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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文66

2006-03-22 17:18:00 | ガイドブック・ハウツー
『定本セロニアス・モンク』(ジャズ批評編集部・編)

 ジャズ喫茶でリクエストして聴いたのが、モンクとの出会いだった。そのときは何が良いのかさっぱりわからなかった。ジャズ特有のアウフタクトが更に予期できぬタイミングで脱構築され、ただ戸惑うばかりだった。なんというアルバムだったかすら、忘れてしまった。
 村上春樹・和田誠の『ポートレイト・イン・ジャズ』を読まなければ、自分でCDを買うこともなかったかもしれない。
 私が最初に買ったのは『ジニアス』の海賊盤で、何度も聴くうち、不思議なことに気づいた。
 同じ曲を聴き込もうと思ってリピートをかける。20回聴いても、まったく飽きないのである。いままでにない経験だ。ただ単に耳新しいからだけではあるまい。この音楽には何かがある。そう思って本書を手にしてみた。

 その軌跡、レコーディングにおける逸話などは、面白く読めた。また、オリジナルアルバムすべての解説が付され、今後モンクを聴いていくにあたっての、良い羅針盤にはなる。
 しかし、謎は、解けなかった。そう簡単に因数分解できてしまう音像であったなら、モンクは「モンク的」でいられたはずがなかっただろう。


読書感想文65

2006-03-17 08:25:00 | 評論・評伝
『近代日本文学史』(三好行雄編 有斐閣双書)

 実家の本棚で発見した大学のテキストである。一度も読まずに積まれていたものだが、久しぶりに文学史というものを頭の中で整理整頓しておきたくなって、引っ張りだしてきた。
 意外に面白かった。文学史というのを体系的に学習するのは、実は高校以来なのである。おぼろ気な知識の骨組みに、肉付けがされていくようで、すらすらと頭に入った。いまさら近代文学史などと思ってはいたが、いまさらなどではない。いままさに私に必要な学習であったようにも思える。

 開化から太平洋戦争に向かう、不自然に凝縮された日本の近代史において、文学もおのずとその歴史に規定され、また同時に歴史も文学に影響を受けた。
 だが文学の性急な近代化は、自我というものを机上から解放できないまま、昭和10年代中盤からの沈黙を迎えたかにみえる。
 文学者の多くは、戦争に批判を加えるどころか、同調し讚美の詩をうたった。プロレタリア文学の担い手たちは転向するか獄中にあった。こうして、文学は戦争の前に無力だった。

 私事に戻るが、高校生の私は、文学に対する興味半分、受験勉強の必要からが半分で、それなりに日本の近代文学史を概観した。欲張りな私は、これを体系的に、総ナメしていこうと思った。いわば近代を追体験したいと願ったのである。
 開化期における猿真似、雅から写実へ、浪漫と自然の対立、自我(エゴイズム)の問題、社会主義的ヒューマニズム…
 若い私は、わけても花袋、藤村、漱石、多喜二、芥川などに惹かれた。中でも漱石「三部作」や「こころ」における「代助」「先生」の悩みは他人事と思われなかった。また、多喜二は私を開眼させ、芥川は醒めた視点を教えた。
 しかし私は若すぎたのだろうか、近代をある意味踏襲してしまった。猿真似と、あたかも机上でこねまわしたかのような自我の意識である。
 脆さは矛盾を孕み矛盾は瓦解を予定し、瓦解は無頼派との出会いを必然した。私は夢中で太宰や安吾、織田作を読んだ。
 こうして私はハシカにかかったような形で近代文学を読んでいったわけである。
 なんだか青春の変遷が、近代文学史とリンクしてしまうのは、タマゴが先かニワトリが先か…、自分でもわからないのであるが。


読書感想文64

2006-03-08 12:21:00 | 純文学
『赤い繭』(安部公房 新潮文庫)

 芥川賞受賞作『壁』の中の一編。
 以前、当ブログに感想を載せたとき、コメント欄に『赤い繭』の感想文を、という御要望をいただきながら、いまさらになってしまったことをお詫びいたします。

『赤い繭』は四つの掌編から成る。
 家を喪失した男の『赤い繭』。労働者の液状化により世界が水没する『洪水』。想像と創造が交錯する『魔法のチョーク』。瓢々と語るグロテスクが、何かを転覆させる『事業』。
 表層だけを見れば幻想的な散文詩に読めなくもない。しかし『壁』という作品を俯瞰するとき、これら掌編の中に、著者の作風が凝縮されているようにも思える。
 一連して言えるのは、“不条理”の通底と、しかしこれを深刻ぶらない幼児的な無邪気さ、知的好奇心とでも呼ぶべきものである。 解説で佐々木基一は次のように述べている。

「安部公房における軽みないし明るさは、彼の主人公が、現実世界での存在権の喪失を、さほど深刻には悩んでいないこと、失われたものにたいする郷愁を、ほとんどまったくといっていいほど感じていないことからくるのである。」

 ここがカフカとの微妙な差異であり、当時の実存主義哲学を超える手がかりになったのではないか。
 ここにおいて不条理は発見されない。なぜなら、そもそも土台となるべき通念や自己同一性といったものが存在していないか、あるいはまったく軽視されているからである。言い換えれば、作中人物たちは、あらゆる手垢から自由である。

「ともかく、こちらが私の家でないとお考えなら、それを証明していただきたいのです。」
「まあ……」と女の顔がおびえる。それがおれの癪にさわる。
「証拠がないなら、私の家だと考えてもいいわけですね。」
「でも、ここは私の家ですわ。」
「それがなんだっていうんです? あなたの家だからって、私の家でないとは限らない。そうでしょう。」

 描かれるのは、悪意でも厭味でもない。いってみればギリシャ神話に似た無垢であり、ここに不気味さを感ずるとすれば、われわれがいかに慣習や、ありもしない自己同一性にしがみついてきたかの証左なのだろうか。  しかし、単純な価値逆転を露骨に狙った意図はみえない。新しいものを作ろうという奇抜さを感じもしない。
 ただ言えるのは、安部公房が幼少期を、満州の半砂漠的な風土で過ごしたということに、読む者が不思議な了解を得るということだろうか。
 不条理は訪れたのでも発見されたのでもなく、平凡な現実として、生まれた瞬間に著者をとりまいていた。
 喪失そのものが、最初から喪失されていたとしたら、確かにそれは“自由”なのかもしれない。


読書感想文63

2006-03-01 12:42:00 | ノンフィクション
『労働運動再生の地鳴りがきこえる』(武健一 脇田憲一編著 社会批評社)

 労働運動についての歴史も方法論も知らない私にとっては、「再生」というよりは、概ねが新発見と言ってよい感想を持った。
 再生をいうからには運動の崩壊過程も詳述されるわけで、総評の解体や連合の右傾化については、ミクロ・マクロ両面から描かれ、興味深いものがあった。
 一方、EUに焦点を当て、その継続的な社会民主化の運動から、世界の社会主義運動は第3インター的なものは瓦解したが、第2インターの精神は生きているという。
 また編著者のひとり武健一は、いまだに不当拘留されている労組委員長であるが、彼率いる関西生コン支部の不屈さと、運動の発展が語られ、21世紀を「生産協同組合の時代」と位置付ける。
 しかし、こうした欧州の動きや、関生支部にみられる戦闘的労働運動を軸に「再生」を語るには、日本の状況を楽観視している観が否めない。
 本書でも指摘されている通り、雇用は流動化し、非正規雇用の労働者の組織化は遅れており、私個人の実感として希望的観測を許さないほどに、その意識は低い。
 産業は非常に、かつ非情に細分化され、労働者は利害を共有する空間がみえない。従って自らの階層についての実感もないのである。
 件の関西生コン支部に見られる成功例は、運輸・製造業(ことに生コン業界)が、昔ながらの、見える労働に立脚しているからであって、同じ方法を他に適用するのには無理があるように思えた。
 付け加えて、武委員長界隈で語られる、党組織論には、極端に言って、安易な反動を感じる。「民主集中制」が駄目なら「構成員主権」。なるほど。だが言うは易しである。
 そもそも、この文脈にはスターリンや共産党への失敗要因転嫁が無いとは言い切れない。「マルチチュード」などと借りてきたような言葉を羅列しているだけでは、教訓が活かせないのではないだろうか。
 だが、ともかく権力の不当な弾圧は許せない。彼らの弾圧に鍛えられていく不屈性は、戦う弁証法といっていい。
 希望的観測は許されぬとしても、希望を捨ててはならない。