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よい子の読書感想文 

2005年から、エッセイ風に綴っています。

読書感想文13

2005-06-25 07:23:00 | 純文学
『壁』(安部公房・新潮文庫)

 名前を失った男を描く「第一部 S・カルマ氏の犯罪」
 影を失い影の原因である実体をも喪失する「第二部 バベルの塔の狸」
 帰る家をなくした人間の寓話「第三部 赤い繭」
 いずれもが、根本の欠落を描いたものである。それも、不条理に。
 しかしカフカの後に読んだせいだろうか、違和感なく、さながら自らにも起りうる日常の事件に似て、すんなりと読めてしまった。それがある意味恐ろしかった。
 著者は喪失や欠落という負債を描くべくしてこれらを書いたのではあるまい。かえって、この場合にあらわれてくる価値逆転を狙うのである。
 既存のもの。既知、通念、常識。そんなものがいかに脆弱な記号に過ぎなかったか。
 少なくとも、私はそう読んだ。


読書感想文12

2005-06-23 08:08:00 | 外国文学
『カフカ傑作短篇集』(長谷川四郎訳・福武文庫)

 カフカの、あまり知られていない短篇、掌篇を集めたものである。
 ストーリー性のある作品といえば、長篇『アメリカ』の序章ともいえる『火夫』だけであり、あとの20篇はアフォリズム的な断編だった。
 その中でも『「彼」―1920年のノート―』は、偶然とはいえ、同じ時代に芥川龍之介が書いた『ある阿呆の一生』に似ている。
 他の作品に関しては、読後、「?」が残る。また、この不可解さは、奇妙な憶測へと私を導く。カフカは、こういった読後感を狙って書いたのだろうか。
 収録されているほとんどのものが、遺稿であって、カフカはこれらを焼き捨ててくれと友人に書き遺したという。


読書感想文11

2005-06-05 11:05:00 | 詩歌・戯曲
『現代詩創作講座』(木原孝一・飯塚書店)

 詩を読み、書く上での入門書である。
 三十篇に及ぶ、学生や無名詩人の作品を取り上げ、それぞれを因数分解し、解説し、批評していく。これが、強い吸引力を持って読ませる文なのである。
 詩のディティールを批評していながらも、話の幅は文学全般へひろがっていく。否、逆なのだろう。俯瞰する視点があってこそ、個々の詩を、ひとつひとつの言葉を、顕微鏡をのぞく手つきで扱えるのだ。
 著者はそうして平易な文章で、私を詩の世界に誘いこみ、また、忘れかけていた文学の出発点を振り返させてくれた。
 少し長くなるが、引用したい一文がある。

『ここにひとつの命題がある。坑夫の絵を書く場合、その坑夫と同じ生活、同じ状況を経験しなければ、真実の坑夫は描けないか、という問題である。すなわち、芸術家は、みずから選んだその主題を、実際に経験しなければ、作品を創造することができないのか、という疑問である。(中略) いま、私の隣にいる少年が、誤ってナイフで指を切ったとする。その指からは赤い血がにじむ。少年はたぶん痛みに耐えているのだろう。だが、私はちっとも痛くない。なぜなら、それは私にとって少年が指を切ったという外部経験だからである。だが、指を切った少年の痛みはいくらかは了解できる。それは私の外部経験に触発されて私の内的経験がめざめ、過去の同じような記憶を喚起して、同じような痛みを感ずるからである。そのとき、私の内的体験は、私の外部経験と緊密に結びついて、体験を超えた、ひとつの内的経験となる。映画、音楽、美術などの作品が私たちを感動させるのは、外部経験としてのそれらの作品と、私たちの記憶のなかの内的体験とが想像力によって、そこにひとつの比喩をつくりあげ、ついには内的経験として、私たちの心のなかに定着するからで
ある。』

 日常に流されて、省みることの少なくなった何か。かつては溢れていた、ある衝動。これらを思い出させてくれる本だった。
 著者は、『現代詩手帖』の編集にも携わっていた詩人である。


読書感想文10

2005-06-02 07:07:00 | 大衆文学
『蟹工船・党生活者』(小林多喜二・角川文庫)

 以前読んだのは高校生のときである。盲目的な反動少年だった私は、このプロレタリア文学の傑作が持つ、強烈な革命性によって中和されたらしかった。 資本主義・帝国主義の手口を暴露し、共産主義を大衆化する。その意味で『蟹工船』は、プロレタリア文学の任務を全うしている。これは私が身を持って開眼させられた経験からしても、確かに言えることだ。
 あれから十年近くが経ち、予備知識を得た上で読むと、小説としての粗さは目につくが、一種の啓蒙小説であるにもかかわらず、説教臭さはそれほど目につかない。ただし、どことなくスローガンに似た力みが匂うのは、仕方ないことではあろう。
 労働者が何かに気づいていく自然発生性は読んでいて面白かった。

『党生活者』は著者晩年(多喜二は警察の拷問で虐殺された)の作品だけあって、文学としての完成度が高い。『蟹工船』が集団を描くのに対し、こちらは集団のみならず、「党生活者」として苦悩する個人をも描いて余すところがない。
 その超前衛党的思考や、女性シンパをハウスキーパー扱いする非人道性に疑問を抱きはするが、この点は戦後の共産党批判とあいまって、かなりの論評がされたというから、いまさら事あげする問題ではあるまい。
 また、舞台は戦前の非合法共産党であって、いわば戦時共産党である。今風の尺度で批評しても仕方あるまい。
 さて、『党生活者』には、たびたび「全生涯的憎悪」という言葉があらわれる。これは主人公の立場性を表現している。おそらくこの作風は、作者の生い立ちに由来しているのだろう。
 ここに共鳴できるか否かが、読者を左右するに違いない。