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無教会全国集会2013

2013年度 無教会全国集会ブログ

主題講演「闇を照らす光」

2014-01-05 15:21:57 | 主題講演

小舘 美彦

1.現代の深い闇
  闇とは何か。聖書の答えは明白である。人間の罪のことである。罪とは何か。それは神様に背くことであり、自己中心的であることである。アダムとエバが神様に背いて以来世界はずっと闇に包まれてきた。神様はこの世界を本来は光に満ち溢れた場所としてお造りになったのに人間が神様に背き、自己中心的に振舞ったためにこの世界はすっかり闇に包まれてしまった。
  ところで現代は、そのような闇に包まれた人類の歴史の中でも特に闇の深い時代である。いや現代世界こそは歴史上最も闇の深い時代と言って過言ではない。その根拠は何か。現代はそれほど悪い時代ではないという人も結構いるから、この時代が最も深い闇に包まれていると言うことのできる根拠を確認することから話を始めたい。
  この現代が過去のいかなる時代にもまして闇に包まれていることの決定的根拠は全人類が絶滅の危機に瀕しているにもかかわらず、それを止めることができないということである。人類は現在二つの理由で絶滅の危機に瀕している。言うまでもなくその第一は戦争である。(今日の戦争は核戦争へとつながる可能性を常にはらんでいる。核戦争こそは人類を確実に絶滅させるものである)。その第二は自然破壊である。(ここには乱開発や砂漠化、天然資源の浪費、大気や水の汚染、身勝手な生物の遺伝子操作、原子力発電も含まれる)。科学の発達のゆえに人類は巨大な力を持つようになった。この巨大な力のゆえに戦争と自然破壊はかつてないほどの巨大な規模で行われるようになり、ついには人類を、いや生物全体を絶滅の危機にさらすほどになったのである。それなのに、これほど危険な状態にあるのに、人類は戦争と自然破壊をやめようとしない。なぜか。まさしく罪のゆえである。自己中心性のゆえである。人類は自己中心性にしっかりと捉えられているゆえに、自分勝手な欲望にあまりにしっかりと捉えられているゆえに、戦争と自然破壊が自らを滅ぼしかねないと薄々気づいているにもかかわらず、それらを止めることができないのだ。ある国は経済的利益にあまりに捉えられているゆえに、ある国は宗教的信念にあまりに捉えられているゆえに、またある国は独裁維持にあまりに捉えられているゆえに、つまりは全ての国が自分勝手な欲望にあまりに捉えられているゆえに戦争と自然破壊を止めることができないのである。
  繰り返そう。現代人はあまりにしっかりと罪の虜になっているために、それらが絶滅に通じるとわかっているにもかかわらず、戦争と自然破壊をやめることができない。私たちは未だかつてないほどに完全な罪の奴隷である。この事実こそは、現代世界が歴史上最も深い闇に包まれているということの決定的証拠である。私は何よりもまずこのことを確認しておきたい。

2.救いの光、イエス
  では、光とは何か。このこともまた聖書によれば明白である。それはイエス・キリストである。聖書は言う。イエスこそは神が人間を罪から救い出すために遣わした究極の救世主であると。人間は自力では罪から逃れることはできない。だから、神はイエスという救い主を遣わし、彼の働きによって人間の罪を取り除くのだと。だから、イエスこそは救いの光なのだと。
  にわかには信じ難いことだ。特に科学的知識を身につけた現代人には全く信じ難いことだ。しかし、にもかかわらず、人類が絶滅から救われるかどうかはすべて聖書のこの主張が事実であるかどうかにかかっている。なぜなら、すでに確認したように私たちは自力ではその絶滅を回避できないのだから。そうである以上私たちは自身の救いを私たちの外側の存在(神や救世主)に求めざるを得ないのだから。人類の外側の存在による救いについて明確に語っている書物はこの世界には聖書以外にない。その聖書のメッセージが事実でないとするならば、私たちはもはや絶望するしかない。
  ここは極めて重要な点なので繰り返そう。人類が絶滅から救われるかどうかは次の一点にかかっている。すなわちイエスは真の救い主であるかどうか。もし聖書のこの主張が真実であるなら、私たち人類はまさしくイエスによって絶滅から救われることになる。人類はいつの日かイエスによって罪を取り除かれて戦争や自然破壊に歯止めをかけられるということになる。しかし、もしイエスが救い主ではないならば、私たちは罪の闇に包まれたままひたすら絶滅へと行進し続ける他はないということになる。
  したがって私たちは、全力を尽くしてイエスが真の救い主であるかどうかを確かめなければならない。科学的知識だけでなく、あらゆる視野と経験を総動員して全身全霊でイエスが本当に人を罪から救う救世主であるのかどうかを確かめなければならない。では一体どうやってイエスが真の救い主であるかどうかを確かめればよいのか。

3.私たちがイエスに出会えるかどうかが全ての要
  イエスが真の救い主であるかどうかを確かめる上でまず重要となるのは、イエスが人類に及ぼした影響について観察することである。キリスト教は確かに様々な悪影響も及ぼした。しかし、その中心にあるイエスが人類に悪影響を及ぼしたことなどあるであろうか。イエスが人に罪を犯すことを促したことなどあるであろうか。ありはしない。人を罪へと促してきたのは誤った聖職者たちであってイエスではない。それどころかイエスは圧倒的多数の人間を罪から救い出してきたのである。人類の歴史において、イエスは無数の人間を自己中心的な人間からそうでない人間へと変えてきた。これまでの歴史において、何と多くの人間がイエスと出会うことによって一時的にせよ罪から救われ、自己中心性から解放されてきたことか。この事実はイエスが真の救い主であることを証するものである。
  しかし、このような事実は所詮間接的な証でしかない。イエスが真の救い主であるという聖書の主張が真実であるという最高の証拠はやはり私たち自身が直接にイエスと出会い、救われ、変えられることによって与えられる。この出会いを体験するとき、私たちは初めてイエスが真の救い主であることを確信することができる。つまりイエスが人類を救うという聖書の主張が真実であると確かめることができるのである。
 
4.イエスと出会う場所
  イエスと出会うということはもちろんイエスを肉眼で見るということではない。イエスの霊(聖霊)の働きを感じ取ることである。ではいったいどうすれば私たちはイエスの霊の働きを感じることができるのであろうか。このようなことはとても自分の力でできることではないと言われ、聖書にもそう書いてある。確かにそうだと思う。最終的選択は神様の側にある。にもかかわらず、イエスと出会うための準備をしておくことはできると私は思う。イエスの霊の働きを感じる機会をより広げておくことはやはりできると思うのである。だから、私は以下思い切ってイエスと出会う機会を広げておく方法について考えてみたい。
この方法について考える場合、最も大きなヒントを与えてくれるのは恐らく「ヨハネによる福音書」の冒頭の次の言葉であろう。
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ここで言う言葉とはイエス・キリストのことである。しかし、一体なぜヨハネはイエスをわざわざ言葉と呼んだのであろうか。その第一の理由は、ヨハネがイエスは神の言葉が受肉した存在であると信じているからだ(1:14)。しかし、ここにはもう一つ大きな理由があるように思われる。それは、ヨハネが人は聖書の言葉を通じてイエスと出会うことができると考えていたからではあるまいか。聖書の言葉こそがイエスと出会うためのコンタクトポイント(場所)だから、ヨハネは敢えてイエスのことを言葉と呼んだのではあるまいか。「ヨハネの手紙一」でヨハネはこう述べている。(筆者は思想内容より同一と考える。)
1:3 わたしたちが見、また聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたもわたしたちとの交わりを持つようになるためです。わたしたちの交わりは、御父と御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 わたしたちがこれらのことを書くのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるようになるためです。
ここでヨハネははっきりこう言っている。自分たちがイエスの業やイエスの教えを伝え、書き記すのは、それを聞き、読んだ者が神と神の子イエスと交わるようになり、その交わりの喜びに満ち溢れるためであると。ここには確かに言葉を通じて神様やイエスとの交わりが開始され得るというヨハネの確信がある。
  そうだ。私たちは言葉を通じて、イエスの霊の働きを感じ、イエスの声を聞き、イエスと出会うのである。中でも聖書の言葉、そこに記されたイエスと出会った人々の言葉はイエスと出会うための最高のコンタクトポイントである。私たちは聖書の言葉を通じてイエスと出会うのだ。
  私は最近ある牧師さんの夕拝に出席した。その牧師さんが面白い話をしてくれたので紹介したい。「私は偽善が嫌いなので、何とか本当の善をしようと思って必死でボランティア活動をしてきました。物資のない世界中の国々に行って物資を届けてまいりました。ところが非常に不思議なことにいくら物資を届けても人を救うことはできませんでした。人は確かに貧困からは救われました。しかしその後で悪い生活に身を落としてしまう。ぐれてしまったり、暴力に走ってしまったり、お酒や薬に溺れてしまったり。ところがその後に牧師になりまして聖書の言葉を話すようになりますと、たくさんの人が救われるようになったのです。たくさんの人が私の話を聞いて救われた、救われたと感謝してくださる。本当に不思議です。いくら物資を運んでも救えなかったのに聖書の言葉を心を込めて伝えて行くだけで人は救われて行く。元気を得て立ち直って行く。イスラム圏のイスラム教徒の間でもそうでした。彼らの間で私は思い切ってイエスの言葉を語った。すると彼らに何かが伝わったのです。キリスト教徒だと言って冷たかった彼らが突然優しくなった。ある人々は私を友として迎えてくれた。私は何をしたわけではありません。私は本当に罪だらけの人間で何も誇るべきものを持っていない。そんな私であるのに、聖書の言葉を心を込めて語るならば、そこからは命が溢れである。その命のオーバーフロウが人を救うのです。」実に素晴らしい体験だ。人を救うのは物ではなかった。聖書の言葉であったのだ。一体なぜ聖書の言葉は多くの人々を救い得たのか。彼自身が言うように聖書の言葉から命が溢れ出たからである。命がオーバーフロウしたからである。これこそイエスの霊の働き、イエスとの出会いである。この牧師さんの命のオーバーフロウの話は、聖書の言葉こそがイエスと出会う場所であるということをはっきり示している。
   繰り返せば、聖書の言葉こそはイエスと出会うための最高のコンタクトポイントであり、私たちは聖書の言葉を通じてイエスと出会うことができる。
 
5.イエスと出会った人の話を聞く
  さて、ここで一つ考える必要がある。いくら聖書の言葉がイエスと出会う場所だからと言って闇雲に聖書を読んでもイエスと出会えるわけではない。いったいどうすれば聖書の言葉を通じてイエスと出会うことができるのであろうか。
  まず言えることは、イエスと出会ったことのある人が聖書の言葉について話すのを聞きに行くことである。聖書の言葉を通してイエスと出会ったことのある人ならば、その人は聖書の言葉に惚れ込んでいるはずだ。当然喜びと感動をもって聖書の言葉を語るはずだ。当然その話からは命が溢れ出ているはずだ。そのような人なら必ずイエスとの出会いを促してくれる。だから、イエスに出会おうと思ったらまずは聖書の言葉を喜びと感動を持って語り、そこから命を溢れさせることのできる人を探し、その人の話に耳を傾けることである。たとえ地球の裏側であろうともそういう人を探し出してそういう人の話を聞きに行こう。自分の財産をすべて売り払ってでもその人の話を聞きに行こう(マタイ13:44)。そうすれば、まず私たちはイエスと出会うことができる。少なくとも聖書の言葉を通じてイエスの霊が働く場に居合わせることができる。
  このことは誰もが経験するところであろう。私たちがイエスを信じるようになったのはなぜか。それはほとんどの場合、イエスと出会った先人が聖書の言葉について語るのを聞いてイエスの霊的働きを感じたからではないか。内村鑑三、塚本虎次、矢内原忠雄、、、彼らはいずれも聖書の言葉を通じてイエスと出会った人々だ。だからこそ、彼らは聖書の言葉を語って人とイエスとの出会いを促すことができた。先に紹介した牧師さんも自身が聖書の言葉を通じてイエスと出会ったからこそ、イエスとの出会いを促すような命あふれる言葉を語ることができたのだ。
  繰り返すならば、イエスと出会うための最も手っ取り早い方法はイエスと出会った人が聖書の言葉を語るのを聞くことだ。だから万難を排してそういう人の聖書講義や説教を聞きに行こう。

6.人の話を聞く問題点
  しかし、この方法には一つ決定的な問題がある。それはイエスとの出会いにバイアスがかかってしまうということだ。人が聖書の言葉を語る場合、そこには必ず語り手の個性や好みが反映されている。だから、人の話を聞いてイエスと出会った場合、そのイエスは本当の純粋なイエスではありえない。それは語り手によってゆがめられた、語り手好みのイエスなのである。いかに偉大な先生と言えども、いや、その先生が偉大であればあるほど、その人が語るイエスは本物の純粋なイエスではなく、その先生色のイエスになってしまうのである。
だから、もし本当に純粋なイエスと出会いたいならば、人の話に頼っていてはいけない。やはり自分自身で直接聖書の言葉からイエスとの出会いを引き出さなければならない。ではどうすれば、そうしたことができるのであろうか。

7.聖書の実験的読み方
  この問題につぃて内村鑑三はこう言っている。聖書の言葉を実験することによって私たちは生きたイエスと出会うことができると。内村は聖書を読む目的は生きたイエスと出会うことであると述べ、イエスと出会うためには様々なことを学ばなければならないが、決定的に重要なのはやはり実験であると述べている。
 そうだ。聖書の言葉を通じてイエスと出会うための最高の方法は聖書を実験的に読むことなのである。聖書の言葉を実験し、生きてみるとき、私たちは初めて純粋なイエスと出会うことができる。それでは聖書の言葉を実験するとはどういうことなのであろうか。聖書の実験的読み方とはどういう読み方なのであろうか。以下、私なりにその読み方を掘り下げてみたい。
①聖書の言葉と正直に向き合いながら読む
  イエスと出会うための聖書の実験的読み方の第一は、先ず何よりも聖書の言葉と正直に向き合うことである。聖書を読んでいると私たちは実に多くその言葉に疑問や反感を抱く。そうなるとたいていの人は聖書を読むのをやめてしまう。キリスト者であれば、逆にそのように疑問を抱いたり反感を抱いたりする自分を責めてしまう。しかし、このどちらにおいてもイエスと出会うことはできないと思う。むしろ聖書の言葉に疑問を抱いたり、反感を抱いたりしたら、その思いを大切にしながら、正直な気持ちで聖書の言葉と向き合い続けるべきだ。おかしい時はおかしいと神様に文句を言い、なぜなのかと神様に詰問しながら、聖書を読み進むべきだ。もちろんこれは浅はかで自分勝手な解釈を勧めるものではない。むしろいったんは自分自身を捨てて、聖書の立場に立ってそのメッセージを理解しようと努める必要がある。その時には原語を学んだり、注解書を読んだりすることが必要であるかもしれない。しかし、そのように努力してどうしても納得できない箇所がある場合にはそのような自分の疑問や反感を大切にし、聖書の言葉とひたすら正直に向き合い続けるのだ。するとほとんどの場合はいつの日かその言葉の持つメッセージがポーンと外側から与えられる。その時、聖書の言葉は妥協しながら読んだりするのとは全く別のレベルで私たちの心の奥深くに届く。それこそ私たちがイエスの霊の働きを感じる瞬間、イエスと出会う瞬間である。
  この読み方の最高の模範は旧約聖書のヨブである。ヨブは神様の前で徹底的に正直であった。神様の仕打ちに疑問を抱き、反感を抱き、時にはそれに怒りもした。そしてそれらの全てを神様にぶつけ続けた。すると最後には神様から応答があったのだ。この話はただの過去の神話ではない。おそらくはすべての人に起こりうることを示している。私たちも聖書の言葉に対してヨブと同じような態度で臨むなら、たいていはイエスからの応答がある。イエスが疑問に答え、イエスが反感を取り去ってくれる。
  この読み方を実践してイエスと出会った人の代表としてぜひともあげておかなければならないのはルターである。ルターはヴィッテンベルク大学の聖書教授として聖書を学生たちに教えていたとき、聖書のある箇所に疑問を持った。その箇所は詩篇の31篇2節「あなたの義によって私を解放してください」(新共同訳:恵みの御業によってわたしを助けてください)という箇所である。この箇所がルターにはどうしてもわからなかった。義によって人を解放するとはどういうことであろうか。自分にとって義とは達成が困難な苦しいものでしかなかった。その義が一体なぜ人を解放するのであろうか。分からないものを学生に教えるわけはいかない。それでルターはこの箇所をお茶を濁して学生に教えていた。しかし、ルターは決してこの疑問を捨てなかった。疑問を持ち続け、この一言と正直に向き合い続けたのだ。そうするうちにある日メッセージがポーンと与えられる。義というものはひょっとすると人間が努力して実行すべきものではないのではないか、神から与えられるものなのではないか。ひょっとすると神から与えられる義とはイエス・キリストのことなのではないか。イエス・キリストを通じて私たちは義を与えられるのではないか。このメッセージが与えられた時、ルターの中ではコペルニクス的転換が起こった。自分はこれまで義とは人が達成すべき苦しいものであると思ってきた。しかし実はそれは神が与えてくれる喜びに満ちたプレゼントであった。聖書はこれまで厳しい義と裁きの書であった。しかし実は広大なる愛と赦しの書であった。これこそイエスの霊の働きである。イエスとの出会いの瞬間である。そしてこのような瞬間がルターに訪れたのは、彼が聖書の言葉に対する疑問を持ち続け、正直にそれを神様にぶつけ続けたからである。聖書の言葉を決して安易に受け入れなかったからである。
  繰り返せば、正直な気持ちで聖書の言葉と向き合い続ける、これがイエスと出会うための聖書の実験的読み方の第一である。
②愛を実践しながら読む
  イエスと出会うための聖書の実験的読み方の第二は愛を実践しながら読むということである。聖書にはいろいろな掟があり、いろいろな教えがある。しかし、その全ては愛しなさいという一言に要約されるとパウロは述べている(ローマの信徒への手紙13:8~10)。したがって愛を実践することこそ、聖書の言葉全体のエッセンスを実践することに他ならない。その愛を実践しようとするとき、私たちはイエスとの出会いに開かれるのだ。
  このことはイエス自身がはっきりと述べている。
14:21 わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。
15:12 わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。
ここでイエスははっきりと、愛しなさいという掟を実践する者には自身を現すと言っている。
  では、愛するとはいったいどういうことであろうか。難しいようであるが、この直前の箇所でイエスは手本を示してくれている。すなわち13章の弟子の足を洗うという行為において。イエスはここで自ら僕のようになってひざまずき、弟子たちの足を洗っている。このことの意味は単に人に奉仕するということではない。相手の立場に立ったうえで人に奉仕するということである。いや、もっと言えば相手を裁く心を捨て去って赦し相手の心の奥底深くにまでおりて行って相手を理解し、そこから相手に奉仕することである。このことを実践する時、イエスは自身を現すと言う。
  しかしここで考える必要がある。果たして私たちにそのようなことができるのであろうか。恐らくできはしない。そもそも私たちに相手を裁く心を捨て去るなどということはできない。私たちはどんなにあがいても自分は正しいと思っており、自分の義を決して捨て去ることはできない。だから裁く心を捨て去って相手の心の奥底まで下りて行くということは本来不可能なのである。加えて相手に奉仕するということもできはしない。奉仕には自己犠牲が伴う。もし奉仕しようとすれば、お金を捨て、時間を捨て、家族を捨て、時には自分の命さえも捨てる覚悟をしなければならない。そんなことは私たちにはできはしない。だから、愛を実践しようとすれば私たちは確実に挫折する。そして愛ができない自分に絶望することになる。
それではイエスに出会えないのか。そうではない。愛が実践できない自分に絶望しているときにこそイエスが立ち現われるのではあるまいか。愛を実践するときに自身を表すというイエスの言葉は、厳密には愛の実践に挫折し、自分に絶望した時にこそ自身を表すという意味なのではあるまいか。このことは「ヨハネによる福音書」の最終部分に明らかである。
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。
この記事はイエスが十字架にかけられた後の記事である。ここには弟子たちがイエスという拠り所を失い、自分たちもイエスのように処刑されるのではないかと怯えている様子が描かれている。このとき弟子たちはいったいどのような心でいたであろうか。きっと殺されることへの恐怖に加えて自分自身への絶望に支配されていたに違いない。なぜなら彼らは、死んでもイエスに従うと豪語しておきながら、全くイエスに従うことができなかったのだから。イエスへの愛を全うできなかったのだから。十字架の前で泣き崩れたペテロのように、弟子たちはこのとき全員自身に愛を貫けなかった自分に絶望していたに違いない。そのような中に復活のイエスはあらわれたのだ。そしてそのイエスは裏切った彼らを非難するでもなく言葉をかけたのだ。「あなた方に平和があるように」と。何という愛。弟子たちは自分への絶望の極限で初めて本当のイエスと出会った。愛と命にあふれる本当のイエスを知ったのだ。
  このこともまたただの神話ではあるまい。私たち全員に起こるであろうことの予型である。イエスは確かに愛を実践しようとし、それができない自分自身に絶望しているときにこそ私たちの前に立ち現れてくださる。つまりは霊的に働いてくださる。
  繰り返せば、愛を実践し、それができない自分に絶望することこそイエスと出会う聖書の実験的な読み方の第二である。
③死を見つめながら読む
  イエスと出会う聖書の実験的な読み方の第三は死を見つめながら読むということである。死は私たちの周りのいたるところにある。周囲の人は次々に死ぬし、ニュースを見れば世界のあちこちで人が死んでいる。自分だっていつ死ぬかわからない。にもかかわらず、私たちは死から目をそらして生き続けている。死の恐怖をごまかして生きている。このように死から目をそらしている限り、私たちはいくら聖書の言葉を読んでもイエスと出会うことはできない。逆に、死を見つめながら、死と向き合いながら聖書を読むならば、その言葉は実に大きな救いをもたらす。まさしくイエスの霊が働くのだ。
 私が初めて聖書の言葉の力を思い知ったのは、子供が癌で亡くなったときだ。あのとき、私は生まれて初めて死というものを正面から見据えた。そして死というものがどんなに苦しく恐ろしいものであるかを思い知った。しばらくはその恐怖に取りつかれて無気力状態に陥った。その時に私は救いを求めるようにして聖書を読んだ。するとどうだ。聖書の言葉の一つ一つがすごい力で胸に迫って来るではないか。イエスの永遠の命に関する言葉、イエスの復活に関する記事、弟子たちに聖霊が宿った記事、パウロの力強い証、どれを読んでも涙がさらさらと出てきて止まらなかった。その涙は悲しみの涙ではない。平安の涙。心が癒される涙であった。この時私は初めて聖書の言葉を通じたイエスの霊の働きを知った。初めてイエスと出会ったのだ。
 しかし、何といっても最も大きな力を発揮した聖書の言葉は、イエスの十字架上の言葉「わが神わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」である。この言葉を読んだとき、十字架上でボロボロになって苦しむイエスと癌の末期治療でボロボロになって苦しむ子供の姿がぴたりと重なった。その瞬間に死の恐怖は完全に吹き飛ばされたのである。まさに圧倒的なイエスの霊の働きであった。
 以降私は死を肯定的にとらえるようになった。死は確かに苦しく恐ろしいものである。しかし、その苦しみと恐怖の中でこそイエスと出会えると分かったからだ。そのなかでこそイエスのあふれ出る命に触れられると分かったからだ。イエス・キリスト、それは闇を照らす光であるだけではなかった。それはむしろ闇の中の光、闇を根本的に光に変えてしまう真の光なのであった。
 繰り返せば、死を見つめながら読むことこそイエスと出会う聖書の実験的読み方の三である。

8. まとめ
  まとめるなら、私が伝えたいイエスと出会うための聖書の実験的読み方とは、聖書の言葉と正直に向き合いながら、愛の掟を実践し自分に絶望しながら、そして死を見つめながら聖書を読むことである。一言で言えば、聖書の言葉と全身全霊でぶつかり合いながら読むことである。
  イエスは「ヨハネによる福音書」でこう言っている。
6:55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物…。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
イエスの肉を食べ、イエスの血を飲むとは一体どういうことであろうか。この謎はイエスが言葉であるという「ヨハネによる福音書」の冒頭を思い出せばすぐに氷解する。イエスの肉を食べ、血を飲むとはイエスの言葉を自身の血肉とすること、言い換えればイエスの言葉を心の奥深く、私たちの魂に刻み付けることなのである。そしてそのようなことは聖書の言葉との全身全霊でぶつかり合って始めて可能になる。そのことが可能となった時、イエスは私たちのうちにいるとイエス自身がはっきり述べている。まさに私たちは聖書の言葉を通じてイエスに出会うのだ。
  このようなイエスとの出会いを通じて一人でも多くの人がイエスと出会い、救われ、変えられて行くことを願う。それが歴史上最大の闇の中に生きる私たちの唯一の希望、救いの光である。