプランに関して、遠近感を見誤ったと、現在ならいうことができるだろう。本書の分析から導き出されるひとつの要点が、これである。
 マルチネはいう。
『マルクスは二十一世紀におこりくる事態について、かなり預言的な展望をもった十九世紀の学者であった。』
 事実、絶えざる技術革新は、国際経済を塗りかえ、新たな“交通”は、ヨーロッパ諸国における永年の努力を、EUという形態に結実させた。その社会民主主義的政策をみて、私は、必要悪としての迂回を経た、社会主義への一経路として期待する。
 残念ながら本書でマルチネが危惧するように、
『若者が《生活を変える》ことができなくなって、だんだんと既存の体制のなかにのめりこんでいくこと』は、70年代以降の現実となってしまった。しかし各国が高度の資本主義へ到達しながらも、(一部EU加盟国等以外)再び経済的格差が拡大してきた今世紀は、人類に“革命”を要求せずにはいないだろう。
 かつてカストロは“祖国か死か”と叫んだ。いま言い直すなら、“革命か滅亡か”といったところか。資源・水・食料の問題が、そう遠くないうち、われわれに判断を求めてくるだろうから。
 そのとき、ソ連をはじめとする二十世紀の実験が、またこういった分析が、良い資料になるのは言うまでもない。


読書感想文122

2007-04-15 21:28:00 | 外国文学
『大工よ、屋根の梁を高く上げよ/シーモア─序章─』(J.D.サリンジャー 野崎孝・井上謙治訳 新潮文庫)

 また読みたくなったのだが、実家の棚にもないので買った。絶版のものや身近に置いておくべきもの以外は、引越しのとき手放してしまったのを思い出した。
 久々に読んで、サリンジャーは『ライ麦畑でつかまえて』を、超えるものが書けなかったのではないかと思った。あるいは“ホールデン”に規定されてしまったとも。
 一連のグラース家に関わる作品のうちには、“ホールデン”の未来を描くかにみえるものも少なくない。しかし、こうしてみると、サリンジャーというのは、読者からも、あるイメージに規定されてしまった、不運な作家ということができるかもしれない。私を含め、読者は、作品そのものを読む努力をせねばなるまい。
 シーモアにまつわる話はもちろん好きだ。しかし核心に迫るとき、サリンジャーは“禅”の思想でわれわれを煙に巻いてしまう。そして本書のような、続編を待つ“序章”が、サリンジャーの沈黙によって、40年間もわれわれに、その待つことを強要しているのだ。
 率直に言って、サリンジャーを愛する者は、少なからず欲求不満を抱えざるを得ないのだ。身勝手な読後感ではあるけれど。



読書感想文121

2007-04-10 00:29:00 | エッセイ
『ジャズと爆弾』(中上健次 村上龍 角川文庫)

 村上龍が芥川賞を取った直後の対談である。ときに1976年。
 新左翼は求心力を失い、東アジア反日武装戦線などが、絶望的な爆弾闘争に走り、人々は社会変革の夢を忘れて享楽に向かい始めたころであろう。
 破壊が、新しい何かの登場が、心待ちにされていたときだ。
 それゆえだろうか、二人の言葉には、気負い、あるいは熱、そういった興奮を感じる。醒めきった30年後の今からすれば、ちょっとこそばゆいような、興奮である。既成のものにうんざりして…、というモチーフはわかるが、“既成”すら見えない今となっては、当時の二人の心境は、ちょっと同感しにくくもある。
「文芸誌読んでるようなやつはダメだ」といったようなことを言い合うくだりなど良い例だろう。最近では文芸誌を読む人など、珍しくてかえって貴重ですらある(という皮肉が成立してしまう)。
 しかし村上龍を、私は再評価せずにいられない。本書には二人の短編小説も収録されており、村上龍の『スザンヌ』は、わけのわからぬうちに読み終え、わけのわからぬまま私の目頭を熱くさせていた。
 中上健次は小説を“爆弾”に喩える。村上龍は直接「ジャズのように」とは言わないが、なんだか『スザンヌ』の構成やアングルからは、内向的でいて激しい、ジャズのアドリブに翻弄されるときのような、酔いを感じるのだ。酔えるか酔えないか悪酔いするかは、読者によるのだろうけれど。
 また、巻末の『後記的エッセイ』において村上龍はこう書く。
『小説でも書いてみようかと言う人は、必ず内部に異物を飼っている。その異物を許す許さないの闘いが文学だと思う』
 25歳の若者が到達した認識とは、とても思えない。「文学って?」と尋ねられたら、このまま引用しようと思ってしまった。
 70年代を、最もいいかげんに生きたような二人だが、あきらかに彼等は、不器用なくらい真面目に生きようとしていたのだ。そういった逆説を、私は、もっと受け取っていきたいと思う。
 久々に、中上健次の『岬』を、ゆっくり読み返してみたくもなった。