アメリカと日本で、立て続けに銃による大きな事件が起きました。アメリカでは、改めて銃社会の問題点が浮き彫りになったようですが、これほどのことがあっても、本気で銃規制を進めるべきだという主張は、日本人が大声で唱えているだけで、アメリカ人の間ではあまり見受けられません(関連記事)。これもおそらく、銃で国土を開拓し、銃で秩序を維持してきたアメリカ建国の歴史と深い関係があるのでしょうか。
かつて私は、ニューヨーク・マンハッタンのロウワー・イースト・サイドの近くや、ハーレムという所に二年ほど住んでいたことがありました(地図)。両地域とも、あまり治安の良いところではありませんでしたが、殴り合いの喧嘩どころか、激しい口論さえも一度も目にすることはありませんでした。その謎は、アメリカ人の友人に説明してもらって、間もなく解けました。
その友人によると、アメリカの治安の良くないところでは、誰が銃を持っているか分からないので、うかつに口論もできないのだということでした。たしかに、派手な口論も殴り合いも一度も見かけませんでしたが、斜め向かいのアパートで銃の発砲事件はありました。日本では、人間関係のこじれが、不和→口論→殴り合い→殺人事件と、段階的に事件に発展するのだろうけれども、アメリカでは、不和→殺人事件と一気にエスカレートする場合があるので、うかつに口論もできないということでした。このことは、アメリカ社会全体に一般化して考えることはできないかもしれませんが、ニューヨークの一部では、たしかにそのような状況があると感じました。
ニューヨークのマンハッタンという場所は、アメリカの中でも極めて特殊な地域であり、ここでの出来事を、アメリカ社会全体の傾向を考える材料として捉えることはできません。しかし、ここに住んでいる間、誰が銃を持っているか分からないという疑念が、逆に人々の間で争い事を引き起こさないようにする抑止力として働いているということを、たしかに感じたことがありました。お互い肌の色も、価値観も、経済力も、また時には言語も国籍も違うのに、なぜか皆お互いに礼儀正しく暮らしている様子を見て、そんなことを感じることがりました。
しかし、このことによって銃を持つことは良いことだという結論は引き出されないように感じます。今回のアメリカの大学での事件のように、日本では起きない事件が、銃社会のアメリカでは起きるからです。やはり、銃が野放しで蔓延している状態は、銃がしっかり規制されている状態よりも、トータル的に見ればデメリットの方が大きいのではないかと思います。
ちなみに、この銃規制の論点は、スケールアップすると、そのまま核兵器の拡散防止の論点にも通じてきます。核兵器を保有・開発する国は、必ずと言っていいほど、「核兵器の圧倒的な破壊力は、大規模戦争を予防する上で有効な「抑止力(detterance)」として作用するのだから、核兵器を保有・開発することは、世界平和を維持することにつながるのだ」という主旨の論法を展開します。しかし、これは物事の一面だけを取り上げた偏った見方です。
まず核兵器を保有・開発するには、莫大な資金がかかり、その分、社会保障や公共投資などの他の貴重な財源を食ってしまいます。また配備した後は、何らかのヒューマン・エラーによって偶発的な核戦争が起きてしまう確率をゼロにすることは不可能ですから、その破滅的なリスクと隣り合わせで同居することになります。さらには、核兵器を保有している国は、他の同じ核保有国によって、非核国よりも優先度の高い核攻撃のターゲットに選定されますから、核保有国は、非核国よりも核攻撃される可能性が常に高い立場に自らをさらすことになります。
つまり、核兵器が、戦争を予防する上での圧倒的な「抑止力」を備えていることは事実なのですが、それは物事の一面だけであって、そのメリットをはるかに上回る破滅的なデメリットがあるということです。この核武装のデメリットの一部の論点は、銃社会におけるデメリットとも共通しているところがあるようにも感じます。
先ごろ銃弾に倒れた伊藤一長・長崎市長は、奇しくも被爆地域の首長であり、かつて国際司法裁判所(ICJ)で「核兵器の使用・威嚇は、国際法に違反するか」という勧告的意見の諮問が行われたとき、参考人の一人として現地に赴き意見を述べたことがありました。ICJは、司法判断が可能な国際問題について、国際法を適用して判決を下したり、法的意見を述べる国際裁判所ですが、伊藤市長は半ば当事者の立場から率直に所感を述べ、それが今も公式記録に残されています(関連サイト/勧告的意見の原本)。
この勧告的意見諮問の結果は、「核兵器の使用と威嚇を禁止する国際法上の実定法は現時点で存在しない。国家存亡の危機に際しては、法的な適否を判断できない」という主旨のものであり、これはこれで、司法機関であるICJが、高度に政治的な問題に対して、可能な限りのギリギリの見解を示したものとして評価できます。
銃規制にしろ、核兵器の拡散防止にしろ、それぞれの立場が、自分の立場を主張するだけでなく、反対の立場をじっくり学ぶことは、議論を収斂・昇華していく上で大切です。銃規制でいえば、全米ライフル協会のようなところは、日本の主流の論調に学ぶべきですし、私たちの多くは彼らの意見をじっくり傾聴して、論点の噛み合う議論をすべきです。また、核武装論者は、非核論者の意見を学ぶべきですし、非核論者は核抑止理論などをしっかり学んで、核武装論者と論点の噛み合う議論をすべきだろうと思います。今日はトピックがあちこち飛びましたが、銃による事件の多発に接して、そんなことを考えました。
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