助川 暢
お早うございます。
今ご紹介いただきましたように、長い間基督教独立学園で働かせていただいております。
どうして学校で教育の仕事をしながら、教育の場にいて、自然保護の運動にかかわっているのか、まずそのようなところから、話させていただきます。
(一)
三十数年ほど前、職員・卒業生の新年集会で、卒業生の方から、「学園は、村の方々に大変お世話になって来た。近くの集落の水源林が、営林署の伐採計画に入って大変困っている。それを止めるために独立学園は協力すべきでないか」と提言がありました。
小国は東京23区がすっぽり入るという広い面積で、そこに人口約8500人、95%は山というところです。南に飯豊連峰、北は朝日連峰という山に囲まれたところ、それで小国と呼ばれるようになりました。ブナが日本で一番広くある地域で、ブナ原生林は白神山地の約3、5倍の広さがあります。
雪が締まって歩き易くなった三月にその水源林のブナ原生林の観察会があり、これからの対応策が話し合われ、自然を守る会を設立してこの原生林を守って行こうという相談がまとまり、私がその代表者となって、伐採阻止の運動を進めて行くことになりました。
山形の自然保護運動の良いところは、他の地域の経験を積んでいる自然保護運動の会が、新たな問題が起こった所に全面的に協力するということで、特に歴史のある鶴岡の先輩の会が、自分の地域の問題であるかのように、何度も小国に足を運び、大きな協力をしてくれました。山の多い小国は、営林署と町役場が大きな力を持っているところですので、全くの少数者の抵抗運動とならざるを得ませんでした。始めの頃折衝のため営林署に行くと、「汚い者が来た」というような対応をされました。しかし、全県的な自然保護団体の支援と、全く奉仕的な弁護団の弁護があり、13年間の裁判を経て、伐採をしないで済むようになりました。
ブナの研究家は多くないのですが、ブナ研究者の支援も強い力になりました。この運動を始めて間もなく、朝日連峰のブナ林を貫通して北に伸ばす大規模林道の開削が進んでいて、森林開発公団と山形県林務部との折衝に多くの時間を取られるようになりました。
森林の専門家が相手なので、森林関係の勉強もしなければなりませんでした。ここでは、京都大学の河野昭一教授などの研究者グループの現地のブナ林の遺伝子分析調査など先端的研究も行われました。朝日、毎日、読売などのジャーナリズムの支援、昼間の工事中現地に行けないので、暗くなってから記者の方と工事現場の取材をするなど、記者の方々が、自然保護団体のメンバーのように熱心でした。やがては地元の山形新聞の大規模林道特集の連載記事という大きな取組みがありました。さらに各地での大規模林道反対運動が連帯して、河野教授や初代環境庁長官大石武一氏らを代表とする「大規模林道全国ネットワーク」という全国的取組みに発展し、そのような取組の中で、小国の大規模林道は中止となりました。ブナ研究者の方々の調査活動を一緒にし、そこで学んだものなどを生かして、学園の選択授業で「森林学」をするようにしました。2012年からは、卒業生の若い教師が受け持ってくれています。
近年営林署(今は森林管理署)と自然保護団体との関係は、大きく変り、協力して森林保護に努力するようになっています。このような原生林保護の活動を体験して、原生林の保護と共に、身近な里山、水田、畑などの二次的自然を大切にすることの重要性を教えられました。二次的自然が日本の生物の多様性を維持するのにとても大きな働きがあるのです。そのような取組みが弱くなっていて、日本を代表する野の花のキキョウ、フクジュソウなどが絶滅危惧種になってしまっています。昨年で講師の職も退任し、50年前学園に来た時、キキョウ、オミナエシなどがあふれるように咲いていたこの叶水に、いまは野の花、山の花を育て広める活動をしています。
次女が重い障害を持って生まれ、障害者施設で世話になっています。その施設の家族会の会長の役をしています。そこで支援を受けている人たちは、重い障害の方々が多く、高齢化も進み、平均年齢51歳という状況です。それだけにご父母も大変高齢となり、亡くなる方も増え、そうした中でお互いが励まし合えるような会の活動を願って務めています。このようなことで独立学園、自然保護運動、障害者施設の家族会の世話役、これら三つのことに、日常の多くの時間を費やしています。
今年は日本全体が大雪でした。
私は、独立学園から2キロほど奥の方に行く所にある、築140~150年ほどの古い家を改造した家を譲っていただいて、生活しています。冬は毎日朝夕の除雪をしなければなりません。3月の北海道で9名もの方が猛吹雪の中で亡くなられましたが、その1週間前は山形で大変な大雪が続きました。家の前は4m近くの積雪となり、朝も昼も夕方も、二月の大雪のような時には寝る前も雪かきで、「生きるとは、除雪をすること」というような毎日になります。雪が沢山積る小国では「除雪」といわず、「雪堀」(ゆきほり)と言っています。それだけ作業量が多いのです。12月からの除雪で、2月の末にもなると疲れも出てきます。とにかく今はこの作業に耐えよう、春は近いのだ。その日々を待望んで一日一日を過ごそうという思いでいた時、坂内さんから、「準備委員会で、忍耐して待ち望む―耐望―という言葉を造り、この“耐望”という言葉を基調として今年度の全国大会を持つことを相談している。あなたに、聖日のお話の担当をしてほしい」と言う電話がありました。「忍耐して待ち望む」――丁度そのような心境だったんですね。坂内さんに自分の心を見抜かれたような感じで、断れなくなり、お引き受けした次第です。
準備委員会の方々が考えられた「耐望」ということと、ロマ書8章25節の「忍耐して待ち望む」を重ね合わせて、光を目指して歩んで行く道を求めたい、そういう祈りを持って話させていただきます。
(二)
今日資料を三つほど準備させていただいています。レジメとその資料をみていただきながら、お話をすすめさせていただきます。
昨年鈴木範久著『内村鑑三の人と思想』(岩波書店)が発行され、今年4月から9月にかけて、NHKこころの時代で「道をひらく―内村鑑三のことば―」が同じく鈴木範久氏解説によって放映され、わたくしは大変教えられました。上記の本でも放映でも、ロマ書8章が取り上げられ、このお話の時に、マリー・ストープスの植物学書でエコロギー(生態学)の一節を紹介し、このエコロギーの視点がその聖書講義に生かされたと指摘され、『内村は過去の思想家ではなく、現代に語りかける思想家である』と結ばれていました。内村は今われわれに何を語りかけているのでしょうか
わたくしは高校2年の時に内村の『後世への最大遺物』を読んで、進むべき方向を導かれ、50年を越えて内村に学んで来ましたが、今改めて広く深く内村を学ぶべき、と思っております。今日のロマ書でも、内村の研究に学びながら進めていきたいと思い、主著『ロマ書の研究』の第四〇講のロマ書8章の「三つの呻き」を中心として資料を準備しました。18節から30節を今日のテキストとさせていただきます。
この18節~20節は、パウロの手紙のなかで、自然世界そのものが関心の対象として記されている唯一の箇所です。この18節の「現在の苦しみ・・・・」つまり今の苦しみ。昨日はフクシマの切実な「現在の苦しみ」を伺いましたが、日本は3・11の大地震、大津波、原子力発電所の事故で大困難の中にある現状を思います。その後も各地に大変な豪雨・竜巻が続き、社会的、政治経済的ニュースとともに、艱難は耐えない。世界的、地球的規模で苦しみが広がっています。
パウロが受け継いでいる「旧約聖書の自然観」をイザヤ書で見ると、次のように記されています。
わたしは山も丘も廃墟とし、草をすべて枯らす。大河を島に変え、湖を干す。
(イザヤ42;15)
深い水の底に向かって、乾け、と言い、お前の大河をわたしは干上らせる、と言う。
(イザヤ44;27)
これらは、人間の罪によって自然が汚されていることを記しています。
雨も雪も、ひとたび天から降れば、むなしく天に戻ることはない。
それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種播く人に種を与え、食べる人は糧をえる。 (イザヤ55;10)
茨に代わって糸杉が、おどろに代わってミルトスが生える。(イザヤ55;13)
人間の神への従順は、自然を豊かなものにする。預言者はこのように、自然と人間生活
の深いつながりを記しています。『第二イザヤ研究』(中沢洽樹)に自然についての実に深
い叙述があり、その中にある、「自然は人間と連帯的である。」(1)という言葉を深く受け取らなければならないと思います。
この18節以下の註解の中で、ある研究者は、
「非人間的世界の悪と災害は、人間の罪による汚れと呪いが原因となって引き起こされる」と、記しています(2)。原子力発電所の事故による災害は、まさにこのとおりであります。住民生活の安全を無視して、経済成長第一主義の結果の悲惨さを、今フクシマの方々が味わわされています。
エコサイドecocide(生態系破壊、環境破壊)という言葉があります。アメリカでは原子力開発が辺境で行われ、環境破壊により、その地域の先住民の人たちはそこに住めなくなった。その状況をエコサイドと呼んでいます(3)。今フクシマは、このエコサイドの悲惨の中にあります。
18節、被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は、神の子つまり「人間が被造物を保護するような存在になること」を切に願っているのです。
20節 虚無(マタイオテース)は、弱く、力なく、失われた状態という意味で、つまり自然の荒廃を述べていると思います。
聖書の風土では、前にイザヤ書で見たように、“水が少ないこと”が特徴です。30数年前にイスラエルを訪ねる機会がありました。エルサレムから小型飛行機に乗ってシナイ山の方に行きました。雨期の3月で花が咲きそろう緑の多い時期でした。飛行機でエルサレムから北を見ると緑が多いのですが、南の方に進むにつれ、山頂がてかてか光っている裸の山々でした。シナイ空港は岩石をブルドーザーでならしただけの滑走路で、空港事務所も小さな建物でした。シナイ山の麓までバスで行きましたが、途中ベドウィンの人たちのテントがまばらにありましたが、アラビヤ半島の自然のきびしさ、出エジプトの旅がどれほど苛酷なものであったかと思いやられました。その時、自分がモーセに文句をいう民衆の一人であったのだとよくわかりました。
イスラエルの考古学の発掘が毎年すすめられ、大きな動物の骨が出土し、それが熊の骨であることが分かった。つまり古代イスラエルが、熊が住むような深い豊かな森であったということです。その森は、都市文明の発展に伴い、乱伐されて消滅しました。(イザヤ33;9)(4)。
自然から 地から森がなくなり、動物が消えて行く。自然が呻き声をあげている。パウロは、その呻き声を耳にしているのです。
そのように、聖書の風土は、「乾燥」ということが、大きな問題になっています。草が枯れ、花がしぼみ、樹木が枯れる。これらを「虚無」というのは分かりやすいと思います。
わたくしの郷里は、原発から約30キロの地点の近くにありますが、飯館村に近い所に住んでいる親戚がおり、事故の後検問を通って避難のために迎えに行きました。この夏にその親戚の家から、計画的避難区域で無人の葛尾村や、多くの人がもどって生活をしている川内村などを見学して来ました。黒牛の生産地であった無人の葛尾村では、いたる所で除染作業が行われていました。山また山が続いている阿武隈山地の除染がどれほど困難かを痛感しました。誰一人住んでいない土地、そこに立ち深刻な現実にうなだれました。狭い山あいに続いている水田には、セイタカアワダチソウやススキが広がっていました。
日本のような年間平均1800mmという雨の多い地域での「虚無」の状況とは、手入れをする人がいなくなれば雑草や藪がどんどん広がり、阿武隈の山地では、夜にはイノシシが這い回る、そのような状況を言う、と言ってよいように思います。原発事故の中心区域とその周辺、及び風向きによる放射能汚染区域の水田や畑、家などはどうなっていることであろうか!! 背筋が寒くなる思いで、エコサイドの現実を体に刻んだことでした。
人々が戻り、食堂も人々が出入りし、役場も通常に動いている川内村に入って、ほっとしました。そして今、日本は大変な危機的状況にあることを改めて強く感じました。そしてわが国の政財界の指導者達の認識の浅さを思わずにおれませんでした。
(三)
「虚無」について学ぶために、イスラエルの自然の荒廃について学び、今フクシマの現実を述べました。自然と人間の生活がいかにつながっているのか、そのことを深く受け止めて行かねばなりません。
22節 「被造物の呻き」について、内村は、
「大なる母宇宙は完全なる宇宙を産出して完全なる救いを施されたる神の子たちを迎えんと、今やうめき苦しみつつあるという。実に雄大なる思想である。・・・」
と、力を込めて語っています。3・11の大地震、大津波、そして原発事故による大地の苦しみ、この被造物のうめきに深く耳を傾けなければなりません。
23~25節 内村はこう述べます。
「宇宙のうめきに応ずる信者のうめきがある。うめきに応ずるうめきである。しかして信者のうめきは、体の救われんがためのうめきである。・・・しかもこれまた希望なき無益の苦しみではない。宇宙の苦しみと同じく、希望ある産みの苦しみである。」
「うめく」ということ、われわれの日常の生活のつながりはどうでしょうか?
わたくしは内村の文章を読みながら、日本の今の状況は、お笑い番組や、おいしい食べ物、
楽しい旅行の番組が、これでもかこれでもかと続いています。その反面、自殺者が年間3万人を越えている。大切なことに正面から向かい合ってうめきながら生き抜く、そういう生き方がどんどん少なくなってきていると思いました。昨日「フクシマからの問いかけ」の講演の後のフロアートークの時に、高橋照男さんから、二本松で有機農業をしていた息子さん(独立学園の卒業生)が、原発事故で農業ができなくなって大変ご苦労の多い生活をされているのですが、このロマ書8章のうめきのところを読まれて、深く共感されて号泣された、というお話をうかがいました。
内村はうめきについて、「そもそもうめきとは何ぞ。うめきは、いい尽くされぬ感情の発表である。まことに沈黙は最大の雄弁というが、多くの場合において、うめきまたはうなりは言葉以上の言葉、美文以上の美文である。」といっています。
高橋さんのお子さんの場合、ようやく農業が軌道にのり、いろいろの設備の用意も出来た途端に原発事故の被害で農業が出来なくなり、避難生活を余技なくされてしまった。どんなに怨みや、怒りが湧いて来たことでしょうか。そのような時、彼が神と真向かい、うめいている。彼のうめきにわたくしたちも心を合わせて、うめく心を与えていただきたいと祈るものです。そして、今も苦しみの多い生活をされていますが、少しずつ、道が開かれるようにと祈ります。
われわれもうめく者でありたい。天然がうめいている。自分の罪をうめき、そしてこの日本が救われるように祈る。うめくこと、祈ること、それを大事にしたいと思います。
26節 「聖霊もまたわれらの弱きを助く。われらは祈るべきところを知らざれども、
聖霊みずから、いいがたきの呻きをもってわれらのために祈る。」(内村訳)
内村はこのところに次のように言います。
「深い実験の言葉である。わが祈祷は低い浅い祈祷である。人は自分で自分の事を知
ることが出来ない。ここにおいてか聖霊ご自身が人に代わって祈りたもうという。しかも
信者の外にありてではない。内にありて、彼の霊と共にありて、彼と同体同霊となりて、
彼に代わって祈るという」
わたくしは、ここを新しく発見したように深い感動を持って何度も読みました。われわれはどういう存在なのだろうか。聖霊が内にあり、わが霊と共にあり、同体同霊となって、自分に代わって祈るというのです。この小さな弱い、罪深い者の中に、聖霊が共にあって執り成して下さる、というのです。ここを読んで、創世記2章7節の「主なる神は、土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」あの箇所を思うのです。自分はどういう存在であるのか。命の息を吹き入れられた存在である。だから自分を粗末にしてはならない。誰もが神の霊を受けている尊い存在である、こうなります。学校の聖書の授業だと、この内村の文章にここを繰り返して読むように、赤線を引いてもらうところです。
人格の尊厳の根本的理由がここにあります。一人ひとり、神の息を吹き入れていただいた人格なのであります。わたくしはここから深い慰めを与えられます。わたくしの子どもは障害が重く、全面的な介助を受けています。もう50歳近いですが、こちらの言うことはだいぶ理解するのですが、自分からの言葉は、ゴハン、オシッコなどわずかの単語で意志表示をし、文章的な表現はほとんど出来ないのです。けれども、うめくことによって、神様につながっている。生産的な働きは出来ないが、うめきをもって社会に参加している。このように教えられるのです。
この26節のところは口語訳と新共同訳で、次のような違いがあります。口語訳では「御霊」となっているところが、新共同訳では”霊“となっています。このところを原文のギリシャ語で確認しておくことが必要です。ギリシャ語でプニューマ(pneuma)ですが、もともと風(ヨハネ福音書 3章8節)という意味があり、旧約聖書では創世記2章7節の息(ルーアッハ)につながります。プニューマは、新約聖書では霊とも御霊(みたま)・聖霊とも訳され、「聖霊」は多くの場合形容詞の聖なる(ハギオン)がついて記されています。新共同訳は霊に “ ”をつけて聖霊を暗示しているように思います。ここは内村訳のように「聖霊」としてあった方が分かり易いと思います。
(四)
このように学んできて、わたくしは今、霊、聖霊の重要性について深く教えられるのです。キリスト教を歴史的背景から学ぼうとする時、わたくしなどは、ルター、カルヴァン、アッシジのフランシスコ、アウグスチヌス、その人たちのところで終わってしまうのですが、霊について学ぶのには、もっともっと前のキリスト教が迫害されていた古代教会の迫害の中で、生きるか死ぬか、信仰をすてるか、守るか、そういう所を生き抜いた人たちの証言が大切であることを教えられています。
そういう中の一人エイレナイオス(130頃~200頃)の人間理解に深く教えられますので、資料の中の彼の文章を学びたいと思います。
エイレナイオスは幼少の頃、86歳で殉教したスミルナの司祭ポリュカルポス(5)と出会っているそうです。エイレナイオスも殉教して召されています。お配りしてあるエイレナイオスの文章の第二の「完全な人間」の理解、人間の三元構造というところにこのように記されています。
第二に、「完全な人間」の理解、人間の三元構造、
「彼らが考慮していないのは、完全な人間とは、、肉と魂と霊との三つのものから成っているということである。その三つの中で、霊は人間を造り保つものである。他方、それと同様に結びあわされ形づくられたものとして、肉体がある。そしてその間に魂がある。もうひとつのもの(魂)と同様、霊と結ばれ形作られているのが肉体である。そしてその間にあるのが魂である。それは霊と肉との間にあって、霊に従うときは霊によって高められるが、肉に同感すると肉的欲望にとらわれることになる」
当時グノーシスの考え方が広がっている時代に、キリスト教の弁証をした『異端駁論』として知られる著作の中の文章です(6)。
この中に記されている「人間の三元構造」というところに注目していただきたいのです。完全な人間とは、肉と魂と霊の三つのものから成っている。その三つのなかで霊は人間を造り保つものである・・・」とあります。
フランスのデカルト(1596-1650)が、人間を理性と身体と区別して「心身二元論」を説き、大きな影響を与えています。日本では「心身一如」という言葉がいろいろな場面で使われ、禅宗を開いた道元の、身も心も一切の束縛から解放されて自由を獲得する境地「心身脱落」という言葉もあります。そのような中で、霊、聖霊という大きな主題が今目の前に置かれています。
テサロニケの信徒への手紙Ⅰの5章16-18節
「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい
これこそキリスト・イエスにおいて神があなたがたに望んでおられることです。」
ここまで読んで満足してしまいがちですが、その次には、「霊の火を消してはいけません」
とあります。ここは意訳されていて、原文には「火」の言葉はありません。霊を強調してこのように訳されたのでしょう。
さらにその後の23節以下を重んじている人はもっと少ないと思います。注解書を見ても手紙の終わりの挨拶、という扱いをしているものが多いようです。人間の三元構造を重要視する人たちはここを重要視しています。
「あなたがたの霊も魂も体も・・・」(口語訳では、霊も心も体もとなっています。)
原語ではプニューマ、プシュへー、ソーマとなっています。
人間は霊、魂(心)、体の三元構造である。このことと先ほどの内村の「聖霊ご自身が人に代わって祈りたもうという。しかも信者の外にありてではない。内にありて、彼の霊と共にありて、彼と同体同霊となりて、彼に代わって祈るという。」という言葉がつながります。この霊について、ロマ書8章1~17節にくわしく記されております。
このように学んで来て、わたくしたちは自分の存在をどう見るのか、わたくしたちの人間理解はどうなのかが問われるのです。わたくしは皆さんと確認したいのです。神とつながる霊のこと、今日のお話の中心となる大きな課題です。この小さな、罪深いわたくしの中に聖なる霊が共にあって下さり、わたしたちを造り、保ち給うのです。だから、わたくしたちの先ずなすべきことは、神に祈ることを第一にすること、いつも神につながる天窓を開けておくことです。
(五)
今回の大会の重要テーマとして、東日本大震災、それに伴う原子力発電所の事故の問題があります。多くの方々が「この大震災は日本の敗戦と同じだ」と言っておられます。この問題理解の前に、第二次世界大戦における「日本の敗戦とはどういう事であったのか」その理解がどんどん薄れて行っているように思います。その代表的具体例は国会議員の靖国参拝であります。
わたくしは1934年生れですので、子ども時代に戦争の体験をしております。国家至上主義で、1941年に小学校は国民学校となります。その時の入学生がわたくし達の年の者で、小学校でなく6年間国民学校の生活を送った唯一の学年です。
徹底した天皇中心の教育でした。毎朝学校に入る時は、校門の所の、天皇・皇后の写真(御真影と呼んでいました)と、教育勅語を納めている奉安殿に向かって、最敬礼をしてから入ります。帰る時も最敬礼をして帰ります。
朝礼の時は宮城遥拝と言って、宮城の方向に向かって最敬礼をします。毎週近くの神社に全員で行って戦勝祈願をします。出征する軍人が出発する時は、学校全員で駅まで行って、日の丸の旗を振り、軍歌を歌って送りました。入学式、卒業式その他大きな行事の時は、奉安殿より御真影と教育勅語を校長教頭が掲げ持って式場に入り、式の始めに奉読します。両手で持つ持ち方が悪く、「つばが、教育勅語にかかったら、校長先生はクビだ」というように言われていました。天皇を現人神として拝む。それが徹底していた時代でした。
そのような軍国主義の時代であっても、わたくしは先生に一度もなぐられたことは無く、先生が友人をなぐるような場面に接したこともありません。先生方はわたくしたちを大切にして下さったのでした。ただ天皇を神とすること、天皇に悪い態度をとったら絶対ゆるされない、そういう教育でした。「天皇は神聖にして犯すべからず」それが教育の根幹でありました。
そして朝鮮、台湾など植民地支配をしたところで神社参拝の強制などがあったことを知ると、天皇を神とする思想が、いかに強烈な差別・弾圧の思想となったかがわかります。わたくしは10歳の時に、父が玄海灘においてアメリカ潜水艦の魚雷の攻撃を受けて死亡し、一人いた兄は二か月後学徒兵で出征し、母たちは大変苦労しました(4年後母病死)。
中国、満洲、北方、東南アジア、南洋と戦火は広がり、いかなる結末に至ったか、その惨禍の記憶は忘れられてはなりません。三光作戦、特攻隊、玉砕、従軍慰安婦という事実は消えません。沖縄戦とその後のうめきも今なお続いています。国体、大東亜共栄圏、八紘一宇という思想がいかなる問題を孕んでいたか。その根源に、神ならざるものを神としたことがあるのです。
1945年7月26日ポツダム宣言が出され、その後原爆が投下されました。8月14日に宣言の受諾、そして8月15日に玉音放送で終戦の詔勅が述べられ、降伏しました。ラジオがまだ全家にない時代で、ラジオのある家に集まって聞きました。よく聞き取れなかったのですが、次々と大人の皆さんが涙を流し嗚咽が続きました。今迄の大きな緊張がとれ、貧しいけれども解放の気風が吹き始めます。学校では今までの教科書の不適切になった所に、墨を塗りながら授業をするようになります。いわゆる「墨塗り教科書」です。
天皇が1946年1月1日に「人間宣言」をし、「新日本建設に関する詔書」を述べます。
この詔書が「天皇の人間宣言」と言われるようになります。
このような日本の歴史の転換は、ヒロシマ・ナガサキの原子爆弾という大きな犠牲の上に成されています。ここで、日本の国の在り方は、天皇を神とする国から、天皇を神としない、主権在民の国に変ったのです。天皇を神聖として56年間支配した大日本帝国憲法(1884~1946年)は終わり、新しい日本国憲法が生れるのであります。新しい日本国憲法は1946年に成立し、今年2013年で67年となります。後者が10年以上長く続いています。
今年の『世界』11月号の、浅見仙作先生の最終記事の所に、矢内原忠雄先生(1951年に東大総長に就任された)に宛てて書かれた1952年の年賀状が出ています。その中に「願わくは新憲法が逆転せざらんことを願う。八十五翁記す」
とありました。この言葉を私たちへの責任として、深く受け止めたいと思います。
(六)
今の日本を深く見つめたいと思います。内村が関東大震災の時に言った言葉をプリントしました。
日本は依然として不信国である。其政府も人民も此の大災害に会ふて罪を悔い、神に頼りて復興を計らんとせず、唯山本権兵衛とか後藤新平とか云ふ人達に依りて、以前と同様な物質的強国を再び作らんとして居る。斯かる国民に向かって悔改とか新生とか云ふ事を説くも全く無用の事であると信ずるが故に唯沈黙を守るのみである。彼等は更に大なる天譴を蒙らなければ目を覚まさぬであろう。
(「日々の生涯」1923年10月4日)
鈴木範久氏は、この文章の後に、関東大震災後の国家と日本のキリスト教会の動きを年
表風に略述しています。その主なことを記します。
関東大震災発生 1922年9月1日
大杉 栄ら殺害 1923年9月16日
国民精神作興ニ関スル詔書 1923年11月10日
日本基督教連盟成立 1923年11月14日
三教代表を首相招待 1924年2月20、21日
(三教・神道 仏教 基督教)
日本基督教連盟全国教化運動開始 1924年11月
そして、次のように記しています。
「この年表から容易にみてとれる点は、関東大震災を契機に国家による国民教化の方向
(「詔書」には「忠君愛国」の言葉がある)が強く打ち出され、それに対して日本のキリスト教の主流が、組織を強化して協力姿勢をとっていることである。
年表を少しさかのぼればみてとれることだが、1910(明治43)年頃からのキリスト教界の歩みと、ここでの一連の動きは実に酷似している。1910年には、朝鮮併合と幸徳秋水らの大逆事件とがあった。その翌1911年には、日本基督教連盟の全身にあたる日本基督教同盟が成立している。さらに政府によって、三教会同が1912年に開かれる。次いで1914年から全国協同伝道が開始されている。まるで関東大震災後の動きの
予行演習であったかのような感を呈している。」(7)
この叙述は、わたくしに強くインプットされました。ある夜脂汗をかいてハッと目が覚めてこの所が思い浮かび、ここを読み返しました。東日本大震災後の今の日本の動きが重なって見えるのです。
朝鮮併合、大逆事件、関東大震災、これらの大きな出来事の後、日本は更に右よりに舵
を切った。東日本大震災の後の今、また、右よりに大きく舵を切って、天皇を元首に、富国強兵で滅んだ道へ、またも進んで行くのでないか! 経済発展を第一にすることの問題は、先の敗戦で、学んだはずでした。
ワーズワースの次の言葉が聞こえて来ます。
Plain living and high thinking (暮らしは低く、思いは高く)
旧約の人はこう言います。
・富に依存する者は倒れる。
神に従う人は木の葉のように茂る (箴言11章28節)
・二つのことをあなたに願います。
わたしが死ぬまで、それを拒まないで下さい。
むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけて下さい。
貧しくもせず 金持にもせず
わたしのために定められたパンでわたしを養って下さい。
飽き足りれば、裏切り
主など何者かと言うおそれがあります。
貧しければ、盗みを働き
わたしの神の御名を汚しかねません (箴言30章7~9節)
ここに堅実な生活が記されています。
イエスは語られました。
「あなたがたは地上に富を積んではならない」
「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」
「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』といって、思い悩むな。・・・・あなた方の天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすればこれらのものはみな加えて与えられる。・・・・」(マタイ福音書第6章19~34節)
内村は関東大震災の翌年1923年の4月に、マタイ福音書6章19~34節の講義で、
「国が神とその義を求むる間は、その国は物質的にも栄ゆる。これを求めずしてかれ
を求むる時には、窮乏は早かれ遅かれ必ずこれに臨む。これ古い経済学であるが、
誤らない経済学である。・・・万物不易の真理である。・・・富を与えよと、その識者と
称する者さえ叫びつつある。・・日本の将来に寒心すべきものがある。」(8)
と語り、関東大震災以後の日本を憂えています。今は、国挙げて大震災後の課題に取り組み、弱い人々の立場を重視し、経済成長中心の社会から転換することこそ、この時代に求められていることだと思います。
(七)
内村の三つのうめきの最後の方に行きたいと思います。
「万物とクリスチャンと聖霊とは、同一のある一事を待望してうめく。うめきつつ、ある一事を待望する。ある一事とは、救いの完成である。換言すれば、クリスチャンの救いの完成を望みてのうめきは、天然と聖霊とのうめきによって助けられる。かくてわれらの究極に向かっての歩みは力づけられるのである。」
この究極の歩みについて、30節はこう記しています。
「神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです」
神の前に召し出される――それがわたくしたちの究極のことです。神に召し出される。まことに厳粛なことで、わたくしたちの魂は震えます。そのようなわたくしたちを義として、栄光をお与えになる。と言うのです。
うめきの中で、そのような「終末」を望み見て生きよ、やがて召されてイエスに相見(あいまみ)えるその日を待ち望んで生きよ、そのように教えられます。
内村はこの30節について更に
「パウロは、未来の栄化があまりに確実であり、かつそれを望みて生くる現在の喜びがあまりに大なるがため、思わず知らず、『栄えを賜えり』と、これを既成の事なるがごとくしるしたのである。」
と述べています。この「栄え」(新共同訳では「栄光」(ギリシャ語でドクサ)という言葉を聞いてどのようなことを思いますか?
いと高き所には栄光、神にあれ、
地には平和、みこころにかなう人にあれ。 (ルカ二章14節)
ここでは、「栄光」は神に対して用いられています。われわれは、栄光、この光を受けることをゆるされ、光の中へと招かれているということです。すでに救いは確実であるが、その成就は終末の日であります。わたくしたちは、この世の旅路を終えて、やがて恵と赦しの光を受けさせていただくことを祈るものです。
わたくしたちはうめきつつ、日毎に「主よ、来たり給え。助け導き給え」と祈りつつ歩んでいきたい。
われわれ無教会の集団は小さい集団です。わたしたちの力は乏しくあります。しかし、一人ひとりが、イエスの僕として忠実に生きることを貫くことが、どれほど大きな意味があるか、先に召された方々の歩みから、教えられます(ヘブライ人への手紙12章1節)。
われわれの課題は、少数者であっても、日本のため、世界のために祈る集団(エクレシア)として生きることです。一人ひとりに大切な課題・役割が与えられていることをしっかりと受け止め、闇の中に輝く光を仰ぎながら、共に進んで参りたいと祈ります。
(注)
(1)『第二イザヤ研究』 中沢洽樹著 p309 山本書店 1962年
(2)「ローマの信徒への手紙」 メーヤー (『ハーパー聖書注解』 p1211)
教文館 1996年
(3)『原発を終わらせる』 石橋克彦編 p54 岩波新書 2011年
(4)「被造物のうめきに耳を澄まそう」 月本昭男 『信徒の友』2013年7月号
(5)『エウセビオス「教会史」』上 秦剛平訳 講談社学術文庫 p235以下2010年
(6)『人格と人権』――キリスト教弁証学としての人間学 上 p134
教文館 2011年
(7)『内村鑑三の人と思想』 鈴木範久著 p212 岩波書店 2012年
(8)内村鑑三聖書注解全集 第5巻 p95~96 教文館 1961年
内村鑑三全集 第27巻 p350 岩波書店 1983年