宮田咲子
まず、私の所での家庭集会がどのように始まり、今どのような形で続いているかを話します。一人でテープを用いての礼拝、聖書の学びを続けるうちに、誰かと共に礼拝をしたいという思いがだんだん強くなり「たった一人の姉妹を与えてください」と祈りました。すると、間もなく聖書を学びたいという人が与えられて、二人での集会が始まりました。お互いに小さな子供を抱えながら、それでも一生懸命でしたから、月曜はイザヤ書の学び、水曜はテープを聞いて、金曜は聖書通読というふうに続けました。それが一年くらいたって、こんな恵みを二人だけではもったいないということになり、玄関に「聖書を学んでいます。どなたでも来てください」と書いて貼ったり、子供の幼稚園のお母さん方に声をかけたりして、4人5人と集まるようになり、その頃から、日曜日の主日礼拝、水曜日の聖書集会が定着し、31年あまり毎週続いています。
今は、日曜日メンバーは8名で、輪番で司会、その日の聖書箇所の話をしますが、話の前に「御言葉に聞く」という時間を15分とります。聖書輪読の後、それぞれに御言葉に聴き入るのです。その沈黙の時間に教えられること気付かされることは多く、私たちはその時間をとても大切にしています。
それから、水曜集会は、日曜に参加しにくい人や、日曜は他の集会に行っている人が、6、7名集まって、毎週旧約と新約の学びを続けています。
その二つは私の家でしていますが、他に金曜日の午後、友人の所でも家庭集会をしています。その人は半身不随と失語症という不自由さの中で聖書を読み続け、2年3年と経つうちにキリスト信仰そのものに導かれ、また共に学びたいという人も与えられ、その人は大きな点字の聖書を持って、今は3人で毎週喜んで集っています。
それから、子供が小さかった頃日曜学校をしていましたが、そこに来ていた女の子が大人になり子供が産まれるようになって、「夫や子供にも神様、イエス様の話ができるように、きちんと聖書を学びたい」と言ってきました。それで、そこでも聖書集会を始め、しばらくして妹さんも参加するようになり、火曜日の隔週に3人で集会を続けています。
今、私の関わっている家庭集会についていくつか話しましたが、神様、イエス様を求める人が二人いて、そこに聖書があれば集会はできます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」との御言葉がいかに真実であるか、集会の度に実感させられます。そして、今日はここが一番話したいことなのですが、このように自由に、集会が誰にでもできるということ、それは当たり前のことではなかったのです。私も若い時少しだけ教会に行ったこともありますが、家庭集会といっても、みんなで集まって牧師先生のお話を聞くという場でしかなかった。それが、「監督なし、牧師なし、伝道師なし・・、洗礼なし、聖餐式なし・・、楽器と教壇を備えたる教会なし。神あり、キリストあり、聖霊あり、神と人とを愛する心あり・・」霊と真をもって神を拝する者たちの群れ、それこそがまことの教会なのだという道、このような無教会集会という道を内村鑑三が開いてくださったんだと思うと、本当に涙がにじむほどありがたいです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」という御言葉に生きることができる、この無教会という立場に与えられた特別な恵みを、決して無駄にしてはならない、もっともっと大切にしたいと思うのです。
たとえ大勢の人に伝道をして、立派な集会をすることはできなくても、家庭(生活)をささげて集会を続けるとき、誰にも頼らないで、何をも当てにしないで、ただ主の導きのままに進んでいくことができます。その小さな歩みの中で一人、また一人と共に集う人が起こされ、主の救いの御業がなされるのを見るに勝る喜びはありません。
伝道ということで、私が毎月書いている「福音」という読み物について。それは御言葉の感想というか、ごく日常の中で受けた恵みを書いただけの拙いもので、伝道の効果はほとんどないのですが、でも、それを何人かの方にお送りすることによって、思いがけない人との出会いが与えられ、遠くにも信仰の友が与えられるようになりました。どんなに小さなことでも、イエス様の喜びを伝えたいとの願いを込めて何かをなし続ける時、水の上にパンを投げるようであっても、いつか神様が用いてくださる。そう信じて、ここに集まった一人一人が自分にもできる伝道を、ただ主に期待してなし続けるなら、きっと、キリストの命に満ちた無教会の喜びも広がっていくと思うのです。