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無教会全国集会2013

2013年度 無教会全国集会ブログ

特別講演 「FUKUSHIMA」からの問いかけ

2014-01-05 13:26:40 | 特別講演

富永 國比古

はじめに
 本日の演題は「FUKUSHIMAからの問いかけ」となっておりますが、今日の話の趣旨は、あくまでも、私自身がこの2年8ヶ月のあいだに、見聞きし、感じたことを証言するということと理解します。そして、私の話はm福島第一原発事故のほんの一断面と受け取っていただければ幸いです。
 東日本大震災と第1原発事故による被災者死亡例のうち、「震災関連死」と認定された死者数が8月末現在で1539人に上り、地震や津波による直接死者数1599人に迫っています。原発避難者は約15万人で、このうち、県内に避難中の人は9.6万人、残りの5.4万人は全都道府県に避難しています。
 FUKUSHIMA原発事故に関しては、多方面から議論されてきて、関連書物も夥しい数が出版されてきました。しかし、FUKUSHIMAで何がおきたのか、これから何が起きるのか、さらに、日本という国は今後どうなって行くのか、まだ、誰にもその全体像は見えて来ません。原発事故の科学的、歴史的検証はこれからも継続されるでしょうが、原発事故によって受けた深い心の傷が、個人の健康のみならず、人間関係に与えた影響(分断)も無視できない大きな問題となっています。福島県立医大の研究報告によれば、原発被災者の心のダメージからの回復が、自然災害である阪神淡路大震災、東日本大震災の宮城、岩手の被災者に比べて遅れています。人災である原発事故のトラウマの方が、「うつ病」「アルコール依存」「外傷後ストレス障害」などをより慢性化させています。原発は、人間の「生きる意味」とか「義:Righteousness」を脅かす特殊な「人災」であったということです。

FUKUSHIMAで起きたこと
 2011年三月十一日、原発事故が起きた時、私は、郡山市で最も放射能レベルが高かったところに住んでいました。今でも、5μSVのホットスポットがあり、室内は自然放射線の2倍、という環境で暮らしているわけです。事故直後、不思議な心理的変化が起きました。「原発事故」によって、日本、否世界が没落するのではないか、という恐怖や不安はもちろんですが、私は自分自身の「罪」を神様から指摘されたように感じました。後に、このような「罪責感」を体験をした方が私の他にも居ることを知りました。一応、自分では「反核、反原発」陣営に属していたと「自負」していたささやかな「誇り」など微塵に崩されました。
 事故後、ささやかな行動ですが、放射性物質におびえる郡山市民や原発避難者の方々のために、キリスト者医科連盟の北川恵以子医師の支援で、「相談外来」を設けました。ここでクライエントから聴いた話は重く、サバイバーズギルト(生き残った者の罪責感)、心的外傷後ストレス障害、人間関係の破綻、家族の崩壊、見捨てられ不安、などいずれも、人間の深い実存的な問題に関わるものでした。このようなトラウマは、安易な手当では回復は困難でしょう。「深いレベルで癒される」体験が必要であると思われます。
 
トラウマの諸相
 3:11以来、世の中が、全く別な色に見えるようじ感じる、と訴える人が増えました。慣れ親しんだ風景が、よそよそしく感じられ、一生懸命やってきたことが、無意味なことのように思われるというのです。内面的生活や価値体系が崩壊し、自己の「尊厳意識」さえ喪失してしまう、という深刻な問題を抱えている人もいます。以下にケースレポートを紹介します(匿名性の確保のため、一部改変)

ケース1:(放射能の恐怖):原発事故直後、郡山から15キロほど南に位置するY町に避難しているお母さんが、目に涙をいっぱい浮かべて、放射能の恐怖を訴えていました。放射能汚染に関しては、郡山と変わらない地域ですが、周りのお母さんたちが県外に避難したので自分も避難しなくては、という思いに駆られ、しかし経済的に余裕がないため、Y町にアパートを借りて幼稚園の子供と暮らしている。

ケース2:(流言蜚語):2011/8/31「チェルノブイリのXX」やら「XXの子供を守る会」などの集会に顔をだし情報を集める。「早く避難しないと危ない、と言われたが、主催者から「内部資料は公開しないように」といわれ、不信感を持った。主催者の勧めに従って、7、8人の友人は新潟に逃げた。

ケース3:(逃避行、人間関係の破綻、2011/12):N町出身。3月15日K村の親戚から夜中に「全村避難になるぞ」という情報が入った。XX業を営む夫と義父を残し、義母と子供を連れS市の妹宅へ行った。間もなく、関西に住む祖父のいとこのSさんのところへ避難。彼女はよく怒鳴る人で、いたたまれず、滞在二週間後借家を見つけて移り住んだ。以前からあった嫁姑問題が再燃、6月に福島県のM市に住む夫の姉夫婦を頼って、事業の共同経営を始めるも、内部分裂。避難生活でぼろぼろになった上に、家族内の争いが起こって、辛い。放射能汚染より、ずっと苦しい。昨日、郷里のN町から避難してきた人が自殺した話を聞いて、大きなショックを受けた。(2013/10)避難先のM市で、子供の学校の保護者に「車何台もってんの?東電から金もらってんんだろう」などと言われて、悲しかった。なかには、(補償金で)ポルシェなど買った人もいるが、そういう避難者と一緒にされたくない。子供と「N町に帰りたいね、帰れないね、という答えの出ない問答を繰り返している」安倍総理は、オリンピック誘致するために「福島の原発はコントロールされている」と言っているが、福島は見捨てられたようで悲しかった。

ケース4:(悲嘆から分断へ):夫の両親が津波で流され行方不明。遺体の写真を警察から見せられショック受けた。「海岸の方から、夜通し、助けて、という声が聞こえてきたが、原発事故のため、立ち入りができなかった。もっと早く見つけてあげられたら、という自責の念に苛まれている」夫の心が不安定で、イライラ、口論になったが、最後は、一緒に手をとりあって泣いた。親友が黙って、中部地方に避難したが、私は経済的に無理。友人関係が断絶した。

ケース5:(東電の施設で、東電社員の世話をしている女性):原発収拾作業に従事する東電社員の世話をしている。避難している東電社員の中には、レクサスやベンツを購入し、I市に豪邸を買い、補償金漬けになっている人も居る。原発敷地の町の東電社員は「当事者意識」が薄く、事故以前から「交付金慣れ」しているためか補償金要求が激しい。ここには、しばしばT大の原子力の先生とか、専門家が来るが、日中視察し夜は東電社員と酒盛り、となることが多い。汚染水問題など、どこ吹く風だ。東電が10月末に24人増員を発表したが、これはマスコミ対策で、彼らは、ここに一泊滞在して酒盛りし翌朝帰った。危険なところは、孫請けの会社作業員にやらせているので、事故収束の緊迫感はない。この会社に事故収拾をまかせて良いのか、疑問。

見捨てられるFUKUSHIMA
 五輪を東京に誘致するため、安倍総理大臣は「東京はFUKUSHIMAの汚染の影響は受けていない」と繰り返し強調していましたが、このメッセージは、福島県民から見ると「FUKUSHIMAは汚れているのだ」という意味に受け取られ、見捨てられているように感じます。原発事故以来、「福島の人はタクシーにのれない」「福島ナンバーの車が、足蹴にされた」「婚約破棄された」ということを、耳にしました。また、同じ県内に避難している人たちさえも、避難先で「差別」されています。この「差別の構造」は、とても一言では言い表せない重層的な問題を含んでおります。個人の持つ経済力の格差によっても差別は増幅されているように思います。
 そこまで語ってよいか分かりませんが、原発事故から2年8ヶ月の時点での、福島県民の報道されない実情を報告します。人間のありのままの姿を直視したいからです。原発事故以前から存在していた家庭内の問題---親子の確執、嫁姑問題などが顕在化してきました。X町で両親が津波に流された兄弟は、遺産相続で争っています(補償金の分配が関係しているようです)。また、放射能のリスクに関する感じ方の相違によって、友人間や家庭内で、悲しい争いが起きました。離婚した夫婦さえいます。原発事故の前ですが、送電線の鉄塔の建設予定地の地権者に、想像もできないような金銭が支払われました。多額の補償金を手にした地権者は、ギャンブルに走り、夜な夜なクラブ通い、遂には家庭崩壊に至ったと聞きました。
 福島県民の心は、深く傷つき病んでいます。自尊心の崩壊、人と人との分断---これが、悲しいことですが、福島で起きた、否、起きつつあるあまり報道されることのない一断面と言ってよいでしょう。
 今、福島県民の心情を代弁する適切なことばを私は持ちませんが、中原中也の詩が一番近いように思います。

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる/
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる/汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の皮裘(かはごろも)/
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる/汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく/
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む/汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき/汚れつちまつた悲しみに
なすところなく日は暮れる・・・

「汚れっちまった悲しみ」--この詩人の言葉こそ、原発事故によって汚染されてしまったFUKUSHIMAの現実をよく表現しているように思います。FUKUSHIMAは、第一に放射性物質によって汚染されました。更に、オカネのばらまきによって汚染されました(事故前から支給されていた地元への交付金、補助金、震災後の復興バブル、使途不明補助金など)。そして、汚染はついに人間の魂にまで及びました。東電は土地買収に多額の金を使い、自治体には「交付金」をばらまきました。それが、人間の魂を汚染する土壌を培ったのです。

「偶像礼拝」と「安全神話」
 既に多くの人が語っているので、私は原発の危険性や健康被害の規模など原発事故に関する諸問題については、今日は語らないことにします。「福島第一原発事故」という人類史上の大惨事を引き起こしてしまった人間と、その人間が作り出した組織、そして、事故後も続く、社会や政治の混乱について、私の感じるところを述べさせていただきたいと思います。
 ここで、一つの歴史的事実に注目したいと思います。それは、「福島第一原発は『祈り』によって始められたということです。日本では、公的であると私的であるとを問わず、土木建築の起工にあたり、神式の地鎮祭をとり行う風習があります。福島にゼネラルモータースの原子力発電所が建設されたときも「公的行事」として神式の地鎮祭が行われました。この祈りの場では、「神様、自分たちの科学技術に過ちがあればそれを示し、お教えください」という謙虚な祈祷はありませんでした。むしろ、自分たちの意のまま、願望のままになる存在こそ「神」としてあがめられていたからです。しかし、ほとんどの国民は、この『偽りの宗教性』の構造に気づいていません。『安全神話』を説き、巨額の利益を生み出す原発の建設を支持するように「神々」に「強制」する、これこそ『マモン礼拝』の構造そのものではありませんか。このような『神観の混乱』が、今回の大事故に深い関わりがあったと思います。旧約聖書の預言者エレミアの預言は、経済第一主義を掲げる今日の日本に当てはまる「警告」です。

わたしの民は二つの悪を行なった。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。(エレミア書2:13) 

 人は心の空虚を満たすために、権力や富、快楽を人生の目標として行動します。それが、『偶像礼拝』です(エレミアは人が造ったこわれた水ためにたとえています)。エレミアが活躍していた時代も、神を見失い心が空虚になったユダ王国の民は「偶像」を礼拝し、「盗み、殺し、姦通し、偽って誓い」ました。今ここにエレミアを在らしめなば、現代日本人の『偶像礼拝』の現状を厳しく指弾するでありましょう。
 最近、安倍総理が伊勢神宮式年遷宮の祭儀に参加しましたが、これをもって、日本は、天皇を頂点とし、国軍を持ち、経済至上主義を信仰箇条とする「国家神道」への復帰を果しました。この「国家神道」を推進するエネルギーが「原発再稼働」です。
 次なる「偶像礼拝」問題は、被災地にはびこるカルト宗教です。ハーバード、プリンストンで学び、ペンシルベニア大学で神学博士取得したMS師は、NHKこころの時代にも出演、仏教関係の多くの書物の著者として有名ですが、震災後、たびたび被災地を訪問、郡山で法然上人に関する講話をしました。私も、親しい寺のご住職に誘われ参加しましたが、その会場は異様な熱気が漂って、参加者をトランス状態に導いていました。極めつけは、「皆で、東に向かい、40年間電力を供給してくれた原発に向かって「ありがとう」と合掌しましょう」というよびかけでした。これは、カルト宗教のマインドコントロールそのものではありませんか。福島にはこの他にも、いろいろなカルト宗教がはびこっています。
 もちろん、われわれは、仏教であれ、神道であれ、人が真摯に信じている信仰は尊重すべきであって、「偶像礼拝」などと批判すべきではありません。私が指摘したいのは、そうではなくて、人間の欲望の達成を目標として神様や仏様を『利用』する偽りの宗教性です。
 そして、エレミアは、人の眼には隠されている淫行(現代的には、ポルノ、売春、出会い系サイト)に対しても、深い警告を与えるのではないでしょうか。震災原発事故以降、仙台や郡山のsex industry--性産業は、大盛況です。もちろん、当地に特有の現象ではなく、日本全体が蝕まれているように思われます。性産業は4兆円とも5兆円とも言われています。人の眼に触れないところで、女性の「人格の尊厳」の崩壊が進行しています。「罪」に対する感受性が鋭かったエレミアは、「地位ある人もそうでない人も、どうか、神様の前で真実に生きてください」と全国民に向かって「哀願」しました。しかし、聴きいれられませんでした。エレミアが見聴きし、「腸痛む」ほどに哀しんだ現実は、FUKUSHIMA、否日本の現実でもあります。

人の魂の汚染
 放射能汚染という思わぬ出来事に遭遇し、私は、原発によって生じた第三の汚染—即ち、『人の魂の汚染』について、深く思いめぐらせるようになりました。そして、詩人中原中也の『汚れつちまつた悲しみ』という「言葉」に出会ったのです。悲しみさえ汚れてしまう自分を含めた『人間の罪』の現実、私はそれを確かに見聞きしました。
 このような事態から、われわれは、如何に救い出されるのか---。そのヒントとなる映像が、先日NHKで、「激動の中国」というドキュメンタリーとして放映されました。今、中国では、宗教や倫理の啓発運動が、非常に活発化しているようです。これは、注目すべき現象です。儒教やキリスト教に救いを求める人々は、口々に「われわれは拝金思想の犠牲になった。」と告白していました。急速な工業化社会になって、豊かになった人も、また、逆に貧しくされた人も、異口同音に<心の空虚さ>を訴えていました。これは、一種の「底着き体験です」。中国では、すでに「拝金思想」からの脱出が大きな、宗教思想的うねりとなっているようです。日本ではどうでしょうか。そういう深い呻きの声が上がっているでしょうか。

雪よりも白くなるように
 聖書には、汚れから清められるという「希望」が示されています。
詩篇51篇を読んでみましょう(注1)。

51-3:御慈しみ(ヘセド)」、深い御憐れみ(子宮)をもって--全き無力のなかにあって、父であり、母である神様に向かって助けを叫び求めます。
51-5:私の罪は、常に私の前に置かれています。--深い罪の告白。
51-6:あなたに、あなたのみに私は罪を犯し—-罪は通常、対人関係に於いて自覚されます。しかし詩人は、そういった相対的なことではなく、神の前における絶対的な罪、存在論的な罪を言っています。
51-7:母がわたしを身ごもったときも—-ここでも「罪」が法的な問題という理解から「存在論的なもの」という理解へと深められています。
51-9:ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように。「雪よりも白くなるように」--イザヤ書1-18参照。
51-10:あなたによって砕かれたこの骨—心理的に解釈すれば、今回の震災、原発事故で多くの被災者が体験している「学習性無力感」(注2)。
51-19:神のもとめるいけにえは、打ち砕かれた霊、打ち砕かれて悔いる心を、神よ、あなたは侮られません—神は『犠牲』を喜ばれません。この傷つき、ぼろぼろになったこの身を、そのまま献げればよいのです。

 原発事故という過酷な体験を通して、私どもは、三重の汚染から清められることを、切実に祈り求めています。原発事故により明らかにされた、『私の罪』また『私達の共同の罪』からの解放を祈り求めています。神様の揺るぎなき『真実』にのみ縋り、呻いては仰ぎ、そしてまた、仰いでは呻いております。
私の話はこれで終わります。ご静聴ありがとうございました。

注1:高橋三郎・月本昭男著、教文館出版部『エロヒム歌集』から多く教えられました。
注2:
努力を重ねても望む結果が得られない経験・状況が続いた結果、何をしても無意味だと思うようになり、不快な状態を脱する努力を行わなくなること。米国の心理学者マーティン=セリグマンの心理学理論。