トーキング・マイノリティ

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相手の立場に立って考える

2005-06-19 19:48:10 | 歴史諸随想
 よくTV討論で“国際派”文化人が話す際、相手、つまり異教徒・異民族の立場になって思いやれとのたまう。思いやり・気配り深げな説法で全くの正論ではあるが、世界史を見ればいかにこの種の思いやりと人類は無縁だったのか分かろう。

 トルコ史研究家で中東史に詳しい大島直政氏は、中東世界では相手の立場に立とうとするならば、自分は相手側の言いなりになると宣言したも同然と見なされるらしい。自己主張は頭から譲らず、もし簡単に譲ってしまうものなら自分を「弱者」と認めることになり、「弱者」ともなれば「強者」の言い分を最後まで認める他ないのが中東社会の「論理」だそうだ。

 果たしてこれは遊牧社会で古代から争いの絶えない中東特有の現象だろうか。中東に限らず相手を思いやっている方がむしろ特異なのだ。
人間の実態も見据えず“国際派”文化人は、いったい外国に行って何を学んだのか?海外滞在だけで未だにハクがつくと思っているのか?自己主張ゼロの者は何処でも信用されないという人間の本性も分からないのだろうか。
 大島氏は相手におもねる意見ばかり言う人は、同胞の日本人ばかりか、異民族の相手からも信用されず浮き上がった存在になる、と著書に書いていたが、わが国の“国際派”諸兄姉はこのタイプのなんと多いことか!ニコニコして“相手の立場に立つ”ことこそが友好と信じているのだろう。

 欧米は「相手の立場に立って考える」のが実に上手い。ただし、「相手の立場なら、どのような行為に出るか」との戦略の一環としてであり、友好感情など入りようもない冷徹さから。

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