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航 海 日 誌 ~Log Book~

仕事や旅行で訪れた国や街の思い出、日々の小さなできごとをつづります。

結婚の理由

2008年06月18日 | Precious Friends



みなさんにとって、人生で最悪の事態って、なに?







6月に入り、長い間会うことがなかったお友達との旧交を温める機会がおおくて、とても嬉しい私。

先日チコさんに会った。チコさんは少し年上で、私が大人になってからのお友達。私と同じ頃に子供を1人連れて離婚した、少し前の私と似たような境遇だ。

そんなこともあり、母子で仲良くしている。

そんなチコさんから、先日珍しくメールが入った。

明日の夜、一緒にご飯できる?

私が誘う時の方が多いので、何事かと思った。でも・・・

彼女には、長い間親しくしている男性がいる。恋人では、ない。でもチコさんと、娘さんも一緒に時々お食事をする仲だそうだ。

その男性も私の夫同様、かなり年上で独身。私はいつも言っていた。

”彼は絶対チコさんが好きなのよ!”って。

きっとその話に違いない!時々、霊感ちゃんになっちゃう私。

当日は汐留のベトナム料理屋へ行った。スタイルがよく、肌が浅黒く、ダイヤみたいにキラキラした目をしたチコさんは、いつ会っても本当に美人だ。どう見ても引く手あまたなのに、こんなに長い間ひとりでいたなんて不思議だ。

生ビールで乾杯したあと、私はすぐに本題に入った。

で?で?

「彼に、結婚を申し込まれたの」

やった~~ で、なにを悩んでるの?

もちろん、再婚するにあたっては、悩まなくてはならないことは山ほどあるのは私もよく承知している。経験済みだもの。自分達のこと、子供のこと、今後の方針などなど。

で、一番気になっているのは、なに?

「彼のことを好きだから結婚したいのか、それとも寂しい時に側にいてくれるから、好きになったような気がして結婚したいのか、それがよくわからないの」

なるほど・・・。

自分の気持ちが本物かどうか、自信がないのね。実は私の周りで、再婚を考えていながら、同じ理由から踏み切れない悩みを持っているお友達は少なくない。

そこで最初の質問に、もどる。

私のお友達の中には”離婚したいけれど、離婚後誰とも出会えずに生涯ひとりで生きていくなんて、寂しくて耐えられないから、今のままガマンする”という人もいる。

そんなことを言うお友達の、果たして何人が真に離婚したいのかということは別問題として、”寂しさ”が人生で最悪の事態であると考える人は多いようだ。

私の場合、”生涯ひとりぼっちでもかまわないから、この男とは一緒にいられない”という覚悟の元に離婚したので、再婚にあたっても”寂しいから”という考えはなかった。

もっとも私はひとりっ子で、子供の頃からおひとり様上手だったので、いつもにぎやかな環境にいた人とは比べられないだろうけれど。

寂しいから結婚するって、いけないこと?





夜、帰宅して夫に話した。すると夫は

「寂しいというのは、立派に結婚の理由になるでしょう」

と、即座に言った。

へぇ。多くの女の子が悩んでいる問題に、即答できちゃうんだ。

「だって、好きだけで結婚するわけじゃないでしょ」

人は、この人と一緒にいたらどんな人生を過ごせるか、どんな未来を描けるか、総合的に判断して決断するんだから。ひとりで生きるよりも、その人と一緒だったら楽しいと思えるようだったら、結婚してもいいってことじゃない?

ふぅむ・・・。

この、夫の論法に関しては、少々物議を醸したのだけれど、それはまた後日。


楽しい=寂しくない+いいこと


つまり、寂しくないうえに、いいことというプラスα までついてきちゃうと考えれば、寂しいと思うときに結婚を申し込まれて、その人との未来を思い描けるならば、結婚して正解ということになる。



悩める私の友人達、これって少しは参考になる?



翌日チコさんからメールがあった。

まだ考えなきゃいけないことはたくさんあるけど、とりあえず夏休みに3人でグアム旅行に行こうというお誘いを受けることにしました。もし結婚したら、両方の家族で一緒に旅行に行けたら楽しいね。

今はまだ、”if”の段階だけれど、私は”その時”は遠くはないのでは・・・?と密かに期待している。



新緑の上高地

2008年06月09日 | 航海日誌・国内編



デジカメを忘れて行ったのが悔やまれます・・・。ケイタイで。


土砂降りの雨の中、新宿駅からスーパーあずさに乗る。

めざすは上高地、憧れの上高地帝国ホテル。

以前TVで、1年のうちたった半年しか営業しない上高地帝国ホテルのドキュメンタリー番組を見たことがあった。そしてそのたたずまいや帝国ホテルならではのサービス、心配りを知り、いつか訪れてみたいと心の中で暖めていた場所だ。

きっかけは手元にあった、帝国ホテルの商品券。

それは昨年結婚した時に、夫の会社の同僚からお祝いにいただいたもの。ペアのワイングラスや、紅白(赤白)のワインセットが多かった中で、それはとてもおしゃれな贈り物に思えた。

「食事に行こうか」

夫は言ったけれど、私は思わず

「上高地の帝国ホテルに行きたい!」

と言っていた。お食事はどんなに美味しくても、食べ終えてしまえばおしまい。でも旅とお食事がセットになったら、それはきっと、忘れられない思い出として、ず~っと心に残るだろう。

結婚してもうすぐ1年がたとうと言う時、夫がそれを覚えていたのか

「上高地の帝国ホテルに行こうか」

と言ってくれた。もちろんその商品券だけでは、ぜんぜん足りない。でも、きっかけがあるのだから、行かなくっちゃ!



雨の合羽橋、風情があります


当日は東京、長野県共に雨の予報。最寄の鉄道駅から1時間バスに乗って、山を登る間も、雨はず~~っと、降り続いていた。

木立の合間に立つ、赤い屋根の建物。3階建てのロッヂといった風情の帝国ホテル。玄関を入ってまず、目を引くのが正面の大きな暖炉だ。

到着した時にはまだ火は入っていなかったものの、ほのかに薪の燃えたにおいが残る。

本当にやって来たんだ

荷物を部屋に置いて少し休んだ後、食事までの時間散策に出かけた。梓川沿いに合羽橋をまわって、田代池まで。

川の流れる音と、雨が木の葉に当たる音だけが周りに響いていた。日頃たくさんの電子音に囲まれて生活しているだけに、自然界の音がとても新鮮に聞こえる。マイナス・イオンをたくさん浴びて、ホテルに戻って来た頃にはハラペコ

夕食はダイニング・ルームでフレンチのフルコース 

いちおう、この部分がいただいた商品券の管轄だ。地元の素材や、上高地の自然をイメージしたお料理が運ばれてくる。テーブルで出されるお水も、近くの六百山の湧き水だそうだ。(もちろん、お部屋の蛇口からでてくるお水もね)

フレンチのフルコースって体重にヤバそうだけど、こんな素材だと体によさそう!って思えるのがうれしい

素敵な時間が終わって、お部屋で満腹のお腹を少し休めてからバーへ行こうと思ったのが失敗だった。

居眠りしてしまったのだ。

10時少し前に目が覚めたので、いざ、バーへ出かけようとチェックしたらなんと!バーは10時までの営業だった

やはりここでは、都会とはちがった時間で動いているのだ。

ちょっとがっかりだったけれど、湧き水のお風呂にのんびりつかって、この日は私たちも営業終了。翌日お天気が回復することを願って、早めに就寝。



真っ青な空と、澄んだ梓川


翌朝は前日の雨がうそのような晴天。

いつもより少し遅めの朝食をとって、ホテルをチェック・アウト。もう2~3泊したかったな。1泊じゃ、このホテルのよさを十分に楽しめなかったもの。

前日歩くことの出来なかった上流へ向かう。途中、100年以上も前に上高地の美しさを世界に広めた、ウエストン牧師の記念祭を見て、穂高神社がある上流へひたすら、歩く、歩く。

帰りのバスの整理券を取ってあったので、時間制限は2時間。通常、神社までの道のりは片道70分かかるらしい。

そこを荷物を担いで超・早足でてくてく。大半の人が山歩きの格好をしている中で、ちょっと浮いていた私たち。

それでも50分で神社にたどり着いた。

まさしく、神様が宿りそうな池に、穂高の山々が映っている。神妙な気持ちで参拝。

いつかまた、息子も一緒にもどってこられますように。

そんな気持ちを込めてのお参り。

帰り道は下りで、歩きやすい道ということもあって、ずっと早くバスターミナルまで戻って来た。

バスで上高地の渓谷を離れ、さらに松本電鉄でJR松本駅へ。上高地から離れるにしたがって、そこが別世界であったことをひしひしと感じる。

神降地。

そんな風に当て字をして、表現する人たちもいるようだ。

国立公園だからというだけでない、神々しい気がただよっていたのだと、去ってからも思える夢のような渓谷だった。



穂高神社の鳥居


上高地から帰ってきて2日後。夫は会社の同僚の送別会に出かけた。その方は、帝国ホテルの商品券を贈ってくださった方だ。

「上高地の帝国ホテルに行ってきたって報告できるから、本当にタイミングよかった。きっと喜んでくれるよ」

そう言って朝、夫は家を出た。実際、私たちもこれがなければ行ってみようという気持ちにもならなかったろう。

使った私たち、そして贈ってくださった方。双方に、喜びをもたらしてくれた、ピカイチなお祝いだった。





Wedding in Guam ~笑う結婚式 ・ 挙式編

2008年05月30日 | 航海日誌・海外編



息子の先導で入場



”Will you give this woman to be marrie to this man? ”
"あなたは娘が、この男性と結婚することに同意しますか?"



Ring Bearer を務めてくれた息子の先導で、チャペルへ入場する。

リング・ピローを持って入場するだけのことを、息子は大げさなほど嫌がってみせた。でも

「親戚の中で、一番小さい男の子がすることになってるの!」(ほんとかぁ~?)

という母の喝で渋々と同意した

光にあふれるチャペルの中では Wedding Singer の美しい歌声が響いていた。

父と腕を組んで歩く、バージン・ロード。

父もまさか、一人娘なのに2回もバージン・ロードを歩かされることになるとは、思ってもみなかっただろう

挙式の冒頭に、とても印象的な場面があった。それが上に記した、祭壇にたどり着いた花嫁の父への、牧師さまからの質問。

私の今回の結婚を、両親はとても喜んでくれた。年内に入籍するはずだったのに、夫の気が変わらないうちに ”とっとと、もらってもらえ!”といった雰囲気で入籍が早まったので、父が

”そんな当たり前のことを聞くな!”

と内心思っているだろうと考え、おかしくなってしまった。それでも父が

”I do.”

と答えてくれた時には、じわ~~と目が熱くなった。



まだなにも記されていない結婚証明書


いくつかの聖書朗読、お祈りの後、式はいよいよ佳境にはいる。

”健やかなる時も、病める時も・・・”

誰もが知っている、結婚式の誓いの詞。グアムでの挙式。でもその誓いの重みは日本語であれ、英語であれ、変わらない。そして私は、今度こそ、その誓いをずっと守り続けようと気持ちを新たにしていた。

さて、列席してくれた家族、親戚の間でずっとささやかれていたギモンがあった。

 誓いのキスはするのか?
 するとしたら、どこにするのか?

まさか、賭け金は飛んでいなかっただろうと思いたい・・・

指輪はしたくないという夫の気持ちをいれて、指輪の交換ではなく、昨年夏からはめている指輪を、あらためて結婚指輪としていただく。

いよいよ、だ。

夫が私のヴェールを上げるところで、まず、誰かが吹き出す音が聞こえた。笑ったのは息子だ。

そう、夫よりも背が高い私のヴェールをめくって後ろへあげるためには、私がかなり身をかがめないといけないのだ・・・。

夫が苦心しているのと、私がかなり膝をかがめたのを見て、息子が吹き出してしまったのだ。それにつられて、みんながクスクス・・・。

この笑いで場が和んだところで、誓いのキス。俳句をする義母に言わせると”接吻”。この古風な言葉はなんて、ロマンティックなんだろう。

予想していた通り、額にキスだった。

ほんの一瞬、キスを額に感じたところで、夫は唇を離した。と思ったら、会場から大爆笑!私はワケもわからず、肩をすくめた。

もう一度、やりなおし。

今度はしっかりと、キスをしてもらった。

後になって聞いたところによると、夫は一瞬額にキスをした後、

”唇じゃないよ~

と言わんばかりに、みんなの方を向いて、にたぁ~っと笑ったのだそうだ。なんて、夫らしい・・・。



かなり上を向いている夫と、相当かがんでいるワタシ・・・


笑いで場が和んだところで、結婚証明書の署名、いや、キャンドルに灯を点すんだったっけ?このあたりの記憶はあいまい。緊張していたからで、決して歳のせいだとは思いたくない・・・。



"I declare that H and Y are now husband and wife, according to the ordinance of God"
”神の儀式のもと、HとYは夫婦となったことを宣言する”

牧師さまの高らかな声とともに、式は終了する。

メンデルスゾーンの結婚行進曲が流れ、みんなの拍手の中退場する。

ほんの30分前に、ヴェールをかぶって父と入場した通路を、こんどは夫と腕を組んで戻る。景色までちがって見えるようだった。

こうして笑う挙式は無事、終了。

挙式後のお話は、次回 ”笑う記念撮影編”に続く。








病気になってもhappyに!

2008年05月20日 | A day in my life




今回の話題とはなんの関係もないねこ。癒されます。


体調が、ちょっと困ったことになっていた。

以前の離婚のいきさつにふれた時は、確かこのブログには書かなかったような気がするのだけれど、実は私、くり返し発病する持病を持っている。

発病は今度で3回目。”まだ3回目”だけれど、ちっとも嬉しい話ぢゃない

さかのぼる事12年前、ちょうど今の季節、私は元夫と別居して実家に戻っていた。ある日、風邪を引いたので、病院へ行った。内科での診察が終わった後、先生は何気ない様子で

「耳鼻科にも寄ってくださいね」

とおっしゃって、カルテをまわした。その時の私は、内科の先生が耳鼻科の先生に聴力検査を依頼していたことは知らなかった。

ヘッドホンを付けて、ピーピーと鳴る様々な周波数の音の聞こえを検査したり、耳の中をのぞきこまれたり。

検査が一通り済むと、先生は私を前にしておっしゃった。

「片耳の聴力が著しく落ちています。内耳に異常はないので、突発性難聴と思われます。ストレスが原因といわれる病気ですが、お心当たりはありませんか?」

ある、ある。大あり!

事情を先生にお話すると納得顔で、今後の治療の進め方を説明された。

時間が経つと治りづらくなるので、入院、点滴で一気に大量のステロイドを投与するのが最も効果的だといわれた。

でも息子は生後4ヶ月。とても入院なんてできなかった。

そこで、飲み薬での治療が始まった。





突発性難聴といえば、今では歌手の浜崎あゆみさんがこの病気をしたということで、ずいぶんと一般にも認識されるようになった。でも当時はこの病気を知る人はあまりなく、”ワガママ病”とか、”怠け者病”のように言われたものだ。

あゆがなぜこの病気になったのかは私にもわからないけれど、私の場合、簡単に説明すると、元夫との口論や繰り返される離婚の話を、耳が

「もう聞きたくない~

といって、聞くのを拒否したために起きた。

その日から、病気との闘いが始まった。まず、双子も育てられるくらい出ていた母乳をやめなければならなかった。

小さいながら、胸に顔をすり寄せてくる赤ん坊。息子が泣くと、胸は”母乳、準備完了!”といわんばかりにパンパンに張った。

でも息子に与えることはできない。

この時初めて、私は母親の健康の大切さを思い知らされた。自分が健康でなければ、思うように息子を育てることはできない。

この後数ヶ月、病状はよくなったり、悪くなったりをくり返しながら、徐々に快方に向かい、ようやく聴力はほぼ発病前のレベルまで治ることができた。

その間、離婚についてあれこれ考えていた(これがよくないんだって!)

先生はおっしゃった。

「よかったですね。もう少し遅かったら、聴力が戻らなかったかも知れなかったんですよ」

その瞬間、強く思った。

障害を持つリスクを負ってまで、あの男と一緒にいることはできない

それが離婚の決意、第2の理由だった。





そしてこの病気、今回はいつもと違ったかたちで現れた。ここのところ少し、忙しかったり、うじうじと悩んでいたことがあったから。

その日午前4時、トイレに行きたくて目を覚ました。すると・・・。

部屋がぐるんと、1回転した

これがめまいか 本物のめまい、初体験!もういっかい、寝よっと・・・。そのままベッドに倒れこんだ。

その朝、数日前から風邪気味だった私を、夫は起こすことなく出かける支度をしていた。”せめてお見送りしなくっちゃ。”ちょうど夫が出かける前に目が覚めたので、もう一度体を起こすと、ふたたび。



ぐるん。



部屋が、回転した

起きようとしても、三半規管が正常に機能していないらしく、からだをまっすぐに保つことができない。



かなり、ヤバい・・・。



それでも仕事に行かなければならない。さらに数時間横になり、1時間遅刻して出勤。その間にも壁にぶつかったり、洗顔し終わって顔を上げた瞬間、気付いたら床に仰向けで倒れていて天井を見上げていたり。

今考えると、よくお店まで無事にたどり着いたものだ

その日はほぼ一日中、座って出来る仕事をして、閉店してからかかりつけの耳鼻科に行った。

「今度はめまいも?やだねぇ。その難聴にめまいが加わると、メニエール病だよ」

先生はおっしゃった。気持ちが一気に落ち込む

「でも風邪も引いてるからね。あえてメニエールとは言わないよ。人生もっと、気楽に生きなきゃ!」

これがヤマネ先生を大好きな理由だ。病気で病院に行っているのに、なんだか明るい気持ちになれるんだから。

昔から医学も進歩している。今は私の難聴も、メニエールも、初期ならば同じ薬で治せる。今時こんなマズイ薬があるなんて信じられないほどの、ひどいシロップ。

でも良薬、口に苦し。

このおかげで治るのだから、文句をいってはバチが当たるというもの。幸い今回も1週間薬を飲んだら、ほぼ正常に戻った。むしろ風邪の方が、長引いている。

生きて行くって、本当にいろんなことがある。

”家族が病気をしていると、幸せ半減よ”

母の口ぐせだ。幸せに生きていくためには、ある程度の鈍感力が必要なのかなぁって、思う。鈍感力という言葉が作り出されること自体、世相を反映しているのだから。

”それでも元気に生きていきたいね”

と、みんなに伝えたかった、今日のブログ。




Wedding in Guam ~笑う結婚式 ・ 準備編

2008年04月26日 | 航海日誌・海外編



ホテル敷地内のチャペル


すでにみなさまご存知のとおり、1月3日にグアムで挙式してきました。

総勢12名。

上は85歳(義父)から、下は13歳(息子)まで、年齢層の広いご一行様。ちなみにちょっと気になって平均年齢を計算してみたら(そんなもの、計算すなっ!)53歳、ちょうど夫の年齢だった。

夫とは14歳も年が離れてるからね。

それはさておき、マリッジ・ブルーにくわえ少々の心配をかかえて出発当日を迎えた。というのも、12月に京都へ紅葉を見に行った時、義母が肋骨を骨折してしまったのだ。

日頃ベッドで寝ているのに、旅館ではお布団。なので、夜中にトイレに起きた時、掛け布団に足を取られて転んでしまったのだ。肋骨左右両方骨折・・・私も経験があるのだけれど、肋骨は24時間呼吸をする肺を保護しているため、24時間動き続け、治りにくいのだ。

でもそこは気丈な義母。待ちに待った長男の結婚式とあって、”不安がある”とは決して口に出さなかった。

お見事

高齢で、けが人の義理の両親のために、航空会社に車椅子の手配やら、思いつく限りのサービスをリクエストした。ま、そこは元専門ですからね 私達の結婚式のためにはるばるグアムまで行っていただくのに、”もう2度と行きたくない!!”なんて思ってほしくないもの。

運よく双方の両親4名分をビジネスクラスでチケットを取っていた。たった3時間半だけれど快適に過ごしてほしかったので、これは怪我が治りかけた義母にとってとてもよかった。

さらに私の両親が、ビジネスクラスには挙式を控えた2人が乗るようにと、強く勧めてくれたこともあり、私たちまでリッチな気分を味わってしまった。

夜出発の便しか取れなかったので、ホテルに入ったのは午前3時近く。バタバタと荷物の整理をしてしばしの仮眠 そして翌朝7時半から式の打ち合わせ。



控え室の様子


ホテル内のブライダル会社のサロンで、日本人コーディネーター、チヒロさんと最終のチェックを行う。持ち物、出来上がっているブーケやそれに合わせた生花のヘッドピース、アクセサリーなどの確認。

挙式、(結局自分で購入したけれど)レンタルウェディング・ドレス、ブーケなど込み込みのパッケージにしたので、日本で挙式するよりはずぅ~っと安上がりだったのだが、ブーケのお花を変えたり、ヴェール、小物類は価格に含まれていない。

思ったよりも差額が発生した。これから海外ウェディングをご計画中の方は、事前にチェックなさることをお奨めする。

ついで私はヘアメイク。フィリピン系アメリカ人の女性とおしゃべりしながら髪を巻いたり、アイシャドーや口紅の色を相談する。その間、夫は息子と朝食へ。

ずるい

仕事で使う英語はバッチリだけれど、海外で美容院に行ったことがなかった。美容に関する言葉を全く知らなくてちょっとビクビクだった。

すんごい濃いメイクになっちゃったらどうしよう・・・(クレオパトラみたいになっちゃったりして)とか。
前髪の形をどう説明しよう?
シニヨンって、英語でなんて言うんだろう、とか。

これに関してはかなり笑えるエピソードが。ちひろさんがヘアセットの段階になって現れて

"She wants her hair odango(お団子)."

と言ったのだ それくらいなら、私も言えるぞ~ メイクさんは”はぁ~?”といった感じだった・・・。

結果として、身振り手振りで意思は通じることが証明された。やはりスゴイ厚化粧。でも遠目に見ると、たいしたことはない。お見事な幸せメイク

ちょうどメイクが仕上がった頃、夫と父が戻ってきて挙式のリハーサル。牧師さまは気さくなアメリカ人。数え切れないほど、日本人や中国人、韓国人の司式をなさっているのだろう。雑談などして、緊張をほぐしてくださった。

そしていよいよチャペルへ。



みんなが待っているチャペルへ


スコールが来そうな風が吹く中、ベールをなびかせて石敷きの通路を進む・・・。




準備編は中途半端なまま、次回、挙式編へつづく。