『ソ同盟における社会主義の経済的諸問題』(スターリン 飯田貫一訳 国民文庫社)
前にも書いたように、私は先入観によって食わず嫌いに陥ることや、同様に先入観によって偏った視点から物事を見たり、またそういった偏った伝聞を鵜呑みにするのが嫌いである。何かを学習する上では当然とらねばならない態度なわけであるが。
したがって、悪名高いスターリンについても、私はその伝聞の怪しさを疑い、直接本人のテクストにあたろうと思ったわけである。いまでは理論書としても、古典としても価値を失っているから、幸いというべきか、古書店では捨て値で入手することができる。
しかし皮肉なことだ。時事的・一時的なテーマをとりあげた書籍というのは、当然内容が古びるから値も下がりやすい。ところが、かつて各国共産党が経典のように持ち上げ、マルクス・レーニン主義を発展させた歴史的古典と称された本書が、まるで上述した一過性をしか持たない書籍のように、一転してゴミ扱いである。
人間のいかに尻軽であるかの証左か、同じくかつての哲学青年たちが信奉したサルトル等の実存主義哲学も、似たような顛末を辿った。
だが、私はこう考える。たとえそれらが歴史的に乗り越えられ、あるいは否定されたのだとしても、乗り越え否定したのは私自身ではない。結果だけを捉えていては、何かを見失いがちである。したがって、出来うるならば私自身も、それらを追体験し、取捨選択しながら乗り越えていきたい。一時期ではあれ、人々を心酔させたもの、これには何らかのいわくがあるはずで、またそこから汲むものも少なくないだろうからである。
前置きが長引いたが、本書は1952年、スターリンによって著述されたもの及び演説、またソ連共産党による解説を収録している。
傾向的には、
『労働者階級が権力や生産諸手段をうばわれていないどころか、反対に、その手に権力をにぎっており、生産諸手段を所有している現在、これら諸概念(*「必要」労働と「剰余」労働の概念)をもちいるのは、まったくおかしなことである。』といったように、当時のソ連をすでに共産主義の段階あるいは高度な社会主義のレベルであるかのように、自画自賛する点が目立つ。とはいえ、その基本的な理論は間違っていない。間違ってはいないが、一考を要する。
たとえば資本主義体制の危機を指して、
『彼らは「マーシャル・プラン」、朝鮮戦争、軍備拡張競争、産業の軍事化によって、これらの困難をうめあわせようとつとめている。』とした上で、
『戦争の不可避性をとりのぞいてしまうためには、帝国主義を絶滅してしまうことが必要である。』と断言する。
確かにそうだ。だが、戦争を無くすという大義が、「革命の輸出」による帝国主義打倒のための戦争を引き起こすのは、一種のパラドックスである。
また、正しいことに潔癖であろうとした結果、これが「前衛」としての自分たちを権威づけるとしたら、既に科学ではなく宗教である。実際、本書では党における討論で持ち上がった疑問、同志たちの理論を、片っ端から「正しくない」と否定し、その根拠としてマルクス『ゴーダ綱領批判』やエンゲルス『反デューリング論』を、あたかも経典をひもとくようにして引用する。レーニンやスターリンが、ロシアの特殊性から、独自の社会主義理論を構築してきたにもかかわらず、である。
だが、結果論はすまい。いまでもマルクスやレーニンの評価はそれほど下がっていないに関わらず、スターリンが一転して革命を裏切った者として左翼の中でも悪者扱いされている歴史的背景を推察してみよう。
まず前者と後者の違いは、資本主義を批判的に分析し社会主義・共産主義の理論を打ち建てた者と、資本主義の干渉と闘いながら、試行錯誤しつつ理論を現実化しようとした者の違いである。前者が完結しているのに対し、後者は変動する情勢の中で、実践していかねばならない。結果論的に、後者の評価が低くなるのは当然のことと言わねばなるまい。 また、フルシチョフのスターリン批判以来、手のひらを返したようにスターリンを全否定した左翼諸派は、ある意味そのことによって過去をスターリンごと否定したつもりになった観が否めない。そこには何らの総括もないだろう。
人間はゼロ記号を欲する。権威のゼロ記号、悪・敵のゼロ記号…。これらが設定されたとき、複雑怪奇な歴史が図式的に簡単化される。
イメージの固定は思考を固定し発想をないがしろにし、わかりやすいもの、心地よいものへと指向しがちだ。ファシズム、そして反スターリニズムを目指したかつての新左翼が好例であろう。
最後に、スターリンの考えていた理想の共産主義像を引用しよう。
『世界の大多数の国々での社会主義の活動範囲が拡大するにつれて、国家は死滅してゆくだろうし、またこれと関連して、もちろん、個人や集団の財産を国家の所有にひきわたすという問題も、なくなってゆくだろう。』
まるでソ連を完成された共産主義のように自画自賛しがちなスターリンではあるが、ここではその理想が語られている。
また、その要素である生産の目的をそれぞれ資本主義、社会主義の両方を説明(『資本主義的生産の目的は利潤を引き出すことである。』『社会主義的生産の目的は利潤ではなくて、人間とその諸欲望、すなわち人間の物質的および文化的な諸欲望の充足である。』)し、さらに共産主義への移行には、教育・文化の発展のみならず、職業を自由に選び、変えられる社会の余裕が必要であり、したがってそのためにも労働時間は五時間まで減らさねばならないとする。まさにマルクスが『ドイツ・イデオロギー』で言った「新たな価値の創造」指向するものであり、これらには大いに賛同したいところである。
繰り返すが、スターリンは長らく、そして今でも、悪の権化のように語られる。だがよく考えてみれば、60年前、世界3悪と呼ばれたのはヒトラー・ムッソリーニ・昭和天皇だった。どうだろうか。
アジアでの大量虐殺を直接指示したのは天皇自身ではない。確かに主権在君国家における最終的な責任者は天皇であるが、といってこれをヒトラーやムッソリーニと同列に置くのは、当時の軍部独裁に近い日本の上部構造を知るなら、まことに乱暴な意見に思える(ただし軍は「天皇統師権」を後ろ盾にしたのだから、原理的に天皇制の責任は重大である)。スターリンの場合にも、こういった立場性による見え方の違いがあったのだろう。そもそも、あの広いソ連を“独裁”するなど、物理的にいって無理である。
いま、スターリンを否定するのは容易だ。だが必要なのは失敗から学ぶことであり、中でも本書のような具体的なものにあたってみることである。
スターリンを援護する気はないが、全否定からは何も得られないだろう。ことに、必要以上にスターリンや毛沢東をこきおろし、単なる虐殺者、権力に飢えた悪者に仕立てあげてきたのは、おおむねが産経、読売、文芸春秋周辺の右翼御用メディアである。その政治的意図にも気をつけねばならない。

前にも書いたように、私は先入観によって食わず嫌いに陥ることや、同様に先入観によって偏った視点から物事を見たり、またそういった偏った伝聞を鵜呑みにするのが嫌いである。何かを学習する上では当然とらねばならない態度なわけであるが。
したがって、悪名高いスターリンについても、私はその伝聞の怪しさを疑い、直接本人のテクストにあたろうと思ったわけである。いまでは理論書としても、古典としても価値を失っているから、幸いというべきか、古書店では捨て値で入手することができる。
しかし皮肉なことだ。時事的・一時的なテーマをとりあげた書籍というのは、当然内容が古びるから値も下がりやすい。ところが、かつて各国共産党が経典のように持ち上げ、マルクス・レーニン主義を発展させた歴史的古典と称された本書が、まるで上述した一過性をしか持たない書籍のように、一転してゴミ扱いである。
人間のいかに尻軽であるかの証左か、同じくかつての哲学青年たちが信奉したサルトル等の実存主義哲学も、似たような顛末を辿った。
だが、私はこう考える。たとえそれらが歴史的に乗り越えられ、あるいは否定されたのだとしても、乗り越え否定したのは私自身ではない。結果だけを捉えていては、何かを見失いがちである。したがって、出来うるならば私自身も、それらを追体験し、取捨選択しながら乗り越えていきたい。一時期ではあれ、人々を心酔させたもの、これには何らかのいわくがあるはずで、またそこから汲むものも少なくないだろうからである。
前置きが長引いたが、本書は1952年、スターリンによって著述されたもの及び演説、またソ連共産党による解説を収録している。
傾向的には、
『労働者階級が権力や生産諸手段をうばわれていないどころか、反対に、その手に権力をにぎっており、生産諸手段を所有している現在、これら諸概念(*「必要」労働と「剰余」労働の概念)をもちいるのは、まったくおかしなことである。』といったように、当時のソ連をすでに共産主義の段階あるいは高度な社会主義のレベルであるかのように、自画自賛する点が目立つ。とはいえ、その基本的な理論は間違っていない。間違ってはいないが、一考を要する。
たとえば資本主義体制の危機を指して、
『彼らは「マーシャル・プラン」、朝鮮戦争、軍備拡張競争、産業の軍事化によって、これらの困難をうめあわせようとつとめている。』とした上で、
『戦争の不可避性をとりのぞいてしまうためには、帝国主義を絶滅してしまうことが必要である。』と断言する。
確かにそうだ。だが、戦争を無くすという大義が、「革命の輸出」による帝国主義打倒のための戦争を引き起こすのは、一種のパラドックスである。
また、正しいことに潔癖であろうとした結果、これが「前衛」としての自分たちを権威づけるとしたら、既に科学ではなく宗教である。実際、本書では党における討論で持ち上がった疑問、同志たちの理論を、片っ端から「正しくない」と否定し、その根拠としてマルクス『ゴーダ綱領批判』やエンゲルス『反デューリング論』を、あたかも経典をひもとくようにして引用する。レーニンやスターリンが、ロシアの特殊性から、独自の社会主義理論を構築してきたにもかかわらず、である。
だが、結果論はすまい。いまでもマルクスやレーニンの評価はそれほど下がっていないに関わらず、スターリンが一転して革命を裏切った者として左翼の中でも悪者扱いされている歴史的背景を推察してみよう。
まず前者と後者の違いは、資本主義を批判的に分析し社会主義・共産主義の理論を打ち建てた者と、資本主義の干渉と闘いながら、試行錯誤しつつ理論を現実化しようとした者の違いである。前者が完結しているのに対し、後者は変動する情勢の中で、実践していかねばならない。結果論的に、後者の評価が低くなるのは当然のことと言わねばなるまい。 また、フルシチョフのスターリン批判以来、手のひらを返したようにスターリンを全否定した左翼諸派は、ある意味そのことによって過去をスターリンごと否定したつもりになった観が否めない。そこには何らの総括もないだろう。
人間はゼロ記号を欲する。権威のゼロ記号、悪・敵のゼロ記号…。これらが設定されたとき、複雑怪奇な歴史が図式的に簡単化される。
イメージの固定は思考を固定し発想をないがしろにし、わかりやすいもの、心地よいものへと指向しがちだ。ファシズム、そして反スターリニズムを目指したかつての新左翼が好例であろう。
最後に、スターリンの考えていた理想の共産主義像を引用しよう。
『世界の大多数の国々での社会主義の活動範囲が拡大するにつれて、国家は死滅してゆくだろうし、またこれと関連して、もちろん、個人や集団の財産を国家の所有にひきわたすという問題も、なくなってゆくだろう。』
まるでソ連を完成された共産主義のように自画自賛しがちなスターリンではあるが、ここではその理想が語られている。
また、その要素である生産の目的をそれぞれ資本主義、社会主義の両方を説明(『資本主義的生産の目的は利潤を引き出すことである。』『社会主義的生産の目的は利潤ではなくて、人間とその諸欲望、すなわち人間の物質的および文化的な諸欲望の充足である。』)し、さらに共産主義への移行には、教育・文化の発展のみならず、職業を自由に選び、変えられる社会の余裕が必要であり、したがってそのためにも労働時間は五時間まで減らさねばならないとする。まさにマルクスが『ドイツ・イデオロギー』で言った「新たな価値の創造」指向するものであり、これらには大いに賛同したいところである。
繰り返すが、スターリンは長らく、そして今でも、悪の権化のように語られる。だがよく考えてみれば、60年前、世界3悪と呼ばれたのはヒトラー・ムッソリーニ・昭和天皇だった。どうだろうか。
アジアでの大量虐殺を直接指示したのは天皇自身ではない。確かに主権在君国家における最終的な責任者は天皇であるが、といってこれをヒトラーやムッソリーニと同列に置くのは、当時の軍部独裁に近い日本の上部構造を知るなら、まことに乱暴な意見に思える(ただし軍は「天皇統師権」を後ろ盾にしたのだから、原理的に天皇制の責任は重大である)。スターリンの場合にも、こういった立場性による見え方の違いがあったのだろう。そもそも、あの広いソ連を“独裁”するなど、物理的にいって無理である。
いま、スターリンを否定するのは容易だ。だが必要なのは失敗から学ぶことであり、中でも本書のような具体的なものにあたってみることである。
スターリンを援護する気はないが、全否定からは何も得られないだろう。ことに、必要以上にスターリンや毛沢東をこきおろし、単なる虐殺者、権力に飢えた悪者に仕立てあげてきたのは、おおむねが産経、読売、文芸春秋周辺の右翼御用メディアである。その政治的意図にも気をつけねばならない。
