東京地形散歩意外に起伏の多い東京の地形を撫で回します。
 
春日通を稜線とする台地と小石川植物園のある台地との間にはかつて谷端川、
または小石川/礫川(砂利の多いことから名付けられた)が流れていました。
川の流れはさらに下って水道橋のあたりで神田川と合流して大手町の
江戸湾奥にかけて大沼沢地帯を形成していました。
江戸時代の前、中世の頃の話です。

イメージしやすいように時計の針を何千年か巻き戻して、
10メートルくらい東京を水に沈めてみましょう(^^)。



この状態から時間をかけて徐々に陸化した谷筋が弥生時代に入って
水田として開発され始め、農村地帯として発達していく歴史が
連綿と江戸時代に至るまで続いていくわけです。

江戸時代から400年かけた開発の結果、アスファルトとビル群によって
地上を埋め尽くされた現在の東京があるのですが、
ここ小石川にある植物園は往時をしのぶことのできる地形が
生き残っている数少ないスポットの一つです。



また植物園内には湧水スポットがあり、そこから流れ出した水により
生み出されたいくつもの池が連なっています(庭園として整備されていますが)。
そのもっとも北にある水源地(⑯)には現在は植物園の北隣にある(⑳)
簸川(ひかわ)神社が祭られていました(幕府により移転させられて、
今はお稲荷さんが祭られている)。

小石川村の鎮守である簸川神社は元々氷川神社であり、氷川は出雲の簸川
(斐伊川)であることから明治に入って表記を改めたものです。
氷川神社は大宮台地周辺の埼玉県東部に特に集中して分布する地域性の
高い神社で、水源地に祀られることの多い、水田・利水と結びつきの深い
神社グループ(^^)です。その分布は古代関東の政治状況を繁栄しているとも
言われていますが、はっきりしたことはわかりません。

今は植物園の外に出されてしまった氷川(簸川)神社はその分布域の中でも
だいぶ南に位置するもののうちの一つです。

一方、仏教的には植物園の反対側、南の小石川台地に中世から続く
「光円寺(⑩)」「宗慶寺(⑬)」「善仁寺(⑪)」そして「伝通院(⑨)」が
あります。

鎌倉時代から続く古刹であり阿弥陀如来を祀る善仁寺と薬師如来を祀る
光円寺とは、二つの寺の間を通っていた中世の幹線道路である鎌倉街道を
挟んで聖なる対をなしていました。光円寺と宗慶寺もまた、
湧水(極楽水(⑫))(宗慶寺)と、大銀杏(写真)(光円寺)が対を
なしていたといいます。

この湧水と大銀杏のセットは麻布十番にある浄土真宗の大寺・善福寺にも
見ることができます。中世においては小石川は浄土真宗の地方拠点の
一つであったと言えるようです。

残念ながら今回見に行ったら極楽水は枯れ果てて(あんな建物建てたら
水脈も断ち切られるよなぁ・・・)、大銀杏の方は写真のように巨大な
幹こそ残ってはいるものの、生きているのは一部新しく生えてきた
部分だけの有様です。

伝通院は室町時代、宗慶寺の場所にあった小石川談所が元となっています。
小石川談所は東国における浄土宗の大寺、増上寺(当時は紀尾井町付近に所在)の
別院として存在していました。江戸時代に入って家康の母(伝通院)が
埋葬されますが、初代将軍の母の墓所としての威容を整えるために
場所を移し大伽藍を整備したのが今の伝通院です。

その後、談所の跡に残された寺に阿茶の局が葬られたことからその法名を
とって今の宗慶寺になりました。この宗慶寺、簸川神社の別当(管理役)を
務めており極楽水といい湧水と縁の深い存在といえます。
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