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航 海 日 誌 ~Log Book~

仕事や旅行で訪れた国や街の思い出、日々の小さなできごとをつづります。

強さについて、思う ~Happy-san のブログによせて

2007年04月24日 | 美しくあるために

先日私の友人で、このブログのブックマークにさせていただいているHappy-sanが”強さ”について書いていらした。バイオリン奏者の五島みどりさんや五島龍さんのお母様の五島節さんのお話だ。

”強さ”について、私もひとこと・・・。

離婚して以来、私には”強い女性”というイメージがあるようだ。もっともなことだと思う。仕事をしながらひとりで子供を育て(ありがたい両親の援助はあるが・・・)、決断し、行動してきたのだから。

それは、日本の男性には嫌われがち。なんでもひとりで出来てしまう女性は、彼らの目には魅力的とは映らないらしい。ひとりで”できる”ことと、ひとりで”しなくてはならない”には大きな違いがあるのだが、そのあたりのことは、なかなか理解してもらえない。

日本の男性は”頼られる”のがお好きだ 自分が強くなったような気分になれるからだろう。

でも生物学的には雄よりも雌のほうが強い。子供の出生率だって、男児の死亡率の方が高いから、女児が多く生まれるようになっているし、2度と経験したくないと思っている陣痛だって、あれほどの痛みを男性が経験したら死んでしまうらしい

強くなったような気分になりたいのは、雄が雌をゲットするための自然界の法則なのだろう。


華やかな桜の根元でひっそり咲くすみれみたいな強さがほしい


以前おつきあいした男性でこの”強さ”について悩む私を解き放ち、泣かせた男性がいる。

「僕にとっては、君の強さは魅力だ。だって自分が弱くなっている時には、君に支えてほしいから。君が弱くなっている時には、僕が支えてあげるから。お互いに支え合う関係では、君の強さはすばらしい資質だ」 そう言われた時、私には運命の赤い糸が見えたような気がした。

心に力の入っていない、自然体の人だった。残念なことにその男性との恋は実らなかったが、彼の言葉は、今でも変わらず私を支えてくれている。

Happy-sanはご自分を”受け止める強さ”、五島さんのことを”投げる強さ”を持つ人だと表現しておられた。

なるほど・・・。では、私の強さは? 

私の強さは、”守る”べきものがある時に発揮されるように思う。

簡素に生活する私には、守るべきものはそう多くはない。でも、かけがえのない息子、見守ってくれる両親、財産とも呼べる友人たち、小さいけれど手塩にかけてきたお店など・・・、どれひとつが欠けても今の私はないし、それらを手放さないためには、どこまでも戦うだろう。

近頃なぜか、その男性のことをよく思い出す。

今になって、その男性は私のことをほんとうに、よく見てくれていたんだなぁと思う。私が大切な両親やお店を離れて、遠くに住む彼のもとへ行けなかったこと、でももしそうしていたら、間違いなく、彼を自分の守るべきものリストの筆頭に(息子の次に)加えていただろうことを、彼は気付いてくれていたのだから。

強さにもいろいろある。

彼のおかげで、私は、”強い”ことは女性として決して悪いことではないと思えるようになった。

強さにもいろいろある。

その強さを守っていきましょう。ね、Happy-san



赤いマニキュア・赤いペディキュア・赤い服

2007年04月17日 | 美しくあるために



私と同年代、大学時代、就職3年目くらいまでにバブル期を経験した女性は、”赤”という色にあまり抵抗はないのではないだろうか?

数年に1度、以前の職場の友人がスタッフとして活躍するCAのチャリティ・フリーマーケットにお手伝いに行く。すると、必ずといっていいほど出品された品物の中で目にするのが、当時誰もが1枚は持っていたはずの赤いコートやワンピース。

今となっては”いったいあの時代はなんだったのだろう?”と思わざるを得ないバブル期には、社会にこの鮮烈な色を受け入れるだけの元気があったのだと思う。その後バブルがはじけ、経済が衰退するとともに、世の中から赤い色のものが減っていった。洋服、お化粧、車・・・。

その後自然派志向とでもいうべき、ベージュや黒のニュートラルカラーが主流となり、私自身もそういった色を好んで身に付けるようになった。

でも心のどこかで、赤いものを身に付けた時の元気な気分を、懐かしんでいたように思う。

”赤”といってまず私が最初に思い出すのが赤いマニキュアをした母の手だ。私が子供の頃、母はとてもおしゃれで、いつも赤いマニキュアをしていた。どんなに忙しくても、少しでも先がはげるとすぐに塗りなおしていた。マニキュアは時々ピンクになったりもしたけれど、子供心に宝石のようにきれいに輝くつめを、うっとり眺めていたいたのを鮮明に覚えている。

自分が大学生になってメイクに興味を持った時に、まっさきにやってみたいと思ったもの赤いマニキュアだった。でも子供の頃につめをかんでいた私のかわいそうなつめは、平べったくて、四角いつめ、とても赤いマニキュアができるような状態ではなかった。泣く泣くあきらめた・・・

そして赤いペディキュア代表は、私のお友達のママ。時は経ち、私は社会人になった。CAの同期入社の友人の家に遊びに行ったときに、ママに紹介された。自宅でラフな格好をしていた友達のママ、でも足先には真っ赤なペディキュアが塗られていた。

友達曰く、「たとえ手のつめがボロボロの時でも、ママのつま先が赤くない時なんて見たことない」 すごい!主婦にとって、マニキュアをきれいな状態で保つことは難しいけれど、こだわりをもって足のつめのお手入れを欠かさない、なんておしゃれさんなんだろう!しかも人目には付きにくいところなのに・・・。

色の持つパワーって、すごいと思う。

今年に入って、東京でも赤いセーターやTシャツを着ている女性をちらほら見かけるようになった。子供服とはいえ、服飾の仕事をしている私は、自分はおしゃれとはあまり縁がなくても、人が着ている洋服や色に敏感だ。人が着ているのを見るだけでも元気になれる赤い服。みんなが元気になってきた証拠かしら?

昨年4月、息子がイギリスの学校に入学するために一緒にイギリスへ行った時、ロンドンからヒースロー空港へ向かう汽車の駅構内にあるお店で、私は久しぶりに赤いカーディガンを買った。これから単身イギリスでがんばる息子を遠くから応援するために、自分も元気でありたいと思ったから。

そして私の足のつめは、今年の2月から赤くなった。どこへでも私を運んでくれるこの2つの足に、元気でいてほしいと願うから。

赤いマニキュア、赤いペディキュア、赤い服。みんなに元気をもたらしてくれますように・・・。



ただいま減煙中

2007年04月11日 | 美しくあるために




4月1日から減煙中・・・。禁煙中と胸をはって言えないところが悲しい。

禁煙を決めたのは願掛けのため、端的に言えば”恋の成就”のためだ。

「禁煙なんて、意思の強さがあれば明日から簡単にできる」、そう思っていた私にとって、禁煙は思ったよりもキツイことだという事実に気付いたのは禁煙2日目のこと。

そもそも私が煙草を吸うようになったのは、元夫との別居が原因だ。息子が生後4ヶ月で元夫と別居した私は当時、慣れない子育てと離婚を前提とした別居のストレスで精神的に相当まいっていた。

理由は”価値観の不一致”、人様からは最も理解されにくい理由だ。別居前の夫婦間のけんかで、相当まいっていた。あげくの果てにお仲人さんはじめ、ウワサを聞きつけた近所の人にまで「ワガママだ」とか「辛抱がたりない」など、今思えばなぜ、そんな人にまで叩かれなければならないのかわからないほどの攻撃を受けた。

実家にもどってから初めて、ストレスが原因で難聴になっていたことを知った。聴力を完全に失わないようにするためには、短期間で大量のステロイド剤を摂取する必要があると、お医者様に告げられた。そして、私は双子も育てられるほどたくさん出ていた母乳での子育てを断念することになった。

そこで緊張の糸が切れたのだと思う。煙草を吸い始めた。それまでにも学生時代やCA時代、友達が吸っているのを真似て面白半分に煙草を吸ったことはもちろんあった。でもヘビースモーカーの父の元で育った私は、絶対に煙草は吸いたくないと思っていたのに・・・。

以来12年間、煙草は私の人生のお共となった。自分に合っていないことは明らかだった。まず、煙草を吸っているのが似合わない。学生時代から私を知る友人たちはこぞって「似合わない!」、「イメージじゃない!」と言うし、そもそもアレルギーで喘息気味なので1年中咳をしている。

いつかはやめようと思い続けてきたが、その”いつか”はなかなかやって来なかった。でも、今、ついに”その時”が来たような気がする。この私が恋をしたのだから!といっても、まだ手をつないで歩いたこともない。そして、その男性は煙草は吸わない・・・。

”いつか”を”今”と決めよう!ときっかけを作ったのはよいが、ちょっとムカついた時、食後など、ついつい煙草に手がいってしまう。煙草やライターを捨てても、コンビニや自販機で簡単に買えてしまう。う~ん・・・。

だったら出来るところから始めよう!ということで減煙ということになった。禁煙補助剤のガム、ニコレットも買って持ち歩いている。

完全に禁煙できるようになるのはいつのことやら・・・。でも確実に量は減っている。”意思の強さ”は私にとって美しさの定義のひとつだ。これを励みに、恋の成就を願って、日々、禁煙に向けて励む私。


航海日誌 2007年4月 逗子~江ノ島

2007年04月05日 | 航海日誌・国内編

<朝の逗子マリーナ>


息子がイギリスから帰ってきていることを知ったボーイフレンドが ”みんなで江ノ島に行こうか!”、と誘ってくれた。なかなかアウトドア系のお出かけに連れて行ってあげられない私は、二つ返事で了承した。企画屋さんの友人、いいヤツだ

”詳細はメールで”ということになりお任せしたところ、数日して連絡がきた。

・08:30 JR品川駅の横須賀線ホームで待ち合わせ

ん?江ノ島に行くのに横須賀線?

・10:30 逗子マリーナをモーターボートで出港
・12:00 江ノ島入港

なぬ モーターボート?!コイツ、モーターボートで江ノ島に行くつもり?!

そう、彼は船舶免許1級を持っているんだった・・・。泳げないのに海好きな彼は、またちがった方法で海を楽しんでいる。

だが、私たち親子、超・船酔いする・・・。当日を迎えた私たちはしっかり酔い止めを飲んで、備えた。

久しぶりの逗子マリーナ。学生時代はよく友達や彼とドライブに来たっけ。単純に楽しんでいた時代がよみがえり、なつかしさがこみ上げた。




<この日乗ったモーターボート>


この日は初夏を思わせる天候で、逗子マリーナに着くと、まるでハワイの朝のような風が私たちを出迎えてくれた。講習のビデオを見て、マリーナのお兄さんと10分ほどの練習の後、なぜか彼の会社の上司で、親友でもある海好きのおじさんが現れて合流。どうやら彼がボートで出かけると聞いて、逗子まで出かけてきたらしい。仲間、大歓迎

赤いライフベストをつけた私たちは予定通りの時刻に出港した。めざすは海の向こうに見える江ノ島!

驚いたことに、この日の湘南海岸は海も、空も、真っ青だった。うがったことを言うようだが、小学生の頃から海と言えばオアフ島のハナウマ・ベイ(伯母がハワイに住んでいたから)や、ギリシャのエーゲ海(父の転勤でアテネに住んでいたから)で泳いでいた私にとって、湘南海岸は汚くて海の範疇に入ってすらいなかった。でも湘南海岸も捨てたものじゃないのね




<青い海の向こうの江ノ島>


出航してしばらくの間、私たちは大はしゃぎだった。特に私は遠ざかっていく逗子マリーナを見ながら ”人生にこんな幸せな日があっていいのか・・・?”とため息をついてしまったほど。

ところが、しばらくすると息子が急に静かになった。イヤな予感 案の定、酔った息子はぐったりしていた。

本当は烏帽子岩まで行く予定だったのを急遽変更して、そのまま江ノ島に入港。江ノ島に入る橋は駐車場の空きを待つ車で大渋滞だったので、ボートで桟橋に乗りつけた私たちは妙な優越感にひたった




<酔ってる息子>


その後、大人は息子のために大サービス!おいしいお魚料理のランチ、展望台、江ノ島を下る道沿のお花見、更には橋を渡って水族館へ。友人も、その上司の方も、一言も文句を言わず、とことん息子に付き合ってくださった。感謝の言葉もない私だった。

すっかり満足した息子は帰りのボートでは酔うこともなく、モーターボートを操縦する友人の後ろの席から身を乗り出し、「車のサンルーフから顔を出してる犬の気持ちがわかるなぁ~!」と喜びのコメントを発して、友人を喜ばせた。なかなか社交的じゃない?

マリーナへ戻った私たちはボートを洗い、帰宅の途についた。私は何度も友人に「ありがとう」を連発した。感激のあまり、そんなありきたりの言葉しか思いつかなかったのだ。仕事が忙しい中わざわざ休みをとり、びっくりするような方法で息子を喜ばせてくれて、「僕もみんなと一緒で楽しかったよ」と言ったくれたこと、そしてなによりも息子が喜んだことを喜んでくれたこと。

一人ぼっちで生きているような孤独感に苛まれることも、時にはある。でも、私には、ほら、こんな素敵な友達がいるじゃない!私たち親子の喜びを、自分の喜びとしてくれた彼。人として、すばらしいことだと思う。

この日、私は自然から、そして彼から、たくさんのパワーをもらった。




Look @ me!

2007年03月27日 | 心からのありがとう



人と出会う時、どんな風に出会うかによって後々の印象が大きく変わることって、よくあると思う。友人として、仕事の取引先の人として、はたまたお見合いのように結婚を前提として・・・。

数年前、友人夫妻からある男性を紹介された。友人のご主人の親戚の男性で、いわゆるプチお見合いだった その男性は親しい友人数人とヨットを所有しており、まだ遊びたい盛りだった息子を口実に、みんなでヨットに乗りに行こうという企画となった。

ところがその男性、ただ単に息子を”ヨットに乗せてくれる”という企画だと思っていたらしい。当然のことながら、私は”小学生にもれなくついてくる母親”という存在。ヨットの上で、独身貴族のおじさま達にかわいがられて喜ぶ息子を、私は友人夫妻とのんびり眺めていた。

結婚・恋愛恐怖症に陥っていた私は、その場がお見合いのような雰囲気にならなかったことに、ほっと、胸をなでおろしつつも、”おまけ的立場”に少々の不満を持ったのを覚えている。

思えば、もうずいぶんと長いこと”自分”が存在しない時間があった。○○さんの妻(これはとっくに返上したが・・・)、くんのママ、○○さんの娘。離婚したことで周囲に非難され、陰口をたたかれた私は、できるだけ目立たないように生きる術を身に付けた。

自分の名前が呼ばれることはなく、自分が存在しない状況・・・。

今ならば、”私”に気付いてもらえなかったとしても、それは自分が招いたことに他ならない、と言い切ることができる。その状況に甘んじていたのだから。








ところが・・・。不思議なことに、私が自分を取り戻すきっかけとなったのも、この男性だった。

この”楽しいおじちゃま”をいたく気に入った息子はその後3年間、台風のニュースを見れば「ヨットは大丈夫ですか?」、お正月がくれば年賀状という風に、なにかにつけ私に連絡をとらせた。そして今年のお正月明け、久しぶりに一緒に食事でも・・、という話になった。

けれど、このお忙しい”おじちゃま”はなかなか都合がつかず、そのうちに息子は学校へ帰ってしまったので、私は「春休みに息子が帰って来たときにでも」と連絡をした。だけどまさか「母親と2人だけでは会いたくない」とは言いづらかったのだろう、「では大人2人で」という話になった。

息子を介してのやりとりしかなかった大人が、突然2人で食事に行ったのだから、そのぎこちなさを想像していただきたい。今思い出してもかなり笑える けれども時間が経つにつれ、お酒も手伝い、息子のこと、それぞれの仕事のことなど、終電がなくなるまで飲んで、話したのだから、けっこう上出来に話がはずんだのだと思う。

そしてその翌日、その男性からメールがきた。

「今までカズちゃんの友達として、くんの母親としてしか、貴女を見ていませんでした。でも2人でお会いして、貴女個人を感じることができました。またお誘いします」

胸が熱くなった。

本当の私を見てくれて、ありがとう・・・。

そして・・・、当然のことながらこの男性、あの日がお見合いだったことを未だ知らない。