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無教会全国集会2013

2013年度 無教会全国集会ブログ

讃美と証の集い

2014-01-05 13:24:40 | 

自由参加プログラム 讃美と証の集い

11月3日(日)8:00~9:00  3階「陽光の間」
(讃美をともに歌い、数人の証に耳を傾けるプログラムです。)

証をして下さる方のプロフィール

早川 真
1989年生まれ。滋賀県生まれ。クリスチャンホームに生まれる。
13歳の時、洗礼を受ける。
2008年大学入学とともに登戸学寮に入寮。
2012年和光大学卒業。
現在フリーター。

吉村 孝雄
1945年 中国の満州生まれ。1967年5月末に、矢内原忠雄の一冊の本でキリスト教信仰を与えられた。それによって考え方が根本的に変わり、理科、数学等の教育を通して福音を伝えたいと願って高校教員になった。勤務先でキリスト教に関わりある書物の紹介を記した印刷物の発行、配布、生徒たちと放課後に聖書やヒルティなどの読書会を継続。1994年、み言葉を伝えるために教員を退職。月刊「いのちの水」発行、徳島聖書キリスト集会代表。
著書「原子力と平和」、「祈りの友」代表。

小野寺 友実
1992年生まれ、東京都世田谷区出身。自然に囲まれた生活に憧れ、2007年に島根県のキリスト教愛真高等学校に入学する。高校生活の影響により、キリスト教学校の国語科教員になることを志すようになり、2010年に国際基督教大学に入学。現在、国際基督教大学教養学部4年に在学中。
           
   讃美に用いた曲

誰でもキリストの内に(プレイズ&ワーシップ45)
人生の海の嵐に(新聖歌248)
主イエスはわたしのすばらしい友(リビングプレイズ99)


証1

2014-01-05 13:23:55 | 

早川 真

 僕は今回、この証しの場に出ようかとても悩んでいました。小舘元寮長に誘われたときは正直断ろうと思っていました。何を証してもいいかわからなかったからです。それで、このまま参加の申し込みをせず、うやむやにしようと思っていたところに、小舘知子さんから手紙が届きました。前回参加した冬季聖書集会の写真と一緒に、「証しは、引き受けてくださいますか?」と書かれた便箋が入っており、いよいよ返事をしなければならなくなりました。しかし、その時の僕の精神状態は非常に悪く、自分の信仰に疑問を抱き、日々の仕事に行くだけで精一杯でした。それで、返事ができないまま、苦しみながら過ごしていました。
イエス・キリストによる救いがどうしても実感できないことに自分の信仰の危機を感じていました。仕事場での人間関係にも行き詰まり、その日の仕事を終えては次の朝まで祈っては寝て、起きてはまた祈るといった状態でした。

 ある時、断食して祈りたいと思い、お昼に仕事が終わったあと家に帰り祈り始めました。
しかし夕方にもなると、お腹が減りすぎてどうにも我慢できなくなりラーメンを作って食べ、断食などとてもできるものではないと思いました。失意の中で聖書を読み、ひとつの箇所が目につきました。イザヤ書58節にこう書いてありました。
「そのようなものがわたしの選ぶ断食苦行の日であろうか。…私の選ぶ断食とはこれではないか。悪による束縛を断ち、軛の結び目をほどいて…飢えた人にあなたのパンを裂き与え…同胞に助けを惜しまないこと。」
この箇所を読んだとき、自分の祈りが聴かれない理由がわかったように思い、ひとつのことが頭に浮かびました。それは、以前、荒川沿いをジョギングしていたとき、目にしたホームレスの人のことでした。

 外は小雨が降っていましたが、コンビニのATMで給料日前に残った最後の三千円を引き出し、それを持って、以前ホームレスの人を見かけた場所まで急ぎ足で向かいました。向かう道中、神の御心なら必ずホームレスの人に出会うということだけを信じていました、しかし、以前見かけたあたりまで来ても見当たりません。橋を渡り、対岸の橋の下を探しましたが気配はなく、諦めかけて戻ろうとした時、街頭に照らされた積まれたゴミの中に人のような形が見えました。しばらく立ち止まり、信じられない気持ちで人かとうか見極めていると、ついに僅かに動いたのを確認しました。
 急に恐ろしくなり、傘をフェンスにかけ、心の中で神様を呼びながら近づいてきました。
「すみません」と声をかけたときすぐにその人は立ち上がり、唐突に差し出した僕の手の中にあるお金を見て当惑しながらもとりあえず受け取り、「お金…」とつぶやきました。そしてすぐ、「ボランティアか何かですか?」と聞かれました。僕は「いや、違います。」と言うのが精一杯で、何も言えないその人の顔を見上げていました。自分の状況を説明できずに、苦しげな僕を見てその人は、「別にお金がほしくてこんなことしてるわけじゃない」また、「こんなものもらってもしょうがないんだけど」といいながら責める様子は全くなく少し沈黙が続きました。お金に頼る生活を捨てて、自分の生き方を貫いているその人の前に、僕は本当に小さくなるしかありませんでした。やがて「いいんですか?」と言ってお金を受け取ってくれました。僕は最後に「もし必要なことがあれば使ってください。」と言い、逃げるようにその場を後にしました。家に帰った僕は、自分の罪の許しを実感したいがために祈りました。心の中に思い浮かぶ罪は、「僕は今まで自分以外のすべての人を、また神であられる、あなたをも自分のために利用してきました。」というものでした。心のどこを見回しても、これ以外のものは思い当たらず、今まで犯してきた罪はすべてこのことに原因があるように思いました。しかし、悔い改めの祈りが聴かれたという確信もなく、不安なままでまた朝を迎えました。

 翌日の仕事中の精神状態は最悪で、それを悟られまいと神経を尖らせ、いっそのこと仕事をみんな辞めて実家に帰りたい、と限界を感じていました。しかし、原因は僕の心の中にあり、クリスチャンである両親もこの問題だけはどうすることもできないだろうと思いました。なんとか仕事を終え、家に帰りしばらくすると母親から電話がかかってきました。「今、話していい?」と聞かれ、仕方なしに「いいよ。」と答えました。精神状態の悪いことを感じ取ってくれた母は日々の証を2つほどしてくれ、なんとか励まそうとしてくれました。そして「もうひとつだけ話していいか?」と聞かれたとき、ついに「そんな証やったらもう聞かれへん。」といい、堰を切ったように泣き出してしまいました。絶望の底にいる今の自分にとって、神様を信頼して助けられた日々の証は、苦しくて聞くに耐えなかったのです。

 小さいとき以来、親の前で泣いたことのなかった僕と一緒に母は同じように泣いてくれました。そして僕のプライドを察してくれたのか電話を切ろうとしました。僕は涙と嗚咽で出ない声で、必死に「切らんといて。」と頼みました。本当は誰かに打ち明けたいこの胸の苦しみを、悲しみを一緒に苦しみ、悲しんで欲しかったのです。僕はこの時、泣く者と共に泣くことのできる母の愛を実感しました。そして「時があるんや。」と何度も何度も繰り返してくれました。電話を切り、涙を拭いてしばらくして今度は父親から電話がかかってきました。
 父はこのことを母から聞いて、具体的な提案をしました。それは、今の仕事の一つを辞めることでした。その時、僕はアルバイトを二つ掛け持ちして生計を立てていましたが、その辛い方をやめ、一時家に帰ってくるように言われたのです。僕は、両親はいざとなったら回復するまで実家に呼び戻し、援助をしてくれる親だということを知っていました。だから、今までどれだけ辛い精神状態のときでも絶望せずやって来れたのだと思います。しかし、この提案を受けてもそれが本当の解決になると思えず、従う気になれませんでした。その後、信仰のことについて話しているうちに罪の問題になり、僕は「自分以外のすべての人を、また、神様をも自分の為に利用してきた。」と言い、自分の今までの人生はその罪で貫かれていると感じることを伝えました。すると父は「神様というお方は人間に利用されるようなお方じゃない、お前の信仰は間違っている。」と、はっきり言いました。生まれて初めて信仰の間違いをはっきり指摘され、戸惑い、それでも「信仰というものはこういうもののはずだ。」と腑に落ちないように訴える僕に、思い出したように父は言いました。「お前は昔から、いい子やったけど頑固やった。従順に聞き従うことができなかった。お前の罪はその頑なさ、頑迷なところや。その罪を悔い改めなあかん。」僕は不思議なほど説得力を持って迫ってくる父の言葉を呆然として聞いていました。今まで頑固と言われたことは度々ありましたが、それが悪いことだとは少しも思わず、まして罪だと指摘されるなど夢にも思いませんでした。しかし、父と話すうちに自分がいかに頑固で、それゆえに傲慢であるかを思い知らされていきました。そして、父の言うとおり辛い方の仕事を辞める約束をしました。

 電話を切り、すぐにアルバイト先の社員に電話をしました。以前仕事中に精神状態を崩し、理解のある態度を示して下さったその人は、僕の話を聞いて、「今うちが人不足で大変な状態にあることは知っていると思うが、そういうことなら仕方がない。いつ辞めたいか。」と聞かれました。僕は今まで、キリのいいところまで働かず仕事を辞めたことは一度もなく、それを誇りにしていたのですが、先ほどの電話で父に言われたことがもう一つありました。それは、「いいカッコをする。」という、僕のプライドの高さについての指摘でした。

 「本当は弱く、情けない自分の姿を隠し、自分のスタイルを決め、それを貫くことによって自分を守っている。」という、一番触れられたくない部分を認めざるをえませんでした。
僕は、「言いにくいですが…」と言いながら明日から辞めたいと伝えました。すると、了解して下さり、その日のうちに仕事を辞めることが出来ました。翌日、借りていた制服を会社に送り、実家に帰りました。その間に、苦しみの中で返信のできなかった6件ほどの連絡をみんな返すことができ、今回のお誘いもその内の一つでした。

 罪を示されてから3日目の夜、両親とともに食事の前に祈ったとき、涙で祈りを中断せざるを得なくなりました。今までの自分の間違いだらけの信仰を認め、それでも真剣に神に希望を持って歩んできたことを思ったとき、理屈を超えた涙が溢れてきました。それはきっと悔い改めの涙であり、神様への感謝の涙だったと思います。今は自分の罪を知り、その罪の後始末をする期間だと思っています。神と人の前に許しを請い、人生の方向を転換するためにイエス・キリストが十字架にかかってくださったと信じて歩みたいと思います。




証2 神の導きのあと

2014-01-05 13:23:00 | 

吉村 孝雄


 以下は、キリストが何をしてくださったかという事の一端である。
 わたしは、大学4年の5月末ころまでは、全くキリスト教には関心がなかった。私の家族もそうであったが、大学においても、一番激しい大学紛争の時、日夜学生運動という騒然たる雰囲気であり、特に京都は非常に激しく、その中でも理学部学生は熱心な者が多かったが、全て無神論であった。キリスト教に関する話や雰囲気はゼロという中である日、周囲のマルクス主義に影響された学生たちとの関わりが日夜あったので、たまたま古書店で見つけた矢内原忠雄の「マルクス主義とキリスト教」を見つけた。さらにその同じ著者の「キリスト教入門」という小さな本が古本屋の一角にあったので、その名前をさきの本で知っていたこともあり、何気なく立ち読みして、ある1ページの中の短い記述―それは十字架のキリストに関する聖句の説明であったが、そのわずかの言葉に不思議な霊的ひらめきのようなものを感じ、立ち止まり、しばし、その受けたものを強く心に受けていた。それが私のキリスト信仰の出発点であり、それから今日に至るまで、その信仰の核心とその真理への確信は変ることなく続いている。

 信仰を持つことなど、それは全く私が願ったことでなく、誰かに言われたことでもなく、突然のことであって、そこから私の生涯が変わったのである。それはまことに、生けるキリストが私の魂に働きかけてくださったことであった。

 救いは一方的な恵みであるというのを深く実感してきた。(エペソ書2の5)
わたしが当時抱えていたもう一つの大きな問題、それは、科学技術が人類を滅ぼすのではないかという疑念があり、日本の最初のノーベル賞受賞者であった湯川秀樹がその問題に触れた「人間にとって科学とは何か」という本がその頃出版され、それを読んで一層その事が念頭にあった。今後の人類の未来のことにかかわることであるが、湯川博士のような物理学だけでなく、文学や平和運動、思想方面にも詳しい人が、どう考えたらよいか分からないと書いているほど困難な問題だった。
 そういう問題の他に家庭の問題、健康問題もあり、いずれも解決が困難と思われるような八方塞がりといった状況だった。しかし、そうした一切の困難に関して、そのキリスト教の本のわずか1頁の箇所から、ひらめくように解決の道が見えてきた。それはキリスト教の研究をずっと続けたからというわけではなく、山に籠もって、仏教のように悟りを開いたわけではない。直接に神から示された―啓示としかいいようがない。

 私に、そういう事を与えてくれたのがキリストだった。だから私はそれまでいろいろなものがずっと覆っていたものが、山がずっと霧に覆われていたのが開けるように、見えてきて、こんな大きな真理があるのを全く知らなかったという思いであった。
 キリストが、私の罪を十字架で担って死んでくださった。あの十字架の上から、お前の罪は赦されたのだと言って下さっている― そんなことは、以前なら全く心に留めなかった事だが、それが魂の奥まで入ってきた。すでに死んでこの世にいない人の一冊の本からそんな不思議な大きな働きがありそれ以後、そこで与えられた信仰は45年を越えて続いている。
 それは本当に生きた神、生きたキリスト、聖霊―そういうものの働きとしか言いようがない。だから、私は聖書に記されているキリストの神性を示す多くの箇所を学ぶ以前に、それとは別に、キリストという方に神性をはっきりと感じてきのである。それは理屈の問題ではなく示されたもの。キリストは、こういうことを私に与えて下さった。それは人生の最大の宝となった。

 それから、私は、これを伝えたいと生涯の方向を転換した。
 信仰とはこのような私自身の経験からも、専門的な学問がなくても経験がなくても、神から与えられるものであり、はっきり受けたらただちに伝道ができる。神学校に行かなければ とか、ギリシャ語をしなければとか、人生経験を積まねば…等々そのような事は全くなくともできる。
 私の内には、高校教員になって理科を教えつつ、福音を伝えたいという強い気持ちが芽生えた。そして公立高校の神様を全然知らない人のただ中で伝えたいと願うようになった。
 高校教員として初めて赴任して2ヶ月後から放課後に希望の生徒を集めての読書会をすると生徒たちに告げた。それは、信仰を与えられてちょうど一年だった。すると、生徒たちが17~8人位の人が来るようになり、その中の4人ほどは今も信仰を続けている。
 この最初の赴任校は公立の昼間定時制高校だった。午前に学校に来て、4時間の授業を受け、午後から夜10時半まで8時間働く。それを1週間したら、今度は朝4時すぎ起床、昼すぎまで仕事をして、今度は午後から夕方6時まで4時間、学校で勉強する。そして9時に消灯。この2交代の勤務で生徒は分けられていたので、二つの学校が合わさったような形態だったので放課後の読書会も二つすることになった。
 私は、赴任して、そこに学ぶ生徒たちの真剣な生き方に驚かされた。本当に健気なというか、胸を打たれるような方々がいた。家が全焼してしまい、一般高校に進学できなくなったので、自らは体が弱いのにこの定時制高校に入り、自分の働いたお金で、弟を全日制高校に行かせているとか、早朝4時過ぎ起きで仕事をする週は消灯が9時と早いので、試験が近づくとベッドで懐中電灯つけて勉強する、そのような自由時間が著しく少ない状態であっても、一部の生徒は私がやっていた放課後の読書会に参加していた。また家庭に悲劇が起こり、新聞でも報道され、通常では耐えがたいような家庭の不幸の中を、この定時制高校に入学して私の読書会に参加して信仰を持つに至った生徒…、また、高校も定時制、その後卒業後も働きながら准看護婦、さらに高等看護師資格等中卒から以後はすべて自分が働いて資格を取得して看護師となった者…等々、生徒たちから教えられるという事は多かった。

 その後、一般高校に転じたが、そこでは正課のクラブ活動の一環として読書クラブというのをつくり、そこでヒルティや聖書、プラトン、論語などを生徒たちと学びつつ、そこから聖書を指し示していった。そこでも同僚教員と生徒のなかに信仰を持つ人が与えられた。

 次に、私は教員が一番行きたがらない所―夜間定時制高校――へ転じることを以前から示されていた。単に転勤希望を出すだけでなく、教育委員会特別面接までして転勤を希望した。
 その結果、夜間定時制高校に転勤となったが、そこは大変な、おそろしい学校で、あのような凄まじい高校は後にも先にもないのではないかと思う。わずか三ヶ月で全日制高校から出向していた三人の先生が辞めていく。あまりのすさまじさに、教頭が眠れなくなり、精神状態が不安定となり、出勤できなくなり、辞表を出したほどであった。
 その高校は、私が転勤する数年前からすごい暴力が徐々にはびこり、私が赴任したときに以前からの教員に聞いて驚いたのは、夜まで練習していた女子バレー部の部員たちがおしゃべりしつつ帰っているとき、そこに向って「うるさい!」とどなりつけて、三階から椅子を投げおろしたり、教師の対応が悪いと言って、全日制の教職員室に乱入し、竹刀をもって教師の机をバンバンたたいていくなどの事があったと聞いていた。私が赴任後、初めてその夜間高校の職員室に入ったとき、なんと教師の椅子に座り、土足を教員の机にあげ、酒を飲んでいる者がいた。それが生徒(20歳を過ぎていた)の一人だった。しかも教員はそのすぐそばにいたのである。あまりのことだったから、今でもその光景は忘れられない。
 私が赴任した当時は、授業中に生徒を呼び出して脅迫するとか、酒やタバコを飲み、室内の蛍光灯を椅子で破壊する等々異常な暴力行為があった。そしてそれを指摘するとなぐりかかってくる…私はそのような暴力を制止しようとして、思い切り殴られ蹴られるという激しい暴力を受けた。

 そうした考えられないような状況に直面して、あの時ほど必死になった事はなかった。そのような常軌を逸する中で、どうすべきなのか。他の先生方、校長や教頭も含めて一切注意もしようとしない。ただ傍観するのみだった。そこで信仰者としてどうするのかというのを本当に突き付けられた。そこまでひどい状況は、問題がかかわっていたからだった。地区の成人している者たちが、なかには勉強のためでなく、学校荒らしのために入り込んだ者が生徒として幾人も入学してきて、彼らとともに動く連中がいて、彼らがその暴力の中心となっていた。解放同盟という組織を盾として、彼らは何かあるとその組織が教師をも辞めさせることもできるのだとおどしていたし、教師も校長たちも、そして教育委員会までもそれによって恐れをなして放置していたのだった。

 私は、そのような限度を大きく超えた状況にあって、何とか打開したいと、職員会議に何度も解決に向けての話し合いをもちかけ、全日制、定時制を兼ねた校長(教室などは、全日制と定時制が共用していた。)に直訴しても、同和問題がからんでいるために、自分の地位を失うことを恐れて誰も動こうとしなかった。教育委員会すら知って知らぬふりをしていた。教頭がすでに述べたように、辞職願いをだして出勤しなくなったため、学校がますます荒れていく、そこでいかになすべきか、同僚教員や校長、あるいは教育委員会にまで出向いてその深刻な事情を訴えても誰も動こうとしない、そんな状況の中で、ただ一つ残っている手段は、そのようなひどい暴力を市民として受けているということを外部の組織―警察に直接に訴えることであった。彼らのひどい乱行を制止しようとしたとき、暴力を受ける、そのときに直接に警察に単独で知らせるといういわば捨て身の手段だった。そしてそのためには同僚教員が協力してやるべきだと職員会議で強く主張してもなお、誰一人賛成しようとしなかった。そのため単独でやらざるを得ないことになった。

 そのような決断をして実行したとき、解放同盟のその地域の幹部たちが暴力をしていた生徒たちの一部の父親たちと共に録音機をもってやってきて、学校を臨時休校にさせて、校長や全部の教員が集められた中で、私がの生徒を差別し、陥れて警察に知らせたと言って怒り、学校を辞めさせろと、ものすごい剣幕でやってきた。そういう大きな混乱の中で、必死で説明し、なぜそのような決断をしたのかを相手がときには私を罵倒し、ときにはなぐりかかろうとしてきたこともあった。語り続けていくうち―それは5時間にも及んだ―、突然その解放同盟の幹部が言った。
「分った、差別していたのは、実は校長や他の教師たちだ。の人間(生徒)がいくら間違ったことをしても全く指導も注意もせず、動物扱いして放置してあったからだ。」この思いがけない転換により、解決へと道が開かれた。それはまったく予想していなかった展開であったために、本当に私には忘れられない経験となった。

 地区出身の生徒たちのなかにはひどい暴力をする者が何人もいたが、中にはそうした混乱のただ中にあっても、私があくまで彼らに対して関わり続けようとしたとき、私の味方となって車の免許もなかった私を乗せて遠くの教頭や校長の家まで運んでくれて解決に協力してくれる生徒もいた。また、すでに述べたように非常手段をとったのちに、解決に向ったあと、私が差別などしていないというのがわかると、ほかにも暴力を止めていった者もあり、また、かつてひどく荒れて暴力的だった生徒(成人している者)が、暴力を止めてからは、態度がまるで変わって、夜遅くになって最終列車もなくなったとき私を20キロ近く離れた自宅まで送ってくれたこともあった。どのような外見や行動にもかかわらず、神の御手は働くということを現実の厳しい状況から知らされたのは大きな学びとなった。

 その後も、激しく私を罵倒し、攻撃して、私を辞めさせると息巻いていた地域の解放同盟の指導的人物が不思議な事に私の一番の理解者になった。そういう事を通してこの世にはおそろしい事態があっても、それも大きな神様の鍛錬なのだという事を知らされた。信じて決断するときに、主が実際に働いてくださるということを深く知らされた。そしてそういう中でも放課後の読書会は継続していくことができ、そこから神を信じるようになった人も起こされた。

 その大きな体験は今日に至るまで、深く私の内に根付いている。その高校が静まって授業も正常にできるようになり、5年ほど経った頃に、大阪のある方から一人の中途失明者を紹介された。
 その盲人は、キリスト教信仰はまだごく初歩的なのと、徳島には友だちもいないので、その人のところを訪ねてほしいとの依頼だった。そこで訪ねて行くと聖書の学びを希望されたのでそれから学ぶことになった。そこから点字を覚える必要が生じ、県立盲人センターに出向いてそのための用具など揃えて点字を打つことができるようになったころ、そこでまたもうひとりの足と目の重複に悪い児童を紹介された。その子どもは肢体不自由の養護学校の生徒であった。その子どもは肢体不自由児の施設なので、盲人としての点字教育を受けていないでできれば、点字での教育をやってもらえないか、と。そういうことで、わずか2週間ほどで、続けて2名の全盲の人のお世話をする事になった。それでこれは、神が、盲学校に行けという事なのだと分かり、盲学校に転勤希望をだして盲学校教師となった。私たちの徳島聖書キリスト集会には、視覚障害者が多いのは、そのことがきっかけとなっているが、それも私自身が考えたことでなく、思いがけない人からの一本の手紙から発したことだった。ここにも、重要なことは自分の考えでなく、自分以外のところから、―神から与えられるという真理を経験させていただいた。
 与えられたことを、祈りのなかで、これは神からだと確信できたとき、その道をしっかりと選ぶことの大切さを思う。

 その後、盲学校にて、おどろくべく不正がなされてきたのが判明した。それは、先に述べた車いすで全盲という重複障がいの生徒(養護学校生)を、盲学校高等部に入学できるようにしようとしたところ、校長から車いすの人を入れる施設がないと拒まれた。だが、私がすでに盲学校に赴任して1年になるので校内事情もよくわかっていて、トイレなど一部を特設、あるいは改造すれば十分入れるのだった。さらに、よく調べると盲学校の寄宿舎には、本来高等部の専攻科の生徒が入る施設なのだが、目が見えない生徒でなく、驚くべきことにすべて正常の視力の生徒たちばかりであることが判明した。まったくの健常者が盲学校生となっている、そうすると、彼らの費用は特殊学校生徒ということで、県外出身の者も多かったが帰省、授業料などすべて支給される。さらに調べるとそのようなことは法律的にも許されないことが判明した。さらに、かつての盲学校教員をしてのちに一般高校に転勤した知人の教師などのところにも出向いて調べたところ、みなそのことを不審に思っていて、さらに追求したところ、以前の校長がみずからの名誉心から徳島盲学校に強引に理学療法科を付設したのであった。当時全国の盲学校で理学療法科が付設されていたのは、盲人の数も多い東京と大阪の盲学校2校のみだった。大都会の盲学校だけしか存続できないのであったので、徳島盲学校に併設されると聞いて、当時の盲学校の幹部教員は驚いたと私に話した。

 案の定、その理学療法科に視覚障がい者を入学させても、理学療法士の国家試験の合格者は皆無であった。それが続いたため、それでは徳島盲学校での理学療法科の存続が危ぶまれることになり、それを強引に付設させた校長が、職員会議で、今後は、晴眼者(正常の視力の者)を、法律的には違反だが、入学させると言明したというのだった。(その頃の教員から直接に確認した)。盲学校には、矯正視力が0.3未満でなければならないのに、視力が、1.2などの正常者が高等部専攻科の理学療法科の生徒として長年在籍してきた。そして彼らは、盲学校生徒となるので、授業料や寄宿舎費用など無料だった。そのために15年ほどにもわたって、全く正常な視力のものを、視覚障がい者と偽って入学させてきたという事実上の公文書偽造というべきことが行なわれてきて、その結果、晴眼者が盲学校の寄宿舎には全員が占めるようになって、私が本当の視覚障がい者を入れようとしても門前払いを食わせるというほどにまでなっていたのである。(全盲などの生まれつきの視覚障がい児童、生徒は、盲学校に隣接する別の施設に住んで生活して通学していた。)

 それを追求した所、校長、教頭、高等部主任、理学療法科長等々、盲学校の幹部が私を一番離れた幼稚部の教室まで連れて言って、何とかして私を黙らせようと延々、4時間以上にもわたって圧力をかけてきた。それは視力検査の診断書は医者が書いているので不正な診断書を長年書いてきた眼科医もかかわる公文書偽造ということになるから、大変なことになると恐れたのであった。しかし、私は断じて受けいれない、そんなやり方をして不正を通そうとし、本当の視覚障がい者を締め出すなどは到底認められないと強く主張したので、この問題は、いろいろの過程があったが2年にわたって続いた。

 しかし、それでもなお、止めようとしなかったので、私が盲学校赴任当初から、「生活と読書から」という文書を書いて、教職員に配布していたが、そこにその長年の盲学校の不正な事実を明らかにした。その文書は、当時盲学校教員として経験豊かであった溝口正氏(故人・元浜松聖書集会の代表者)にも送付した。それを見た溝口氏が、友人であった当時社会党の代議士に見せたところ、その代議士が、国会の内閣委員会で取り上げた。そしてその代議士が、徳島にきて私と直接に会って話を聞くということになり、この盲学校の不正入学問題は全国紙各紙にも掲載されて大きな問題となった。そのため、私は内部秘密をもらしたということで、翌年の春、盲学校から、80キロ離れた西部の高校に転勤を命じられた。

 その時、全く意外なことに、ろう学校の校長が、私をろう学校に採用することになった。その校長とは、先に述べた全盲かつ車いすの中学生(県立の養護学校生で、肢体不自由施設にいた)で4年間ほど点字での教育を受け持つというボランティアをしていたときの養護学校の教頭であった。その教頭が、私が無償で何年も盲人の子どもを点字教科書で教えたということで、私をよく知っていたため、発令後であったにもかかわらず、私をろう学校の教員として採用するということになった。それで聴覚障害者と深い関わりができた。ここでも私自身は、ろう学校に転じることは全く考えていなかったから、予想しない展開になったのである。盲学校教師として、何年か福音を伝えたら、一般高校に戻って、理科教師を続けながら高校生に福音を伝えたいと思っていた。
 しかし、次々と私の思っていたのと違ったこと、信仰そのものがそうであったように、思ってもいない方向に、生きた神様の働きがけで導かれた。

 夜間定時制高校では、一番激しい大変な所に転じたことになったが、そこで本当にいかなることにも代えがたいような学びをした。神様は確かに生きて働いておられる。どのように八方塞がり、暴力を振るう危険な相手であっても不思議と神様の力は働くということを目の当たりにした。

 こうしたことは、いくら本を読んでもあのような経験はできない。生きたキリスト様を知らせる働きを続けたい―この気持ちは、そのような事を通してさらに深められた。もともと全く私の考えになかった視覚障害者、聴覚障害者、肢体不自由障害者との関わりが自然に与えられた。
 その後、徐々に、家庭集会が増えていった。障害者や病気の方々を相手にしてみ言葉を語るということになると、そこへ行かなければならない。時間が足りなくなってきた。教職をしながら、いろいろなキリスト教の集会の責任を続けるのが徐々に困難となってきて、退職時には、週に3~4回も集会を受け持つようになっていた。どうしても両立が困難になった。突然起こってくる集会員の葬式なども私が司式するようになっていたため、それには休暇を取らねばならなくなる。親戚、身内ならまだしも、そのような関係ではない人の葬儀の為に、突然、その日になって休ませてくださいということになり、とても苦しい思いをすることが折々に生じるようになった。

 数年の祈りと熟考ののちに、家族や集会の一部の人たちも反対する中、退職を決断した。48歳のときだった。それによって色々な新しい方々と出会うことになったし、新たな昼間の家庭集会をも持つことができるようになった。私自身も信仰の幅を広げる事ができた。各地の色々な方々、信仰のタイプの方々と交流し、学びをし、新しいつながりを与えられた。
 退職するまでは、教員の仕事に大部分を費やさざるを得ないわけで、私が担当する生徒以外の人たちに福音を語ること、伝道に関してはその残りのわずかの時間しかなかった。家庭集会によって、各地、信仰を持った人が与えられた。家庭事情のため日曜日に来られない人、職業的に美容師、看護師なども日曜だったら来られない人もいる。そのため、退職以前に、私が考えたのは、夕拝だった。誰も来なかったらどうしよう。それでも時間をかけて集会場まで行かなければならない。一人でも二人でも、ずっと続けなければならない。覚悟の上で決めた。

 もう一つは祈りについて。私は教職を辞してみ言葉を語ることに決断したとき、「祈りと御言葉のために」と書いた。祈りがなかったら、み言葉は語れない。自らはみ言葉にしばしば従えないにもかかわらず、それを語ることは、そのような者をも赦して下さる主の愛が与えられなければできないことである。祈りによって自分のいった事、した事の間違いを静かに知らされる。そしてイエス様の慰めと力を頂ける。私たちは弱く罪深いために、何をするにしても絶えず間違え、罪を逃れる事ができない。祈りによって赦され、また新しくイエス様と出会える。無教会には、職業に毎日のほとんどの時間を費やした残りとか、定年退職後の余った時間を伝道に使うということでなく―もちろんどんな形であれ福音を語ることは大切だが―若くて働くエネルギーに満ちた時間を福音伝道のために捧げる人が生まれて欲しいと思う。日本の為に世界の為に。

 私が経験してきたことは、みな後から振り返ると、思いがけないことが心にふっと浮んだり、あるいは思ってもみなかったことが生じ、出会いがあった。これはみな、私の考えや意志を超えたところから―神(キリスト)がなされたことであった。
 罪に苦しむ人間を真に救うのは何か、社会や政治問題の該博な知識でも研究や議論でもない。そのようなことは、無神論者でもよくなすことができる。そうした議論や研究をいま死にたいほどに苦しんでいる人に与えて何の力になるか。自らの命を断つ人は、3万人近くもいる。さらに未遂のもの、死を願っているも入れるなら何十万という人たちが苦しみのただなかにおられる。そのような人たちには、社会的政治的問題への研究や議論によっては救われないし、そうした文書は読もうともしない。
 社会的問題に関心をもって可能な対処をすることはもちろん大切である。しかし、人間の魂の救いはまったく別の問題である。どんなそうした知識をもってもそれらが救うことはできない。かつて私も置かれていたあの闇に苦悶し、罪や孤独、あるいは病苦の苦しみを真に救うのは十字架による罪の赦しと復活のキリスト、聖霊の与える永遠の命のほかはないのである。

 


証3 闇を照らす光

2014-01-05 13:22:09 | 

小野寺 友実

 皆さんこんにちは、国際基督教大学4年の小野寺友実です。今回のテーマは、「闇を照らす光」ですが、皆さんはこの言葉を聴いてどのようなイメージをもたれるのでしょうか。今日は、私が自分自身の経験を基にして考えたことをお話ししようと思います。
 私は、出身は東京なのですが、高校だけは島根県にあるキリスト教愛真高校というところに行きました。島根まで、夜行バスで12時間かかりますから、我ながらよくもまぁそんなに遠くに行ったなぁと思うのですが、今思うと光を求めてさまよい、島根に行きついたのかもしれません。周りの友人や家族は大好きだったのですが、東京という、たくさんの車が走り、高層ビルが立ち並び、人の多い都会の生活に違和感を覚え、「自分は生まれてくる時代と場所を間違えたのかもしれない」とずっと思っていたのです。中3になり、その違和感が募りに募っていた頃、愛真高校に通っている知り合いから学校を紹介され、見学に行きました。そして、大自然の中で寮生活を送っている高校生たちを見て、「これだ、私はここで生活したい」と直感的に感じ、入学を決意したのでした。

 愛真高校での生活は、一言でいえば本当に恵まれた3年間でした。愛真高校は、全寮制で全校生徒が50人しかいない、本当に小さな学校です。その中で、友達と一緒に生活したり、自然を感じたり、農作業をしたりする日々は楽しくてたまりませんでした。NHKの朝ドラ「あまちゃん」の主人公のように、東京になじみきれずにいた自分が愛真高校でのびのびと解放されたように感じました。たくさんの自然の恵みを感じ、友達や先生方からたくさんの愛をいただきました。もちろん、苦しいこともありました。小さな狭い社会ですから、友人とうまくいかなくなったり、共同体の中で責任ある立場に立った時はそのプレッシャーに押しつぶされそうになったりしました。それでも、どこかで誰かが見ていてやさしく声をかけてくれたり、あるいは一人きりで散歩にでかけ、星の美しさや海の広さに触れて、慰められたりしました。またつらいときには、礼拝での先生や友達のことば、聖書のメッセージが深く心に迫ってきたり、讃美歌を歌いながら涙が流れたりしました。そんな体験を通して、いつでもどんなときでも、どんなに自分が小さく弱い存在であっても、周りの人から、自然から、そして神さまから守られ、受け入れられているということを感じさせられました。神さまは確かにここにいる。そして、いつでも自分は神さまの御手の中にいて、そこに絶えず愛と恵みが注がれている。そんなことを信じずにはいられませんでした。それならば、私は一生神さまのご用のために生きよう。私はそんな風に思うようになっていきました。そして、高3のとき、進路を選ぶにあたって、私は教師になることを志すようになりました。自分は愛真で、たくさんの愛と恵みとを受け、また生きていくために大切なことを知ることができた。教育って大事なのだ。ならば、教育にたずさわり、自分が得たことを少しでも還元しよう。そう思ったからでした。東京になじめず、まさに暗闇の中にいた私に、生きる希望と目標という光が与えられた、そんな高校時代でした。そして、国語科の教師になるべくICUに進学しました。大学4年になっても、その夢は変わらず、私は教職をとり続けました。自分の道をまっすぐに照らす光があって、その道を一心に歩み続けている、そんなイメージでした。

 でも、そんな自分の中での光のイメージは、最近大きく変化しました。ターニング・ポイントになったのは、教育実習です。今年の6月、愛真の姉妹校である、山形県の基督教独立学園に行って、私は教育実習をしました。実際に生徒さんを前にすると、授業の場などで言いたいこと、伝えたいことがたくさんでてきました。しかし、それをどのように伝えればいいのか分からず煮詰まってしまい、校長先生に一度相談しに行きました。そのとき、私はこう問われました。「あなたは、自分を絶対化しているのではないですか?」つまりは、自分の経験や価値観、教材の解釈を絶対化し、それを生徒に教えこもうとしているのではないか、ということを私は問われました。そして、そのような姿勢では、生徒が本当に個性を発揮して成長していける授業や教育をつくりえないということに気付かされました。また、何かを絶対化して教え込むことは、一歩間違えば誤りを教え込むことにもつながるという、大きな危険をはらんでいます。私は先生とお話ししているうちに、いかに自分が大切なことを「分かったつもり」になって思い上がり、自分の知識や経験を絶対化していたか、そして無意識のうちにそれを人に押し付けようとしていたか、自分がまだ分かっていないこと、哲学的に言えば、無知の知ということを弁えずにきたかを思い知らされたのでした。

 その後の実習中も、実習から帰ってからも、「自己絶対化」という言葉は、私の中に鋭く突き刺さり続けました。自分は、さまざまなことを自分の理解可能な範囲で解釈して、分かったような気になって、それを絶対視していただけではなかったか。だから、独り善がりになってしまっていたのではないか。本当は、真理とはもっとずっと遠くて深くて、小さな私にはとうてい理解が及ばないものなのではないか。神の御心は、私が思っているよりずっと大きくて広くて、簡単に分かるものではないのではないか。自分の希望に叶う道を、神の御心だと思いこんでいただけではなかったか。自分が見えている範囲に比べて、見えていない範囲がいかに深く、広く、大きいか。そんなことに気付かされた私は、急に光が遠ざかって、うす暗い霧の中にぽつんと一人立たされたような気になりました。また、現実は簡単に想像を超えうる。私の思い通りはいかない。神さまどうして、と叫びたくなることもある。そんな現実があることにもはっきりと気づかされて、不安で、怖くて、前を歩くことがためらわれるような、そんな気持ちになりました。
 そんな漠然とした不安の中にいたとき、大学が始まり、大学礼拝の時間にこんな聖句を聴きました。

 自分は何か知っていると思う人がいたら、その人は知らねばならぬことをまだ知らないのです。しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです。(コリントの信徒への手紙一8:2-3)

 神さまに知られている。たとえ、現実が見えなくても、分からないことばかりでどう歩むのがいいのかも分からず、うす暗い霧の中にいたとしても、それでも私は神さまに知られている。それでもやっぱり神さまの御手の中にいて、そこに愛と恵みが注がれている。繰り返し繰り返しその聖句を思い出し、私はそんなことを思いました。では、何を通して神の愛と恵みが注がれていると思うのか。私にとってそれは、人との出会いや日々の学びを通してです。大学の友人たちとの、時を忘れるような語らいの時や、先生宅で開かれる聖書研究会、あるいは日々の学びや読書を通してです。語らいや、学びを通して、自分の思い込みが打ち砕かれる。分かっていなかったことが示される。新しい世界が開かれる。それは当然、傷つくこともあります。でも、ふしぎと気持ちのいい風が吹くことも感じます。そんなときこそ、神さまが人を通して働きかけてくださっていることを感じます。たとえ、うす暗がりの中を生きているとしても、歩いていくために必要な松明は、ちゃんとこの手に与えられている。この先どうなるか、本当のことが何か、はっきりとは分からないけれど、「今・ここ」に出会いや学びが与えられている。なすべきことがある。だから、今与えられている出会いや学びをめいっぱい大切にしたい。その人との出会いや、日々の学びを通して、神さまの御心は何だろう、真理は何だろうと打ち砕かれながら、考えながら求めていきたい。そして私にできること、やるべきことは何だろう、どのように生きていくべきだろうと絶えず問い続けながら、目の前にあることを一生懸命やりたい。そんな風に、松明を片手に一歩一歩歩んでいきたいと思うのです。そうすることで、きっとずっと遠くにある真理の光とつながっていくと信じています。最近、聖書研究会で、大学の先生から「祈りとは、神さまの御心と自分の思いとのシンクロナイゼーションだと思う」と言われました。そして、イエス様も、神さまの御心をたずねて熱心に祈っていたことをその会で気づき、とても印象深く感じました。私も、神さまの御心を尋ね求めて、祈りつつ歩み続けていきたいと願っています。