国際情勢について考えよう

日常生活に関係ないようで、実はかなり関係ある国際政治・経済の動きについて考えます。

フセイン問題が残した課題

2007-01-04 | 国際社会

皆さま、明けましておめでとうございます。今年もどうぞ宜しくお願いいたします。

年末は、サダム・フセインの死刑執行があり、ちょっと気分が悪くなって、あまりこの材料でブログを書く気にはなれませんでした。この御用始めの日に、この問題を改めて取り上げるのは、もっとふさわしくない気もしますが、この一件は、今も現存する他の独裁者の処遇問題や、さらには独裁国家の民主化といった巨大なテーマにも関係してくる大切な問題なので、やはり触れないわけにはいかないような気がしました。

まず最初に、死刑制度の是非について触れておきますと、近年では死刑制度に反対する立場が多数派なようですが、私自身も死刑制度には反対です。理由は極めて素人的な考えによるものですが、凶悪犯罪を行ない、更生の理由が絶無だということだけで、すでに社会的に無力化されている個人の生命を、さらに国家権力が物理的に奪うことが、どうして必要なのか理解できないからです。したがいまして、冤罪の問題を脇に置いても、死刑には反対という考えです。しかし、今回のサダム・フセインの死刑執行は、このような筋論では対応できない難しい二つの問題を投げかけているように感じます。

 

まず一つ目の問題は、他の現存する独裁者に対する今後あり得る裁判や刑罰執行にも共通することなのですが、こうした独裁者を生存させたまま拘禁して、社会的に無力化するということが、現実には極めて難しいという問題です。繰り返しになりますが、私はいかなる状況下でも死刑制度には強く反対ですが、このような問題があるため、今回のような性急な死刑執行を闇雲に否定することは難しいように感じています。

今回のフセイン氏のケースにしても、もし死刑執行を順延していたらどうなっていたか考えると、やはりすぐに執行するのと、年明けまで順延するのとでは、イラク国内の抗争による死傷者数の総計は、順延していた方が多くなったように思うのです。またさらには、死刑判決を無期限に執行しない場合、もしくは終身刑にした場合を想定すると、減刑を要求するような社会運動が起きてきて、さらにもっと抗争が激化する可能性が高いように思うのです。つまり、このような社会的に影響力の強い被告の場合、普通の刑事事件の被告と事情が著しく異なり、拘留施設に拘禁して一般社会と完全に隔絶しても、その社会的影響力を減衰させることが、実際問題として極めて難しいということなのです。

もう一つの問題点は、冗談と思われてしまうかもしれませんが、脱走のリスクです。イラクでも、米軍が逮捕して、イラク政府が拘禁していた容疑者が脱走した事件が実際に一件発生していますが、紛争国、途上国では、刑務所からの脱走、さらには集団脱走といった事件は、わりと頻繁に起きています。ましてや元国家元首のような立場の被告であれば、その脱走を企図・支援する者は、刑務所の内外に無数にいる可能性もあり、脱走のリスクはより高まるのではないかと思われます。そして、実際に脱走に成功した場合、おおむね再逮捕は難しく、その被害の波及効果は論じるまでもありません。フセイン氏の場合、身柄は米軍が拘禁していたわけですが、こういう特殊なアレンジメントは、どこでも、いつまでもできることではありません。

 

さて、こうした問題をどう解決するかということですが、私は個人的に、このような社会的影響力の強い元独裁者のような者に対する刑罰の執行については、元独裁者の国籍国と利害関係が薄い第三国が執行を代行するという一つの国際制度を創設してはどうかと考えています。

具体的に言いますと、このような元独裁者の裁判を、当人の国籍国の国内裁判所、もしくは国際裁判所(たとえば国際刑事裁判所; ICC)が行ない、刑が確定した時点で、被告の国籍国の合意を前提に、その身柄を国籍国と利害関係が薄く、なおかつ国籍国から地理的に遠隔しており、さらに国際水準に見合った拘留施設を有する第三国に移転し、その第三国で刑を執行するというものです。

この第三国の選定は、自薦・他薦を含めて、関連する国際機関が協議・決定するということでよいのでないかと思いますが、どの国際機関がその任に適しているかというと、やはりいろいろ問題点はあるとしても、国連安保理が最も適任なのではないかと思います。拒否権の問題はありますが、難しい紛争解決でも拒否権が行使されないことはあるので、このような社会的な影響力を半ば失いつつある個人の処遇については、それほど協議も紛糾しないのではないかという気がします。また、身柄引き受けの候補国が出てくるかどうかという問題についても、このような厄介な国際義務を引き受けることは、その国の国益を、国際社会の中で相対的に増進することにもなりますので、必ず一案件につき複数国の候補が上がってくるものと思われます。

さらに言うまでもないことですが、この国際制度の運用に際しては、最高でも終身刑の被告にしか適用しないという条件を付しておくことが必要になると思います。もちろん、その被告である元独裁者の国籍国が、主権国家として被告をどうしても死刑にしたいということであれば、それを阻止する手段はありません。しかし、この国際制度の運用に際して、終身刑以下の被告しか引き受けないという条件を付しておくことは、死刑制度を全廃しようとする国際世論の潮流から逸脱しないためにも、どうしても必要なことではないかと思います。

 

実は、このアイディアは、かつて旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(ICTY)で審理されていたミロセビッチ元大統領のケースから、思いついたものです。彼は大変やり手の独裁者で、ボスニア紛争やコソボ紛争を自ら扇動して火をつけ、紛争中に無数の一般市民を殺害することを指揮しておきながら、一方では国内の一部から絶大な支持を受けて、国家元首レベルの選挙に複数回当選し、欧米諸国とも対等に渡り合う"天才肌"の政治家でした。しかし、コソボ紛争翌年の2000年の大統領選で破れ、国内政治の力学が変わると同時に当局に逮捕されて、指名手配をかけていたICTYに引き渡されたのでした。

この一件で目を引いたのは、彼の身柄がオランダ・ハーグにあるICTYに移された途端に、彼の母国での社会的影響力が激減した様子でした。彼はICTYの拘留施設からも母国の選挙に立候補するなど、まったく反省することなく、政治活動を継続しようとしていたのですが、身柄が遠いオランダに移されてからは、もはや過去の人という感じでどんどん影響力を失い、最後は持病の心臓病が悪化して獄中で病死しました。彼の場合、刑の執行前の審理中に亡くなったわけですが、あれほど絶大な人気を誇っていたのに、地理的に隔絶した第三国に身柄が移された途端に、社会的な影響力を失ってしまった様子は、まことに印象的でした。

 

こうしたケースを見てみると、当人の身柄を、地理的に隔絶した第三国に移転するだけで、とても大きな効果があることが伺えます。しかし、ICCやICTYはあくまで法を適用して判決を出す裁判所であって、判決を執行する機能はありません。また、これらの国際裁判所を利用しない国も多数あります。その意味でも、上記のような新たな国際制度を創設するのは、どうかと思った次第です。

今日再び、サダム・フセインと同時に死刑判決を受けた二人の被告に対して、イラクで死刑が執行されます(関連記事)。そして、今後似たようなことが、他の国や地域でも起きる可能性は低くないように感じています。いつまでもこんなことを続けていくのは、国際世論の潮流に逆行することになりますし、ほかの国や地域の独裁者をより意固地にすることにもなりかねません。やはり、このような高度に政治的な問題は、透明性の高い政治的に中立的な国際制度の中で解決する方が理に適っていますし、現存の独裁政の国々の民主化を促進する上でも役立つのような気がするのですが、いかがでしょうか。
 

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