東京地形散歩意外に起伏の多い東京の地形を撫で回します。
 
前項「アースダイバー」の続き。

氏の「アースダイバー」には「縄文的思考」「縄文文化」、と
繰り返し繰り返し「縄文」という言葉が現れてきます。
この縄文という言葉の使われ方がどうにも違和感があって、
歴史や考古学における縄文文化とは別の、幻想としての「縄文」概念
なのではないかと思うわけです。

もっとはっきりいえば、氏の「縄文」は歴史的に正しくないと(^^;;

氏の使っている「縄文」という言葉の使い方にはたとえば下記のようなのがあります。

◎日本土着の伝統文化としての縄文
 「東日本のサムライは狩猟文化の中から出現してきたものとして、
  その伝統は縄文時代にこの列島に暮らしていた人々の世界にまで、
  深い根を下ろしているのである。」P21

◎始原的で、肉感的な、「湿った」文化としての縄文
 「縄文文化というのは、とことん『湿った文化なのである』。
  これにたいして、(中略)弥生の文化は、あきらかに『乾いた文化』を
  あらわしている。」P50


まず、そもそも「縄文文化」というのが何か、という点で氏は漠然と
世の中に流布している「縄文」へのイメージをそのまま使っているように見えます。

縄文時代というのは弥生時代より以前の縄文土器を使っていた時代で、
それ以前の土器を用いてなかった旧石器時代に続く時代です。

で、縄文文化というのは縄文時代の文化だからそう呼ばれるのですが、
そこに落とし穴があります。はたして、「縄文文化」という一つに括れるような
枠組みが実在したのか、ということです。

日本は狭いようでいて広い、即ち東西南北に長いので気候的にも多様であり、
文化的に単一の領域を設定するには慎重でなければなりません。
また、時間的にも縄文時代は長く、その間に気候変動は何度かありましたから
同じ場所で変化なく暮らしを続けていたとするのには無理があります。

実際、考古学での研究によれば日本列島内にはいくつかの地域的な文化領域が
想定されていて、時間的にも地理的にも多様な文化が花開いていたことが
わかっています。

たとえば東日本の縄文文化と西日本の縄文文化とは同じではないのです。

サムライの文化が縄文文化を引き継いでいて、西日本の文化が縄文文化を
引き継いでいないということではなしに、そもそも縄文時代から気質が
違っていたということだって考えられるのです。ツッコミ好きの縄文人とか。
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で、話をさらに一段進めると、そうした日本の中の多様な縄文文化は、
多様ではあってもひとつの枠組みの中に収まるような共通部分があったのか、

つまるところ北のオホーツク海方面や日本海を挟んだ沿海州、
さらに朝鮮半島や南の台湾や西の中国大陸との差異よりも
縄文内部の多様な地域文化間の差異は小さかったのか、という問題があります。

このあたりの話ははっきりした結論が出ているというわけでもないようです。
そもそも、そういう問題意識をもった研究がまだ蓄積が足りないのか、
彼我の研究の方法論に違いがあって比較がしづらいのか、いずれにせよ
「縄文文化」という枠組みの正当性についてはきっちり議論された結果ではなく
漠然とした前提として使われているに過ぎないもののように見受けられます。

縄文文化の地理的設定を見てもその辺りの事情が透けて見えてきます。
即ち、敗戦国日本において考古学研究者が行くことのできた領域であるところの
日本国領土=北海道・本州・四国・九州とその周辺島嶼こそが縄文文化の
設定領域なのです。

縄文文化が日本を長きにわたって覆っていたのではなく、日本領土という
事象の地平線の中だけを研究領域として設定したときに、そこに展開された
すべての事象を「縄文文化」と呼んだ、という全く逆の事情があったのでは
ないでしょうか。

そこでは周辺地域をも俯瞰して、日本列島の枠組みを越えて異なる文化が
存在していた可能性については考慮されず、国家の成立する1万年以上も前から
日本(=占領下日本の領土)は一つの文化によって括られていたとする
新しい神話としての縄文文化像の誕生する素地を見ることができます。

それは戦後日本が飛行機を作ることを禁じられてしまったことと同じように
狭い日本の中でしか活動することのできなくなった戦後考古学の哀しい姿の
残滓でもあるのです。
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一方、縄文時代の年代設定に話を移せば、「金属器以前、土器以降」ということ
以上の区分ではないようです。どちらかといえば「金属器以前」は
「稲作以前」と言い換えた方が通りがいいでしょうか。

そうであるが故に少しでも古い土器のかけらが見つかればそれがどういう
ものであっても縄文時代の開始は遡りますし、古い稲作の遺跡が見つかれば
縄文時代の終焉(=弥生時代の開始)が自動的に遡るというわけです。

土器以外の要因はまるでないかのようですし、土器にしても縄文土器の
枠組み(というのがあるかどうかすらわかりませんが)に収まっているかどうかすら
関係なしに、です。少なくとも初期の土器は縄文がついてもいないですし。

そうした、地理的には「戦後日本の領土」、時代的には「稲作以前土器以降」という
外枠だけは設定された、とても自発的に一つに括れそうもない「縄文文化」に対して、
我々が持つのはあくまでも単一のイメージです。

それはダイナミックな魅力にあふれた火焔式土器や遮光器土偶のイメージであり
また三内丸山の予想以上に都市的だった縄文人のイメージです。

とはいえ、火焔式縄文土器は信濃川流域を中心とする4,5000年前の土器形式ですし、
遮光器土偶は縄文末期の北東北に限定されます。いずれもそれをもって全縄文文化を
語れるようなものではないのです。

地域限定・時代限定のものが1万年に及ぶ縄文時代、全日本に対して適用されるのは
どう考えてもおかしいのですが、我々は無意識のうちにそれを連想してしまいます。

中沢氏は知ってか知らずか、そうした我々の無意識の中にしか存在しない
「縄文という幻想」を使って東京の昔を語っています。

それは江戸時代の大阪商人がちゃきちゃきの江戸言葉を話していたり、
外国人が日本に対して「ハラキリ、ゲイシャ、サムライ、ジュードー」な
イメージを持つ(というのもそもそも、なイメージですが(笑))のと
同じ位おかしなことなのです。
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「縄文」というイメージにはいろいろと問題があり、「アースダイバー」が
無批判にそうしたイメージに乗っかっているという話をしました。

そこまでであれば、別に歴史の本でもないんだし、イメージの中の縄文をいじって
あれこれ随想する分にはぶつぶつ文句たれることもないのですが、
そもそも間違っている点がいくつかあったのでこれは指摘を
しておきたいと、歴史好きとしては黙っていられないわけです(笑)。

■「湿った」縄文文化
 P49の「水と蛇と女」の後半部分になると氏の想像ともなんともいえない
縄文文化と弥生文化の対比がされていて、縄文文化は「湿っている」と
断じられてしまっています。

#あくまでイメージなのだから、突っ込むだけ野暮というものですが・・・

それはさておき、この東京の襞々、複雑に入り込んだ谷筋という湿地帯に
人間が降りてくるようになるのは弥生時代、稲作にともなう土木技術が
発達してからのことです。

「弥生的な文化は、蛇や蛙を嫌う。湿地帯に住むことを好まない。」

と氏は書いていますが、まったく逆ですね。
狩猟や植物採集を基礎としていた縄文以前の暮らしでは水場が近くにある
高台に住むというのが基本ですから、湿地帯に住むことを「好んで」
いるということはありません。

もちろん、海進器には谷筋深く入り込んできていた海を食物獲得の
場として膨大な貝塚を生み出していたのは確かですが、それにしたって
湿地帯に住んでいたわけではありません。

湿地帯に住むには排水設備を整備して水を引かせる技術が必要であり
同時に水をコントロールして水田耕作をする技術があってはじめて湿地帯は
人間にとって有用な生活地域となったのでした。

「高い温度で薄手の土器を焼き上げる弥生の文化は、あきらかに『乾いた
 文化』をあらわしている。」

?!

「弥生的な文化は(中略)『湿った』肉体的なもの・エロチックなものを
 見下す傾向がある」

うーん。

察するところ、
縄文=始原的で肉体的で豊穣で奔放な、人間の根本に近い文化
弥生=文明的で理性的で儀礼的で建前的な、表層的な文化
という対置をさせたいのでしょうか。

はっきりいって、そりゃぁ無理ってもんです。

「縄文」と「弥生」という構図は、近代に入ってから起きた、
幕末・明治期の「日本文化」と「西洋文化」、敗戦・占領期の
「日本文化」と「米国文化」という形で繰り返された構図の
先史時代への投射でしかないのであって、実際のところ
対置しなきゃいけないほどの画期であったかというのは疑問です。

和魂洋才の和魂のご先祖様が縄文だ、というのは話としては
わかりますが、縄文文化も弥生文化も単純に一つには括れるものでは
ない以上、無理にくっつけなくても思うのですが・・・。
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野暮だなぁ、野暮だ、と思いつつ・・・

とかく中沢氏は古代、あるいは縄文時代と現在を直結してしまって
その間の歴史をすっとばしてしまう(かろうじて中世の中野長者の
話は出てきますが・・・)んですが、その間の時代にも歴史というものは
あるわけです。

■溜池近辺
P110
「池に突き出た岬には、きまって古代からの聖地があった。そこには
 山王日枝神社や豊川稲荷がある。」

日枝神社はもともと今の皇居にあったものを江戸幕府開府に伴う
江戸城整備の一環でこの地に移したもの。豊川稲荷は江戸時代は
今とは246号を挟んで反対側にあった武家屋敷の屋敷神。
古代からそういう場所に何かが祀られること自体はよくある
けれど、ここがそうだったかどうかは想像の域を出ません。

古代まで遡らずとも、中世の東京都区部における寺院、神社の分布と
地形の関係については「豊島氏とその時代」という本が下記のような
図が掲載されていてお勧めです。

見るとわかるように岬に限らず高台に神社や寺院などの施設が設置
されてます。



豊島氏とその時代―東京の中世を考える

新人物往来社

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また、旧石器時代から近現代に至るまで、どのような遺跡が把握されているか、に
関しては下記のサイトが参考になります。

東京都遺跡地図情報インターネット提供サービス

■稲荷
P158
「イナリという神様は、死者の国の護り神で、東京の場合だと、
 稲荷の建っているところはたいてい古代の埋葬所に関係が
 あるとにらんで、まず間違いがない」

待て。「伊勢屋、稲荷に犬の糞」とうたわれた位江戸に数多くある
稲荷のことを言ってるわけじゃないですよね。

それはさておき、「古代の埋葬所」というのは古墳とか横穴墓の
ことでいいのでしょうか。一般大衆の場合、谷筋に放り込んで
終わり、なんてことも普通にあったようですから。

遺体の送り場となった緑深い谷筋には地獄谷とも樹木谷とも言われ、
東京にもいくつかあります。湯島天神裏とか、千代田区の番町とか。
確かに聖地かも知れませんが、イナリに関係しているのかどうか。

ちなみに湯島天神裏は地獄谷を挟んで妻恋稲荷があるので
ここに関してはあっていますね→地獄谷
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つらつらとあげつらってしまいましたが、それでも十分この本は面白く、
特に巻末のアースダイビングマップは秀逸です。これだけのものが2000円
しないで手に入るのですからお買い得といえます。

第5章「湯と水」で語られる地下鉄と熱海温泉の由来書のエピソードには
地下鉄の淫靡さをあらためて認識させられました。エロいな、地下鉄。

あと、御田八幡の裏手にひっそりとある稲荷社(P146, P156)、あれは
怖いです。「死の香り」であるかどうかはともかく、絶対なんか出てます(^^;;


でもやばそうなお稲荷さんってのはいくつかあって、
白金は東京大学医科研の脇の崖下にあるお稲荷さんとか、


神谷町近辺の女化稲荷(おなばけいなり)なんて絶対夜近づきたくないです(笑)


これなんか、通り一つ挟んだ向かいには愛宕グリーンヒルズが建ってますからね。
あまりに対照的なので(昼間なら)お勧めです(^^;;

いずれも台地の縁辺部の崖に建っていますが、こういう雰囲気を
「死の香り」というんでしょうか・・・

まぁ、単に荒れているからってだけでしょうが。

それに対して丸山古墳脇のお稲荷さん、あれはいいお稲荷さんでした。
また別の機会に・・・
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