東京地形散歩意外に起伏の多い東京の地形を撫で回します。
 
「縄文」というイメージにはいろいろと問題があり、「アースダイバー」が
無批判にそうしたイメージに乗っかっているという話をしました。

そこまでであれば、別に歴史の本でもないんだし、イメージの中の縄文をいじって
あれこれ随想する分にはぶつぶつ文句たれることもないのですが、
そもそも間違っている点がいくつかあったのでこれは指摘を
しておきたいと、歴史好きとしては黙っていられないわけです(笑)。

■「湿った」縄文文化
 P49の「水と蛇と女」の後半部分になると氏の想像ともなんともいえない
縄文文化と弥生文化の対比がされていて、縄文文化は「湿っている」と
断じられてしまっています。

#あくまでイメージなのだから、突っ込むだけ野暮というものですが・・・

それはさておき、この東京の襞々、複雑に入り込んだ谷筋という湿地帯に
人間が降りてくるようになるのは弥生時代、稲作にともなう土木技術が
発達してからのことです。

「弥生的な文化は、蛇や蛙を嫌う。湿地帯に住むことを好まない。」

と氏は書いていますが、まったく逆ですね。
狩猟や植物採集を基礎としていた縄文以前の暮らしでは水場が近くにある
高台に住むというのが基本ですから、湿地帯に住むことを「好んで」
いるということはありません。

もちろん、海進器には谷筋深く入り込んできていた海を食物獲得の
場として膨大な貝塚を生み出していたのは確かですが、それにしたって
湿地帯に住んでいたわけではありません。

湿地帯に住むには排水設備を整備して水を引かせる技術が必要であり
同時に水をコントロールして水田耕作をする技術があってはじめて湿地帯は
人間にとって有用な生活地域となったのでした。

「高い温度で薄手の土器を焼き上げる弥生の文化は、あきらかに『乾いた
 文化』をあらわしている。」

?!

「弥生的な文化は(中略)『湿った』肉体的なもの・エロチックなものを
 見下す傾向がある」

うーん。

察するところ、
縄文=始原的で肉体的で豊穣で奔放な、人間の根本に近い文化
弥生=文明的で理性的で儀礼的で建前的な、表層的な文化
という対置をさせたいのでしょうか。

はっきりいって、そりゃぁ無理ってもんです。

「縄文」と「弥生」という構図は、近代に入ってから起きた、
幕末・明治期の「日本文化」と「西洋文化」、敗戦・占領期の
「日本文化」と「米国文化」という形で繰り返された構図の
先史時代への投射でしかないのであって、実際のところ
対置しなきゃいけないほどの画期であったかというのは疑問です。

和魂洋才の和魂のご先祖様が縄文だ、というのは話としては
わかりますが、縄文文化も弥生文化も単純に一つには括れるものでは
ない以上、無理にくっつけなくても思うのですが・・・。
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