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無名人独白集

美しいもの、麗しいもの大好き。その真逆は嫌い。
故に「小異に拘り、大道を外す事勿れ」
そんな我侭で偏屈な人の独り言。

聖域なき自由。子が自ら生まれ出でた親の存在を認めぬ論理の愚。

2011年07月01日 14時13分47秒 | 教育、歴史、道徳に関わる話し
少し前から世では、国旗国歌に対して敬意を払うのなんのと云う話になっております。

曰く、「教師は国家公務員なのだから、敬意を払うのは当然」
反して、「否、国家公務員ではなく地方公務員に強制するのは問題だ」
さらには、「そもそも、国旗国歌は強制するものじゃない」

さすがに、そういった議論の場で、
「日の丸の赤は殺されたアジア人の血の色,白は骨の色」と言い出す方はいないやうですが、
実際にそう子供たちに言われる方々が居るのもまた事実。



しかし、これらの論議自体が、全て大幅に根幹がずれていて、
実に、軽佻浮薄な論議となっている気がする私は、ここで皆様に、ちとお尋ねしたいのです。


国旗国歌とは自由の対象に含まれ得る物なのでしょうかね?
自由とは、無制限に拡大し得る物なのでしょうか?


よく云われる「血の赤、骨の白」ですが、逆説的にいうのであれば、
その旗を敵国の旗と認識し戦って亡くなった方々が居られるのは事実。
しかし、その方達の心情を慮って国旗とか国歌って変えるもので?
そんな事をするのが当たり前の事なのですか?
じゃあ、イギリス、オランダ、スペイン、フランス、ロシア、ポルトガル、ベルギー、ドイツ、
アメリカ、イタリア、中国、韓国、北朝鮮、ベトナム、カンボジア、タイ、オーストラリア、
インド、エジプト、パキスタン、オーストリア、フィンランド、スェーデン、カナダ、
アルゼンチン、台湾、ブラジル、ホンジュラス、イスラエル、スリランンカetc・・・(一応順不同w)
・・・・ほとんどの国々が、皆、変えないといけませんね?


さらに云うのであれば、
その旗の下で国を信じて戦い亡くなった方々もおられる訳です。
国旗国歌への敬意の中に、そういった方々への崇敬の念も含まれるはずなのですが、
それを情け容赦なく否定されるという事は、
この方々は後付けの論理で犯罪者が如く忌避され居なかった事とするのですか?
人は、いきなり木の股から生まれて来る訳ではないのですよ?

国旗、国歌と云うものは、そういったご都合主義でコロコロ変える物なのでしょうか?
そういった対象のものなのでしょうか?


こう考えれば、そうとは到底思えないというのが、普通の感覚だと思う私は、
とてつもない国粋主義者で、右翼で、無教養で、人間味の無い人なのでしょうか?


自由とは、無制限に拡大するものではないと考える私は変なのでしょうか?

自由の無制限拡大は、人間社会の相克を考えれば絶対に有り得ず、
自由の適用、適用除外の線が厳然と存在する故に、
聖域無き自由なぞというものは存在しえないモノなのだと考える私は、とんでもない全体社会主義者なのでしょうか?

自由とは、その名のもとに人権も存在も否定できるという、
実に恐ろしくも絶対的なるものなのでしょうか?

自由と云えば、なんでも通せるものなのでしょうか?
もしそうであるならば・・・



ならば、私は、自分の意志により人を殺める自由を主張したい。
自らの信じるところにより、人を殺めたとしても罰せられず、非難もされぬ自由を主張したい。
人の道に外れた行為であったとしても、自由と云うものが聖域なきものであるのであれば、
それを認めるのが筋と云うものでありましょう。と声を大にして主張したい。
その行為の結果、自らの良心が如何に傷つこうとも、聖域なき自由を享受するのが人としての権利であるのならば、
例外は存在し得ぬはずではありませんか。

でも、それを社会が認め得ぬのはなぜか?

自由に聖域を設けず、そんな事をすれば社会自体が成り立たぬからに他なりません。


自国の国旗国家に対する敬意を払うと云う事は、その国に対する自らの帰属を表明するとともに、
その国の構成者として、その国の歴史の末端に連なる者としての確認を自他共にとるとともに、
自らが届き得ない過去から現在に継承をして下さった先人たちに感謝の念を捧げ、
自らが子孫に対し継承を行う責務を果たすと云う確認を行う事であります。

他国の国旗に敬意を表すると云う事は、以上の行為に対し他国の民として敬意を表すという事なのですが、


自国の国旗に対しての敬意は、その国の恩恵に浴していない人間には、その限りではありません。
しかし、もし恩恵に浴している者が敬意を払わぬ自由を認めさせるためには、全ての恩恵を受けぬ身になってから物言うのが筋の話であります。
ところが、これはかなり難しい話で、
そもそも、この国でこの国の民から生まれず、この国のインフラも利用しない人間でないと無理な話となります。

同じく、他国の国旗に敬意を表さぬは、該当国の歴史や精神を認めぬと云う意志表示となるので、これまたかなり難しい話となります。
敵国の旗であっても、一定の敬意は表するのが礼儀と云うものであり、
それが出来ぬは、今争っている対象世代だけではなく、その国の歴史も精神性も認めぬと云う事ですから、
かなり頂けない話だと云う事となります。

ですから、国旗や国歌を自国民他国民共に不当に辱める行為と云うのは、かなり問題な話と云う事になるのであります。





さて、聖域なき自由と云う点から、話を変えてみても、現在の論議そのものが実に異様なのであります。
国旗国歌に対し、敬意を払わぬ自由とは一体なんなのでしょうか?

そもそも、その国の恩恵に浴している人間が、国旗国歌に対し敬意を払わずに良いというのは、
自由なのでしょうか?
そもそも、近世に作られた政治思想や政治体制そのものを具現化したやうな国旗ならまだしも、
定義付けの時期とは関係なく、
それよりはるか以前から連綿と続く国旗国歌に対し敬意を払わぬ、
近世に形作られた政治信条、思想信条なるモノの自由と云うものは、
はたして同列に語り得る物なのでしょうか?


つまり、近世やっと形作られた嘴の黄色い、政治信条君。思想信条君。
君たちが、まだ影も形もない時から厳然とそこにおわされるものに、後付けの同列論理で君たちは反対の意見を云えるのか?
と云う事にもなりえる話ではないのですか?

少なくとも、我が国にとって、国旗とか国歌というものは、
政治、思想、信条の自由なるものの範疇に属していないのではないでしょうか?

もしこれが、後世に作られた概念によって議論される範疇に含まれるとすると、
その歴史的継続性や元の国家との人的、文化的と云ったあらゆる継続性を断ち切った、
新しい国家でしか成り立たない話となります。

我邦でそれがあるのであれば、
純粋な大和民族が死滅し日本文化が全て根絶し、日本語がこの国土の公用語から外れ、
過去の歴史と文化はすべて否定した国家が、大和民族以外によって立国された時でしょう。

逆説的に言えば、国旗国歌を否定される系の国内外両方の方々が見ている目線の先には、
そういった目標があると考えるのが自然な話だと、私は考えています。



現状の国旗国歌に対する論議は、あまりに言葉遊びにすぎます。
子は、親の物質的存在を否定し得ません。
その否定は、自らの存在を否定する愚行となるのですから。
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