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無教会全国集会2013

2013年度 無教会全国集会ブログ

発題 「伝道と家庭集会」

2014-01-05 13:19:39 | 発題(2)

宮田咲子

 まず、私の所での家庭集会がどのように始まり、今どのような形で続いているかを話します。一人でテープを用いての礼拝、聖書の学びを続けるうちに、誰かと共に礼拝をしたいという思いがだんだん強くなり「たった一人の姉妹を与えてください」と祈りました。すると、間もなく聖書を学びたいという人が与えられて、二人での集会が始まりました。お互いに小さな子供を抱えながら、それでも一生懸命でしたから、月曜はイザヤ書の学び、水曜はテープを聞いて、金曜は聖書通読というふうに続けました。それが一年くらいたって、こんな恵みを二人だけではもったいないということになり、玄関に「聖書を学んでいます。どなたでも来てください」と書いて貼ったり、子供の幼稚園のお母さん方に声をかけたりして、4人5人と集まるようになり、その頃から、日曜日の主日礼拝、水曜日の聖書集会が定着し、31年あまり毎週続いています。

 今は、日曜日メンバーは8名で、輪番で司会、その日の聖書箇所の話をしますが、話の前に「御言葉に聞く」という時間を15分とります。聖書輪読の後、それぞれに御言葉に聴き入るのです。その沈黙の時間に教えられること気付かされることは多く、私たちはその時間をとても大切にしています。

 それから、水曜集会は、日曜に参加しにくい人や、日曜は他の集会に行っている人が、6、7名集まって、毎週旧約と新約の学びを続けています。
 その二つは私の家でしていますが、他に金曜日の午後、友人の所でも家庭集会をしています。その人は半身不随と失語症という不自由さの中で聖書を読み続け、2年3年と経つうちにキリスト信仰そのものに導かれ、また共に学びたいという人も与えられ、その人は大きな点字の聖書を持って、今は3人で毎週喜んで集っています。

 それから、子供が小さかった頃日曜学校をしていましたが、そこに来ていた女の子が大人になり子供が産まれるようになって、「夫や子供にも神様、イエス様の話ができるように、きちんと聖書を学びたい」と言ってきました。それで、そこでも聖書集会を始め、しばらくして妹さんも参加するようになり、火曜日の隔週に3人で集会を続けています。

 今、私の関わっている家庭集会についていくつか話しましたが、神様、イエス様を求める人が二人いて、そこに聖書があれば集会はできます。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」との御言葉がいかに真実であるか、集会の度に実感させられます。そして、今日はここが一番話したいことなのですが、このように自由に、集会が誰にでもできるということ、それは当たり前のことではなかったのです。私も若い時少しだけ教会に行ったこともありますが、家庭集会といっても、みんなで集まって牧師先生のお話を聞くという場でしかなかった。それが、「監督なし、牧師なし、伝道師なし・・、洗礼なし、聖餐式なし・・、楽器と教壇を備えたる教会なし。神あり、キリストあり、聖霊あり、神と人とを愛する心あり・・」霊と真をもって神を拝する者たちの群れ、それこそがまことの教会なのだという道、このような無教会集会という道を内村鑑三が開いてくださったんだと思うと、本当に涙がにじむほどありがたいです。「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」という御言葉に生きることができる、この無教会という立場に与えられた特別な恵みを、決して無駄にしてはならない、もっともっと大切にしたいと思うのです。

 たとえ大勢の人に伝道をして、立派な集会をすることはできなくても、家庭(生活)をささげて集会を続けるとき、誰にも頼らないで、何をも当てにしないで、ただ主の導きのままに進んでいくことができます。その小さな歩みの中で一人、また一人と共に集う人が起こされ、主の救いの御業がなされるのを見るに勝る喜びはありません。

 伝道ということで、私が毎月書いている「福音」という読み物について。それは御言葉の感想というか、ごく日常の中で受けた恵みを書いただけの拙いもので、伝道の効果はほとんどないのですが、でも、それを何人かの方にお送りすることによって、思いがけない人との出会いが与えられ、遠くにも信仰の友が与えられるようになりました。どんなに小さなことでも、イエス様の喜びを伝えたいとの願いを込めて何かをなし続ける時、水の上にパンを投げるようであっても、いつか神様が用いてくださる。そう信じて、ここに集まった一人一人が自分にもできる伝道を、ただ主に期待してなし続けるなら、きっと、キリストの命に満ちた無教会の喜びも広がっていくと思うのです。


発題 「農業-自然と人を結ぶ:福島から」

2014-01-05 13:18:54 | 発題(2)

石沢重吉

 福島県郡山市からまいりました石沢と申します。東日本大震災に伴う福島原子力発電所の事故発生当初は、東京のレストランで福島弁で話していたら出て行ってくれと言われたり,福島ナンバーの車は駐車場に入ることを断られたことがあったと伝えられております。事故から2年余過ぎてこのようなことは昔話風になりましたが、福島県の農産物に対する拒否反応はまだ続いております。

 政府や電力関係者にとって原発事故は想定外のことだったので、住民の避難方法は勿論、農地の汚染や農産物の安全に関する適切な対処を指導できる機関は全くありませんでした。農産物の放射線を計測する機器そのものが少なく、手探りの中で県知事が福島県の農産物の安全宣言をし,その後高濃度汚染の米が見つかったことで福島県の農産物の信頼が失墜してしまいました。

 その後計測機器の充実と農地の除染と除染資材の散布によって特別な地区を除いて、福島県の農産物だから数字が高いということは無くなってきていると思います。しかし数字が低くなったことだけで信頼は回復せず、信頼は数字で表せるものでは無いことを知らされております。

 私が愛農会創始者小谷純一先生に出会ったのは1954年のことです。戦後の混乱期で特に食糧が不足しアメリカからの援助でどうにか国民は飢えを忍んでいる時代でした。
和歌山県からはるばる郡山市に来られ愛農救国運動論を熱烈に話されました。しかし記憶に残ったのは乳と蜜の流れる豊かな家作り村作りの話でした。もっと詳しく学びたい者は愛農会に来いと言われ、胸躍らして臨んだ愛農短期大学講座におけるは小谷先生の第一声は、聖書を高く掲げ『君たちをここに呼び集めたのはこの聖書に記されている神様である』と言われました。

 新生日本は信仰を持った真実に生きる農民によって築かれると話され大きな衝撃を受けました。そのような神様を私は知らないとつぶやきましたが、それから58年この言葉を反芻する度に、いかに真実な言葉であったかを噛みしめながら歩む毎日になりました。
特に「主なる神は,土の塵で人を形作り、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者になった」と創世記に記されている。その土の塵が農薬や化学物質で汚染されていると人は健康になれない。愛農会は無農薬栽培で行こうと宣言されました。
ヘリコプターで農薬が散布され、日本農業も近代化され厳しい農作業から解放されるのかと期待されかけたときのことでした。このことで愛農会を離れる会員が多くおりましたが、農業者は農薬や化学物質の汚染から農地を守りより安全な食べ物を生産することが第一であり、真実に向き合って生きる農民として無農薬栽培は当然なことであると信じ、理解ある消費者に支えられ取り組んでまいりました。しかしこの度の原発事故により放射性物質に農地が汚染され、生産した食べ物が消費者に信頼されない先の見えない厳しい状態が続いております。

 避難指示地区を除いて福島県の現在の環境や生産された食べ物に含まれている放射性物質の数値では健康に問題はないと言われておりますが、心理的恐怖感は数字の問題ではありません。福島に住むことの不安を感じ県外に5万人の方が避難されております。経済的負担や精神的ストレスの大きさは計り知れないものがあると思いますが、この方々が帰郷されるようにならなければ福島の未来は無いと思います。それまで私達農業者はあきらめずに安心して食べられる野菜や米を生産できる農地を守って行く責任があると考えます。
東日本大震災と原発事故が発生して私達はいかに目先の繁栄のみを求めてきたかを知らされました。しかし今進められている復旧復興は被災地や被災者を置き去りにしてパアフォーマンスだけが目立ち喉元過ぎて熱さを忘れているのが現状です。原発が無くなったら代替エネルギーはどうするかというようなことで無く、地球人類の将来を考えて取り組まないと私達は又同じ災害に襲われると思います。

 最後になりましたが、この度の被災に対しまして多くの皆様からあたたかい励ましと,貴重なご支援頂きましたこと深く感謝申し上げます。ありがとうございました。