李大統領「独島は韓国領土」、実効支配の強化へ(聯合ニュース) - goo ニュース
>李明博(イ・ミョンバク)大統領は1日の記者会見で、日本政府が独島の領有権を主張していることに対し、
>「世の中がひっくり返っても独島は韓国の領土」と述べた。
>「大統領として言葉を慎んでいるだけで、気持ちは国民と一緒」
なるほど。
日本の主権回復が本格化した年(主権回復は、この年の4/28)の1月である、
1952年(昭和27年)1月18日に自国の支配下にあると一方的に宣言した、大韓民国大統領李承晩と何ら変わらないと云う事を公言されたわけです。
実は韓国、占領すると同時に近海を含む李承晩ラインを設定し、
1965年(昭和40年)6月22日の日韓基本条約締結までに韓国により、このラインを越えたことを理由として日本漁船328隻が拿捕され、
日本人44人が殺傷されています。
また3,929人が抑留されており、これは、日韓基本条約の時の交渉に使われたとも言われます。
つまり、人質となったわけですね。
さらに、海上保安庁巡視船への銃撃等の事件は15件におよび16隻が攻撃されているのですが、
なにか、日本国内でも同じような事があった気がします。
直江津駅リンチ殺人事件なんて、ご存知の方のほうが少ないですよね。
>1945年12月29日午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄信越本線黒井駅に到着した。3人組の在日朝鮮人の男が列車に乗車しようとしたが、
満員のため乗車することが出来なかった。
>
そこで列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある乗客に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。
>直江津駅に到着すると、彼等を阻んだ乗客(当時29歳のセールスマン)に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄り、
>「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、
>
「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!」と叫び、その乗客を引きずり降ろした。
>直江津駅のホームで、3人組は駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して乗客に襲い掛かり、メッタ打ちにした。乗客は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。
赤いところだけ読むと、実に彼らの行動パターンが解りやすく見えてきます。
俗に言われる朝鮮進駐軍ですが、Wikiの項目は削除されたので有名でしょうが、
だからといって、朝鮮人の戦後における火事場泥棒的行動事態が無かったという事ではないという一例かも知れません。
これ以外にも主な事件一覧を作ると以下の通り。
読む方も大変かと思いますが、簡単にフリー百科事典のウィキペディアなどから拾い出し簡単にまとめるだけででこんな数で、こんな内容なのです。
そのウィキに関しても、続々と色々な理由で修正や削除が入り、人々が知りえないようにする努力が日々なされているのが現状です。
事件化されなかった話や、出来なかった話が、現状の事件捜査から見ればその何倍、何十倍あったかと考えれば、気が遠くなる話であります。
これだけの騒ぎを起こした人間たちが、さも普通の人間の顔をしながら平然と暮らしているこの現状。
統計的に見ても、その行動パターンが、
悪いことをする⇒注意される⇒逆切れする⇒相手が悪いことにしようと努力するw
弱い者には居丈高に強いものには卑屈にでほぼ統一されている様が一目瞭然となります。
これは個人も国も垣根ない話なのかもしれません。
では気の遠くなる1万文字を優に超えるツアーでございますが、幾許か皆様の役に立つことを願いながら以下に纏めて行きます。
大阿仁村事件(1945年10月22日)
>阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、
>約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の秋田県北秋田郡阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し栗を拾っていた所を村人に発見され注意したところ乱闘となり、
>村人3名が重傷を負った。 午後1時になると約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した事件。
生田警察署襲撃事件(1945年12月24日、1946年1月9日)
>現在の兵庫県神戸市中央区にある生田警察署が在日朝鮮人(当時は法的には朝鮮半島は日本の領土)からなる暴徒によって襲撃された事件。
富坂警察署襲撃事件(1946年1月3日)
>連続拳銃強盗事件の容疑者として逮捕した在日朝鮮人3人を奪還しに警察官の制止を振り切って約80人の朝鮮人が署内に乱入、奪還後、戦後のどさくさでお蔵入りとなった事件。
長崎警察署襲撃事件(1946年5月13日)
>闇物資の取り締まりで日本人150人、朝鮮人26人、中国人6人を検挙、長崎警察署に連行したところ、朝鮮人連盟や中国人団体が長崎警察署に押しかけて、被疑者の即時釈放を要求。
>署長が取調前の釈放はできないと拒否したところ、午後2時30分頃になると、朝鮮人や中国人など総勢約200人がバッドや鉄棒を持って長崎警察署を包囲・襲撃。
>これにより警察官1人が死亡、10人が重軽傷を負った事件。その後、朝鮮人、中国人は余勢をかって東浜町派出所や港町派出所も襲撃し、警察官に対し暴行を加えた。
富山駅前派出所襲撃事件(1946年8月5日)
>1946年8月5日午後6時50分頃、富山駅において闇米取り締りを実施し、朝鮮人3人を検挙したところ。それを見ていた朝鮮人2人が妨害し、3人を逃走させた事件。
>そのため自治隊員2人を公務執行妨害罪で逮捕し、富山駅前派出所に連行したところ、朝鮮人約30人が包囲し険悪な雰囲気となった。
>署に救援を頼んだが、その前に大乱闘が発生。その直後に、救援隊が駆けつけて朝鮮人たちを実力で排除した。この乱闘で警察官1人が負傷。
坂町事件(1946年9月22日)
>終戦直後より在日朝鮮人や在日中国人は、取締権限の不明確さに乗じて公然と日本の法律を無視し、ヤミ米販売などの経済統制違反を繰り返していた。
>新潟県北部では、在日本朝鮮人連盟が新発田市に事務所を置き、羽越本線坂町駅を中継基地として、ヤミ米を関西方面に出荷していた。
>当時、1日あたり50俵が坂町駅を経由したといわれている。
>1946年9月22日午前0時50分頃、その闇米を取り締まろうとした村上警察署の署員に暴行を繰り返し組織的に加えた事件。
>その後、進駐軍の新潟軍政部の係官より、朝鮮人・中国人に対して
>「日本に在住している限り、日本の法律に服さなければならないこと」、「警察官のヤミ米取締を拒むことは、連合国の指令に反するものであること」を言い渡された事により、
>警察は断固とした取締りが可能になり、12人が検挙された。
>なお、この事件を報じた報道機関が、朝鮮人に破壊活動を受ける新潟日報社襲撃事件へと発展した。
新潟日報社襲撃事件(1946年9月26日~29日)
>1946年9月23日付の新潟日報夕刊は、「MPも出動、坂町で深夜の乱闘」と題して、
>在日朝鮮人や在日中国人が新潟県岩船郡保内村(現・村上市)内で起こした坂町事件の記事を読売新聞と共に掲載したところ、
>1946年9月26日、在日本朝鮮人連盟などの朝鮮人16人が新潟日報社を訪れ、新潟日報社と読売新聞社の両社に対して、
>「坂町事件の報道に誤りがあると認め、ラジオ放送を通じて新潟県民に誤報であったという声明を出せ」と要求。
>読売新聞はその後、彼らに屈したが、新潟日報社は「警察の調査結果をまって善処する」と答え、彼等の要求を拒んだため、
>朝鮮人側は憤慨し、茶碗を投げつけたのを合図に一斉に暴れだし、社内の備品を破壊した事件。
>新潟警察署は、朝鮮人らを暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕。
首相官邸デモ事件(1946年12月20日)
>1946年(昭和21年)12月20日に東京都麹町区(現・千代田区)で発生した朝鮮人による暴動。
>1946年11月10日に、在日朝鮮人は在日朝鮮人生活権擁護委員会を結成し、朝鮮人に対する生活物資の優先配給を行政機関に要求。
>同年12月20日に皇居前広場で「朝鮮人生活権擁護全国大会」を開催。
>午後1時30分、「朝鮮人虐殺政策絶対反対」「吉田内閣は日本の敵だ」といったプラカードを掲げてデモ行進を開始。
>午後2時頃に首相官邸前に差し掛かると、突如警察官の制止を無視して官邸正門前に殺到し首相官邸に侵入した事件。
>午後2時30分頃にアメリカ軍憲兵隊が出動し、まもなくデモ隊全員を解散させた。
>この事件で、警察官23人が重軽傷を負い、拳銃2丁が奪い取られた。
尾花沢派出所襲撃事件(1947年10月20日)
>1947年(昭和22年)10月20日に、山形県北村山郡尾花沢町(現尾花沢市)で警察によるヤミ米摘発の鬱憤を晴らすべく朝鮮人7人が派出所の襲撃を計画し発生した事件。
>前述の朝鮮人7人と他の朝鮮人30人が派出所を取り囲み暴行を働いた。楯岡警察署は隣接の新庄警察署や進駐軍の応援も得て、29人を逮捕。
阪神教育事件(1948年4月23日~25日)
>1948年(昭和23年)4月14日から4月26日にかけて大阪府と兵庫県で発生した在日朝鮮人と日本共産党による民族教育闘争、逮捕監禁・騒乱事件。
>阪神教育闘争とも呼ばれる。GHQは、戦後唯一の非常事態宣言を布告した。
>1947年(昭和22年)10月、連合国軍最高司令官総司令部総司令官ダグラス・マッカーサーは、
>日本政府に対して、「在日朝鮮人を日本の教育基本法、学校教育法に従わせるよう」に指令。
>それに伴い、1948年1月24日、文部省学校局長がいわゆる朝鮮学校閉鎖令を通達したところ、
>同年1月27日、朝連は第13回中央委員会を開催し、朝鮮学校閉鎖令に対し反対を表明。
>さらに、「三・一独立運動闘争記念日」に合わせて、民族教育を守る闘争を全国で展開するように扇動。
>1948年4月23日9時、大阪府大阪城前の大手前公園で、朝鮮人学校弾圧反対人民大会が開催された。
>集会には、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余が集結。
>12時30分、大阪府庁知事室に朝鮮人代表者16人が押しかけ交渉。副知事が対応。(知事は当日不在だった)
>15時、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余の中から、シュプレヒコールが起こり。
>50人余の青年が、行動隊を編成し、スクラムを組んで、大阪府庁前の阻止線を突破。
>15時30分、行動隊に続いて、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人など7000人余も、大阪府庁に突入。3階までの廊下を占拠。
>17時ごろ、群集は知事室になだれ込んだ。それから、群集はドアや調度品を破壊。
>日本共産党大阪地方委員会に派遣されていた増山太助は、川上貫一衆議院議員とともに、知事室に駆けつけたもののなすすべなく乱暴狼藉を止められず。
>夜、大阪城周辺の各所で、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人は、篝火を焚いた。
>朝連は、川上貫一を代表として交渉の場を作ろうとしたが、アメリカ軍が到着し、さらに、武装警官も到着した。
>その後、在日朝鮮人や日本共産党関西地方委員会の日本人らは、武装警官隊と乱闘となった。在日朝鮮人1人が死亡し、在日朝鮮人20人が負傷。
>一方、警官31人も負傷したが179人が騒擾罪で検挙。
>4月25日、朝連や日本人約300人が、大阪南警察署に押しかけ、逮捕者の釈放を要求したが、警官隊は、約300人に向けて威嚇射撃を行い、追い返した。
>4月26日、朝連は、大阪東成区や旭区などで、朝鮮人学校弾圧反対人民大会を開催。
>午後、朝鮮人代表者と大阪府知事との間で再度交渉が行われたが、
>15時40分、別室に待機していた大阪軍政部のクレーグ大佐が、交渉の中止と、大手前公園に集結していた在日朝鮮人2万人の解散を指示。
>在日朝鮮人1600人のデモ隊が、再び大阪府庁に向かい、武装警官隊の阻止線で、投石を開始。
>武装警官隊は、消防車に放水をさせ、デモ隊に突入。警官隊はデモ隊に向けて拳銃で発砲。その結果、在日朝鮮人金太一が死亡。
>検挙者は軍事裁判にかけられ、日本人9人と在日朝鮮人8人が、重労働4年以下の判決を受けた。
>阪神教育闘争の指導者の一人であった朴柱範は、逮捕・投獄され、釈放された直後に死亡。
>事件解決後、大阪市警察局は、アメリカ陸軍第25師団司令部より感謝状が贈呈された。
>1948年4月10日、兵庫県県知事・岸田幸雄は、朝鮮人学校に対して封鎖命令を下令。
>4月14日、朝連は、兵庫県庁を訪れ、岸田との交渉を要求。
>4月23日、警官隊とMPは、朝鮮人学校灘校と東神戸校を封鎖。
>4月24日、朝鮮人学校灘校と東神戸校の封鎖に抗議する在日朝鮮人や日本人が、兵庫県県庁前に集結。
>9時30分、兵庫県庁知事室で、岸田、神戸市市長・小寺謙吉、検事正ら15人は、朝鮮人学校閉鎖仮処分執行問題と、在日朝鮮人の抗議集会対策を協議。
>朝連は兵庫県知事室での密談の情報を入手し、約100人の在日朝鮮人や日本人が兵庫県庁内に突入、知事応接室を占拠して備品などを破壊した後、
>壁を打ち破って知事室になだれ込み、岸田幸雄やMPを監禁。
>在日朝鮮人や日本人約100人は、電話線を切断して外部との連絡を絶ち、
>「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などを岸田幸雄に要求。
>17時、岸田は、「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」を誓約。
>22時、岸田、吉川兵庫県副知事、市丸検事正、田辺次席検事、出井兵庫県警察長、古山神戸市警察局長らは、占領軍兵庫県軍政部に集められた。
>3時、兵庫県軍政部は「非常事態宣言」を発令。これによって、全警察官はアメリカ軍憲兵司令官の指揮下に。
>兵庫県庁への乱入者の徹底検挙が命じられ、
>岸田幸雄が誓約した「学校閉鎖令の撤回」「朝鮮人学校閉鎖仮処分の取り消し」「朝鮮人学校存続の承認」「逮捕された朝鮮人の釈放」などは、
>強制による誓約としてすべて無効とされた。
>4月25日早朝、アメリカ軍憲兵や日本警察官は、兵庫県庁への乱入者を検挙し始め、4月28日、非常事態宣言が解除された。
>4月25日から4月29日までに、1590人もしくは7295人[1]が検挙された。日本共産党神戸市市議会議員・堀川一知も検挙された。
>主だった者を、拘留し、23人を軍事裁判にかけたが、日本人は堀川のみで、重労働10年の判決を受けた。
>在日朝鮮人は、最高重労働15年の判決が出され、刑期終了後は本国に強制送還されることになった。
評定河原事件(1948年10月11日~12日)
>日本を占領統治していたGHQによる、北朝鮮国旗の掲揚を禁止に反対する一団を検挙した事件。
宇部事件(1948年12月9日)
>約200名の朝鮮人が宇部市民会館に参集し生活擁護人民大会を開催していた際に、在日本朝鮮人連盟山口県本部委員長(当時手配中)を進駐軍憲兵および警察隊が逮捕した結果、
>大会参加者は集団的に同被疑者を奪還しようとして警察側と衝突し、双方に多数の負傷者が出る騒ぎとなった事件。
益田事件(1949年1月25日)
>島根県美濃郡益田町(現在の益田市)の朝鮮人集落において密輸入物資が隠匿されているとの密告に基づき、
>進駐軍島根軍政部将校2名と経済調査官2名が同行して摘発に乗り出したが、拒否されたため、警察官10名が応援して違反物資を押収したところ、約100名の朝鮮人に奪還された事件。
>翌日、被疑者9名を検挙したが、夜に入って約200名が警察署に押しかけて被疑者の釈放を要求し、署内に侵入しようとしたために、警察官と乱闘になり48名が検挙。
枝川事件(1949年4月6~13日)
>1949年(昭和24年)4月6日から4月13日にかけて東京都江東区枝川で発生した事件。
>月島警察署は管内で発生した被害総額260万円にも及ぶ集団窃盗事件の容疑者2人を逮捕。
>取調べの結果、主犯が朝鮮人で今なお逃走中であることが判明、1949年4月6日に、主犯が東京都江東区枝川(朝鮮人地区として有名)に潜伏していることを突き止め、
>同日午後に捜査員3人が検挙に向かったところ、当初別人を主張していた主犯は逃走。
>その後逮捕に至ったものの、それを見ていた約40人の朝鮮人が「仲間を殺したやつは殺してしまえ」と捜査員2人に襲い掛かり、
>殴る蹴るの暴行を加え重軽傷を負わせた上に在日朝鮮人連盟の施設に連行。
>応援部隊が在日朝鮮人連盟の枝川支部に急行したが、激しい抵抗にあい、警察側に負傷者を続出させた。
>その後、13日に一斉捜査が行われ、容疑者5人が逮捕された。4月19日までに更に10人が逮捕。
高田ドブロク事件(1949年4月7日~11日)
>1948年秋頃から新潟県中頸城郡中郷村(現・上越市中郷区)と中頸城郡新井町(現・妙高市)の朝鮮人集落で、大規模な密造酒の醸造が行われていることを地元警察が察知。
>1949年4月7日午前6時頃、取締部隊は朝鮮人集落に到着し一斉取締を行ったところ、
>午前10時40分頃から朝鮮人たちが高田市警察署に集結し始め、正午頃になると200人に膨れ上がり、検挙者の釈放を要求。
>警察側が断固拒否したため、警察署に向かって投石。
>4月8日も朝鮮人約200人が警察署前に集結し、釈放を要求。
>4月9日正午、一人の朝鮮人女性が高田税務署に現れ、一人であったことから税務署を警備していた警察官も、一般の利用者と思って油断していたところ、
>あっという間に14~15人の朝鮮人女性が集まり、署長との面会を要求。
>警備の警察官が退去を勧告したところ、「人殺し」と叫び座り込みをはじめた。
>午後1時になると多くの朝鮮人男性が押しかけ、税務署内に突入しようとしたので、小競り合いになり双方に負傷者を出した。
>4月10日、検挙者の自供により、高田市(現・上越市)においても密造酒の醸造が行われていることが判明したため、在日朝鮮人連盟信越支部などを家宅捜査。
>4月11日、約500人もの朝鮮人が高田市に集結、デモ行進。
>彼らは市民に対して「警察が朝鮮人に対して不当な弾圧を加えている」「放火して高田市を灰にする」などと叫び牽制。
>ここに至り、警察もデモの首謀者12人を検挙したため、この事件は収束。
本郷村事件(1949年6月2日~11日)
>本郷事件(ほんごうじけん)とは、1949年(昭和24年)6月2日に、福井県大飯郡本郷村(現・おおい町)で発生した朝鮮人による暴行事件。
>1949年6月2日、国家地方警察福井県本部若狭地区警察署の本郷派出所の警察官が朝鮮人地区の地図を作成したことについて、在日本朝鮮人連盟の幹部が抗議。
>幹部は一旦戻り、在日朝鮮人70人を引き連れて、派出所を包囲。そして中の警察官に暴行を加え、そのまま居座り続けた。
>若狭地区警察署は署員を急派したが、なおも居座り、6月4日になってようやく解散した。
>朝鮮人側は「暴行警察官の罷免」「被害者に対する損害賠償」「朝鮮人に対する謝罪」「朝鮮人問題については、事前に朝連と連絡協議をすること」
>などを要求。警察は6月10日に朝鮮人2人を逮捕するために現地に向かい、待ち構えていた朝鮮人200人による、投石や糞尿の投げつけによる妨害を強行突破し、2人を予定通り逮捕した。
>その後朝鮮人たちは、「民族弾圧、ファッショ警察の再現」と叫んで警察署前に居座ったり、「ファッシズム国警若狭地区警察の真相」と題するビラをばら撒くなど示威行動を続けた。
台東会館事件(1950年3月20日)
>台東会館事件(たいとうかいかんじけん)とは、1950年(昭和25年)3月10日・3月20日に、東京都台東区で発生した在日本朝鮮人連盟接収施設妨害公安事件。
連島町事件(1950年8月15日)
>連島町事件(つらじまちょうじけん)とは、1950年8月15日に日本で発生した事件。
>岡山県浅口郡連島町(現在の岡山県倉敷市)で、朝鮮解放5周年を祝って約700名の朝鮮人が集まり、集会を強行したため、
>制止しようとした警察と乱闘になり8名を検挙。この事件で警察官15名が負傷。
第二神戸事件(1950年11月20~27日)
>1950年11月20日午後1時、約200人の朝鮮人が神戸市長田区役所に押しかけ「市民税免除」と「生活保護の徹底」を要求。
>しかし区長がこれを認めなかったため、区長を軟禁状態にして騒ぎ出した事から、神戸市警察が直ちに出動、30人が逮捕。
>11月24日午前11時、約300人の朝鮮人が再度長田区役所に押しかけ、区長との面談を要求。
>区長が拒否したため、朝鮮人たちは区役所に乱入し、窓ガラス等を破壊した上、出動した警察官に対しても暴力を振るったため、不退去罪の現行犯として26人が逮捕。
>11月27日朝、長田区にある西神戸朝鮮人学校に千数百人の朝鮮人が集結、神戸市警察は全警察官を総動員して対処。
>朝鮮人は投石用の石や棍棒を用意するなど不穏な状勢となったため、正午頃に解散を命じたが、「犬め、殺してやる」「貴様等人民裁判にかけてやる」と暴言を吐いて命令を無視、
>午後3時20分頃には、学校から出てデモ行進を開始。
>警察は神戸市電湊川大橋停留所付近で検挙を開始したが、デモ隊は激しく抵抗。約60人が逮捕。
>その残党は新湊川沿いに北上、長田区役所や長田税務署を襲い、窓ガラスを割るなどし、最終的に179人が逮捕された。
四日市事件(1951年1月23日)
>四日市事件(1951年1月23日)は、旧朝連四日市支部を接収しようとしたところ、
>居合わせた朝鮮人約20名が、器物やガラスの破片を投げつけたり、灰・唐辛子による目潰し攻撃をしたり、濃硫酸を浴びせて接収の妨害を行った事件。
>そのため、執行係官7名が全治2~3週間の重軽傷を負った。警察が出動して公務執行妨害容疑で15名を検挙。
王子朝鮮人学校事件(1951年3月7日)
>1951年2月23日、蒲田警察署は占領目的阻害行為処罰令違反容疑で、東京都立朝鮮人中高等学校(今の東京朝鮮中高級学校)の生徒1人を検挙。
>捜査の結果、当時のGHQが禁止していた「新朝鮮」「前進」「朝鮮女性」等のいわゆる反占領軍的な印刷物を作成していたことが判明し、
>2月28日に同校を家宅捜査し、証拠物件を押収。
>しかし、翌日3月1日は三・一独立運動記念日であったため、朝鮮人たちは「不当弾圧」と激昂し、
>所轄の王子警察署に300人、隣の板橋警察署に400人、赤羽警察署に40人が押しかけて抗議。
>1951年3月7日当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。
>集会は午前10時から開始。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとしたところ、
>それを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊。
>応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃や警棒などが奪われた。
>警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、
>午後2時50分までに全員を校外に排除した。
>警察はこの事件で28人が重軽傷を負った。
神奈川事件(1951年6月13日)
>神奈川事件は、1951年6月13日に28人の在日朝鮮人が、公安条例違反容疑で検挙された事件。
>横浜市神奈川区にある青木小学校分校において、神奈川県朝鮮人学校PTA連合運動会が開かれていたが、参加者の一人が警備をしていた警察官に対して暴力をふるったため、
>公務執行妨害で検挙しようとしたところ、これを妨害しようとして大乱闘となった。これにより、双方ともに数名の負傷者を出した。
>運動会終了後、約500名の朝鮮人が横浜市警察本部に殺到し、玄関前でスクラムを組んで気勢をあげた。そのため、横浜市警は約1000名の警察官を動員し、公安条例違反容疑で28名を検挙。
下里村役場集団恐喝事件(1951年10月22日)
>昭和26年(1951年)10月22日、兵庫県加西郡下里村(現在の兵庫県加西市)において、
>在日朝鮮人約200名が、「生活保護」「強制送還反対」の陳情をするために下里村役場に押しかけた。
>そして村役場職員を吊るし上げ、椅子を振り上げる等の暴挙に出たので、国家地方警察兵庫県本部は暴行脅迫・恐喝容疑で15名を検挙。
福岡事件(1951年11月21日)
>「強制追放反対」を叫ぶ朝鮮人約1500名が、福岡市大浜新校地と西公園に分散して集合し、そのうち新校地の一隊が同市千代町へ向かってデモ行進。
>それを阻止しようとした警官隊と乱闘となり、16名が検挙。その後、解散に見せかけて、新校地に再結集し集会を開いたため、
>警官隊が解散を命じたが応じず、再度乱闘となり5名を検挙
半田一宮事件(1951年12月3日~11日)
>愛知県の半田税務署に密造酒取締の件で朝鮮人が押しかけ、署長以下数名を監禁。
>一方、一宮税務署管内でも密造酒取締に対して、約100名の朝鮮人が捜査を妨害。
>12月11日、これに抗議する朝鮮人約150名が半田市役所に押しかけ、庁舎内に乱入して警備の警察官ともみ合いになった。
>また名古屋市港区役にも約70名が押しかけ、区長が乗っている乗用車を取り囲み、バックミラーや方向指示器を破壊。
>他にも一宮税務署、一宮市警、名古屋市役所及び千種、北、瑞穂、南の各区役所にも朝鮮人が押しかけ騒乱となった。
日野事件(1951年12月18日)
>1951年10月18日午前11時30分、滋賀県蒲生郡桜川村(現・東近江市)に、在日朝鮮統一民主戦線や祖国防衛隊のメンバーが集結し、
>自転車にスピーカーを取り付けて自転車デモを行おうとした。滋賀県公安条例の届出を出していない違法デモであった。
>国家地方警察滋賀県本部蒲生東地区警察署では、これを制止しようとしたが、デモ隊は強行突破し、日野町内に侵入した。
>デモ隊は日野郵便局(現在の近江日野郵便局)前で「朝鮮人強制送還反対」「軍事基地化反対」などの演説を行った。
>その間、周辺在住の朝鮮人が集まり、ピケを張ったりバリケードを作ったりした。
>その後、警官隊に向かって投石したり、棍棒で襲い掛かったり、拳銃を奪ったりしたため、警察は、公務執行妨害罪で20人を検挙。
木造地区警察署襲撃事件(1952年2月21日~23日)
>当時、在日朝鮮人は祖国防衛隊を組織し、所感派が主導権を握る日本共産党の指令の下、全国各地で暴動を起こしていた。
>1952年2月21日、国家地方警察青森県本部木造地区警察署は、傷害容疑で在日朝鮮人2名を逮捕した。
>これに対し、在日朝鮮人数十人が検挙者の即時釈放を要求して連日署に押しかけ、2月23日には、在日朝鮮人約70名が署内への侵入を図って警備の警察官と揉み合いになり、
>警察署の玄関のガラス戸を破壊。
>また同日午後7時、応援に駆けつけていた弘前地区警察署の署員11人が、国鉄五能線木造駅を警備していたところ、在日朝鮮人に取り囲まれ、警棒を奪われる事件も発生。
多奈川町事件(1952年3月26日~30日)
>1952年3月26日未明、大阪地方検察庁・大阪国税局・国家地方警察大阪府本部の合同捜査チームは、多奈川町内の朝鮮人地区を急襲し、密造酒の検挙を行った。
>捜査員たちがドブロクや酒造器具などの証拠物件をトラックに積んで南海電気鉄道多奈川線多奈川駅に集結すると、
>朝鮮人約500人が押しかけ、大きな石を道路に置いたり、車のタイヤの空気を抜いたりして妨害した。
>合同捜査チームは、検挙は後日に譲ることにして何とか引き揚げた。その際、取材に来ていた毎日新聞社の記者が暴徒に襲われる事件が発生。
血のメーデー事件(1952年5月1日)
>1952年5月1日に東京の皇居外苑で発生した、北朝鮮旗を翻した朝鮮人を含む一部のデモ隊と警官隊とが衝突した騒乱事件。
>事件は一部の左翼団体が暴力革命準備の実践の一環として行われたものと見られている。
>なお、事件発生の5ヵ月後に行われた総選挙で日本共産党は全議席を失う。同水準の議席数を回復したのは1970年代のことであった。
大村収容所事件(1952年5月12日~25日、11月9日~12日)
>1952年5月12日、法務省は朝鮮人410人を韓国の釜山に強制送還したが、韓国政府は125人については引き取りを拒否し、日本に送り返した。
>これらの逆送還者は大村収容所に収容された。逆送還者は、韓国政府の逆送還で収容根拠を消失したと主張し、収容所からの即時釈放を要求。
>これに民戦が同調し、「逆送還者奪還闘争」が繰り広げられた。
広島地裁被疑者奪回事件(1952年5月13日)
>1952年5月13日午後2時55分から広島地方裁判所第二号法廷で勾留理由開示を開くことになっていた。
>対象となった被疑者は、4月30日と5月1日に、国警広島県本部安佐地区署古市町駐在所と民家に、それぞれ火炎瓶を投げつけて放火した容疑で逮捕された朝鮮人4人であった。
>勾留理由開示は予定通りに開廷されたが、傍聴席には多くの朝鮮人が陣取り、赤旗や北朝鮮旗が掲げられるなど異様な雰囲気での開廷であった。
>閉廷直前の午後5時20分、傍聴席の朝鮮人約200人が被疑者と傍聴者を分ける柵を乗り越え、被疑者に手錠をかけようとした看守を妨害して、被疑者4人を奪還した。
>広島地方裁判所の事務室には、万が一の時のために広島市警察の警察官約70人が待機していたが、現場に駆けつけたときには、既に逃走された後だった。
奈良警察官宅襲撃事件(1952年5月31日)
>5月31日、桜井町の奈良市警警備課巡査部長宅に約10名の在日朝鮮人が覆面姿で押しかけて戸を叩いた。
>巡査部長の父親が戸を開けたところ、いきなり暴行を加え意識不明の重体にした。そして窓ガラスや障子を破壊して逃走。
万来町事件(1952年5月31日~6月5日)
>万来町事件(ばんらいちょうじけん)とは、1952年6月5日に山口県宇部市で発生した暴動事件。
>当時、宇部市には約3100人の在日韓国・朝鮮人が居住しており、大半が生活保護受給者だったが、市当局は彼らが「日中ブラブラしていた」ことから、
>「潜在収入がある」として、生活保護費増額を見送っていた。
>朝鮮人側はこれに激昂し、1952年5月31日以降、連日宇部市福祉事務所に押しかけ、市職員を吊るし上げた。
>6月3日になると約400人に達したため、宇部市警察は全職員を動員して対処したが、朝鮮人側はその隙をねらって、留守中の上宇部派出所を襲撃。
島津三条工場事件(1952年6月10日)
>1952年6月10日午後4時頃、トラックに乗った祖国防衛隊所属の在日朝鮮人約50人が、京都市中京区にある島津製作所三条工場に押しかけ、守衛の制止を振り切って中に突入、
>破防法反対のアジ演説を行った。工場側の要請を受けた京都市警察堀川警察署の署員約15人が現場に急行、五十代くらいの朝鮮人が妨害したため、
>ただちに検挙し京都市警南部警邏隊のパトカーに収容した。
>その後、付近にいた朝鮮人約100人が騒ぎ出したため、パトカーはサイレンを鳴らして発進、春日通三条にさしかかったとき、
>多数の朝鮮人が前に立ちふさがり、車内に火炎瓶を投げ込んだ。
>パトカーはたちまち火の車となり、道を大きくそれて京都市バスの車庫に入り込み、バスに激突した。乗っていた8人の警察官は重軽傷を負った。
>検挙者も火傷を負ったが逃げおおせることに成功。
大須事件(1952年7月7日)
>中華人民共和国の北京で、日中貿易協定の調印式に臨んだ日本社会党の帆足計と改進党の宮越喜助の両代議士が帰国し、1952年7月6日に名古屋駅に到着した。
>両代議士の歓迎のために日本共産党員や在日朝鮮人を主体とする約1000人の群集が駅前に集合、無届デモを敢行したが、名古屋市警察によって解散させられた。
>その際に12人が検挙されたが、その中の1人が所持していた文書から、翌日の歓迎集会に火炎瓶を多数持ち込んで、アメリカ軍施設や中警察署を襲撃する計画が発覚した。
>名古屋市警察の捜査により、最終的に269人(その内、半数以上が在日朝鮮人)を検挙した。
>捜査の結果、この事件は共産党名古屋市委員会が計画し、朝鮮人の組織である祖国防衛隊とも連携しながら実行に移されたことが判明した。
五所川原税務署襲撃事件(1952年11月19日~26日)
>1952年11月19日、仙台国税局は青森県内の警察官の協力を得て、青森県北津軽郡板柳町周辺の在日朝鮮人が経営する密造酒工場を摘発し、
>証拠物件(密造酒約100石、酒粕約400貫、その他容器約200点など)を押収、酒税法違反として45名を検挙した。
>また、摘発を妨害したとして、在日朝鮮人7名を公務執行妨害の現行犯で逮捕した。
>その後、在日朝鮮人は「生活権の保障」と「職の斡旋」を要求し、国警板柳地区警察署と五所川原税務署に連日抗議活動を行った。
>11月26日には約60名が五所川原税務署に押しかけて署内に乱入し、署内を占拠する事態にまで至っている。
ここまで読まれた方、本当にお疲れ様でございました。
資料写真等もあるので添付しようと考えましたが、これほどの文字量ともなると、もう容量的に限界のやうです。
全部お読みになり、その方向性を読み取れた方は、なぜ、私が今、この時に、このやうな纏めを行ったのか、ご推察頂けると思います。
よく、「組織が悪く、個々人は関係ない。」
「国と個人は別だ。」とか、
「大多数の人たちは真面目に生きている。関係ない学生たちまで巻き込むのは差別だ」という論法をよく聞きますが、
そういうレベルの話ではないという事をお伝えしたかったと云う事もあります。
実際ここで取り上げた、王子や阪神の事件は、朝鮮学校内において英雄的な行為として編集されたフィルムも使い、
日本官憲の横暴さを刷り込む目的で今も教えられています。
そして、悲しいことにも、彼ら朝鮮人と連動した国内不穏分子が居り、
彼らの活動にシンパシーを感じている輩が居るという事実をこういう時だからこそ再認識して頂きたいのです。
上記の中に、密造酒の話が多々出てきますが、そういえばそれを家業としていたと告白された携帯大手の代表者もいらっしゃったはずです。
同じように、シンパシーを感じ、その後も国民の利益に反するやうな行動をしていた方々が、
なぜか、現在の永田町中枢に多くいらっしゃいます。
当たり前の事ですが、普通の生活をしている国民が、寝食すら放り出し活動を行い、
政治や経済の中枢に自分に利益を誘導してくれる人間を送り込むことは少ないのです。
反対もまた然り。
つまり、多くの国民が満足する国になればなるほど、本来の多数派は意見を云わず行動しなくなり、
一部の妙な宗教ともいえるイデオロギーに染まった人間の意見ばかりが多数派のやうに見えてくると云う事です。
これは、ある意味、近代民主主義の限界なのやもしれません。
幸いにも、今次震災においても我が国はその治安を維持し得ています故、
戦後混乱期のやうに彼らが好き勝手をする機会はなかったと思われます。
しかし、動けるところでは、実に活発に手を変え品を変え蠢動している現状を見るにつけ、
日本国民が、もっと聡明にならぬ事には、この過ちをまた繰り返すこととなりかねません。
今、今次震災に関する報道が過熱している中、
国内においては、本来、国の根幹にかかわるインフラの話にも拘らず、一企業に押し付けようとするどう見てもおかしな、企業叩きや、
融和・友愛にかこつけた妙な動きが出ています。
ロシア・中国は、この震災に援助を申し出ながら、国境付近において盛んな蠢動を見せています。
本当の気持ちから援助して頂けている国々もある中、
同じく、援助を申し入れている国々の中には、デモストレーションや、ジェスチャーとしての動きも今後の利益を考えた強かな計算も、
たっぷりと含んだ国々も混じっているのです。
日本人は、実に日本人らしい、お人よしの勘違いをしすぎなのです。
日本人と、非日本人の感覚の差は決定的です。
猛き誇り高き草食獣であっても、肉食獣になれぬのと同じやうに、肉食獣はどこまで行っても肉食獣なのです。
日本人がそうだからと彼らもそうだと思い込むのは極めて危険な話なのであります。
民主主義を、この日本国民が選択し続ける以上、
美しく装飾されながらも禍々しき事象の真を見抜き、看破できる聡明な国民が多くいることを切望して止みません。