一方、縄文時代の年代設定に話を移せば、「金属器以前、土器以降」ということ
以上の区分ではないようです。どちらかといえば「金属器以前」は
「稲作以前」と言い換えた方が通りがいいでしょうか。
そうであるが故に少しでも古い土器のかけらが見つかればそれがどういう
ものであっても縄文時代の開始は遡りますし、古い稲作の遺跡が見つかれば
縄文時代の終焉(=弥生時代の開始)が自動的に遡るというわけです。
土器以外の要因はまるでないかのようですし、土器にしても縄文土器の
枠組み(というのがあるかどうかすらわかりませんが)に収まっているかどうかすら
関係なしに、です。少なくとも初期の土器は縄文がついてもいないですし。
そうした、地理的には「戦後日本の領土」、時代的には「稲作以前土器以降」という
外枠だけは設定された、とても自発的に一つに括れそうもない「縄文文化」に対して、
我々が持つのはあくまでも単一のイメージです。
それはダイナミックな魅力にあふれた火焔式土器や遮光器土偶のイメージであり
また三内丸山の予想以上に都市的だった縄文人のイメージです。
とはいえ、火焔式縄文土器は信濃川流域を中心とする4,5000年前の土器形式ですし、
遮光器土偶は縄文末期の北東北に限定されます。いずれもそれをもって全縄文文化を
語れるようなものではないのです。
地域限定・時代限定のものが1万年に及ぶ縄文時代、全日本に対して適用されるのは
どう考えてもおかしいのですが、我々は無意識のうちにそれを連想してしまいます。
中沢氏は知ってか知らずか、そうした我々の無意識の中にしか存在しない
「縄文という幻想」を使って東京の昔を語っています。
それは江戸時代の大阪商人がちゃきちゃきの江戸言葉を話していたり、
外国人が日本に対して「ハラキリ、ゲイシャ、サムライ、ジュードー」な
イメージを持つ(というのもそもそも、なイメージですが(笑))のと
同じ位おかしなことなのです。
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