無名人独白集

美しいもの、麗しいもの大好き。その真逆は嫌い。
故に「小異に拘り、大道を外す事勿れ」
そんな我侭で偏屈な人の独り言。

その異常性

2006年08月30日 07時06分34秒 | 教育、歴史、道徳に関わる話し
30万円渡す約束で殺害依頼 稚内の女性刺殺事件 (共同通信) - goo ニュース

以前、五逆についてお話させて頂きましたが、
http://blog.goo.ne.jp/mumyoujin_1969/d/20060713<参照

この事件も、この社会文明が限界に達し、その歪が現れた、
異常性この上ない話でありましょう。

私が、特に注目したのは、
犯行に介在した実子の友人が、
心情的に感応のみにて事件に関わったのではなく、
金銭による契約にて関わった点であります。

そこには、まさに歪んだ大人社会の縮図を見る思いがしますし、
実際、彼等の目には、社会と云うものがそのやうに映っており、
それが、悲しいながら現実であったとしても決して良い話ではないことを、
教えられる大人が周囲に居なかった事を現しているものと思えてなりません。

その思いは、16歳の少年が、30万円を用立てられる異常性を見るにあたり、
より一層強められるのです。

どのやうな環境にあったか詳細を知らぬ身なれど、
あえて無責任に云わせていただくのであれば、
こういった事件の発生は、
何らかの歪みが大きく作用するからこその、結果に過ぎず、
その、根本的原因は、
「カネこそが全て」
「他の価値は認めるが、理想では飯は食えぬ。やはり現実が優先、カネが優先。」
「キレイ事だけ云う人間は青い、理想主義者は現実を知らない人間」
といった極めて狭量な利己的なる拝金主義、利己的なる現実主義により、
理想が忘れ去られ、ひいては人として人間としての向上心が薄れ、
精神の堕落に甘んじ、獣化へ退化の道を歩み続けている、
現在の人間社会そのものではないのでしょうか?

両親が離婚していた事なぞは、
それを取り巻く要因の一つに過ぎない気がしてきます。
離婚そのものが問題なのではなく、それに対する周囲の大人の対応の根底にある、
精神性の方がよほど問題なのではないであろうかと私は感じるのです。


私はここで、試しにひとつの問いをしてみたいのです。
「離婚して家にいなくなった父や母の事を、
 子に直接触れている片親やその親族が、手元に残された子に対し、
 悪い印象を与えるやうな言動を行ってはいませんか?」


云うまでも無く、子供たちにとっては、ろくでもない影響しか与えないにも拘らず、
大人たちが自らの感情や、自己正当化または、
狭量かつ無責任な知識・情報や思慮に基づく親族愛の為に
取りかねない行動であります。

私は、そういった精神性の狭窄視野、自己中心性、利己主義を生み出す、
社会の土壌自体こそが、根源原因だと思えてしょうがないのです。





この事件について、語る大人の方々よ、
もう待ったなしの状況になりつつあり、
早急な改善をしなければならない時点に達しつつある事を、感じ論じて頂きたい。

子供の居られる方には、このやうな社会に対し、
どのやうに対していかねばならないのかを考えた上で、
教育方針を決め、自らの子供に対して頂きたい。

子供を持たぬ方たちは、その異常性を認識し、
社会の事象に当って頂きたい。



よくある、事件の中の一つとして、
驚いて、適当に論評して終わりにしている事自体が既に、
大きな異常である事に気付いて頂きたい。


先日、旧年来の友人と話した事柄を最後に記させていただきます。
「職に貴賎は無いものの、徳、不徳は厳然とそこに存在する」
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まずは自らの用心ということを知っていただきたい。

2006年08月26日 13時20分29秒 | 教育、歴史、道徳に関わる話し
川縁で談笑?していた高校生が刺されました。
犯人はとんでもない人間ですし、如何なる理由・事情があったか判りませんが、
その行為は、到底許されないものです。

さて、その知らせに接し、私はふと疑問に感じたことがあります。
事件の起きた時間が、なぜかピンと来ないのです。
「24日午前零時45分ごろ」と報道されていますが、
刺した犯人の異常さもさることながら、
殆ど午前1時近い時間に、未成年のしかも男女の混じったグループが、
大して人気のない川辺にいる事の方が、ある意味異常なのではないでしょうか?
そのやうな時間まで、自分の子供達がふらついていることを容認している、
親達の異常さも目に付きます。

東京の繁華街で、深夜にふらついている制服姿の女子高生等を見かけますが、
その娘達が犯罪に巻き込まれたといって被害者面しているのを見ると、
なんか釈然としないものを感じるものです。

同じやうに、今回の事件における学校側の会見にも、
伝え聞かれる周囲の大人の反応にも釈然としないものを感じます。

犯人の異常性のみを主張しますが、
午前様に、男女、それも女子の方が多いグループが屯している異常性について、
なぜ言及し、指摘しないのでしょうか?

犯罪が行われる事は、悲しいことであり、当然、過ちでもあります。
しかし、その犯罪を誘発する背景も見過ごせませんし、
なによりも、被害者になりうる一般の人々の犯罪から自らの身を守る意識が、
犯罪に対する有効な抑止力となりうるものなのではないでしょうか?

自らが犯罪に巻き込まれた時に、自らの落ち度に目をつぶり、
批判ばかりをすることを私は美しいと思いません。



子供達や女性が、弱者であるとよく言う人がいますが、
そうであるならば、弱者は弱者なりの身の守り方があります。
人がヒトである以上、
他者に対し不利益な行為を行う輩、組織は後を絶つことはありません。
その悪者を批判しても、悪者は嘯くだけでしょう。

女性や子供が、遅い時間まで自由に動けること、
女性や子供が、暗い夜道でも安心して歩けること、
どのやうな店にも安心して入り、出されたものを信用して飲めること。
店で知り合った人間をある程度信用できること。
身の危険が迫った時に、自分を裏切り売らないと、友人を信用できること。
そりゃ、理想ではあります。

しかし、それが、理想であって現実ではない以上、
女性の自由、子供の自由を語るは現実的ではありません。
其れでもなお、自由を謳歌したいのであれば、
そこにはそれだけの対価が存在する事を忘れてはならないのではないでしょうか?



女子供が、夜遅くに出歩く不道徳を説いた感覚を、
古臭いカビの生えた昔の道徳観と云うのはたやすいことです。

しかし、人に不利益をもたらそうと考える輩は、
わざわざ抵抗力が大きく、金にもなりにくく、
その上、自らを危険に晒す可能性の高い大人の男性を狙うよりは、
力も弱く、本能的及びに性的欲望を満たしやすく、金銭への交換が簡単である、
女子供を狙うのが当たり前のことなのです。


犯罪に巻き込まれた後、その被害者の人生からその傷を払拭することが、
ほぼ不可能であり、その影響がその後の人生に大きく影を落とすこと。
そしてその可能性が低くとも、0%ではなく、
そして一度巻き込まれれば、心身に致命的な傷を負う可能性を考えれば、
周囲を批判し、自らの権益を云々するより、
まずは、自らを知り、社会の悪者の動機、狙いを知ることでしょう。

「自分だけは大丈夫」
よく皆さんが持っている根拠のない自信なぞ、
圧倒的な暴力、悪意の前には、なんの支えにもなりません。
私は、よく繁華街にて酔っ払った女性や子供が、
広域暴力団や不逞の輩の息のかかった店に出入りする無知さを見かけます。
「自分だけは大丈夫」と思っていられるのでしょうが、あまりにも危うい。

「そんなこと判らないもん」といわれるのかもしれませんが、
そうであるならば、事件がおきた時の貴方自身の傷、
貴方方の家族の受ける悲しみ、を考え危ないところにはよらぬ事です。

「私の自由だ」とのたまうのなら、
何が起きてもすべて自分で責任を取り、誰にも助けを求めず、
誰も悲しませないやうに、家族関係も何も絶つべきでしょう。
人は、自分だけで責任を取れることなぞ殆どないのですから。

そういった、犯罪に対する無知・根拠のない自信・無防備さが、
犯罪自体を助長していることを忘れないでいただきたい。

犯罪のない安心・安全な社会を望むのであれば、
まずは、自らの用心が必要なことであり、
決して他人任せにして口をあけていれば降ってくるものではない事を、
知っていただきたいのです。

少々の体術の心得なぞ、
相手方の勢い、作られた状況、
喧嘩慣れした人間の前にはまったく無意味である事も付け加えておきます。


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おめでとう御座います。

2006年08月25日 11時58分43秒 | 社会・内政関わる話し
「高い捜査能力」ニッポン検察、国際協会が特別表彰へ (読売新聞) - goo ニュース
大変喜ばしい事です。

近隣国人のシャトル往復による犯罪や
権力を持った人間の、恥を知らぬ利己的な犯罪などなどが多くなりつつある
今の日本において、今後より一層、闘って頂かなければいけなくなります。

今回の誇りを胸に、より一層のご活躍を一市民として期待しています。
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本好きとしては、、、

2006年08月24日 12時15分07秒 | 御紹介したい事
復刊していただきたい本は沢山ありますね。

まぁご紹介として、こんなのもあるやうです。


坂間文子著
『雪原にひとり囚われて―シベリア抑留10年の記録』
復刊リクエスト投票にご協力下さい!

http://f3.aaa.livedoor.jp/~asapy/siberia.htm

なかなか興味深い。
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あれあれ

2006年08月23日 21時37分35秒 | 教育、歴史、道徳に関わる話し
「三光」の商標申請却下 旧日本軍の作戦連想? (共同通信) - goo ニュース
どんどん確定的になっていきますね。。。
今じゃ、日本の高校教科書にも載っていますし、
本当に三光作戦なんていうものがあったと思ってしまう人ばかりになるのでしょう。

困ったものです。



声を大きくして云いたい。
『三光作戦』なぞというものはありません。

嘘だと思われる方は、関係書籍を読み比べてみてください。
面倒なら、下記URLをご参考くださいませ。

真面目な話しとして。
http://www.jiyuu-shikan.org/frontline/sonota/sankousakusen.html
http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi41_text01.html

ここもなかなか面白い。
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo8.html


せめてこのぐらいでもw
確定的に書く怖さはお分かりいただけるかと。
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%BB%B0%B8%F7%BA%EE%C0%EF


ついでに規定派の極めて纏まった意見も貼っておきましょう。
どう判断されるかは、皆様次第w
http://homepage3.nifty.com/m_and_y/genron/sankou/sankou.htm

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8月15日

2006年08月22日 01時05分36秒 | 独り言・・・
さて、暫く空いてしまいましたが、
8/15の件を書いておきましょう。
随分と時間もたっていますので、
自分なりに、だいぶ頭も冷えてきたと思いますが、

それでも、頂けないものです。

自らが、存在する事に対する感謝。
これは、私自身が、幼いときから戦前生まれの父や親族に聞かされ続けた話から
私自身早い時期に形成された想いなのですが、
靖国神社に対し事ある機会に参る事は、その想いに発するものであるわけです。
神社側の繁忙さを思えば、
当然、混み合う8/15にわざわざ参る必要もありませんが、
地方からお出で頂く方々にとって一つの特定日である以上、
無視することも出来ません。

当然、混雑は承知の上ですし、混む事は良き事なのですが、
あまりに集まる方々の行状が昨今酷くなった気がします。
色々と在ったこともあり、人が増えるのは良いことなのですが、
まるで、物見遊山の場所のやうです。


神域であることを忘れ、
また、大事な日であることも忘れ、
自我のままに我を通す自称「保守」の方々、
どうなってるのですかね?

席の取り合いをする若い男女。
場所も弁えずに世俗事を話す輩。
得体の知れない行動をとる集団。
日取りも弁えない華美な服装やメイクの女性。
神域で色眼鏡ならぬ必要もないサングラスをして周囲を威圧するもの。
一斉黙祷中に平気で話し続けるいい歳をした、いかつい男性陣。

もう、私には、どこに崇敬の念があるのやら理解不能です。
これでは、反対派から「少しおかしな人達だけが支持している」
といわれても致し方ないのでは?

少し自重していただきたいものです。

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まったく・・・^_^;

2006年08月10日 23時35分21秒 | 社会・内政関わる話し
千鳥ケ淵墓苑を平和記念施設に 社民が提言へ (朝日新聞) - goo ニュース
こりゃこりゃw
だんだん変な事を言い出すのですから、あまり言葉を発せられない方が良いのでは?
B52が米空母から~」
なんて国会で云っちゃって、いまや笑いものになっている事をご存じないので?
今や、伝説と化していますよ?下記みたいにw
貴女の発言を基に作られた、この冗談記事の写真を見たら、
貴女がどれほど変な事を云っていたか判るでしょうにw
「社民党 福島参院議員B-52艦載型の存在を発表。」
http://www.masdf.com/news/b52cv.html



千鳥ケ淵墓苑ってお墓ですよ・・・
名前の特定できない戦没者の遺骨を納める国立の無宗教の墓苑(共産党HPの言回し)、と
御祭神名の明確な神社。。。なんか比較にもなりませんし、

それよりなにより一番問題なのは、
この国を守る為に逝かれた方々の御気持ちを、そっちのけにした政治的な議論なのではないでしょうか?
父祖、またはその関係者が関与しているのであれば、とても云えそうもない事を、
この人たちは平気で云う。
平気でその気持ちを踏みにじるやうな事を云う。

その人間としての精神を疑います。


やや語弊があるも知れませんが、
今生きる我々の為、その文化文明を護る為にその命を捧げられた方々に対し、
その方々が居られたからこそ存在する我々が、感謝の念を少しでも感じられていれば、人間として到底やってはいけない事は、

その物云わぬ方々を利用する事です。



日本人ではない、、、皆が知っているのは通名、、、なんて噂もありますがw
日本に生まれ、日本に育ち、日本という国とその先人達の恩恵を受けて育ったにも拘らず、
妙な提言なんていうことをされる変な日本人の方々へ。
靖国には明治維新時の志士の方もいらっしゃるのですが、
尊王に燃えられたあの方たちのこと忘れてやしませんか?
それともご存じないので?

あまり「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」的な言動は、醜いですよ?
あ、失礼、貴方方は「袈裟が憎いから坊主も憎い」でしたかなw


あ、一つ云い忘れていた。
又市征治幹事長は10日の記者会見で
「国立ですべての戦没者を慰霊する、平和を祈念して誓いをする場所が日本にはない。」
と仰ったようですが、、、それって本当?
全ての戦没者ってなんですか?
いったい何処までが戦没者?
妙にナンセンスな話しでは?




国立沖縄戦没者墓苑
国立広島原爆死没者追悼平和祈念館
国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館
皆様から抗議を受けませんように・・・w
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なんとかならぬものか。

2006年08月08日 12時08分53秒 | 社会・内政関わる話し
ネパール 毛派、和平交渉決裂を警告 (産経新聞) - goo ニュース
この件に関する報道を行う際に是非ともその背景に触れて欲しいものです。
毛派」とは、どんなものなのか、
そして、ある時は公然と、ある時は非公然に
中国が他国に所在する反政府武装組織に援助をしていると言う事実、
そして、そのすぐ傍のチベットの件。

中国と言う国が、他国に浸透し、影響力を強めようとするのは、
その国家戦略に基づいての事です。
いつまでも、「話せば判る」「仲良くできる」とばかりこちらが願っても、
その理想的な考えを、これ幸と利用しようとする勢力こそあれ、
実現には、なかなか現状は難しく、それ以前に調えねばならない事があるのに、
気付いて頂く方が一人でも増えないことには、
かなり危険な状態が続いてしまうと感じるのは私だけでしょうか?


情報がなければ、人々は判断する事が出来ません。
また情報はあっても、偏っていては問題がありますし、
その情報を取得し生かすための、
意欲を持たせる教育と理解させる能力、メディアリテラシーと
その国独自の意識付けは重要な課題ではないでしょうか?

最近、とみに問題となっている学力低下ですが、
実際にその状況を見るに、あまりにも学校側の教師に遠慮があるやうに見えます。
子供たちが塾等で忙しいとの理由からか、
長い夏休みに出る宿題の量は、大変に少なく、
また、工作のやうな個人差の大きいものに関しても、特に明確な発表の機会や、
それに関わる先生との個別の会話が、
生徒数が遥かに多かった我々の世代より少なくなっており、
宿題の総量も私の頃の、5分の1以下のやうな状況であります。

また、普段の授業においても、情報を取得し理解する為の基本となる、
文章読解能力、理解力、そして発言・表現力を高めるためにも必須と思われる、
読書・作文等の課題も大変に少ないため、
必然的に、得意な子のみが長け、不得意な子はいつまでたっても伸び悩むと言う
構図が生まれてもいます。
大事な、基礎を仕込まねばならない時期に、この体たらく。
これが、教師の皆様の怠慢でない事を願いたい気分でもあります。


さて、話は元のニュースに戻りますが、
それにしても、こういった状況を報道する機関が数少ないのは、
二重の意味で、大変残念なことであります。



学校・公営プール吸排水口、ふた固定不備が305カ所 文科省、使用中止 (産経新聞) - goo ニュース
実は、私の子供の頃にも、何処であったかは全く覚えておりませんが、
児童が、プールの排水口に吸い込まれて死亡する事件があったと記憶しています。

それから30年余り。
やはり人間と言うものは、繰り返すものなのでしょうか・・・
あまりに杜撰、、、いい加減。。。あまりに利益優先・・・


その企業の株価にまで影響を与え始めているCSR「企業の社会的責任」と呼ばれるものが、
この日本においても浸透する事は、情けないながら必要な事なのかもしれません。
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死生観について

2006年08月06日 15時07分02秒 | 教育、歴史、道徳に関わる話し
こりゃまた難しい事に・・・・・
でも、きっかけになる話もありましたし、
いつか言っては置かなきゃならない事です。
もちろん色々な意見があってよいことです。

たた、私が教育され、学び、そう心に持った部分の一部をさせていただきます。
考えが違うからといって、それが何かを意味する事もありません。
「その人はそうなのだ」で終わりなことです。

私は、今の死生観教育(そんなものすら存在しないが)に極めて批判的ですから、
極めて、語彙きつく、皮肉的な言い方をするかもしれませんが、
私はこうであると、残すためにここに記すものと思ってください。



さて、まず最初に、私の死に対する理解から見ていると、
現状の向き合い方ですが、足りませんねぇ。今の世の中は。
死と云うものに、妙に距離をおきたがるw

そもそも看取る事がなくなった。
幼いときから、死人を見ることがなくなった。
子供のときに、仏さんに触る事がなくなった。
大人が、死ぬと言うことについて実感させる教育を子供にしなくなった。
当然、死ぬ話をしなくなった。

そりゃ、死に実感がないから、簡単に人を殺す人間も育ちますよ。
そんなの当たり前なのかもしれませんね。

今の人たちは、そんな言葉すら実感していないかもしれませんし、
考えてもいないかもしれませんが、もしあったとしても、
死生観じゃ在りませんよ。
いうなれば、生死観です。
死生観と言う言葉は、言葉自体が生き残っているだけかもしれません。

なぜ生死観などと私が浅い揶揄するかは、簡単なことです。
私が、思うところの死生観とは、死がまず前提としてあり、
そこに至る道を、歩むのが人生であると考えるから他ならないのです。
死と云うものは極めて近い処に厳然と存在するものであり、
それを、妙に厭うたり、避けたり、もちろん過剰に賛美したりすることも含め、
行うことではないと、感じているからです。
今の人たちは、生きることばかり考え、
そこに万人に対し平等に厳然と存在する死と云うものを
全く考慮に入れていないやうな気がします。

死は、以後弁明することも出来ませんから、
確実にその人の生前の行いのみにおいて評価が確定しますし、
その死に様においての評価も確実に残ってしまいます。
これほど怖いことはない。
だからこそ、その終末点に対し、人間は準備をしなければなりませんし、
また、いつ訪れるか判らぬものだからこそ、
覚悟と支度をいつもしておかねばならないのです。

私の中においては、
死と云う存在自体が、生と対比された形における対の存在でしかなく、
どちらか片方のみが存在し得ない以上、
同義であると云っても差し支えないのです。

もちろん、私にも死に対する恐怖はあります。
しかし、それは未知なる物に対する恐怖でしかなく、
今ほどの五感を失う恐怖以外何物でも在りません。
あとは、先ほどの準備不十分による死により、未熟者の謗りを受けることが、
私にとって、最も大きな恐怖なのかもしれません。

その感覚を養ったのは、自分の場合小学校高学年まででしたから、
現在のやうに、子供たちをあまりそう云ったものから離してしまう教育方針に、
私は、否定的なのです。

死を必要以上に恐れると、その死に際に醜態を晒すことも多く、
色々とろくな事はありませんし、
その逆で、死に実感が持てない事も、数々の事件を見れば問題ではないかと感じていただけると思います。
ようは子供たちを過保護にしすぎなのでしょうがw



さて、私なりの理解はこのぐらいにして、具体的な話として、
ついこの前、話に出ました自死にも関わる話しですが、
死ぬ自由に対する話を。

私は、万人が生きる権利を生まれながらに持つと同時に
死ぬ権利も万人が持つものだと考えています。

生と死は表裏一体のものであり、
片方だけを認めるのは、何処ぞの宗教のやうに極めて片手落ち。
ご都合主義にしか感じていません。
天から授かった大事な命を粗末にするのではないのです。
天から授かった大事なものは、命単体ではなく、
その命を使って行う使命だと私は考えています。

ですから、もしそこでその人が死ぬのであればそれは天命。
もう使命を果たしたからこそ、もしくは、
何ら果たすべき使命も持たぬ体だからこそ、
死のうと思っているわけですから、
何の問題もない。

こんな事を云うと怒られるかもしれませんが、
よく、不慮の事故とか云われますが、
そんなものは、自らの命を見通せない人間の勝手な言い分でしかありません。
そこで死ぬことは一部の例外を除いてほぼ確定していることであり、
人智の介在する余地なぞありはしないのです。

ではなぜ、体を壮健に保ち、事故を避ける努力をし、自己防衛努力を行うのか?
そんな事は全て天命であれば、無駄ではないか?
といった声が聞こえてきそうですが、
そういった考え、それ自体が既に間違っているのです。
そういった話は、天命は、変動すると云う事が抜け落ちているからこそ、
出てくる話なのです。
人は自ら天命を作り出すことは出来ませんが、
自ら変動させられる余地はあるという考え方です。


ここからは、私の解釈ですが、
もし、ある天啓を受け生まれた命であったとしても、
そのことに全く向かわず、あらぬ方向にその人が走り続ければ、
その天命は次の肉体に引き継がれる。
私は、こう理解しているのです。

ですから、その逆もあり得るわけです。
何の天啓も受けずに生まれた者でも、その生き方の中において、
突然、天啓を受ける事もあるでしょう。
中には、今にも死にそうでも、なぜか死なない死ねないと云うことも
いくらでも在りうることなのです。

そして、よく言われる縁は、
本人の意思に関わらず、不思議な脈絡と機会を持って結ばれ、
進むべき方向を指し示し、事を進める一助ともなり得るのです。
またその縁の中で、新しい事が現出することもあるのでしょう。
冷たい言い方かもしれませんが、人間そんなものです。

意志あるところには、使命が現出する。
そうともいえると思います。
意志なきところには?
何もでないかもしれませんし、もしかしたら何か出るかもしれません。
でも、意志在るところよりはかなり確率が低いと思われますw



さて、話を最後に戻します。
生死と云うものは、人間が規定すること自体、おこがましいモノ
とすらいえるのかもしれません。

世の中には、善悪を超越したところに存在するものもあると言うのが、
私の基本的な考え方です。


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自殺とは

2006年08月04日 11時22分15秒 | 社会・内政関わる話し
 ちょうど、自殺の話をヤマモト様よりコメントに頂きましたので、
死んでいない人間が触れるのはおこがましい問題かとは思いますが、
かつて、中学時代に、
その厭世観から極めて強い死に対する憧憬を持っていた人間として、
ちょっと触れようかと思います。

「日本の年間自殺者が3万人を越えている」と言う話しが切っ掛けですが、
切り口がいくつかあります。
大きな話しではなく、簡単、具体的なものだけいくつか。

一つは、人口比の問題。
まぁこれは単純な数学的比較となります。
人口の多い国民と少ない国民を、自殺者数で単純に比較すれば、、、
当然おかしなことになるでしょう。
逆に数学的マジックを使い、悲観論をぶち上げるのも簡単です。
しかし、これは本質的でない数学的お遊びにもなりますので、
置いておきましょう。


次に、自殺の定義づけ、ならびに宗教、道徳的なものの中における
自殺に対する規定です。
自殺を禁じる宗教もあれば容認する宗教もあります。
中には、殉教的な行為の場合には問題ない宗教もあるでしょう。
宗教や、道徳規範は人が生活し、社会を構成する要素として、大きいものです。
この影響は無視できないと思います。

ちなみに自殺者が多いと言われている日本において、
大まかに言えば自殺は罪では在りません。
武士階級において、自死は権利でも在ります。


最後に、自殺に至る人の原因、
そしてその置かれた環境ならびに、その環境におかれる人々の比率。
これを少々触れましょう。

自殺に至る原因は、いくつかに区分できます。
何の伏線も無い、純然たる突発的な、人智を超えた衝動、
これはお手上げです。
理由が無いのですから、解決も出来ません。
精神的な疾患による自殺と共に、お医者様の力を借りるしかありません。

最も多いのは、自らが解決できずに追い詰められ、
あるいはその苦しみから逃避する形での自殺でしょう。
借金苦、健康苦、将来に対する不安、家族への不安、仕事への不安、対人不安、
家庭不安、信念に対する不安、恋愛の苦しみ、自らに対する苦しみ不安 etc
こういったものに見られる共通点は、
その多寡があれど、自らが処理しようと足掻きもがき、結論を見つけられずに、
自ら死という選択肢を選ぶ事となります。
逆に言えば、極めて特殊な例外を除けば、
死に至るまで、ある程度の時間的猶予があるとも云えます。

この苦しみについては、何人も窺い知る事の出来ない、
その本人のみの苦しみであり、その苦しみたるや、
死への恐怖より遥かに勝るものだからこそ、死を選ぶ事となるのでしょう。
その過程において、精神を病む場合が多く、
結果として死をより確実なものとしてしまう場合も多くあると思われます。

しかし逆説的に云えば、この時間的な猶予の間に、
自らが解決は出来ずとも、
何らかの「落とし処」を見つけ回避する事も出来ますし、
他者が、そこに介在し、何らかの「落とし処」や苦しみの軽減を行うことにより、
回避する事も可能なことなのです。

つまり、「天は自らを助くるものを助く」とも言いますが、
助けてくれる人もなく、己の力のみで何らかの答えを見つける人もいるでしょうが、
当然のごとく、それ以上に多いのは、
他者の助けを借りて、自ら解決策を見出す形ではないでしょうか。
ここで気付くのは、周囲の助けが大事であると言うことでしょう。
現在のやうに、人と人のかかわりが薄くなったこの世の中で、
助けを受けられずに苦しみ自殺に至るケースが多くいるのは、
容易に想像できる点かと思います。

ここで話は少し飛びますが、
ここで云う人と人のかかわりとは、どういったものなのでしょうか?
ただ、一つ屋根の下に居るだけ、
ただ、毎日顔を合わせているだけ、
これらは、到底かかわりとは呼べません。

しかし、現状として、家族であっても、
夫の帰りが遅い時に、何処に居るのか判らない。
教えてくれないし、聞きもしない。聞いてはいけないような気がする。
また、妻が友達と旅行に行ったが、何処に泊まっているのか知らされていない。
夫としては、わざわざ聞くのも信用していないようで聞けない。
子供が、友達の家に遊びに行っていても、何時に帰ってくるのか知らない。
年老いた親の行動パターンがわからず、大体の行動も把握していない。

こんな、へっぴり腰の腫れ物に触るやうな付き合いを、
かかわりとは云わないのです。
家族とすらこんな按配なのに、
そう考えれば、仕事上の付き合いなぞなおさらなのかもしれません。


さて、助けを求められない、助けを必要としている人に気付かない、
その社会のせいにするのは簡単なことなのですが、
一番問題なのは、その社会を生み出した思想ではないでしょうか?

妙な個人主義、
妙な権利主張、
妙な男女同権、からくる家庭崩壊、社会崩壊がその根源のやうな気がします。

妙な個人主義により、他者に介在しにくく、家族であれ介在することを罪のやうに定義し、
妙な権利主張により、警察などの公権力の介在や、公機関の介在を困難にし、
妙な男女同権により、生物としての人間本来の摂理に反する生活を行い、結果として本来の人間らしさを失っていく。

もうどんなことが起きても、不思議じゃない状態だと思います。


こんな状況であれば、少々の自殺者が出ようと、
当たり前と言う気さえしてきます。
なにしろ、全然、ヒトがヒトでなくなっているのですから。

自殺を願う、もしくは、望む人々がおかれる環境が、この状態であれば、
歯止めが利かないのは当たり前。
私はそう思っていますし、その根幹に横たわる問題は、
自殺者の増加問題のみの問題ではなく、
逆に、自殺者増加問題自体が、その大きな問題の現出した一点でしかないと考えています。



さて、環境は環境でも、もう一つの環境についても触れておこうと思います。
それは、自殺をする方々の置かれた環境ではなく、
そのやうな考え、想いを持つ方々本人の環境です。


まず第一に在るのは、自らの生命の危険の無さ、危機意識の無さでしょう。
何が言いたいかお分かり頂けますでしょうか?
銃弾が飛び交い、死病が蔓延し、その日の食事も出来ぬ人々は、
なかなか、自ら死のうとは思いません。
死と云う物に明確な実感を持てる者に、自殺願望は少ないのです。
私も、死と直面することにより、その願望の馬鹿馬鹿しさに気付いた人間です。

日本と言う国は、戦後平和になりましたし、安全も確保されています。
しかし私は、
父から「曲がり角は大きく回れ」「マンホールなどは踏むな」
「そんなに行動が遅かったら、戦争の時に一番最初に死ぬぞ」
「危険なところは速やかに抜けろ」「絶えず周囲に注意を払え」
といった自らの命を護ることを幼少時より言われて育ちましたが、
当たり前の事だと感じていました。

しかし、自殺願望を持ち続けている方々に限らず、
社会に生きる多くの人々は、そういった事を聞いて育っているのでしょうか?
自らの命が、いつも風前の灯であることを自覚しているのでしょうか?


自らの命について考えたことも無く、
多かれ少なかれ何らかのものに対する責任感をもち、
自らの命に危急の恐怖を感じず、
誰も助けの手を差し伸べず、
自己中心的な社会の犠牲に誰もがなりうる社会に生きているヒト。

これだけ揃えば、身の回りの100人に1人が自殺するぐらい
何の不思議もありません。
ちなみに今の日本全体で、100人に1人自殺すると、
120万人が自殺する計算になります。

それを考えれば3万人の自殺者数は驚くに値しないことです。
それより問題なのは、
公共の精神を持たず、利己的で独善的な営利主義者は、
めったなことで自殺しないことでしょうね。

貴方は、こんなボロボロの日本を捨てますか?
海外に行かれますか?

私は、ゴメンです。
ここが我祖国。
ここが我愛する国。

日本が滅ぶ時には、ここの土に還ります。
私が滅ぶ時は、私の遺志を継いでくれる人に後を託します。
私は諦めない。
諦めることは、如何なる理由をつけようとも「逃げ」です。

コメント (2)
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