goo blog サービス終了のお知らせ 

よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文68

2006-04-17 11:55:00 | 評論・評伝
『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』(スターリン 飯田貫一訳 国民文庫社)

 前にも書いたように、私は先入観によって食わず嫌いに陥ることや、同様に先入観によって偏った視点から物事を見たり、またそういった偏った伝聞を鵜呑みにするのが嫌いである。何かを学習する上では当然とらねばならない態度なわけであるが。
 したがって、悪名高いスターリンについても、私はその伝聞の怪しさを疑い、直接本人のテクストにあたろうと思ったわけである。いまでは理論書としても、古典としても価値を失っているから、幸いというべきか、古書店では捨て値で入手することができる。
 しかし皮肉なことだ。時事的・一時的なテーマをとりあげた書籍というのは、当然内容が古びるから値も下がりやすい。ところが、かつて各国共産党が経典のように持ち上げ、マルクス・レーニン主義を発展させた歴史的古典と称された本書が、まるで上述した一過性をしか持たない書籍のように、一転してゴミ扱いである。
 人間のいかに尻軽であるかの証左か、同じくかつての哲学青年たちが信奉したサルトル等の実存主義哲学も、似たような顛末を辿った。
 だが、私はこう考える。たとえそれらが歴史的に乗り越えられ、あるいは否定されたのだとしても、乗り越え否定したのは私自身ではない。結果だけを捉えていては、何かを見失いがちである。したがって、出来うるならば私自身も、それらを追体験し、取捨選択しながら乗り越えていきたい。一時期ではあれ、人々を心酔させたもの、これには何らかのいわくがあるはずで、またそこから汲むものも少なくないだろうからである。

 前置きが長引いたが、本書は1952年、スターリンによって著述されたもの及び演説、またソ連共産党による解説を収録している。
 傾向的には、
『労働者階級が権力や生産諸手段をうばわれていないどころか、反対に、その手に権力をにぎっており、生産諸手段を所有している現在、これら諸概念(*「必要」労働と「剰余」労働の概念)をもちいるのは、まったくおかしなことである。』といったように、当時のソ連をすでに共産主義の段階あるいは高度な社会主義のレベルであるかのように、自画自賛する点が目立つ。とはいえ、その基本的な理論は間違っていない。間違ってはいないが、一考を要する。
 たとえば資本主義体制の危機を指して、
『彼らは「マーシャル・プラン」、朝鮮戦争、軍備拡張競争、産業の軍事化によって、これらの困難をうめあわせようとつとめている。』とした上で、
『戦争の不可避性をとりのぞいてしまうためには、帝国主義を絶滅してしまうことが必要である。』と断言する。
 確かにそうだ。だが、戦争を無くすという大義が、「革命の輸出」による帝国主義打倒のための戦争を引き起こすのは、一種のパラドックスである。
 また、正しいことに潔癖であろうとした結果、これが「前衛」としての自分たちを権威づけるとしたら、既に科学ではなく宗教である。実際、本書では党における討論で持ち上がった疑問、同志たちの理論を、片っ端から「正しくない」と否定し、その根拠としてマルクス『ゴーダ綱領批判』やエンゲルス『反デューリング論』を、あたかも経典をひもとくようにして引用する。レーニンやスターリンが、ロシアの特殊性から、独自の社会主義理論を構築してきたにもかかわらず、である。
 だが、結果論はすまい。いまでもマルクスやレーニンの評価はそれほど下がっていないに関わらず、スターリンが一転して革命を裏切った者として左翼の中でも悪者扱いされている歴史的背景を推察してみよう。
 まず前者と後者の違いは、資本主義を批判的に分析し社会主義・共産主義の理論を打ち建てた者と、資本主義の干渉と闘いながら、試行錯誤しつつ理論を現実化しようとした者の違いである。前者が完結しているのに対し、後者は変動する情勢の中で、実践していかねばならない。結果論的に、後者の評価が低くなるのは当然のことと言わねばなるまい。 また、フルシチョフのスターリン批判以来、手のひらを返したようにスターリンを全否定した左翼諸派は、ある意味そのことによって過去をスターリンごと否定したつもりになった観が否めない。そこには何らの総括もないだろう。
 人間はゼロ記号を欲する。権威のゼロ記号、悪・敵のゼロ記号…。これらが設定されたとき、複雑怪奇な歴史が図式的に簡単化される。
 イメージの固定は思考を固定し発想をないがしろにし、わかりやすいもの、心地よいものへと指向しがちだ。ファシズム、そして反スターリニズムを目指したかつての新左翼が好例であろう。

 最後に、スターリンの考えていた理想の共産主義像を引用しよう。
『世界の大多数の国々での社会主義の活動範囲が拡大するにつれて、国家は死滅してゆくだろうし、またこれと関連して、もちろん、個人や集団の財産を国家の所有にひきわたすという問題も、なくなってゆくだろう。』
 まるでソ連を完成された共産主義のように自画自賛しがちなスターリンではあるが、ここではその理想が語られている。
 また、その要素である生産の目的をそれぞれ資本主義、社会主義の両方を説明(『資本主義的生産の目的は利潤を引き出すことである。』『社会主義的生産の目的は利潤ではなくて、人間とその諸欲望、すなわち人間の物質的および文化的な諸欲望の充足である。』)し、さらに共産主義への移行には、教育・文化の発展のみならず、職業を自由に選び、変えられる社会の余裕が必要であり、したがってそのためにも労働時間は五時間まで減らさねばならないとする。まさにマルクスが『ドイツ・イデオロギー』で言った「新たな価値の創造」指向するものであり、これらには大いに賛同したいところである。
 繰り返すが、スターリンは長らく、そして今でも、悪の権化のように語られる。だがよく考えてみれば、60年前、世界3悪と呼ばれたのはヒトラー・ムッソリーニ・昭和天皇だった。どうだろうか。
 アジアでの大量虐殺を直接指示したのは天皇自身ではない。確かに主権在君国家における最終的な責任者は天皇であるが、といってこれをヒトラーやムッソリーニと同列に置くのは、当時の軍部独裁に近い日本の上部構造を知るなら、まことに乱暴な意見に思える(ただし軍は「天皇統師権」を後ろ盾にしたのだから、原理的に天皇制の責任は重大である)。スターリンの場合にも、こういった立場性による見え方の違いがあったのだろう。そもそも、あの広いソ連を“独裁”するなど、物理的にいって無理である。
 いま、スターリンを否定するのは容易だ。だが必要なのは失敗から学ぶことであり、中でも本書のような具体的なものにあたってみることである。
 スターリンを援護する気はないが、全否定からは何も得られないだろう。ことに、必要以上にスターリンや毛沢東をこきおろし、単なる虐殺者、権力に飢えた悪者に仕立てあげてきたのは、おおむねが産経、読売、文芸春秋周辺の右翼御用メディアである。その政治的意図にも気をつけねばならない。


読書感想文67

2006-04-01 23:58:00 | 評論・評伝
『柄谷行人集5 歴史と反復』(柄谷行人 岩波書店)

 ある問題意識において、テクストをディコンストラクトする。この方法を文芸評論に適用するとき、柄谷行人のダイナミズムが炸裂する。
 標題にあるように、本書では歴史の反復強迫を、マルクスの射程から様々な文芸作品をフィルターにして導き出していく。

──『資本論』や『ブリュメール18日』が扱っているのは、そのような反復強迫の問題である。『資本論』がとらえたのは、資本の蓄積運動そのものの反復強迫性である。それはたえまない差異化によって自己増殖しなければならない。そして、それは不況─好況─恐慌─不況─、という反復(景気循環)を避けることができない。一方、『ブリュメール18日』では、近代国家の政治形態が解決できず、さらにそれを解決しようとすることが不可避的に招き寄せてしまう反復強迫をとらえている。1990年代において認めなければならないのは、われわれが今なおそのような反復強迫のなかにあるということである。(中略)
 フロイトがいったように、反復強迫とは、けっして想起されないような「抑圧されたもの」の回帰である。想起されるかわりに、それは現在において反復される。われわれが想起できるのはたんに出来事でしかない。それゆえ、1870年代、1930年代、1990年代を出来事において比較することは、そこに存する「抑圧されたものの回帰」を見失わせるだろう。それを見るために、われわれは『資本論』と、とりわけ『ブリュメール18日』を必要とする。

 ここでいう『資本論』が示した反復強迫は「貨幣」であり、『ブリュメール18日』ではボナパルト、つまり「王」である。これらは柄谷によって「穴」あるいは「ゼロ記号」と称される。
 どうだろう。90年代以降、確かにこれらはわれわれの前に出現していた。単にコンドラチェフ循環といった法則を超えたものとしてである。
 日本の右傾化は、いわゆるバブル崩壊後にあらわれ、小泉劇場政治というボナパルト的帰結を経て、現在に至っている。
 その最初の「出来事」が、PKO協力法成立であり国旗・国歌の法定化だった。抑圧されていたナショナリズムの再来、また「国家そのもの」の出現である。
 ここに共通するのは、代表制議会や資本主義経済の構造的危機であり、あらわれる「ボナパルト」は国家の人格的担い手である。
 ルイ・ボナパルトについて柄谷は『彼に可能だったのは、現実に何かをするよりも、何かをするイメージを与えることであった』という。これは、ヒトラーにも、また小泉にもあてはまる。
 抑圧されたもの。それが幽霊のように反復されているのである。

──西南戦争において、西郷隆盛は政府に敵対しながら、自滅的な反乱によって大久保利通の意図する近代国家体制の確立のために貢献したことになる。西郷が真に勝つ気があれば、士族だけの反乱をしなかっただろうから。そうして、かつて西郷の征韓論を斥けた大久保は、西郷亡きあとそれを実行するにいたる。薩摩の革命家、大久保と西郷は、いわば「兄弟」である。大久保は国権論=帝国主義の象徴となり、西郷は、明治維新を深化させそれをアジアに広げるアジア主義=昭和維新の象徴となる。
 だが、この敵対は暗黙の共謀であったのかもしれない。事実、のちのアジア主義者や昭和維新の青年将校たちは、結果的には「帝国主義」的な国家権力に貢献しただけなのである。

 そう、ここにも反復が見られる。明治維新の深化としての「昭和維新」。文中にあるように帝国主義に利用されたわけだが、これがまさにマルクスの言う「ファルス」として昭和45年に反復された。 なぜか。
 三島は死の直前に書き上げた『豊饒の海』最終巻で、最後の人物をにせものとして自殺未遂させる。これは「人間宣言」によって生き残った天皇を「にせもの」とし、同時に「世界最終戦争」であるはずの戦争で死ななかった自らを「にせもの」として同時に殺すことである。
 柄谷はいう。
『三島由紀夫は、この意味で、「昭和の精神」を再喚起することによって、それを終わらしめた。マルクスの言葉をもじっていえば、この悲劇ならぬファルスは「昭和」との決別をいっそう陽気にさせるためのものである』
 こうして三島は、自ら切腹することによって、天皇を殺したのである。右翼が三島をかつぐのは、滑稽以外のなにものでもない。

 本書では、他に大江健三郎、村上春樹、坂口安吾、武田泰純らが論じられているが、ここでは中でも今日的な意義をとらえて、村上春樹だけをみてみよう。
 柄谷は三島と大江によって昭和は「終焉」したとみる。そのあとに何が残るのか。ここで取り上げられるのが春樹だ。
『「僕」は、一切の判断を趣味、したがって「独断と偏見」にすぎないとみなす、ある超越論的な主観なのである。』
 私が春樹に感じる不満に似たあきたらなさ、それがここでいう「主観」なのであろう。また、
『この自己意識はけっして傷つかないし敗北しない。それは経験的な自己や対象を軽蔑しているからである。むろん、こうした「内面」の勝利は「闘争」の回避でしかない。』
 この回避を拒否したのが、漱石であり、三島、大江だったのだろう。
 春樹の作品には、シャレた風景が散乱する。それは描写というより、恣意的な散乱にみえる。たいていの読者は、現代的なスケッチと読むだろう。
 だが先に引用した超越論的主観は、一切の規定されたものを「内面」において回避し、固有名を排除し、「歴史」が越えられる(あるいは「歴史」から逃走する)。そのときあらわれるのが、散乱した風景なのである。
 しかし、ここで誤解するのが、私を含めた一般の読者であろう。柄谷は、こう釘をさす。
『しかし、あとでいうように、それをたんにポストモダンであるというなら間違うだろう。なぜなら、村上の「風景」にひそんでいる「転倒」は、国木田独歩にあったものと、いいかえれば「近代文学」にあったものと同型だからである。』
 反復である。といって、春樹の「風景」を、近代文学における「描写」と同一視してはいけない。おそらくそれは、「転倒」、こういって良ければイロニーである。
 歴史との対峙をイロニーによってかわしていく「転倒」である。 最後に、その結論にいたる部分を引用する。

──村上の「僕」は、無意味なものに根拠なく熱中してみせることによって、意味や目的をもって何かに熱中している他人を見下すという態度に存する、超越論的な自己の意識なのである。
 くりかえしていうが、これは国木田独歩がもたらした「近代文学」の系列にあったものであり、その反復である。いいかえれば、現実的な「闘争」を放棄し且つそのことを内面的な勝利に変えてしまう詐術の再現である。

──任意に世界を構成しうるかのような考えが破綻するのは、対象としての外部ではなく他者としての外部性によってである。
 固有名が重要なのは、それが対象と結びついているからではない。それがいつもすでに他者によって与えられているからである。

──これまでイロニーによって逃げ続けてきた歴史から解放された以上、もはやイロニーは必要ないし意味をなさない。

 『1960年、ボビー・ヴィーが「ラバー・ボール」を唄った年だ。』(「1973年のピンボール」)

 そんなふうに「無知を装う」必要はない。もう「1960年」を知る人など数少ないのだ。それどころか、村上のイロニーを本気で受け取る人たちが大半なのである。村上がかつて価値転倒によって見出した「風景」は、今グローバルに自明と化した風景なのである。

 ずいぶん引用が長くなったが、現在において村上の「イロニー」を本気で受け取る若い読者というのは、それこそファルスであろう。
 かつて私が安吾のいう「堕落」を文字通りに受け取り、都合良く解釈したファルスのように。

 ちなみに柄谷行人は、村上春樹の超越論的主観を破綻させるものとして「他者」を挙げている。柄谷のライフワークに、いつも付きまとうメルクマールである。
 柄谷は本書に収められた論文を書いたのち、『倫理21』や『原理』、『可能なるコミュニズム』へと歩み、ついにNAMという実際の運動を起こした。
 他者との関わりかた。これの具象化だったのだろうか。
 ただ、私がひとつ言えることは、そこにも或る反復強迫がはたらいていたであろう、ということである。
 1960年、柄谷はブンドにいたのであるから。
 で、NAMの失敗を、どう総括するのだろうか。